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第87話 あなたの悩み、私の悩み

 昼休み。秋月さん、と廊下ですれ違った科学の先生に呼び止められた私は数枚のプリントを手渡された。回答欄、丸とバツマーク。学生が見たくないものランキング上位に入る、答案用紙だった。


「これは?」

「この間のテスト。昨日返却したんだけど、秋月さん休みだったから」


 次の授業で返そうと思ったんだけどちょうど良かった。そう言って先生は笑う。確かに昨日私は仕事で学校を休んでいた。

 自分のテストをしげしげと眺める。八十点、九十点とはいかないものの、悪くない点数だ。授業を休みがちな私にしてはいい点が取れている。これも家庭教師のように勉強を教えてくれる東雲さんと冴園さんのおかげだろう。

 しかし自分の答案用紙の後ろに隠されていたプリントを見て、私は一瞬うっと言葉を詰まらせる。一条えりなと名が書かれた答案用紙を目にしてしまったからだ。その横に書かれた点数もバッチリ目に飛び込んでしまっている。見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさに口をもごつかせながら更に用紙を捲ると、また別のクラスメートの答案が出てきた。


「先生、これ私のじゃないですよ」

「うん、昨日休んだ子、他にもいたから。同じクラスでしょ? 先に教室戻って渡しておいてくれるかな。私は職員室に物を取りに行かなきゃだから」


 お願いね、と私の返答も待たずに先生は行ってしまった。その背を見送りながらそっと溜息を零す。テストの答案だなんて人に見られたくないものを、クラスメートから直に渡されたくはないだろうに。

 とはいえ先生からの頼みを無視するわけにもいかず、私は教室に戻ってそのクラスメート数人にテストを返した。そして最後に残った一枚、一条さんのテストを眺めて私は唸る。


「どうしようかな……」


 一条さんは今日も休みだ。風邪で休みだと、今朝金井先生が言っていた。

 自分の席に戻り、テストを眺めてじっと考え込んでいると、不意に背後から駈け寄ってくる足音が聞こえた。振り向こうとするより先に、誰かが私の背に抱き付いてくる。


「あーきづきっ!」

「うわっ」


 抱き付く、と言うよりかは突進の勢いだった。甘えた声で擦り寄ってきた恋路さんだったが、彼女は決して私に甘えているわけじゃない、冗談でじゃれついてきているだけだ。ふわりと甘い香りが鼻を擽る。また購買でお菓子でも買ってきたのかもしれない。彼女は無遠慮に私の手元を覗き込んでくる。


「テスト……ってこれ、えりなのじゃん」

「先生に渡してくれって頼まれたの。勝手に取ったわけじゃないよ」


 疑いの目を向けられる前に弁解する。それでも恋路さんはじっとりとした視線を私に向けてきた。


「なんだったら私がえりなの家に届けておこうか?」


 歩み寄ってきた瀬戸川さんがそんなことを言う。恋路さんも大きく頷き、それがいいと同意する。

 確かに彼女に託すのがいいかもしれない。幼馴染である彼女から渡された方が、一条さんだってきっと喜ぶ。


「…………ごめん。これ、私が届けに行ってもいいかな」


 けれど私はそれを断った。

 瀬戸川さんと恋路さんが驚いた様子で目を丸くする。私自身、自分で言った言葉が自然なものではないことは承知していた。別にわざわざ届けにいかずとも机に放り込んでおけばいいのだ。あえて届けに行くという選択肢、まして私がやらなくてもいいことなのに。

 えりなの家知ってるの? と恋路さんが目を丸くしたまま訊ねてくる。肯定の頷きを返すと、目の前の顔はみるみるうちにふくれっ面になっていった。


「ずーるーいー! なんで? 秋月ったらいつの間にえりなの家に遊びに行ってるの? あやだって、まだ行ったことないのにー!」


 二人ばっかりずるい。子供っぽく喚く恋路さんの横で、瀬戸川さんは対称的に真面目な顔で私を見つめていた。


「秋月さん、本当にえりなの家に行ったことあるの?」

「うん。お呼ばれされたわけじゃなくて、偶然だけど」


 そう、と静かに瀬戸川さんは呟く。

 もうすぐ昼休みが終わる。外に行っていた子達が次第に教室に戻ってきて、自分の席に着き始めていた。戻ろうか、と瀬戸川さんはまだむくれたままの恋路さんの背を押して窓際の席に戻ろうとする。けれど数歩歩いたところで立ち止まった彼女は、私に向けてこう言った。


