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第9話 初めての仕事

 空中に漂う紫煙、煙草の臭い、ライターの揺れる火。

 外に出たとき、二本目の煙草に火を付けていた東雲さんからちょっと距離を置き、青いゴミ箱に腰かけながらわたしはぼんやりと夜空を眺めていた。

 雲が夜空を横切っていく。のんびりと漂うその雲に手を伸ばしてみた。手の平で覆い隠してもまだ足りない。指の隙間から、いくつもの星が零れていった。煙草の煙が風に乗って漂い、小さく咳き込む。


「煙草は嫌いか?」


 それまで黙っていた東雲さんが言った。細く吐き出された紫煙は空中で踊り、ふわりと霧散していく。ええ、とわたしは頷いた。

 煙の害なんかは勿論のこと、煙の甘いような香ばしいような臭いは昔から苦手だった。

 東雲さんは咥えていた一本を近くの灰皿に捨てる。それを見てわたしもゴミ箱から降りる。


「行くぞ」

「はい」


 短い言葉を交わし、わたしは東雲さんの後ろを付いていく。コートから仄かに煙草の香りがした。

 そういえばお前の通称も考えなくちゃな、と東雲さんが独り言のように呟いた。




「――――……年齢は三十五歳、女。三ヶ月前まで第三区の印刷会社に勤めていたがリストラ。第七区のホストクラブに入り浸っていたらしい。収入の半分を注ぎ込んでいたようだが、無職になってからはそう上手くもいかなくなったようで、お目当てのホストとの交流どころか店に行く回数も激変、そうとう熱が入っていたようで、金融機関から何度も金を借りようとしていた。最近では闇金にも手を出していたと。その返済に悩んでいたのか精神的に追い詰められていたのか……なあ和子。お前、第五区の保育園で起きた傷害事件を知ってるか?」


 情報屋から出て狭い路地を歩いている最中、不意に東雲さんが語り始めた。よく分からないままその情報を頭に叩き込み、はい、と頷く。


「確か前にニュースで見たような。ちょっとだけでしたけど。それがどうかしたんです?」

「その犯人だよ、今回俺達が殺すのは」


 え、と呼気のように軽い声が漏れる。足元の段差に気付かず躓き、前のめりに倒れそうになったのを東雲さんが支えてくれる。


「何してる」

「すみませ……それより、犯人って」


 第五区の保育園で起きた殺傷事件。それはつい一週間前かそこらに起きたばかりの事件だ。保育園に侵入した不審者が、外で遊んでいた園児達に刃物で襲いかかるという惨い事件。児童数人が重傷を負い、かけつけた保育士一人も軽傷を負ったらしい。犯人はその直後に逃走、保育士達はそれを追いかけるよりも園児の救護に追われ、結局犯人は今も捕まっていない。


「言った通りの意味だ。依頼者は重傷を負った園児の母親。どうも女の子だったらしいがな、顔を深く切り付けられたそうなんだ。一命は取りとめたが痕が残るらしい。そのせいでかなり犯人を恨んでいるようだ」


 首筋に汗が滲んでいく。キツク握りしめた拳に血管が浮かんだ。食いしばった歯が擦れる、ギリリという音を聞く。

 決まった園児一人だけを傷付けないということは、恐らく犯人に私怨のような狙いはない。ただの無差別、ただの無差別で、幼い子供を傷付け、生涯消えない痕を残した、それも女の子に。

 わたしの顔を見て何を考えているのか分かったのだろう。東雲さんがじっとわたしの顔を見下ろし、それから話題を変えるように言った。


「殺し屋になったからには女扱いなんてしないからな。顔に傷が残ること、体に傷が残ること、容赦なく殴られ蹴られるってこと、覚悟しておけよ」

「分かってます…………」


 訓練の最中で散々投げ飛ばされたんだ。そんなこと分かってるよ。

 ……だけど痛いのは、やっぱり嫌だなぁ。





 遠くの方で言い争うような声が聞こえてきた。歩くほど、その声は大きく近づいていく。そして表通りに出て一度角を曲がったとき、その声の発生源がわたしの目に飛び込んでくる。


