第72話 彼が殺し屋になるまで
誰かの絶叫で目が覚めた。飛び上がるように体を起こし、汗で濡れたシャツの胸元を掴みながら荒い呼吸を繰り返す。心臓がバクバクと激しく鼓動している。そこでようやく、叫んだのが自分であることを思い出した。
もう何度目だろう。眠りに着くたび悪夢を見るようになったのは。初めて人を殺した日からずっとだ。眠れば必ず悪夢を見る。横たわって目を閉じる祖母の白い顔だったり、悲しそうな目で俺を見つめる美輝だったり、血の中に転がる根元の死体だったり……。
夜が怖い。眠くなるのが怖い。夢を見るのが嫌で起きていようとしても猛烈な眠気に襲われ、うっかりうとうとしてしまえば悪夢を見て跳ね起きる。毎日がそんな調子で、日常生活にも支障が出始めていた。
もはや俺にとって唯一の支えは冴園だけだ。あの夜、電話をしてすぐ駆けつけてくれた冴園は、俺がやってしまったただ事ではない状況に顔を青くさせながらも、何とかするからと言ってくれた。彼の言葉を信じ、俺は自分の部屋で一人震えていた。根元の死体がどうなったのかは分からない。冴園が何をしてくれたのかは分からない。ただ翌朝も、その次の日も、銃殺死体が発見されたというニュースは報道されなかった。
何事もなかったかのようにこれまで通りの日々を過ごす……ということはできなかった。殺人という重罪を犯してしまった事実、悪夢で眠れないことによる睡眠不足、いつ警察がやってくるか分からない恐怖。仕事先でもぼんやりすることやミスが増えた俺に、店長が目を付けないわけがなかった。
そもそも店長には封筒を渡して以来まともに話していない。俺の方が避けているからだ。だがこのままだといつ説教をされて根元のことも聞かれるか分からない。もし店長に全てがバレてしまったら? そう思うと、全身に冷や汗が滲む。
眠りたくても眠れない、疲労が溜まっていく。何故だか目尻に浮かんだ涙を隠すように、顔を枕に押し付けた。
結局朝まで一睡もできなかった。重い瞼を擦りながらぼうっとしていると、突然携帯の着信音が鳴り響いた。肩を縮め、素早く携帯に手を伸ばす。表示されている番号は非通知だった。
非通知で電話をかけてくるような奴は身近にいない。誰だ、もしかして、警察か。緊張に指先を震わせながら、こわごわ携帯を耳に当てた。
「も、もしもし」
『もしもし、こんにちは』
聞き覚えのない男の声だった。間違い電話かもしれないという考えは、東雲咲さんで合ってるかな、と続けられた言葉で掻き消えた。
俺の名前を知っている。誰だ。こんな声の主に覚えはない。せり上がる焦燥感に唾を飲み、肯定の返事をする。ああ良かった、と軽い声で言って通話相手は続けた。
『俺はオウム。君と話がしたくて電話をかけたんだ』
「オウム? ……いや、その前に、あなたは誰なんだ。どうして俺の電話番号を知ってるんだ」
『君のしたことで話があるんだよ』
彼は俺の問いに答えなかった。だが、俺のしたこと、という単語に息が詰まる思いがする。俺がしたこと。そんなの、心当たりは一つしかない。
心のうちを見透かしたように、分かってるだろ? と告げられる。
『電話で話すのもあれだから、今夜にでも一度会おう。場所は第七区にある「お喋りオウム」、時間は午後八時くらいで。細かい場所の地図を送っておくから、それを頼りに来てくれ』
「ま……待て、待ってくれ。そんな、急に話とか言われても……!」
行きたくない。彼が何者かは知らないが、良い内容の話じゃないことは確かだ。嫌な予感がひしひしと伝わってくる。けれど尻込みする俺を馬鹿にするように、彼は笑って続けた。
『断れる立場か?』
携帯を握る手に力がこもる。ぐっと唇を噛み、目を閉じて唸った。
今俺が持ちかけられているのは提案ではない。脅迫だった。