「今日の放課後空いてる?」

「え? うん、特に用事はないけど」

「それじゃあ帰るのは少し待っててくれるかな」


 怪訝ながらも頷くと、瀬戸川さんは静かに微笑みを浮かべ、自分の席に戻っていった。




 瀬戸川さんに言われた通り、放課後になっても私は席に座っていた。部活動へ向かう新田くんや帰宅する早海さんに手を振って、それからもしばらくぼうっとしていた。


「お待たせ」


 瀬戸川さんが私の席にやってきたのは三十分ほどたってからのこと。一旦教室を出た彼女だったが、そのときは傍に恋路さんもいたはずだ。けれど今、彼女の姿は近くにない。


「恋路さんは?」

「綾は先に帰したの」


 ぶーたれてたけど、と彼女は苦笑した。二人だけで話がしたい、ということだろう。恋路さんを先に帰してまで私としたい話とはなんだろう。

 場所を変えたいという瀬戸川さんに連れていかれた先は中庭のベンチだった。近くのテニスコートからテニス部の練習する声が聞こえてくる。風は弱いものの、曇り空で太陽が隠されているせいもあって気温はぐっと寒い。こんな日に外でのんびりするような物好きは恐らく私達だけだ。

 近くの自販機で彼女はホットコーヒーを買ってきてくれた。二人でしばらく缶を握って温まっていると、彼女は申し訳なさそうな顔で肩を竦めた。


「こんな場所でごめん」

「大丈夫。それより話って、一条さんのことでしょう?」

「……えりなのこと全部知ったんだよね?」


 間髪入れずに私は頷く。そう、と一つ息を零してじっと彼女は目を伏せた。


「私達が子供のときは、まだえりなの家もそこまで大変じゃなかった」


 チビリとコーヒーを飲んで唇を湿らせた瀬戸川さんは、呼気を吐き出すように言葉を吐いた。


「よくお互いの家に遊びに行っていたよ。ゲームをしたりお菓子を食べたり気になる男子の話をしたり……楽しかったなぁ」

「今はもう行ってないの?」

「中学生に上がってからは、とんと」


 その頃かららしい。一条さんの家がああなったのは。


「えりなのお父さんの会社が急に潰れちゃって。このご時世だもの、倒産するのは珍しくはないよ。だけど本当に突然だった。経営者が突然夜逃げしちゃったらしくてさ、社員のほとんどは自分の会社が危ういことも知らなかったみたい。おじさんも長年勤めてたっていうのに、これっぽっちの情けもなかった。それからしばらくの間おじさんは再就職先を探し回ってたんだけど上手くいかなくて、失業保険のお金も段々なくなって。借金が膨れ上がりそうになったところでようやく新しい仕事先を見つけたんだ。どこかの工場だって。……でも、そこで働いているおじさんはもう、昔のおじさんじゃなかった」


 目の前を二人の女子生徒がきゃあきゃあ言いながら走り去っていった。寒いねと顔を見合わせて笑う彼女達に、瀬戸川さんは静かに目を細めた。


「辛いことから逃げるためにお酒に溺れるようになった。そのせいか人も変わったようになっちゃって。前は快活ないい人だったんだけど、今じゃ些細なことで怒鳴り散らすような人になっちゃった。おばさんや、えりなの弟達にも手を上げるようになった。勿論それを止めようとしたえりなも殴られる」

「そんな……近所の人に助けを、いや、警察とか」

「できたと思う?」

「…………いいや」

「近所の人だってそこまで親身になってくれない、警察も同じ。実際に助けを求めたこともあるみたいだけど、結果はご存知の通り」


 家庭環境の崩壊。父親からの暴力。多感な時期の一条さんを歪めるには、十分過ぎるほどの出来事だった。

 いつしか一条さんの性格は捻くれ、人を馬鹿にし、コケにし、喜ぶようになったのだと瀬戸川さんは言った。まるで、自分の嫌う父親そっくりに。


「私はえりなを止められなかった」


 瀬戸川さんの言葉が空気に溶けていく。地面に落とされた彼女の視線。缶コーヒーを包む手が、僅かに揺れる。


「私までえりなを見捨てたら、えりなは更に壊れちゃう。昔のえりなに戻ってほしくて、えりなと一緒に過ごした思い出を忘れられなくて……私は、えりなのすることを止められなかった」