「ねえ、キスしてよ! お金ならあるから! 一回だけでも、ほっぺでもいいから! ね、ね、あんなに優しくしてくれたでしょう?」

「だから困るんだって。店の前で土下座されてると、こっちが迷惑なんだよ! 店長に怒られるから、早くどっか行ってくれよ!」


 それは一組の男女だった。一見カップルの痴話喧嘩のようにも見えるが、二人の服装でそうではないことが分かる。

 男が着ているのは黒いスーツ、着崩しているせいかあまり格好が良いとは言えないが、それでもしっくりとした高級ブランドのにおいがあった。対称的に女の格好は薄いテラテラとした素材の黄色いワンピース。妙に丈の短いそれからは彼女の太ももが際どい位置まで覗いているものの、筋張って痩せこけたその足に色気は感じられない。ワンピース自体も着古した色があり、似合う似合わない以前に痛々しい。

 肩まで伸びた長い髪を金髪に染めている男は、自分の腕にしがみ付いて擦り寄ってくる女を心底気持ち悪そうな顔で睨んでいた。女はそんな男の視線に気付いているのかいないのか、愛おしげに男の名前を呼ぶ。

 そもそも彼らが言い争っている場所は、とあるホストクラブの店前だった。男がホストで、女は客だろうか。店内からは見えにくい場所に立っている二人だったが、ガラス窓越しに外を眺めている店員の数人が嫌そうな顔をして彼らを見ていた。


「アユム、ああ、アユム。あなた二坂堂のモンブランが好きって言ってたでしょ? いくつでも買ってあげる。それから新しいスーツ。香水も、犬も。……ううん、アユムはそんな安物じゃあ駄目ね。車がいいわ、外国の真っ赤な車! 家だって買ってあげる。好きな物を好きなだけ! ねぇ、そんな素敵な家で一緒にずっと暮らしましょうよ。家事ならなんでもやってあげるわ。大きな白いお家で、わたしたちの可愛い子供と一緒に、ずっとずっとずっと――――」

「いい加減にしろ!」


 バチンと空気が弾かれた。表通りを歩く人々の視線が二人に向けられる。面白半分驚き半分の視線が、容赦なく降り注ぐ。

 女は唖然と頬を押さえていた。男は肩で息をしながら空に手を浮かばせていた。女の頬と、男の顔が、互いに熱を持った赤色を帯びる。

 何で? と女の口が蠢いた。何で、どうして? ただ疑問のみを零すその顔に、男が唾を飛ばしながら吠える。


「いい加減にしろっつってんだよこのクソアマ! 何でも貢ぐ? 笑わせんな! あんたにとっくに金がないことなんか知ってんだ! 闇金から借りてこられた金で貢がれても迷惑なんだよ!」

「えっ……? ちが…………え? アユム? 何で」

「こないだここにも借金取りが来たんだ! あんたがこの店に来てることだって、おれに貢いでることだって、全部お見通しなんだとよ! 店の奴らからは何故かおれが恨まれるし、あとちょっとで人気上がりそうだったのに、お前のせいで全部パァだぞ!?」

「あっ、あっ、ごめ、ごめんなさい。あの、じゃあ、せめてアユムのお手伝いを」

「話聞いてたのか!? ざけてんじゃねえぞ! おれにとって一番のプレゼントはな、あんたが二度と店にもおれの前にも姿を見せないことだ! 分かったか? 分かれよ? 手前なんか死んじまえ!!」


 言いたい放題に暴言を吐いた後、アユムは女に背を向けて店へと戻っていく。待ってちょうだいと悲痛な声で叫びながら、縋るように女が手を伸ばした先で、無情にも扉が荒々しく閉められた。

