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第86話 ホテルで

 彼――あの夜一条さんと共にいた、そして新たな被害者の子と車で去っていった姿を目撃されていたという、前髪を真ん中で分けた大学生くらいの男性だった。彼は、突然声をかけてきた私に怪訝な顔をする。

 容疑者である男と対面しているという緊張を飲み込む。怪しまれたろうか、もっと自然に寄り添っていった方が良かったかもしれない。

 しかし私が逡巡しているうちに、目の前の彼はふわりと表情を緩めた。


「素敵なお誘いだね。僕でよければ、ぜひ」


 初対面の人間に急におかしなことを告げられても動揺が薄いのは彼が穏やかな性格をしているからか。それとも、こんな風に誘われることに慣れているから?


「それで、いいことって?」

「え?」


 呆けて目を丸くした私に彼は更に首を傾げてきた。


「た……楽しい思いをさせてあげる、とか?」

「具体的には?」

「ぐた……っ! あ、あの、えっと」


 まさか聞き返されるなんて。どうせこの後すぐさまホテルに向かい、そこで捕まえるばかりだと思っていた。しかし改めて聞き返されるとホテルに行きましょう、と言うことがどうにも恥ずかしい。

 けれど黙り込んでいても彼を逃がしてしまうだけだ。頬を引きつらせ必死に次の言葉を考える。とそのとき、泳がせていた私の視界に青く輝く光が飛び込んできた。


「あの、ほら! あそことか楽しそうですよ!」


 それは青い海の中で泳ぎ回る可愛いイルカや魚のイラストが描かれた大きな看板。海沿いにある水族館の広告だった。





 厚いガラスを隔てた向こう側で、たくさんの魚やサンゴが揺れている。一瞬たりとも同じ形を保たない揺れる水面の光が、私達の足元に綺麗に降り注ぐ。

 水族館は今の時間、夜のショーへと切り替わっているらしかった。薄暗い館内に流れるロマンチックな音楽。周囲を青に囲まれた不思議な空間。

 明星市は県の端、ほとんどの区が海に接した場所にある。昔は何度か海に行って泳いだことだってあった。けれど海の水はあまり綺麗とも言えず、たくさんの魚が泳いでいる様など見たことがない。こんなに綺麗な水の中をたくさんの魚が泳ぎまわっているということが愉快だった。


「うわぁ……私、こんなにたくさんのクラゲを見たことなんて、初めてです」


 熱帯魚、ペンギン、両生類。様々なコーナーを巡ってたどり着いたのはクラゲコーナーだった。大きな丸に切り取られた水槽の中で、半透明な白い体の水クラゲが、水中を照らす明かりでほのかに青く輝いている。

 ゆったりと傘を動かし泳ぎ、時折ほかのクラゲにぶつかってぽよんと揺れるクラゲ。愛らしい光景に目を奪われ、思わず顔がほころんだ。


「水族館に来たのは初めて?」


 横から男性が話しかけてくる。私はクラゲに目を向けたまま答えた。


「小さい頃は両親が何度か連れてきてくれたことあったみたいなんですけど、物心つくより前だったから。大きくなってからも行く機会なんてなかったし」

「それじゃあ、今日が君の思い出に残る初めての水族館ってことだね」


 意味深な言葉に顔を上げれば、横で同じように水槽を見つめていた彼はいつの間にか柔らかい笑みで私を見つめていた。水槽の青い光がその頬を照らす。しばしぼうっとその顔を見つめていた私は、ハッと我に返り慌てて視線を逸らした。

 そんな私に笑い声をあげ、彼は次に行こうかと告げてきた。




 水のおかわりを注いでくれたウエイトレスさんが、畏まった一礼を残して去っていく。静かな音楽が流れ、眩しすぎず暗すぎないオレンジ色の明かりが満ちた店内で、向かいに座る男性はグラスを傾けながら私に微笑んだ。