 悔しそうに歯噛みする彼女に手を伸ばしかけて、引っ込める。躊躇いがちにぽつぽつと吐かれる言葉はまるで懺悔のようだった。


「本当は無理矢理にでも止めなきゃいけなかった。友達だから、幼馴染だから。でも、できなかった。どうしてもあの子を引っ張ってあげられなかった。そのせいで傷付けてきた子達だっていっぱいいるのに」

「……瀬戸川さ」

「ごめんなさい」


 ごめんなさい、と瀬戸川さんはもう一度繰り返した。


「私のせいで秋月さんを傷付けてごめんなさい。えりなを止められなくてごめんなさい。何もできなくてごめんなさい」

「……………………」


 懺悔を繰り返す瀬戸川さんの姿を、私は黙って見つめていた。罵倒することも励ますこともできたけれど、黙っていた。

 今まで傷付いてきた子達に対して、私に対して、そして何より一条さんに対して、今の瀬戸川さんは謝罪しているのだろうと分かっていた。



「日が沈むのも早くなったね」


 いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。空にオレンジ色はほとんど残っておらず、紫色と濃紺色が半分以上を占めている。いまだかけ声とボールの音が聞こえてきているテニスコートをライトが照らし出していた。

 引き留めてごめんね、と瀬戸川さんが眉根を下げた微笑みを浮かべる。大丈夫だと首を振り、私は鞄を手に立ち上がる。とっくに空になって冷たくなった缶をゴミ箱に捨てた。


「一条さんは家で寝てるかな」

「どうだろう。えりな、風邪だって嘘ついて遊びに出かけること多いから」

「とにかく家には行ってみないとね」

「うん。……途中まで一緒に行こうか?」


 瀬戸川さんが少し躊躇うように言った。幼馴染である彼女の家は、一条さんの家のすぐ近くにあるはずだ。

 私が返事をしようと口を開きかけたとき、ふと遠くの方から近付いてくる人影に気が付いてそちらを見た。瀬戸川さんも私の視線に釣られて振り向く。そうして、驚いたように声を上げた。


「綾?」


 フリルの付いたスカートをはためかせ、パタパタと駆け寄ってくる小柄な姿。恋路さんの姿を目に留めた私達は揃ってベンチから立ち上がる。恋路さんは、そんな瀬戸川さんの目の前に飛び込んできた。


「もー遅いよ小夜! ずっと待ってたんだからね?」

「先帰ってって言ったのに……」

「一人で帰るの寂しいじゃん」


 むすっとした顔で頬を膨らませた恋路さんは、隣にいた私を見て更に頬を膨らませる。


「なになに? 秋月と小夜だけでお話してさー、あやだけ仲間外れとか酷い!」


 私と瀬戸川さんはポカンと顔を見合わせていた。瀬戸川さんが困ったような顔で恋路さんに言う。


「ごめん。少し大事な話があってさ」

「へー? でももう終わったでしょ? 帰ろうよ」

「そうだけど……」

「それからさ、小夜。えりな今日風邪だったんでしょ? 明日は来るよね? えりなのためにさ、お菓子とか買って明日渡そうよ。三人で食べたらきっと美味しいよ」


 ハッとした顔で瀬戸川さんは恋路さんを見た。見つめられた本人はよく分かってなさそうにニコニコと笑っている。

 瀬戸川さんの唇が何かを言おうと蠢く。けれどぐっと噛み締められたそこから言葉は出てこなかった。


「最近元気なさそうだしさぁ、甘い物でも食べれば元気が出るよね! あやが好きなメーカーの新発売チョコ、すっごく美味しかったんだよ。買いに行こうよ!」

「そう、だね」

「えーっと、えりなって何の味が好きだっけ。小夜なら分かるよね? それから皆でまた映画でも見に行かない? 見たい恋愛映画あってさー」

「……うん、うん」


 日が落ちて陰が濃くなっていく。俯くように頷く瀬戸川さんの表情は分からない。会話している彼女達に目を細め、私は鞄を持ち直す。


「私は先に帰るね。暗くなってきたし、二人とも気を付けて」


 瀬戸川さんが顔を上げて私に何かを言いかける。それを制するように私は微笑み、軽く手を振りながらこう言った。


「じゃあ、瀬戸川さん、恋路さん……また明日」


 バイバーイ、と呑気に手を振る恋路さん。その隣で瀬戸川さんは数秒おいてから、控えめに私に手を振った。

 背を向けて歩き出す。一条さんへ買うお菓子を楽しそうに考える恋路さんの声を聞きながら。





 二回目の訪問に一条さんはどんな反応をするだろう。

 彼女の家までの道を歩きながらそんなことを考える。良い顔をしないことは確かだ。私に住所を知られたことを憎く思うかもしれない。だけどそう考えたところで、今更引き返す気はない。

