第73話 二人の夜
しんと冷たい静寂が部屋に満ちていた。話を終えて黙り込んでしまった東雲さんを、私はじっと見つめていた。今まさに聞いた彼の話をゆっくりと飲み込んでいく。彼の子供のときのこと、家族のこと、ドラッグストアのこと、根本さんのこと、殺し屋のこと……。
過去の東雲さんの身に降りかかっていた様々な出来事。聞きたいことも言いたいこともたくさんあった。けれど私は、たった一つだけの疑問を、確認の意味を込めて口にした。
「私は代わりだったんですか?」
東雲さんは肯定も否定もしなかった。私から逸らされて床に落とされた彼の視線。その先に、何を見ているのだろう。
彼を育て人生の道標となってくれたのがおばあさんだとして、手を引いて前へと引っ張ってくれたのが冴園さんだとして、美輝さんは東雲さんにとってどんな存在だったのだろう。いなくなって、どれほどの悲しみが訪れたのだろう。ずっと傍にいてほしいと思っていたんじゃないだろうか。恐らく、今でも。
言われたんだ、と東雲さんが言った。言われたって何を、と私は彼の顔から目を逸らして訊ねる。
「殺すだけじゃなく、生かしてみせろ」
突然の言葉だった。意味が分からない。けれど、何故だかその言葉には聞き覚えがあった。諭すような声、示すような言葉。だけど誰が、いつ?
ふと脳裏に鮮明に浮かび上がる光景があった。濃紺の空、幾千もの青白い星の煌めき、パッと散らばる赤い色。
あぁ、と溜息のように声を吐いた。忘れない。覚えている。この言葉はあのときの、あの人が言った……。
「保良さん……」
東雲さんは頷いた。
「お前と初めて出会った夜。あの男の、最期の言葉だ」
屋上の扉越しに聞いた東雲さんと保良さんの会話。あの夜のことは記憶にハッキリと焼き付いていた。私の全てを変えた夜なのだから。
それまでの生き方も人生も、全てを壊すことになった夜だった。眉間に穴を開けて死んだ保良さんの姿を思い出し、私は強く唇を噛みしめた。
「昔殺し屋だったあの男は急に消息を絶った。彼の持つ情報や金、更には彼自身の腕前を狙って、多くの殺し屋や業界人が血眼になって探した。それでもずっと見つからなかった、あの夜までは。てっきり海外にでも逃げたかと思えば、まさかずっと明星市にいただなんてな」
東雲さんはそう言って微かな笑い声を零した。だがその顔はまるで笑っていない。
保良さんが話してくれたホラ話。その中に混じっていた殺し屋の話。彼が話してくれた物語の中に、真実はどれくらい混じっていたのだろうと今更ながらに思っていた。
「今まで俺は殺すばかりだった。一度として、何かを生かしてみようだなんて考えたことがなかった。人を殺し続けて、いずれは俺も死ぬ」
東雲さんの手がシーツを握る。くしゃりと歪んだ白いシーツと小さく震える拳は、彼の心の内を表しているようだった。
それだけは嫌だったんだ。彼の言葉がそう続ける。
「あの男の言うとおりだった。今まで何人も殺して、何を今更、と思われることは分かってる。だけど、もう嫌だったんだ。誰かを殺すだけの人生なんて嫌だったんだ」
初めて聞く本音だった。これまでずっと、私は東雲さんの背中を見てきた。淡々と人を殺す彼の姿を、冷徹に命を潰していく東雲さんの姿をずっと見てきた。彼は人を殺すことに何も感じていないのだと思い込んでいた。
そうじゃない。そうじゃないんだ。人を殺すことに、誰かの命を奪ってしまうことに、彼が何も思っていないわけがなかったのだ。
こんなに優しい人が、人殺しであることをどれだけ重圧に感じていたか、考えれば分かるはずだったのに。
「お前を生かしてみたかった」
東雲さんの言葉にドクリと胸が鳴った。まっすぐに彼を見つめると、辛そうに細められた目と視線が絡み合う。水が張ったように、その両目は僅かに潤んでいた。
「最初は殺そうと思っていた。目撃者の口封じとして。まさか避けられるとは思ってなくて驚いたが。逃げたお前を追いかけようとしたときに見つけたのが、落ちていた封筒だった」
「私が落とした……遺書、ですよね」
「そうだ。お前が死のうと思って屋上にやってきたことが分かって、思ったんだ」
「何を?」
「あのホームレスの男が言っていた言葉を。どうせなら、何かを生かしてみようと思った。放っておいたら今にも死にそうな人間を救ってみたかったんだ」
ようやく、東雲さんが私を傍に置く理由を理解した。殺し屋の彼が目撃者を意味なく逃すはずなどない。足手まといにしかならない素人を育てるはずがない。
私をずっと傍に置いてくれていたのは、東雲さんにとって一つの賭けだったのだろうか。耐え難い苦しみの続く日常から抜け出すきっかけになるかもしれないと。そんな、彼にとっては些細な思い付きから、私は今ここにいる。
もしもあのとき、保良さんが東雲さんに何も言わなければ? 私がこんな変わった体質でなければ? 遺書を落としていなければ? 東雲さんが保良さんの言葉に何も感じていなかったら?