「味はどう? 口に合うかな」

「美味しい……です」


 水族館を巡った後、何故か私達は近くのビルのレストランにやってきていた。

 十階の飲食店舗、そのうち最もおしゃれで格式の高そうなレストランへ彼は揚々と私を連れて入ってしまった。気おくれしている様子はない。こういうところ、よく来るのかもしれない。

 ふわふわの絨毯に煌びやかなシャンデリア。席に案内されるまでに目に入った他のお客は皆フォーマルな服装に身を包んだ人ばかりだ。自分の格好が途端にみすぼらしく場違いに思えて恥ずかしい。


「はは、体強張ってるよ」

「し、仕方ないじゃないですか。こんな高いレストラン、緊張しちゃいますよ」


 文句を言いつつフォークを口に運ぶ。流石と言うべきか、料理はどれもこれも美味しかった。テリーヌとかいうよくわからないゼリーみたいな料理に、オリジナルソースを添えた魚のムニエル、焼き立てのパンにオリーブオイル……。ほとんどカタカナで説明されているメニューはよく理解できなかったが、どれも高級感溢れる味だった。

 それにしてもこんな高い物を食べていいのだろうか。メニューを見た際、その金額に思わず目を剥いてしまった私に、彼は笑いながら自分が払うと申し出てくれた。初対面の人間をこんな高いレストランにひょいひょいと連れてくるなんて。大学生の手持ちの平均など知らないが、この人は案外お金持ちなのかもしれない。


「……………………」


 窓に近い席だから夜景がとてもよく見える。立ち並ぶビルと、夜を輝かせる明かりが美しい。ロマンチックなレストランはカップルにも人気のようで、仲睦まじい様子のカップルが何組か座っている。

 高いお金を払ってまでこんな素敵なレストランに来るのは、恋人や大切な人と素敵な時間を過ごしたいから。じゃあ今私の向かいに座るこの人は?

 大枚をはたくのも、私に向けられる爽やかな笑顔も。獲物を逃がさないためなのか。全てこの後に自分が得る快楽のために。


「このお店は落ち着かないかな」


 気もそぞろな私に男性が困ったように笑いかけた。彼に集中していないと思われれば、気を害して帰られてしまうかもしれない。そんなことない、素敵なレストランです。そう食事を口に運んで微笑んでも、彼は困ったような笑みを浮かべたままだった。

 結局話は弾まずレストランを出た。男性は少し悩んだ様子で携帯を弄りだす。もしやこのままここで解散というはめになってしまうのでは……と危惧したとき、彼は顔をあげて私に言う。


「雰囲気を変えてみようか」


 言葉の意味を図りかねながらも、私は彼に付いていく。自然に手を繋いできた彼に連れられた先は、大通りの裏手にある狭い路地だった。とはいっても人気がないわけではなく、むしろそこそこの人が行き交っている明るい通りだ。左右に並ぶ看板は居酒屋やキャバクラなどの賑やかなお店のもの。一つの看板の前で彼は止まり、地下へと続く短い階段を下りていく。

 階段を抜けた先の扉を開けばそこがバーだということが分かった。しかしジャズが流れたり一人客が静かに飲んでいるような、さっきのレストランのような上品さはほとんど感じられない。若い人達がグラスを煽って騒ぎ立てている、うるさいバーだった。腹に響くような重低音を鳴らす音楽が耳に痛い。くらりと頭が回るような空気に酔っぱらってしまいそう。