第七区に来るのは初めてだ。駅を出てすぐ、大通りに広がる蛍光色の光に圧倒される。どこもかしこもピンクや紫のネオンの輝き。いわゆる風俗街といった所を通るのは初めてで、元々神経質になっていたところに更に緊張が上乗せされる。早足で歩く俺に、何人かスーツを着た男性や露出の多い服を着た女性が声をかけてくる。怪しい勧誘を無視し、逃げるように俺は路地裏へと入った。
裏路地は大通りとは別世界だった。きらびやかな光はなくなり、ゴミと吐瀉物と汚れが散乱している。道も狭く薄暗い。こんな所で誰かに襲われたらひとたまりもないだろうと、七区の治安の悪さを思い、眉間にしわを寄せた。
携帯に送られてきた地図を頼りに路地を進む。何とか無事に辿り着いた先にあったのは、レンガ造りの小さな建物だった。扉の上にぶら下がっているオレンジ色の電球が明るく足元を照らしてくれる。照らされた先、足元に立てられた看板があった。クッキリと浮かぶネオンの文字。『「お喋りオウム」結婚相手の身元調査から、ストーカーの対策まで。何でもお気軽にご相談ください』。
興信所か、とここで初めて悟った。市場調査や信用調査といった情報を探る仕事。ならば俺の名前や電話番号を知っていたのも当然だろう。そこまでされたのなら、住所だって既に特定されているはずだ。オウム、だなんてふざけた名前を言われたものだからてっきり鳥カフェなどの類だと思っていたが、予想していたより遥かにまずい状況のようだ。
深呼吸をして扉を開けると、訪問の意を告げるベルの音が響いた。オレンジの明かりに包まれた店内は広く綺麗だった。ダークブラウンの木家具、壁に向けて設置される書類の収められた棚、高級そうな赤いソファー。カフェで流れるような落ち着いたジャズが流れ、所々に飾られたアンティーク雑貨と相まって大人向けのバーのような雰囲気を漂わせていた。
部屋の奥にあるカウンター。そこに座っていた一人の男が、ベルの音に気付いて顔を上げる。
「こんばんは、東雲さん」
今朝電話で聞いた声だった。入口の前に突っ立ったまま肩を張る俺に、まあお座りよ、と椅子を促してくる。カウンターを挟んで向かい合うように座るが、俺は気が休まらないまま視線を泳がせていた。
思っていたより大分若い男だった。年の頃は二十代前半から中頃だろうか、俺とさほど離れている感じではない。オレンジ色の明るく染まったハーフアップが一層若々しさを醸し出している。
さて、と男が朗らかな笑みを浮かべて言った。
「改めて初めまして。俺は如月当真、このお喋りオウムの店主をしている」
どうぞよろしく、と強制的に握手をされた。店主、という言葉を繰り返す俺に、如月は肩を揺らすようにはにかむ。言外に含んだ、こんなに若い奴が、という意味を感じ取ったのかもしれない。
「先代の祖父が亡くなってね。跡を引き継いだ俺が店主として務めている。まあ、どっちにせよ店員なんて一人もいないけどな。安心してくれ、これでも中学時代からここで働いている。腕は確かだ」
はぁ、とぼんやりとした返事をしてからべらべらと喋る如月を見つめる。若いうちに店主を務めているだとか、一般企業に勤めた父の代わりに祖父の技術を引き継いだのだとか、そういったことはどうでもいい。このままくだらない話を続けていても終わりがないだろうと、渋々俺から話を切り出すことにした。
「…………それで、あの。俺を呼び出した理由って」
「死体の件だね」
直球だった。心構えはしていたものの、ギクリと肩が強張る。
如月は取り出した電卓をカウンターの上に置き、軽快に指を躍らせて計算を始めた。
「死体処理のために呼んだ掃除屋。情報漏洩を防ぐために使った分、目撃者の対処、仲介料……その他諸々。占めて、合計はこれくらいだな」
指を止め、彼は電卓に表示された数字を見せてきた。ギョッと目を丸くして電卓を凝視する。俺の給料数ヵ月分だ。何だこれは。困惑しつつ、こんなに払えない、と声を荒げてカウンターを叩いた。
「こんな大金払えるわけないだろ! そもそも、何だよ掃除屋とか対処って? 俺を呼んだのは警察に引き渡すためじゃないのか?」