 道行く人々の視線が彼女一人のみに注がれる。クスクスと誰かが笑った。彼女はぶるりと肩を震わせながら素早く振り向き、目を血走らせながら周囲の人間皆に向けて叫ぶ。


「見世物じゃねえよ!!」


 ヒステリックな怒声に、それまで無遠慮に注がれていた視線が一斉にそっぽを向く。自分は関係ない、厄介事に関わりたくはない、という魂胆は明け透けだった。

 彼女がぶつぶつと独り言を呟きながら歩き出す。前に真っ直ぐ向けられた視線は妙に大きく開き、乾いた唇は大きく弧を描いている。空気で乾燥し、切れたそこから血が滲むのさえ気にせずに。明らかに異常である彼女を人々が避けていく。その弱々しい背中を見失う前に、東雲さんが彼女から距離を置くように歩き出した。


「気付いているかもしれないが」東雲さんがその背に向けた目を細める。「あれがターゲットだ」


 わたしは一度東雲さんに視線を向けた後、少し前を歩く彼女を見た。

 その足取りは酷くふらついていたが、自身を抱くように背に回された手は、ワンピースに深いしわを刻んでいた。






 それからわたしたちが行動に移るまで大分時間がかかった。

 彼女は大通りをしばらく当てもなく彷徨っていた。途中で何度か他人にぶつかり、謝られたり舌打ちをされたり殴られたり。殴られて道路に倒れ込んだ彼女のすぐ傍を、車がクラクションを鳴らしながら避けていった。それでも特に反応を示さずに、薄ら笑いを浮かべながら立ち上がり、また歩き出す。その後をわたしたちは気付かれないよう、不審に思われないよう、自然に見えるよう酷く気を使いながら歩いた。

 裏路地に入った彼女を追跡すること数十分。緊張と疲労に息が詰まりそうになってきたところで、ようやく彼女が立ち止まる。そこは路地の中でも僅かに広い、ちょっとした広場のような場所だった。それでもそこに人気はなく、あるのは青いゴミ箱とカビとツタ。汚い地面さえ厭わずに彼女はその場に座り込む。その肩がぶるっと震えたかと思うと、その顔が大きく上を向いた。

 パカリと大きく口が開く。


「あはは、あっはは、あは、あ、あ、ああああああ…………」


 乾いた笑いは次第に呻き声へと変わる。伸びた爪がアスファルトの地面を引っかき、欠けていく、欠けていく。笑いは、呻き声は、いつの間にか絶叫へ、怨み言へと変わっていた。


「何でよ何でよ何でよ何でよ!? どうしてわたしだけ! お金も、愛も、全部全部! どうしてどっかいっちゃうのよ!」


 殺してやる、と掠れた絶叫が広場に響いた。


「殺してやる殺してやる、何もかも殺してやる!! ()()()()、あのガキどもも殺してやる!! 絶対許さない、絶対死なせてやる、ぐちゃぐちゃにしてやる!!」



 長い黒髪を振り乱して叫ぶ様が、零れそうなくらいに大きく見開かれた目が、あちこちが切れて血を流し始めた唇が。全てに気圧され、怖くて堪らなかった。

 本当にこの人を殺せるのか。頭のおかしくなっている人間に敵うのか。そんな恐怖と不安を感じ始めていたそのとき、東雲さんが身を隠していた路地から彼女の前に姿を現した。一瞬出遅れたわたしは、ハッと息を呑みながら彼の後に続く。

 彼女の絶叫は止まっていた。不意に現れたわたしたちに、叫んでいたことがバレて恥ずかしいのだろうかとも思ったけれど、そうではなかった。

 素早く彼女が胸元から何かを取り出した。カチカチッと音がして、手にしたそれが月明かりに反射して光った。カッターナイフだ。


「誰……誰よ、あんたたち!」


 さっきの絶叫より幾分か控えめではあるものの、鼓膜を激しく揺らす怒声。身を竦めるわたしとは違い、全く動じず表情さえ変えない東雲さんが答えた。

 単純に、明瞭に。


「殺し屋だ」


 と一言だけ。



 彼女の返事は弾むような笑いだった。眉根を寄せ、馬鹿にするような顔で「頭おかしいんじゃない?」と言い放つ。


「それはあんたのことだろう」

「はぁ? 何。初対面でいきなり悪口? 何なのよ一体?」

「第五区の保育園で起きた殺傷事件。どうしてあんなことをした?」


 唐突に本題に入る。彼女の表情に激しい焦燥の色が浮かんだ。それを隠そうとして、失敗して、引きつった笑顔のまま、首を傾げる。とぼけても無駄だ、と東雲さんが冷たく言うと、その引きつった笑みも掻き消えた。