 カウンターの隅に座って息を吐くと横からメニューが差し出された。ずらりと並ぶアルコールの種類に瞬きを繰り返す。


「何か飲む? カシスオレンジ、カルーアミルクなんかもあるよ」

「あ、えっとその、お酒は飲めなくて……」


 今彼と話しているのは仕事だというのに酔っぱらうなどあってはならない。ましてや、まだ未成年の私は酒など飲めやしないのだから。

 そうかい、と彼は僅かに訝しげな表情を浮かべ、探るように私を見た。


「正直意外だな。君みたいな子は、お酒が好きなんだとばかり思っていたよ」

「…………この間お酒を飲みすぎちゃって、ぐでぐでになっちゃったんです。それが恥ずかしかったから当分はアルコール控えておきたくって」


 咄嗟に捲し立てた嘘。幸いにも彼はそれ以上不審がる様を見せず、納得したように頷いた。


「だったらアイスティーでも頼もうか」

「アイスティー?」

「ソフトドリンクも普通に置いてあるからさ。それなら飲めるかな?」


 バーに来て何も飲まないというのもそれはそれで怪しすぎる。アルコールが入っていないなら大丈夫だろうと、安堵して頷いた。

 彼が店員を呼んで注文する。うるさい音楽のせいで隣の彼の文の声すらよく聞こえない。だが流石に店員はこの喧噪に慣れているようで、すぐに二人分の飲み物が運ばれてきた。青と白のグラデーションが綺麗なお酒を飲む彼の横で、私もアイスティーを飲む。甘くて美味しい。


「――ところで、君の名前はなんて言うんだい?」


 グラスの中身が半分ほど減った頃、男性がそう問いかけてきた。私は躊躇いを見せず即座に答える。


「和美、カズミです」


 偽名を考えた方がいいと真理亜さんに言われ、思いついたのがこれだった。本名を軽く捻った程度だが、和子という名が彼に知られることはないだろう。

 いい名だねと笑みを浮かべる彼に、そちらは何て名前ですかと問い返す。彼もまた迷う様子もなく即答した。


「誠っていうんだ、僕の名前」

「誠さんですか、素敵な名前ですね」


 如月さんから受け取った資料によれば、彼の本名は確か違うものだったはずだ。平然と嘘をつく彼に眉根を寄せたくなる。あまりにも負けている偽名だ。()()()な部分が一つもない。


「じゃあカズミさん」

「なんですか? 誠さん」

「教えてくれないかな。君がこんなことをしている理由を」


 グラスの中身が揺れた。慌ててそれを抑え、ぎこちない笑みを浮かべる。


「どういう意味ですか?」

「君が男に体を売る訳さ。さっきみたいなレストランだと落ち着いて話してくれそうになかったし。案外、こういう所の方が話してくれるかなと思ったんだけど」


 乾いた唇を舐める。さあ、どうしようかと一瞬視線を泳がせた。心配なんだ、と彼がそっと私の片手を握ってきた。その目は真剣な色を帯びてまっすぐ私に突き刺さる。

 やはりそう簡単に事を運ぶことはできないか。最初から彼は私を勘ぐっていたに違いない。表向き、体を売る女の子を心配しているように見えて、その実自分を捕まえようとしている警察や探偵の関係者だと疑っているはずだ。

 化粧直しと嘘をついてトイレで東雲さん達に連絡を取ろうか。いや、ここで急に席を立つのは怪しすぎる。今のこの会話だって、騒がしい店内のせいで東雲さん達にはよく聞こえていないようで通信はしばらくない。あちらからの助言も期待はできない。


「…………お金が欲しいんです」


 それが平凡な理由であることは分かっている。誠さんも親身な顔をしつつ、その目にはまだ疑惑が浮かんでいた。大事なのはこの後だ。


「私の家、あまりお金がなくて。お小遣いなんてもらえない。バッグも服も靴も化粧品も、欲しいものはいっぱいあるのにどれ一つ買うのも厳しいんです」

「そうなんだ……」

「旬の洋服も、流行のバッグも。友達と遊びに行くのだってお金がかかる。何をするにも買うにもお金が必要だから」


 語りながらグラスを傾けていると中身が空になる。誠さんが同じものを、と注文してくれてすぐ同じドリンクが運ばれてきた。甘いアイスティーをゴクゴク飲みながら話を続ける。