言葉を聞く限りでも、この興信所が根元の死体を隠蔽し、死体が出たという事実を揉み消したのだろうと悟っていた。ニュースにならなかったのもこのためだろう。
だけど何故興信所がそんなことをしているんだ。どうしてよりによって俺の殺人を隠してくれたんだ。
俺の疑問を読み取ったのかもしれない。教えてやろう、といたずらっぽく微笑みながら如月は口を開いた。
「この『お喋りオウム』はただの店じゃない。表向きは興信所、裏では仲介業者兼情報屋として働いているのさ」
「裏? 情報屋?」
「……あんたはいい友人を持ってるみたいだな。死体を隠す方法を必死に探して、あんたの友人もここに辿り着いたんだろうよ」
冴園だ、と瞬間的に理解した。あいつは俺のために死体をどうやって隠すか必死に考え、この店に辿り着いたのだろう。
情報屋、仲介業者、裏の仕事……。聞くだけで怪しいにおいしかしない。実際死体を隠すことのできる人間達の集まりだ。おいそれと関わっていい人々ではない。だが彼のおかげで俺の罪が隠せたのだろうことは事実だ。もしもここがなければ、今頃とっくに警察が家にやって来ていただろう。
「死体隠蔽を依頼してきたのはご友人だ。だが実行したのはあんただろう? なら、自分で責任を取らなきゃな」
「それは、そうだけど……でもこんな大金持ってない。三ヶ月、いや二ヶ月待ってくれ。そしたら給料でなんとか」
「金のやり取りは即日じゃないと信用を失うぞ。こちらとしても気が長いほうじゃない。悠長なこと言ってられないな」
じゃあどうすればいいんだ。借金をするわけにもいかないし、かといって仕事を詰め込もうにもこれほどの金額をすぐ稼ぐことなど不可能だ。
良い考えが思い浮かばず俯いて拳を握る。と、助け船を出すかのように如月が言った。
「一発で返済できる方法はあるよ?」
本当か、と目を丸くして顔を上げる。ニヤリと口角を吊り上げた彼の笑みは、どことなく根元を思い起こさせた。簡単さ、と彼は続ける。
「俺と契約を結ぼう。どうせもうあのドラッグストアで仕事を続けられないだろう。自分でも分かってるはずだ。俺が仕事を紹介してやる」
どこかで似たような台詞を聞いた気がする。いや、どこかじゃない、つい最近の話だ。忘れるはずがない。
だが迷ったのは僅かな時間だけだった。ごくりと唾を飲み、如月に問う。
「仕事は、何をすればいい?」
「殺人を」
掠れた息が唇から零れる。殺人、と上擦った声で聞き返した。
「馬鹿言うな! 殺人の代金を殺人で支払うだなんて、そんなの……!」
「そっちこそ馬鹿言うな」
如月が俺の言葉を繰り返す。笑みの消え、暗い色を落とした目が俺を見つめていた。
「一度人を殺したらもう終わりなんだよ」
夜も遅いというのに、電話を鳴らすとすぐに冴園は出てくれた。
『もしもし?』
「冴園……」
聞き慣れた声にほうと息を吐く。緊張に張り詰めていた心が一時でも、その琴線を緩ませた。不躾な時間帯の電話にも関わらず、どうしたんだ、と冴園は心配そうな言葉をかけてくれる。
『まだ上手く眠れないのか? 今から、そっちに行こうか』
「いや、大丈夫だ」
冴園といれば悪夢を見ない。祖母のことも美輝のことも根元のことも忘れて、夢を見ることなく朝まで眠ることができた。それは長年共にいて彼を信頼しているからなのかもしれない。今まで散々助けてくれたことからの安堵を抱いているからなのかもしれない。
最近は特に眠ることができていなかった。今も、気を抜けば倒れてしまいそうなほどに体がだるい。だが何度も冴園に頼ることはできないだろう。
「少し声が聞きたくて」
『はは、何だよそれ。……じゃあ少し話そうか』
俺の言葉に笑って、他愛もない話をしてくれる冴園。いつも通りの明るい声色とおどけた調子。だがそれが俺を心配してくれているからこその声なのだと、空気からひしひしと伝わってきた。