 確かこっちの方角だったと、前に来たときの記憶を頼りに道を歩く。何回か間違えかけたりしたもののようやく道の先に見覚えのある家が見えたとき、空はすっかり暗くなっていた。

 街灯が照らす道を歩きながら一条さんの家に近付く。なんと声をかけようか、と脳内でシミュレーションしながら玄関のチャイムを押そうとしたとき、家の中から荒々しい物音と怒声が聞こえてきた。ビクッと体を硬直させて私が立ち竦んだとき、玄関が開かれ、広くんと日菜ちゃんが飛び出してきた。


「お姉ちゃん!」

「助けて!」

「えっ、えっ!?」


 突撃してきた二人はそのまま私にぶつかる。すぐにそれが私だと気が付くと、強く服を引っ張るように抱き付いてきた。

 困惑している間に玄関からまた一人誰かが出てくる。乱暴な足取りで地面を踏み鳴らすように歩いてくるその人物は、えりなさんのお父さんだった。前に見たとき以上の赤ら顔で、唾を飛ばしながら怒鳴り散らしている。


「おいこらガキ共! 逃げるなって言ってるだろうが!」


 ひぃっと背後にいた二人が悲鳴を上げ、更に服を掴む手に力が籠められる。えりなさんのお父さんは玄関先にいた私に気が付くと、一瞬虚を突かれたような呆け顔をした。しかし私の後ろに隠れた二人に気が付くと、みるみるうちにその目が鬼のように吊上がる。


「隠れたつもりか? えぇ!?」

「ちょ、ちょっと! 落ち着いてください!」


 二人を捕まえようと伸ばされた手を思わず払いのける。何だお前、とその目に敵意が浮かぶ。そんな彼を咎める声がすぐ近くから聞こえてきた。


「馬鹿親父! 何してんのよ、ちっちゃい子いじめて楽しいわけ!?」

「一条さん!」


 玄関からまたも出てきたのは一条さんだった。バッチリと化粧をした顔に、可愛らしい白のコートを着ている彼女。あなた、えりな、と廊下から二人を呼ぶ一条さんのお母さんが不安気にこちらを眺めていた。

 張り詰めた顔で出てきた一条さんは私の存在に気が付き、驚きと嫌悪感の混じった複雑な顔を浮かべる。私の後ろに隠れた広くんと日菜ちゃんを見て唇を噛み、自分の父親の首根っこをぐっと掴んで引っ張った。


「いい加減にしてよ酔っ払い! 二人が何したってわけ?」

「こいつらが走り回って、寝てる俺の邪魔したのが悪いんだろうよ! こっちは仕事で疲れてるっていうのに!」

「いつもぐーたら寝てるんだから少しくらいいいでしょ! いっつも怒鳴り散らして、バッカじゃないの!」

「誰の金で食っていけてると思ってるんだ!」

「あなたの金だけじゃないわよ!」


 目の前で行われる姉と父親の喧嘩に、日菜ちゃんがひぐひぐと喉を鳴らして泣き出した。広くんも嗚咽こそ零さないものの、堪え切れなかった涙がボロボロと流れている。よく見れば二人とも靴を履いておらず、靴下のまま外に出ていた。

 蚊帳の外で喧嘩を見ていた私を、ジロリと一条さんのお父さんが睨む。思わず身を引いてしまうも、彼は構わずずいっと私に体を近付けてきた。後ろで広くんと日菜ちゃんが恐怖に体を強張らせる。