「バイトをすればいいんじゃない? 時給が高いところだって探せばきっとあるよ」

「それじゃあ間に合わないんです」

「間に合わない?」

「言ったでしょ? 服にもバッグにも流行がある。それにバイトでこつこつお金を貯めてようやくそれを買ったって、そのときには私も年を取っている。今だからこそ欲しいものっていっぱいあるんです。それに……」

「それに、なんだい?」

「それに、弟と妹がいるから」


 私には兄妹なんて一人もいない。このとき頭に浮かんでいた弟妹は、広くんと日菜ちゃんの姿だった。


「二人ともまだ小さいのに、満足に服も買ってあげれない。私が稼いで二人を幸せにしてあげたいから。好きなものを買ってやって、好きなことをさせてあげて、笑顔になってほしいから」

「……いいお姉さんなんだね」

「地道な努力をするよりも、体を売った方が手っ取り早い。男の人と数回会うだけで一ヶ月バイトするよりも遥かに稼げる。私はあの子達に不満足な思いをさせ続けるよりだったら、すぐにでも幸せにしたいから」


 グラスを一気に煽り、中身を空にする。静かに息を吐いて目を閉じた。なんだかやけに口が回る。咄嗟に吐き出した嘘は信じてもらえるだろうか。

 話している間私がずっと考えていたのは、一条さんのことだった。


 私の話を聞き終えた誠さんは神妙な顔で、辛かったね、と静かに言った。

 彼の手が私の腰に回される。反射的に体が強張るが、すぐにそれを受け入れたかのように筋肉を弛緩させる。まつ毛を伏せ、挑発的に横にいた彼を見上げた。


「私を助けてくれますか?」


 彼は無言で頷く。流れるように足に伸びてきた手を私は拒絶しなかった。

 それが合意の合図であることを、いくら私でも知っている。




 ホテルは一見、ビジネスホテルのよう外観だった。けれど入り口付近に立てられた看板に書かれた休憩と宿泊の文字が、ここがどんな場所であるかを改めて教えてくる。

 双方無言で部屋まで進む。絨毯のせいか緊張のせいか、何だか気持ちがふわふわとして落ち着かなかった。

 部屋に入ると一層身が引き締まった。ちょっと高級なホテルといった内装と、部屋の中央に置かれた大きなベッド。ドギマギする私の横で、誠さんはコートを脱ぎだした。


「じゃあシャワーを浴びてくるよ。あ、それともカズミさんも一緒に入る?」

「けっ、結構です!」


 あははと笑って彼はシャワー室へと姿を消した。熱い顔をぱたぱたと手で扇ぐ。しばらくしてからシャワーを浴びる水音が聞こえてくる。こういう場所のお風呂場は向こうが透けて見えるガラスも多いらしいが、このホテルはシャワー室が透けて見えることはなかった。安堵に胸を撫で下ろす。その方が恥ずかしくないし、なにより私が何をしているか、相手に知られることもない。

 まず彼の持ち物を漁ろうと辺りを見回して、彼のバッグがないことに気がつく。おそらく脱衣所へ持っていったのだろう。行為の前に財布を盗んで逃げられることを危惧したのかもしれない。それとも、見られたくないものが入っているとか。仕方なくそっちは諦めて、私はベッドに腰掛けて通信機を取り出し、言葉をかける。


「東雲さん、真理亜さん、聞こえますか?」

『ああ、聞こえてる。今はどんな状況だ?』


 こんな状態でも聞き慣れた声を聞くと安心した。今いるホテルと部屋の名を告げ、状況を報告しあう。誠さんが傍にいない隙を狙って何度かやり取りはしていたが、恐らく今が確認の取れる最後の時間だ。


「順調です。今のところ特に怪しまれてはいないみたい」

『そうか。和子、分かってるな? 相手が犯人だという確証が持てたら、すぐに仕事にかかれ』

「了解です」


 作戦と呼べる作戦はない。彼が犯人であると確信が持てたら、すぐに隠し持っていたナイフで反撃して彼を取り押さえる、それだけだ。彼の抵抗が激しく私一人で押さえきれない場合東雲さんと真理亜さんが駆け付けてくれる手筈になっている。