「だって。だってずるいじゃない」


 彼女はぽつりとそう言った。その顔に浮かぶのは空虚な無表情。自分のへこんだ腹部を左手でそっと愛おしげに触れながら、彼女は語る。


「わたしは、アユムが好きなのに、とってもとっても大好きなのに、愛してるのに。あの人はわたしのこと、ただのお客としてしか見ていない。わたしはお客としてではなく一人の女として見られたいの。付き合いたいの、結婚したいの、幸せになりたいの。静かな家で、愛する人と過ごすのが夢だったのよ。あの人との可愛い子供が欲しかったのよ。子供は幸せなお家に、なくてはならないものだから」


 だから、とその表情が醜い笑顔を浮かべる。うっとりと頬に添えられた左手が肉に爪を立てる。


「だから子供が許せなかった。あんなに……あんなにたくさん! 幸せな家庭を築いている夫婦がいる。子供一人に、二人ずつ、幸せな家族がある! わたしにはないのに、わたしには叶わないのに! ずるいじゃないずるいじゃない! どうせわたしが不幸になるだけなら、できるだけ多くの人間を道連れにしてやる!!」


 彼女の頬に爪が刺さる。ズッとその爪が下へ。頬の肉が削がれ、ピンク色の肉と赤い血が滲んだ。

 歪んでいる。この人はあまりにも歪んでいる。

 東雲さんの視線がわたしを一瞥した。頷き、服に隠したナイフの位置を確かめながら、彼の前に一歩進み出る。彼女の血走った目がわたしを捉えた。

 怖い。けど、やらなくちゃ。

 らなくちゃ。


「そこのあんたも! あんたの家だって幸せだ! 子供なんて殺してやる、幸せな家なんて壊してやる、どいつもこいつも死ねばいいんだ!!」


 彼女が一際ヒステリックに叫んだ。

 カッターナイフを握り締め、その体が突進してくる。

 わたしは歯を食いしばりながら瞬間息を止め、こちらからも彼女へ向けて突撃した。



 ひゅっと短く風を切る音に、咄嗟に横に飛びのく。わたしの耳先数センチの距離をカッターが抜けていった。触れれば怪我、深く当たれば重傷、一歩間違えば絶命。凄まじい重圧が、たかが小ぶりのカッターナイフに込められている。そんな恐怖感。理解はしていたけれど、やっぱり怖くて歯を食いしばる。

 だけど。


「っ!」


 ジャージの裾から素早くナイフを取り出して構えると、彼女が息を呑んでわたしの右手を睨んだ。一瞬にも満たない緊張が時間を止める。直後、わたしと彼女の動きが交差した。

 上から振り下ろされたカッターをナイフで受け止める。彼女が力任せにそのまま振り下ろそうとしているのを感じ、わたしは左足を突き出して彼女の股間を全力で蹴る。苦痛の悲鳴を上げて数歩後ろに下がった彼女は、すぐに憤怒の表情を浮かべ直して前を向く。それまでの隙にわたしはナイフで彼女の右腕を切り付けた。


「ひぃっ!」

「う…………」


 彼女の引きつった悲鳴と、わたしの呻き声。

 血が溢れ出す腕を押さえながら彼女は喚く。その柔らかい肉に食い込んだ刃先の感触が、皮と肉をひとまとめに引き裂いていく感触が、飛び出た血が。あまりに気持ち悪くて、悲しくて、恐ろしかった。


「和子!」


 叱咤するような東雲さんの声。我に返り、ハッと前を見たとき、彼女が左手に持ち直したカッターをわたしの頭上に振り上げているのが見えた。

 避けなければと頭が働き、右へ体を跳ねる。けれど彼女が素早く伸ばした血にぬれる右手が、わたしの長い黒髪を掴んだ。頭皮に走る小さな痛み。

 ナイフが――――やばい、間に合わない。

 咄嗟に、全力で首を横に傾ける。ぶちぶちと数本の髪の毛が抜ける痛み。次に襲いくるであろう更に強烈な痛みに耐えるため、軋みそうなほど強く、歯を食いしばった。

 ぶちりと切れる音がする。


「え」


 ぶちんぶちんと切れる音。だけど、痛みはない。じゃあ何これ?