「思い出したぞ。お前、この間えりなと騒いでた奴だな?」

「そ、そうです、彼女と一緒のクラスで」

「友人だか何だか知らねえが、こっちの事情に手出しすんじゃねえ」


 ただのクラスメート、と一条さんが強調して言う。一条さんのお父さんはそれを無視して、私の後ろに隠れていた二人に視線を向けた。


「こっちに寄越せ。一回厳しく躾けなきゃ、分かんねえみたいだからな」

「……………………」


 ちらりと背後に視線を向ける。二人は絶望に濡れた表情で私を見上げていた。一条さんが顔を真っ赤にして父親に怒鳴る。

 私はぐっと拳に力を入れて、目の前の彼に向き直った。


「嫌です」


 キッパリと断った。彼の口端が引くつく。お姉ちゃん、と驚いたように呟く日菜ちゃんと一条さんの丸くなった目が私を見つめた。


「何だって?」

「嫌だと言いました。あなたに殴らせるために二人を差し出すなんて嫌です」

「……お前も殴られたいのか?」


 大きな拳に力が込められる。肉付きの良い手は太く、殴られたら相当に痛いことは既に知っている。あの後もしばらく痛みに悩まされたのだから。

 私は顎を引き、姿勢を正した。目を細めて彼を真正面に見据える。


「どうぞ」


 予想外の反応だったのだろう。一条さんのお父さんが明らかな動揺を顔に浮かべた。虚勢を張ろうと拳を振りかぶった彼だが、私は身動ぎ一つせず彼を見据え続ける。


「殴りたいのならばご自由に。それで私が怯むとでも思ってるのなら」

「手前、舐めてんのか?」

「ええ。あなたなんて怖くありませんから」


 胸を張って強く彼を睨み付けた。うっと唸ったその巨体が僅かに後退る。

 こんな人怖くはない。銃を持った敵に撃たれたりナイフを持った敵に刺されたり、殺されそうになることに比べれば一発殴られるなんてどうってことない。彼の拳一発に比べれば、一条さんから浴びせられ続けた罵声の方がよっぽど怖い。

 数秒の沈黙の後、一条さんのお父さんは大きな舌打ちを残して私に背を向けた。全員を無視して家に戻っていく父親に一条さんがむっと声をかける。


「どこ行くってのよ」

「気分が悪い、寝る! もう一度起こしたらただじゃおかねえからな」


 肩を怒らせながら彼が家の中に戻っていく。

 ほうっと安堵の溜息を吐く広くん達に一条さんが悪態を付きながら近付いた。


「広、日菜、あいつが寝てるときは騒いじゃ駄目って言ってるでしょ?」

「ごめんなさい」

「ごめん、えりねえ」

「ったく……で、秋月は? 何しにここに来たの?」


 一条さんが切り込んでくる。私は少し慌てて、鞄から目当てのテストを取り出した。


「はい、これ」

「何これ?」

「この間の科学のテスト。先生に頼まれたから」

「ふぅん」


 テストを受け取った一条さんは、一瞥もせずにそれをくしゃくしゃに丸めたかと思うと無造作にその場に放り捨てた。


「わざわざゴミを届けてくれてありがとう」

「せめてゴミ箱に捨てようよ」

「家まで持ってくるとか脳味噌足りてないの? 机に入れておけば良かったのに」


 苦笑して丸まったテスト用紙を拾う。その拍子に、一条さんからふわりと香る香水に気が付いた。甘いムスクの香り。風邪で寝込んでいるはずの人が、香水を身に付けるわけがない。


「私は行くから、二人とも今日はさっさと寝ちゃいなさい。そうすればあっちも何も言ってはこないんだから」


 一条さんはそう言ってこの場を立ち去ろうとしていた。けれど足を絡め、転びそうになってしまう。慌てて体勢を立て直した彼女が振り返って見たものは、コートを引っ張る広くんと日菜ちゃんの姿だった。

 二人は駄々をこねるように首を振って一条さんを引き留める。その顔に浮かんでいるのは、行かないで、という懇願だった。


「家に戻ったらまた怒鳴られる! やだよ、遊びに行くならおれたちも連れてってよ!」

「はぁ? あのね、私は別に遊びに行くわけじゃ……」

「えりなぁ。わたし、お腹減った。どっか食べに行きたい」


 二人にしがみ付かれた一条さんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。まさか自分が行こうとしている場所に、弟妹を連れていくわけにもいかないだろう。