 けれど私はできる限り二人を呼ばずに自分だけで仕事を完了させたかった。もしも私がたった一人でターゲットを制圧することができれば、きっと二人とも私を見直してくれるだろうから。


「…………?」


 ふらりと視界が揺らいだ。咄嗟にベッドに手を付いて体勢を整える。何度も瞬きをして突然の眩暈を追い払おうとする。

 薄着だったせいで風邪でも引いたのだろうか。仕事が終われば、すぐに家に帰って安静にした方がいいだろう。でも今しばらくは、体調には落ち着いてもらはなくてはいけない。


「あ、ところで東雲さん達って今どこに……」


 体調のことを一時でも忘れようと東雲さん達に話題を振る。だが最後まで質問しきる前に、シャワーの水音が止んだことに気が付いた。口を噤み急いで通信機を服にしまう。

 バスローブ姿で部屋に戻ってきた誠さんはそのまま私の横に腰かけた。ふわりとしたフローラルな香りは添え付けのソープだろう。しっとりと潤った大きな手の平が、私の手を撫でる。私がその行動に答える前に、彼の手がぐっと私の体をベッドに押し倒した。

 視界いっぱいに誠さんの顔が広がる。お風呂上りだからか、情欲のためか、その肌は赤く色付いている。まだシャワーを浴びていないのに、と言いながら私が微笑を浮かべると、彼も薄く微笑んで私の首筋にキスをしてくる。

 生温かい吐息がかかり、柔らかな唇が押し付けられる。くすぐったそうに身を捩るフリをして私は彼の唇から顔を背けた。鳥肌が立つ、気持ち悪い。肌と肌が触れ合うことが吐きそうになるくらい気持ち悪い。

 彼の手がニットを引っ張った。慌てて自分を抱きしめるように服を握り、脱がされないようにする。


「やだぁ、恥ずかしい」


 それじゃあ脱がせないよと困ったように誠さんが笑う。通信機を見られてはいけない。私はそっと、服の内側に自分の手を潜り込ませた。誠さんは服の上から私の体に触れてくる。もったいぶったような手付きがじれったい。足の先、太もも、腰、背中……。ゆっくりと服の上を滑る手を取れば、誠さんの動きが一瞬止まった。

 大きな呼吸を繰り返し、とろんと涙をにじませた両目を彼に向けた。精一杯の甘い声で彼を誘う。


「ね…………早く」


 誠さんの表情が変わる。ギラついた光を目に湛えた彼は、性急な動きで手を伸ばしてきた。

 そう、お願い、早く。早く私を欲しがって。


 誠さんが伸ばした手はまっすぐに、()()()へとかけられた。



 苦痛の呻き声。

 首にかけられた手に力が込められた瞬間、即座に私はニットの内側から取り出したナイフで、振り向きざまに彼の手を引き裂いた。

 驚愕に見開かれた目が私を凝視する。ナイフを握りしめたまま、緊張からか少し力の抜けた手でシーツを掴み、誠さんから距離を取った。


「私の首の皮も剥がそうとしてたんですね、誠さん」


 私の言葉に彼も合点がいったようだった。表情に怒りと狂気が滲む。さきほどと似て非なるギラギラと輝いた目が私を睨んだ。彼の手から滴る血が、シーツに染みを作っていく。


「カズミさんは警察か探偵だったのかな」

「……似た者です」


 本当の仕事は言えない。けれど彼にとっては私が探偵だろうと殺し屋だろうと関係ないだろう。自分に危害を加える存在であるということは、どれも同じなのだから。

 ナイフを構えてベッドの上で体勢を取ろうとする。誠さんもまた、身動ぎ一つせず私と向かい合う。距離は一メートルもない。けれど私なら彼に飛びかかって押さえつけることはできる。