どれか一つでも欠けていれば、きっと私はあの夜に死んでいた。色々な偶然が重なったから私は東雲さんの傍にずっといることができた。
「でも、もういい」
東雲さんがふっと目を緩ませて私に微笑みかけた。
「もういいって、何が……」
「十分だ。ネコはもう、いらない」
ぐっと喉を詰まらせて目を見開いた。東雲さんは冷たい無表情に戻って、近くから携帯を取る。唖然と口を開く私を無視して彼はボタンを弄りだす。
「帰れ、そして二度と来るな。お前はもう必要ない」
「……どうして」
「いらないからだと言っている。飽きたんだよ、お前には。運び屋を呼んでやるからそれで帰れ。お前を攫いにくる連中もご両親に危害を加える連中ももういないが、しばらく警戒は怠るなよ」
もういないってどうして決め付けられるんですか。そう訊ねても東雲さんは何も返事をしてくれなかった。
焦燥と不安が波立つ。早々に帰そうというのか、東雲さんは部屋の電気を消してベッドから立ち上がった。窓から差し込む月星の明かりだけが仄かに部屋を青白く照らす。
「二度とこの世界に関わるな。お前が完全に関係を断てるよう、手は打っておく」
完全に裏の世界に関わることがなくなる。それは私が殺し屋を辞めることであり、普通の日常に戻ることでもあり……ここで出会った人々に二度と会えないことを意味していた。
東雲さんの指が通話ボタンを押そうとする。このまま運び屋に電話をかけられれば私は家に送り届けられ、二度とここに来れない。
「待って!」
咄嗟に東雲さんの腕に縋り付いた。嫌だ、と首を振って拒絶する。だが次の瞬間彼の腕に乱暴に払われ、耐え切れず手が離れた。そのまま肩を突き飛ばされて、私はベッドに倒れ込んだ。柔らかなシーツに頭がぶつかる。思わず悲鳴を上げて目を閉じ、すぐにまた開いたとき、私の目の前を黒い影が覆った。
「……分かってるのか!」
東雲さんの怒鳴り声にひっと息を呑んだ。ベッドに押し倒された私の上に馬乗りになって、彼は怒りに肩を震わせていた。私の両手首は鬱血しそうなほどに強く掴まれている。
腕に力を込めてもぴくりとも動かない。彼の下から逃れることができない。ただ潤ませた目を見開く私を、東雲さんはなおも怒鳴りつける。
「その気になればいつだってお前をどうにかできるんだ。俺が優しい人間なんかじゃないと、あのとき気が付いたはずだ」
手首にかかる力が一層強くなる。痛みに呻き身を捩ろうとすると、シーツが肌に擦れて音を立てた。
あのとき。何のことだと思ったが、すぐにその意味を理解する。私が誘拐されたときの話だ。あのときの東雲さんの姿。血に濡れたオオカミの姿。
ふと、月明かりに照らされる東雲さんの頬に傷があることに気が付いた。鋭利な刃物で切ったような薄くも長い傷。一度気が付けば、彼の体にはあちこちに傷が見えていた。震える指先に、服の隙間から覗く肌に、喉仏の浮き出た首筋に。
至近距離でハッキリと分かる無数の傷。東雲さんの体はこんなに傷だらけだったろうか? いや、少なくともこの間まで、こんな傷はどこにもなかったはずだ。
「男の家で寝泊まりするってことがどういうことか、分かってないわけでもないだろう?」
彼の手が滑るように私の足に触れた。ひたりと冷たい手の平に、思わず逃げるように身を引く。けれどそれを許さないと言わんばかりに、冷たく大きな手の平は私の肌に触れる。体を固くする私に構わず、東雲さんの手はゆっくりと上に滑ってきた。
「俺が何もしてこないと思ってるのか? 一晩一緒の部屋にいて、何も手出ししてこないとでも? ふざけるな。だったら教えてやろうか、俺がどんな人間か。いくら泣こうが騒ごうが、誰も助けになんて来てくれないぞ」
「東雲さん……」
「しようと思えば今もできるんだ。お前に暴力を振るうことだって、泣かせることだって」
ひやり、と首に冷たい手が触れた。大きな手はそのまま、私の喉に指を回す。緩く力の込められた手。
「殺すことだってできるんだ」