 えりな、と更に彼女を呼ぶ声がして一条さんと私は顔を上げた。二人分の靴を持って玄関から出てきた一条さんのお母さんが、申し訳なさそうな顔で私達に近付いてくる。


「お父さん今日は機嫌悪いみたいだから、もし良かったら二人を連れてどこか食べに行ってくれる? あの人一度怒ると、面倒でしょう?」

「用事があるって言ってるじゃない!」

「昼もそう言って出かけてたでしょ。遊ぶのは一日一回でいいの。夕食代は出すから、ね、お願い」

「……喧嘩を止めはしないくせに、こういうときだけ口を出してくるのね」


 低く唸るように一条さんが言うと、彼女のお母さんは寂しそうな顔をした。差し出されたお金に首を振り、一条さんは取り出した携帯に何かを打ち込む。きっとこれから会う予定だった人に行けないと連絡でもしたのだろう。すぐに返信を告げる音が何度も鳴っていたが、もう一度仕舞った携帯を彼女が取り出す様子はなかった。


「あ、待って一条さん」


 呼び止めると、苛立った表情の彼女が何、と私を睨む。私は言った。


「私甘えるのはやめにする」

「は?」

「代わりに、頼ることにした」

「……この間のこと言ってるの?」


 この前一条さんと言い争ったこと。それを思い出しながら私は大きく頷いた。

 甘えるのはやめる。だけど頼ることはやめない。それは金銭に限った話じゃなくて、居場所とか、心とか、上手く言い表せないもののことだ。

 私の言葉を理解しているのは一条さんだけだ。一条さんのお母さんも、広くんも、日菜ちゃんも、皆ポカンと呆けた顔を私に向けていた。


「まさかそれを言うために来たってわけ?」

「うん」

「…………本当、呆れた」


 一条さんも言葉通り、心底呆れた顔で私を見る。自分でも馬鹿みたいだと思っていた。こんなことを言うためだけにわざわざ彼女の家まで押しかけるなんて。

 

「結局それって、他人に寄生し続けるってことでしょ? 変わらないじゃない。自立して生きようって思わないわけ?」


 思わず口元に笑みを浮かべた私に、何を笑ってるのと怒った口調で一条さんが問いかける。

 自立して生きること。生きるだけならきっと、今の私にもできる。殺し屋としての仕事を続け、家賃の安いアパートで暮らし、細々とした生活を過ごす。できないことはない。仕事用の口座はほとんど手を付けていないお蔭で大分潤っている。生きることだけなら今すぐにだってできるだろう。

 だけどもしそんな生活を送ったところで、私は多分すぐに死ぬ。


「ひとりじゃまだ生きられないから」


 私の言葉に一条さんは表情を歪めた。怒っているようでもあり、呆れているようでもあり、憐れんでいるようにも見えた。

 それ以上彼女は私に何も言わなかった。ぼうっと立っていた広くんと日菜ちゃんの手を取り、行こうと声をかけて歩き出す。我に返った二人はすぐに嬉々とした笑顔で一条さんに話しかけていた。


「えりな、おれハンバーグ食べたい。デミグラスソースのやつ」

「わたしグラタンがいい!」

「はいはい。安い所でいいわよね? あの大盛り出してくれる所とか」

「そんなに食べられないよぉ」


 街灯に三人の後ろ姿が照らされる。白い光の中で、繋がれた三つの手が私の目に焼き付いた。

 三人を見送る一条さんのお母さんに頭を下げ、私は息を一つ吐いて、三人と真逆の道を歩いて行った。






 ただいまと真っ暗な部屋に声を投げてみる。当然返事はない。

 リビングに行き電気を付けた。温かな雰囲気を醸し出してくれる暖色の蛍光灯は、柔らかく、私以外に誰もいない部屋を照らした。コートを脱いでソファーに放る。静かすぎる部屋は時計の秒針さえうるさく感じるほどだった。

 温かなお茶を作り、カップを持ってベランダへ向かう。夜風が冷たい。白く立ち昇っては消えていく湯気を見ながらお茶を飲んで体を温める。星空をぼんやりと眺めていると、数部屋離れたベランダの方から賑やかな声が聞こえてきた。子供達とお父さんの楽しそうにはしゃぐ声。下の階の方からは、勉強しなさいと怒るお母さんの声とテレビの音、うるさいなぁなんて愚痴を垂れる子の会話が聞こえてきた。

 ファミリータイプのこのマンションはとても広い。清掃も管理も行き届き、第四区の中でもかなり人気の高いマンションだと言われている。生まれたときからここに住んでいる私は随分と恵まれているのだろう。

 それでも私の脳裏に浮かぶ光景は、街灯の下に照らされる、三人分の繋がれた手だった。


「……独りじゃまだ生きられないから」


 親から暴力を受けないとしても、広く清潔な部屋に住んでいるとしても。一条さんが思うように、私も一条さんのことが羨ましかった。

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