 私が有利だ。そう考え脳内で勝利を確信したそのとき、私は誠さんの口元が緩く弧を描いていることに勘付いた。


「カズミさんはあまりお酒が強くないんだったよね?」


 バーで話したことだった。状況に似合わない言葉に思わずポカンと呆けた顔をする。そんな私に構わず彼は続けた。


「でもそっか、カズミさんはまだ未成年だものね」

「いや、私…………」

「不真面目のフリをするのも大変だったろ? カズミさん、本当は真面目な子みたいだものね。だったら余計、お酒なんて飲んじゃ駄目だよ」


 お酒なんて飲んでない。そう言おうと身を乗り出しかけたとき、くらりとまた眩暈がして体が崩れそうになった。咄嗟にシーツを掴むも、その手さえ微かに震えている。

 さっきから感じていた体の熱さや眩暈。てっきり風邪だと思っていたこの症状、まさかこれが酔っているということ? だけど私は本当にお酒なんて飲んでいない。口にしたものなんてレストランでの食事か、バーの飲み物くらいだ。どちらもアルコールなんて入っていないはずなのに。


「美味しかった? ロングランドアイスティー」

「アイス、ティー……?」


 あのアイスティーに何か変なものでも入っていたのか。今更気が付いても、もう遅かった。

 誠さんの手が伸びて私の肩を押した。その動作に反応できず、呆気なく私の体は仰向けに倒される。手から弾かれたナイフは手の届かない床に落ちてしまう。視界一面に広がる彼の姿はさっき見た光景と同じだった。ただ違うのは、その笑顔が酷く恐ろしく歪んでいることだ。私と遊んでいた間に見せてくれた優しい笑顔。それが作り笑いだったのだとハッキリ分かるほど、恐ろしく、悦楽に満ちた笑み。

 喉に彼の手がかかる。酷く熱い。容赦なく込められた力が私の喉を潰す。ごりっと、固い筋肉か軟骨が潰されるような音がした。


「あぐ…………!」

「はは、はははっ! 大丈夫、すぐ苦しくなくなるよ。一緒に気持ち良くなろう」


 首を絞められる痛みは、すぐに酸欠による苦しみへと変わった。圧迫された喉は上手く空気を吸うことも吐くこともできず、ひゅうひゅうとか細い音が鳴るだけだった。目尻から流れた涙が私の頬を濡らす。

 両手足を振り回して暴れても彼はビクともしなかった。私の拳が頬を殴っても、足が腰を叩いても、彼の恐ろしい欲に濡れた目は変わらない。


「君みたいな若い子は捕まえるのが楽だね。僕が微笑んだり悩み事に乗ってあげれば、すぐほいほいと付いてくる。僕みたいな男が一番危険だって分かってないんだ」


 彼の言葉が頭に入ってこなかった。指先が冷たく痺れ、感覚がなくなっていく。震える手で彼の喉を掴んでも、締めるどころか力を入れることさえできなかった。薄れていく意識の中で彼の笑顔だけが見える。

 扉が開け放たれ、誰かが入ってきたのはそのときだった。淀んでいた狂気を霧散させ、誠さんはハッと扉の方に顔を向ける。首にかかっていた力が緩み、気道に流れ込んできた空気に激しく咳き込んだ。


「ネコ!」


 まだ視界はハッキリしていない。だけど大好きな声が、呼び名が耳に飛び込んできた瞬間、苦しみからではない涙が零れた。

 警察がやって来たとでも思ったのか、誠さんはベッドから飛び降りて逃げ出そうとする。しかしそのとき、彼が床に落ちていたナイフを拾おうとしたのがぼんやりと見えた。


「駄目っ!」


 せめてもの反撃をしようと、私は残りの力を振り絞って彼に飛びかかった。もつれあった体が床に転がる。痛みと眩暈に呻く私に、彼は舌打ちをしながらナイフを振り下ろそうとしていた。

 誠さんの頬に誰かの靴先がめり込み、ナイフの切っ先は見当違いの床へと突き刺さった。ぐらりと揺れる目の前の体を茫然と見つめていると、彼の顔を蹴り飛ばした真理亜さんが私を後ろへと引っ張り出した。