目尻から溢れた涙が一粒、頬を伝ってシーツに落ちた。何も言えずに固まる私をじっと睨みつけていた東雲さんは、長い溜息を吐いて首を振った。部屋に張り詰めていた緊張と畏怖の空気がふっと緩む。
手首の拘束が解かれ、彼の体が離れていく。激情を押し殺したような、淡々とした声色で彼は言う。
「分かっただろう。俺はお前が思ってるような優しい大人じゃない。……大人ですらない」
ゆっくりと上体を起こして東雲さんを見つめる。その視線から逃れたいのか彼は私から顔を逸らした。
東雲さん、と小さな声で呼んでみた。反応はない。押し倒されたせいでしわの寄ったシャツの裾を握ると、更にしわが寄った。
「分かりました」
「ああ」
私の言葉に東雲さんは固い声で答えた。決して、こちらを見ようとはしないまま。
けれどしばらくしても私が去るどころか立ち上がらない気配を感じとったのか、東雲さんは苛立ったような舌打ちをし、渋々といった様子でこちらに顔を向けた。
「どうし……た…………」
途中まで荒げていた声は、急速に尻すぼみして聞こえなくなった。彼の表情が苛立ちから驚愕へと変わる。大きく見開かれた目がこちらを見ている。
彼の視線を感じながら、私は脱ぎ捨てたシャツを放った。ベッドから滑り落ちたシャツは、床に落ちていたショートパンツの上に重なる。暑いとばかり思っていた部屋の空気が、露わになった背中には、少し冷たく感じた。
「東雲さん」
絞り出した声は案外平坦だった。ドクドクと痛いほどに脈打つ心臓と裏腹に。伸ばした手の平を彼の胸に当てる。戸惑ったようで怯えているようにも見える彼の目が、私を見つめる。
手の平に伝わってくる彼の鼓動は、私と似たようなものだった。
「一度猫を拾ったら、最後まで責任を持たないと駄目なんですよ」
「…………わ」
和子、と名前を呼ばれる前に、私は彼に顔を近付けた。一瞬だけの、掠めるような柔らかな感触が唇に触れる。苦い煙草の香りがした。
愛した人との初めてのキス。
嬉しいと思うより。泣きそうになった。
目を見開いたままの東雲さんの胸をそのまま強く押す。仰向けに倒れ込んだ彼の上に跨り、唖然とするその顔をさっきと真逆の位置から見下ろした。肩から下着の紐がズレ落ちる。
「美輝さんのこと。『昔好きだった』なんて、嘘でしょう?」
私は彼に問いかけた。答えが返ってくる前に答えを告げる。
「愛しているんでしょう? あなたは美輝さんのことを、今でも」
過去の人なんかじゃない。東雲さんは今でも美輝さんのことを愛している。不意に見せる彼の仕草や表情は全て美輝さんのことを心のどこかで思っていたからなのだと、今ようやく分かった。本当に、嫌になるほどハッキリと理解できてしまう。彼の些細な仕草さえも見てきた私には。彼が美輝さんのことを忘れられていないことくらい。
否定の言葉を吐こうとしたのか、東雲さんが口を開ける。だがそこから言葉が零れることはなく、声にならない震える吐息だけが吐き出された。
「……どうして傷だらけなんですか?」
問いながら服の隙間から覗く傷に触れる。痛みのせいかそれとも別の何かか、ピクリと身を捩る彼に構わず、私は一つ一つの傷に触れていく。頬の傷、首の傷、腕の傷、それから、それから。
「……………………」
捲り上げた服の中、東雲さんの腹部には痛々しい傷や痣が浮かんでいた。青紫に腫れ上がった肌、皮膚が裂け柔い肉が覗く傷、たくさんの内出血の痕から目を背けたくなる。
どうしてこんなにボロボロなのか。先程の東雲さんの言葉を思い返し、想像した光景に拳を握った。
「誰にやられたんですか? 依頼のターゲット? 自分を狙ってきた人達? それとも……私を襲った人達を?」
私を攫いに来る連中も、お父さんとお母さんに危害を加える人間も、もういない。東雲さんはさっき確かにそう言っていた。何故言い切れるのか不思議だった。東雲さんの首を狙う人達がもういないなどと、どうして。
東雲さんの体にできた無数の怪我。彼の言葉。ゴミ箱に捨てられた血まみれのレインコート。誰とも会うことのなかった間、東雲さんは何をしていたのか。その答えがここにある。
「――俺の周りにいる奴は皆死ぬんだ」