ひとしきり話し、お互いに笑い、時間が過ぎていく。ふとかなりの時が過ぎていることに気付き、そろそろ切ろうかという頃になった。
「ありがとう、おかげで楽になった」
『それは良かった。眠れなかったら、また電話しろよ』
「……冴園」
『ん?』
「ごめん」
返事を待たず通話を切った。そのまま携帯の電源を落とす。羽織っていたコートのポケットに突っ込んで、靴を履くために玄関へと向かった。
悪いと思っている。俺のために色々してくれたのに、必死で駆け回ってくれたのに。結局俺は、それを裏切る形になってしまった。
ごめんなさい。独り言として呟いた声は、微かに震えていた。
繁華街から外れた狭い路地は、俺が今いるマンションの屋上からハッキリと見下ろすことができた。路地を通る人影はまだいない。虫の音、風の音。それ以外は聞こえない静かな夜だった。
今夜は比較的風が吹く涼しい夜だ。だが屋上の床に腹這いになって寝そべる俺の全身は酷く熱く、じわりと頬に汗が浮かんでいる。心臓は脳にあるのではないかと思うほど、鼓動の音は大きく激しく聞こえていた。
ずっと握りしめていた銃は手の熱でぬるい。狙撃用だと言って渡されたそれの先には、黒い筒のようなものが取り付けられている。音を消す装置だとか言われた気がするが、よく分からない。全て分かってはいなかった。銃の詳しい扱い方も、今の状況も、何もかもを。
ターゲットはこの男だ。思い返されるのは、そんな如月の言葉と一枚の写真。差し出された写真に写っていたのはどこにでもいそうな中年の男で、隣に若い女を連れて街を歩いている一枚だった。
浮気を繰り返し妻に殺害依頼を受けた。如月の説明に、そんな些細なことで自分の夫を殺すのかと驚愕した。彼が言うには、人を殺すのに重い理由はいらないのだそうだ。些細なきっかけでさえも命を奪う理由になりえるのだと。
ターゲットにされた男を殺すのが俺の仕事だった。
路地に人影が見えた。それがターゲットである男だと認識した途端、俺の全身はぶるりと大きく震えた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。冷静にならなければ全てが台無しだ。だが、脳にそう言い聞かせたところで全身の震えは止まらない。カチカチとなる歯の音が、男にまで聞こえてしまうのではないかとさえ思った。
震えのせいで銃口が定まらない。照準が大きく揺れる。このままだと男が去ってしまうという焦りに、僅かに目が潤んだ。はぁ、はぁ、と息が荒くなる。何もしていないのに視界がぼやける。落ち着け、落ち着け、落ち着け。
ふと思い出したのは懐かしい記憶だった。
高校のときの夏祭り。冴園と美輝、三人で行った七夕祭り。ゆらりと泳ぐ金魚、花火と着物、金平糖の瓶。
あのときの射撃のように、俺は銃を構えて息を吸った。一瞬、照準が定まる。
狙うは遠くに見えるあの金平糖の瓶。
――――引き金を引いた。
カシュッと予想よりも小さな発砲音がした。手に伝わる反動も、大分小さい。照準を覗いた先で瓶が――男が石に躓いたかのように前のめりに倒れたのが見えた。やった、と目付きを鋭くしてしばらく男を観察していたが、数秒経っても彼が立ち上がる様子はなかった。
遠いうえに辺りが暗すぎて血が出ているのかどうかもよく見えなかった。それでもスコープ越しに男を観察しようとするも、ドクドクと脈打つ心臓の音が激しくなっていき、また手が震え始める。
堪え切れずにその場から立ち上がった。銃をラケットケースに仕舞うこともせず、ぞんざいに掴んで屋上から逃げ出す。階段を駆け下りて裏口を飛び出すと、目の前に停まっていた車の扉が音もなく開いた。乗り込むとすぐに扉は閉まり、行き先も告げぬうちに運転手は無言で車を走らせた。如月が手配すると言っていた運び屋の車。
深夜とはいえ駅前にはぽつぽつと明かりがあり人通りも見えた。警察が窓ガラスをノックして俺に警察手帳を突き付けてくるのではないかと不安が過ぎる。フードで顔を隠し、街の仄かな明かりから目を伏せた。