 くそう、と誠さんが悪態を付く。なおもナイフを拾おうとした彼の足に向かって、真理亜さんは取り出したデリンジャーを撃った。小さな弾丸が彼の太ももに命中する。悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた誠さんだったが、すぐに怒りの表情を浮かべて真理亜さんに襲いかかろうと身を屈めた。


「どいていろ」


 誠さんが飛びかかってくるよりも早く、真理亜さんの前に東雲さんが飛び込んできた。襲いかかってきた誠さんの手を避け、東雲さんは本気の拳をその腹に叩き込む。

 一瞬だけ誠さんの体が浮いた。大きく目を見開いた彼が床に倒れ込む。即座にその背を東雲さんが強く踏み付けると、カハッと息を吐き出して誠さんは白目を剥いた。



「平気?」


 真理亜さんが隣に寄り添って私を支えてくれる。隣の部屋で待機していて正解だったわ、と彼女は言った。東雲と一緒の部屋っていうのは癪だったけど、と彼を睨みながら。

 彼女に体重をかけないようにと床に手を付いて体を支えていると、東雲さんが気絶した誠さんを拘束しているのが目に入る。彼はこちらを見ないまま言った。


「ネコ、油断したな」

「……すみません」

「ちょっと、こんな状態のこの子にまで悪態を付く気?」


 真理亜さんが東雲さんを咎めるも、私は彼の意見はもっともだと感じていた。

 何が死なないだ。何が返り討ちにしてやるだ。いつまでたっても私は油断してばかりで、危ない目に遭ってばかり。誰かがいなければ簡単に殺されてしまう、駄目な殺し屋だ。

 私から囮になると言った手前のこの結果に気が沈む。東雲さんの期待を裏切ってしまった、と目に涙が溜まった。そんな私を見て真理亜さんは静かに首を振った。


「――東雲。ターゲットは私が運ぶから、あなたは和子の傍にいてあげなさい」

「お前がだと?」

「ええ。どうせなら男女で歩いていた方が自然でしょ? もし目撃されても怪しまれにくいわ」


 真理亜さんは立ち上がり、倒れたままの誠さんの腕を引っ張る。彼女の力で彼を支えられるのかと思ったが、案外それほど苦労した様子もなく真理亜さんは誠さんを肩に抱かせた。私はふと疑問に思って訊ねた。