痛切に訴える声で東雲さんは言った。
「父さんと母さんも、ばあちゃんも、美輝も。好きになった人は皆俺を置いて死ぬ。これ以上誰かを好きになったところで、また置いていかれるくらいだったら、いっそ最初から好きにならなければいい」
いつだったか、お墓の前で東雲さんは同じことを言っていた。長い間抱えていた彼の本音がぽろぽろと零れ落ちる。
「お前が殺されそうになったのは俺のせいだ。俺が我儘な期待を抱いていたせいで、お前を無理矢理縛り付けて、あんな目に遭わせた。結局生かすどころか俺が殺しそうになったんだ」
「違う……違うよ、東雲さん」
「俺のせいだ。俺が悪いんだ。これ以上お前を求めていたら、いつかお前が先に死んでしまう。だからもういい、もういいから……お願いだからもう、関わらないでくれ!」
「そうじゃない!」
東雲さんの頭の横に両手を突いた。驚いて肩を跳ねる彼に顔を近付け、泣きそうになるのを堪えて叫ぶ。
「東雲さんはずっと私を縛り付けてるって思っていたんですか? 自分だけが一方的にって? 馬鹿言わないでください。私がどんな思いでこの一年間あなたの傍にいたのか、とっくに気が付いているくせに!」
はぁ、と熱い息を零す。顔が熱い、頭がくらくらする。鼻の奥が痛い。
「あざみちゃんと初めて会ったあの日、あなたは一度私を見限った。きっと期待外れだって思っていたんでしょう? あのときはまだ、あなたは私にそれほど執着していなかったはずです。あのとき私は逃げようと思えば逃げられたかもしれない。でもそれをしなかった。あのときからもう、傍にいることが心地良くなっていた。あなたが私を縛っていたんじゃない。私が自ら、あなたの傍にいたかったんだ」
思いを自覚したのはクリスマスの日。けれどそれ以前から、私は彼の傍にいるのが好きになっていた。最初は恨んでいた彼のことを好きになり始めたのはいつだったろうか。
居場所を求めていただけだったのが、いつしかそれとは別の何かを求めるようになっていた。彼の傍にいることが心地良くもあり、同時に切なく苦しかった。
東雲さんが私を大切に思うようになってくれたのはいつからだろう。最初は私のことだって警戒していたに違いない。自分が恨まれていることも、寝首を掻かれる可能性があることも東雲さんなら承知していたはずだ。血を流すために部屋に上げてくれたことだって、泊まらせてくれたことだって、単なる気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。それとももしかして、東雲さんもまた、一人になりたくなかったのかも。
彼が食事を作ってくれていたのは私が料理が苦手で東雲さんが得意だから、という理由だけじゃない。薬や毒が盛られる可能性があったからだろう。けれどそのうち、私が作った不味い手料理を彼は食べてくれた。ホットミルクを飲んで美味いと言ってくれた。
私も東雲さんも、お互いのことを好きになっていた。
その『好き』の意味は、きっと違うけれど。
「……代わりでいい」
ぽつりと呟いた。東雲さんの頬に、涙が一滴落ちる。
「代わりでいい。美輝さんの代わりでいいから。だから、どうか……。私にあなたを守らせて」
お願いします、と懇願した。東雲さんの頬を撫でる。ぽたり、ぽたり、と落ちていく雫で彼の頬は濡れていた。
「あなたのことを愛してるんです、東雲さん」
東雲さんの目尻から、一滴の雫が流れ落ちた。それが私の涙なのか、彼の涙なのか、分からなかった。
愛してくれなくてもいい。誰かの代わりでもいい。ただ、誰よりも優しくて誰よりも弱いあなたを、守らせてほしい。
今度は私があなたの居場所になるから。
私を好きにしてください、と彼に告げた。数秒の間を置いてから掠れた声が、いいのか、と問うてくる。小さく、そして確かに頷いた。
「あなたになら何をされたって構わない。殺されたっていい。……あなたと二度と会えないくらいなら、最初から生きている意味なんてないんだから」