 視界を彼女の体が覆う。悔しそうな顔、何かに拒まれたようにゆっくりとしか下りないカッター。ハッとし、わたしは目の前の彼女の脇腹をナイフで切り付けた。

 ギャッと彼女が飛びのく。だらりと下がった手に握られたカッターには血が付いておらず、代わりに長い黒髪が数本まとわりついていた。その腕にも、それから足元にも。黒髪がハラハラと。

 …………あれ?


 首筋がチクチクする。それに妙に涼しい。そっと当てた手の先に、髪の先端が触れた。恐る恐るその手を下ろしていく。

 肩の辺りで、髪がなくなっていた。


「あっ――――」

「きゃああああ!」


 わたしが何かを言おうとする前に悲鳴じみた絶叫が聞こえた。顔を真っ赤にした彼女がカッターをキツク握り、突進してくる。なりふり構っていられないというような歪んだ必死の表情に足が竦みかけた。

 拳を握り、一瞬で息を吸って吐いて、目を大きく見開いて。

 躊躇いの気持ちを一瞬で投げ捨てる。迷っていれば殺される。死にたくないなら躊躇うな。

 観察しろ、小さな動きも見逃すな、脊髄を使え、反射しろ。見ろ、見ろ、見ろ。


 彼女の腕が、カッターが、わたしを狙って突き伸ばされる、その一瞬を!


「ふっ!」


 反射的に身を沈めた。カッターの刃先は空気のみを切り裂き、ヒュカッと手ごたえのない音がした。彼女がわたしを捉え損ねたという事実に反応する前に、次の行動に移る前に、わたしは素早くナイフを左手に持ち替え、右手を上に突き上げた。彼女が武器を握る左手首を掴み立ち上がる。

 短く悲鳴を上げ、彼女がその顔色を青くする。折らんばかりに押さえ付けられた手首は動かせないだろう。右腕の関節も握り、そのままわたしは身を捻りながら彼女を地面に投げる。ズダンと重い音がして、その背中が強烈に叩き付けられた。


「かっ……!!」


 大きく見開かれた両目から涙が零れる。パカリと開いた口に見える、引きつった舌。声も出せずに悶える彼女を、馬乗りになったまま苦い思いで見下ろした。

 何度も訓練したとはいえ、こんな柔道みたいな技を完璧に使えるようになったわけじゃない、加減なんてしたくてもできない。東雲さんに何度も投げ飛ばされたときだって凄まじく痛かったんだ。あのときは神社の柔らかい土の上だったけれど、今彼女が倒れているのは固いアスファルトの上、相当に痛いだろう。

 カッターを取り上げ、遠くへ放る。もう彼女が動けなくなるよう、両膝の裏に一回ずつナイフを突き刺す。刺すことへの抵抗は、もうほとんどなくなっていた。絶叫と共に彼女の体は一度大きく痙攣し、それからぐったりと力が抜ける。……もう大丈夫だろう。

 膝に付いた砂を払いながら立ち上がり、東雲さんの方へ振り向いた。わたしが戦う間一切動かなかった東雲さんは、そこでようやく頷き、銃を取り出してゆっくりと近づいてくる。

 これで終わりだ。わたしの初めての仕事は――――。



「う、ぅ」


 ズリ、と地面を擦る音。咄嗟にナイフを構えながら地面に倒れる彼女に目を向けた。

 彼女は肘を立て、動かない足を引きずるように地面を這っていた。ズリズリと芋虫のように。わたしが投げたカッターを拾おうとしているのだろうかと考えるも、進行方向はまるで見当違いの方向だ。他に武器になりそうな道具が落ちているわけでもなく、彼女はただ這っているだけだった。……わたしたちとは真逆の方へ。