「運ぶって。どこに、ですか?」

「……依頼主の元へよ」


 依頼主と言えば確か、被害者である妹を殺された大学生の女性だ。何故彼女の元へ運ぶのかと思っていると、私の心を読み取ったように東雲さんが続ける。


「あの依頼主が依頼してきたときの言葉を覚えているか。『犯人に復讐がしたい』。そう言っていたな」

「それって」

「今回俺達がすべきことはターゲットの殺害じゃない。それをするのはあの依頼主だ」


 私は思わず顔を上げた。部屋を出て行こうとしていた真理亜さん、その肩に寄りかかるように項垂れた誠さん。生きている彼の姿を見るのは、これが最後になるのだろう。

 よくあることだ、と東雲さんは静かに呟いた。と、真理亜さんが振り返ってそんな彼に顔を向けた。


「そうだ東雲。言い忘れていたけれど」

「何だ」

「こんな場所だからって和子におかしな真似はしないでよね。具合が良くなるまで休ませるだけよ」


 返事を待たず、東雲さんを睨んで真理亜さんは去って行く。複雑そうな顔で頭を掻いた東雲さんは、溜息を吐いて私の前にやってくる。


「和子」

「……ごめんなさい」


 しゅんと肩を落として項垂れる私に、東雲さんはもう一度溜息を零した。


「気分は」

「くらくら、します。体が熱くて。ふわふわして。それに何だか気持ち悪い」

「気が付かないうちに酒でも飲まされたんだろう」


 仕方ないな、と呟いて東雲さんが私を抱きかかえた。ベッドの上にそっと寝かされる。そのまま東雲さんはベッドの脇に腰かけた。


「しばらく寝ていろ」

「ごめんなさい」

「何度も聞いた。和子、何をそんなに謝っている?」

「だって……だって失敗しちゃったから。せっかく東雲さんが、期待、してくれたのに。失望させちゃって……」


 改めて言葉にしたことで一層悲しくなってきた。目を潤ませる私に東雲さんは小さく舌打ちをした。その反応が余計に辛くてとうとう涙を零してしまったとき、彼の手がそっと私の手に重ねられた。


「俺はお前に失望なんかしていない」


 ベッドが軋む。僅かに彼が身を乗り出して私の顔を覗き込んでいた。


「誰かに頼るのが甘えていることだと思っているのか?」

「なっ、何で」

「真理亜から聞いた」


 知られたくなかったのに。恥ずかしくなって、胸元をギュッと握り締めて顔を逸らす。けれどすぐ顔を戻すことになったのは彼の次の言葉のせいだった。


「何のために俺がいると思っている。お前と共に戦うためじゃないのか?」

「…………でも私は、いつも足を引っ張って」

「それをサポートするのが俺の役目だ。それに俺だって、お前に何度も助けられている。和子がいなければきっと、無事で済まなかったことだって多い」


 本当だろうか。いつもの彼の仕事ぶりを思い返してみるが、東雲さんはいつも殺し屋として完璧で、仕事に手慣れていて、格好良くて。

 自分はどうだろうかと思ってみるも、仕事中は必死だから自分の動き方など覚えていない。東雲さんが私を励まそうと嘘を言っているのかもしれないなんて思ってしまう。


「自分じゃあ分からないかもしれないが、お前は随分と立派になった。俺以上にな」

「私が? 冗談でしょう?」


 声を上げて笑ってしまう。東雲さんは冗談を言っているんだ。私ごときが東雲さん(オオカミ)よりも立派だなんてそんな馬鹿な。けれど東雲さんの顔は決して冗談を言っているようには見えなかった。


「前に強くなったって言ってくれたときは、私なんて殺し屋としてまだまだだって言ってたじゃないですか」

「実力の話じゃない。俺が言っているのは心の話だ」

「心?」

「お前は俺より強い」


 笑うのをやめ、真顔で東雲さんを見つめた。甘えているのは俺の方だ、と東雲さんは私に辛うじて聞こえるほど小さな声で呟いた。


「頼ることは甘えることじゃない。もっと俺や周りを頼れ。一人で進むのは悪いことじゃない。だが、誰かと一緒に進むことも立派な方法だ」

「背を預けて、戦うってこと、ですか?」


 東雲さんに背中を預けて戦うこと。それが一緒に進むと言うことなのだろうと思った。しかし東雲さんは首を振る。


「お前の立つ場所は俺の後ろでも前でもない。横に立って、同じ場所を向いていろ」

「……………………」

「そうしていつか……隣に誰もいなくなったときに、一人で歩んでいければそれでいい」


 だからそれまでは、と言って東雲さんは黙ってしまう。私も無言で彼に視線を投げ続けた。しばしの間、私達は無言で見つめ合う。

 そろりと私は、重ねられていた手を握り返した。東雲さんの眼差しが手に向けられる。だが彼は私の手を握り返すことはなく、ただぼんやりと曖昧な笑みを浮かべただけだった。


「気分が良くなるまで寝ていろ」

「……もう少し握っていてくれますか?」

「…………ああ」


 目を閉じてゆっくりと息を吐く。段々と微睡みに落ちていく意識から、考えていたことが抜けていくのを感じた。誠さんはこれからどこに行くだろう。被害者がこれで少しは晴れてくれるといいけれど。一条さんは……。もはや何も考えることはできず、私はゆっくりと眠りに沈んでいく。

 最後まで、繋がる手の平の感触を感じながら。

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