東雲さんに拒絶されるくらいだったら死んでしまおうと本気で思っていた。今夜、彼から突き放されたら、そのときはと。初めてのキスは一年先輩にあげてしまった。これ以上誰かに私を奪われてしまうのなら、だったらせめて最初の人は、この人がいい。
私の意志の強さが伝わったのだろうか。東雲さんは苦しそうに顔を歪め、私の頬に手を伸ばす。愛おしむように優しく。
「好きにしていいんだな」
覚悟を決めて頷いた。身を固くして震える私に、そうか、と一言吐いて東雲さんは私の体を引き寄せる。
東雲さんの唇が私の頬に触れた。あっさりとした感触なのに、灼熱が弾けたような衝撃に身を震わせる。けれど、東雲さんは傍に放っていたワイシャツを私の体にかけ、そのまま私の体を優しく抱きしめた。それ以外何をするでもなく、ただ一度の口付けをしただけで、彼の手は私に触れてこない。
おずおずとぎこちなく彼の顔を見つめる。ふっと柔らかな笑みが、私に注がれていた。
「今日はこのままでいい」
茫然と彼の顔を見つめた。じわじわと表情が崩れていくのを自分で感じる。熱く震える喉に耐え切れず、私は声を上げて泣き出した。
どうして、と疑問をぶつける。どうして何もしてくれないの。どうしてこんなに優しくしてくれるの。それが私の喜ぶことだと、本気で思っているの。
「私に魅力がないんですか。子供だから、何もしてくれないんですか」
「違う」
「……私じゃあ、代わりになれないの?」
彼は答えなかった。ただ黙って私を抱きしめる手に力を込めた。大好きな東雲さんの匂いに包まれながら、込み上げる悲しみに唇を噛む。
「今はそんなことしたくない。俺はお前にただこうしていたいんだ」
続けるように東雲さんは、これからも一緒にいてくれるか、と不安気な声で訊ねてきた。ずるいなぁ、と思わず声に出して訴える。分かっていると言いたげに、彼は泣きそうな顔で微笑んだ。
大きな手の平に、背を撫でられる感触に、どうしようもなく胸が熱くなる。嬉しいのに、同じくらいに悲しかった。
「ずるい、ずるいよ……東雲さんの馬鹿、意気地なし」
「その通りだ」
東雲さんの胸に顔を埋める。ぐすぐすと泣きながら、壊れた機械のように何度も何度も頷いた。
「好き、好きなんです。東雲さんが好きなの。好き……」
今まで隠していた思いの丈をぶつけるように、何度も同じ言葉を繰り返す。好き、好き、好き。
東雲さんは悲しそうに細め、優しく愛おしむような声で私に囁いた。
「大好きだよ、和子」
東雲さんはもう一度、私の頬にキスをした。唇にはしてくれなかった。
涙で潤む目を向ける。複雑な思いを胸に抱きながら、私は黙って東雲さんを強く抱きしめ返した。
白い日差しが顔に注がれる。ぼんやりと開けた目で、カーテンの隙間から差し込む朝の光に瞬いた。
ぼうっとしたまま視線を巡らせる。と、着慣れないワイシャツを羽織っていることに気が付いた。自分の手が、東雲さんの服を握りしめていることにも。
昨夜の出来事を一気に思い出した。一晩中東雲さんに抱きついてしまっていたのかと、焦りながら顔を上げた。
「東雲さ…………」
途中で言葉が途切れる。すぐ目の前にある東雲さんの顔、その両目が閉じていたからだ。私の声に反応して目を開けることもしなければ、言葉を返すこともない。静かな呼吸が聞こえるのみだった。
目を丸くして東雲さんの顔を見つめる。恐る恐る、今度は更に潜めた声で彼の名を呼んだ。反応はない。ただ、安らかな寝顔がそこにある。
後悔や悪夢のせいで、東雲さんは上手く眠ることができないはずだった。信頼できる人が傍にいなければ。それなのに、今の東雲さんは悪夢を見ている様子でも、魘された様子でもない。穏やかで、柔らかな表情をしていた。
「東雲さん」
込み上げてくる感情に、また目に涙が溜まる。起こさないようそうっと彼の胸元に頬をすり寄せた。
美輝さんの代わりにはなれない。彼に愛されることもできない。それでもいい。それでもいいから、今だけは。
「大好き」
一日が始まる前の白く柔らかな日差しが差し込む部屋の中。私は大好きな人の隣で、心地良い幸せに微笑んだ。