 涙と鼻水を垂れ流し、口からは血液交じりの泡を零して、黄色いワンピースの裾が破けるのも気にせずに、肘から血が溢れ出すのも構わずに。

 ズリズリと、ズリズリと。


「……たくない……にたくない……嫌だ、嫌だ……死にたくない」


 切羽詰まった様子で呟く言葉。その顔に、ついさっきまで満ちていた怒りの色など一切消え去り、ただ恐怖と悲しみに支配されているようだった。

 ぼんやりとわたしはそれを見下ろしていた。爪の間に砂が食い込んでも血が滲んでも、必死に生きようと這い続ける彼女を見下ろしていた。

 彼女の小指の爪が真ん中から折れた。そこでビクッと体を震わせ、荒い呼吸を繰り返す。うぅーっ、と獣のような嗚咽を漏らし、背中を丸める。

 か細く囁くような声が、それでもハッキリと、わたしの耳に届く。


「…………助けて」


 気が付けばわたしは彼女の胸倉を掴んで立っていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃに歪んだ顔を睨み、叫ぶ。


「ふざけるな!!」


 それはあなたが言っていい台詞じゃない。

 それを言って助かるべきだったのは、怪我をした子供達の方だ。


 乱暴に手を離すと、その場に力なく彼女が崩れ落ちる。悲痛に顔を歪めて泣き続ける様子を見ても、激しい怒りがこみあげてくるだけだった。

 彼女が個人的な感情で起こした事件のせいで、子供の一生が壊された。叶わなかった幸せが、関係ない他の幸せをぶち壊したんだ。

 子供がなんだ。幸せな家庭がなんだ。わたしのように子供がいても幸せでない家庭はある、子供がいなくても幸せな家庭はある。

 結局この人は、簡単に鬱憤を晴らすことのできる弱者を狙っただけなんだ。そんなのただのいじめと変わらない。


「あなたのせいで幸せが壊された子がいるんだ! あなたが幸せになれないからって他人の邪魔までするな! 理不尽に傷付けられたその子がどんなに苦しい思いをして生きるのか、考えてもないくせに!!」


 しゃがみ込み、喚きながらその肩を揺さ振る。何故か頭の中では一条さんの顔が思い浮かんでいた。何故か彼女の顔が一条さんの顔と重なっていた。

 無意識にナイフを強く握り締めていた。その切っ先が彼女の顔に向けられても、それを止めようとする気が起きなかった。


「わたしだってっ!」


 わたしだって。

 その後の言葉は出てこなかった。

 ナイフの柄を折らんばかりに握り、大きく振り上げる。

 刃が星明かりの中で、銀色に輝いた気がした。




 パンッと風船が割れるような音がして、彼女の耳が弾け飛んだ。

 彼女の首が大きく横に揺れ、わたしが振り下ろしたナイフは空を掠る。


「あ…………」


 唖然と声が漏れるのと、彼女の体が地面に倒れたのは同時だった。ぐたりとその場に倒れた四肢は少しも動かず、その見開かれた目は瞬きもしない。耳があった部分に開いた穴からぷっくりと血が膨れ、膜が弾けてだくだくと勢い良く流れ出す。横を見れば、冷たい顔をした東雲さんが硝煙の上る銃を構えて立っていた。

 光のない目。銃を構えたオオカミ。空に浮かぶ星々。

 何もかも、あの夜と同じだ。


 何十秒もの沈黙の後、わたしの口が勝手に動く。


「死にましたか」

「死んだ」

「そうですか」

「ああ」


 淡々と会話をしながら死体の傍に座り続けた。

 人生で二度目の死体。その姿は恐ろしく、残酷だったが、不思議と恐怖は感じなかった。ただぼんやりとした現実味のない感覚が胸に詰まっていた。

 死体これを作ったのは東雲さんだけど、その手伝いをしたのはわたしだ。


 段々と濃くなっていく夜の色が、わたしの姿を隠していく。

 そんな気がした。

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