再び如月に呼び出されたのはそれから僅か数日後のことだった。怖々ベルを鳴らして入ってきた俺を、如月は両手を広げて歓迎する。
「初仕事完了おめでとう!」
何と言っていいか分からず黙っていると、如月は俺を手招きして何かを放ってきた。思わず空中でそれを受け取って眺める、細長い茶封筒だ。封を解いて中を覗くと数万円分の金が入っていた。首を傾げている俺に、初給料だ、と彼は言う。
「支払い分を差し引いた、あんたの初給料だよ。――にしても凄いじゃないか、初めてなのにあの距離から一発で仕留めるなんて」
当たらない確率の方が遥かに高かった仕事。俺が教わったのは基本的な撃ち方と狙い方くらいの付け焼き刃の知識だけで、それだけで殺人を行うだなんてありえない話だった。今回は偶然上手くいったものの、こいつはもし俺が失敗していたらどうするつもりだったのだろう。ターゲットがどうなるにしろ、俺の扱いは更に酷くなっていただろうことは確かだが。
自分の顔色が曇るのを感じた。今、如月は一発で仕留めるなんて、と言っていた。無意識にシャツを握り、しわを寄せる。
「……やっぱりあの人は死んだのか」
「当たり前だろう? 自分がやっておいて何を今更。今度からは、ちゃんと確実に仕留めたかの確認もよろしくな」
弾かれたように顔を上げた。愕然と目を張って、呆けた声を零す。
「今度?」
「ああ、今度」
「……まだ、やらなきゃいけないのか?」
寝ぼけているのか? と如月が呆れたように手を振って俺に身を乗り出してきた。
「仕事の契約を結んだって言っただろう? 俺はこれからもあんたに仕事を紹介するし、あんたはこれからもここで仕事を続ける。普通の企業でもよくあることだろう」
「だ、だって、こんなの一回きりだって!」
「誰が一回で終わると言った。一発で返済はできると言っても、稼ぐには今後も働き続けていかなきゃいけないだろうが。こっちで頑張ってもらうよ」
「こっち、って」
「裏の世界で。殺し屋として」
サァッと血の気が引いていく。眩暈がして立っていられない、怖気が走る。根元が言っていた殺し屋。それが、今の俺の立場なのか。
震える手で握り締めていた封筒を如月に突き返す。激しく首を振り、拒絶した。
「いらない、こんなのいらない! だから、殺し屋になんかならない!」
「ふざけたことを。二人も殺しておいて」
二人、という単語に息を呑む。如月が封筒を突き返す俺の手首を引っ張った。倒れるようにカウンターへと肘を突いた俺の耳元で、如月はまるで呪詛のように言葉を紡ぐ。
「一人目は衝動的にだとしても、何故二人目を殺した? 俺の指示にどうしてこうも素直に従った? 何故、自分から意図して人を殺したんだ?」
「だ……だって、金を返さなきゃって……だから…………っ」
「借金を返すためにこうも簡単に人を殺せるんだな」
お前が言ったのだろう、と叫びたかった。涙を浮かべた目で鋭く如月を睨み付ける。だが如月の冷たい目はそれ以上の迫力を孕んでいて、何も言えずに唇を噛んだ。
「薄々思っていたんじゃないのか? これくらいで借金を返せるんだったら一人くらい殺してもいい。どうせ自分はもう、既に人を殺したことがあるのだから、なんて」
反論はできなかった。黙り込んで、如月の言葉を脳内で反芻する。
如月が一枚の写真を取り出して俺の目の前に置いた。否が応でも写真に目を向けてしまう。映っていたのは死体だった。頭部から流れる血、大きく開けた歪んだ口、赤く染まった頭部の一部から零れているのは、ピンク色の……。
雷に打たれたような衝撃が走る。うっと口を押え、胃から込み上げてくる吐き気を必死に堪える。吐くなよ、と如月の冷たい声がどんどん遠ざかって聞こえるような気がした。咄嗟に如月の手を振り解いて後ろに逃げようとして、足をもつれさせて床に崩れ落ちる。嗚咽を繰り返し、涙をだらだらと流して床を雫で濡らした。
ターゲットだと言われた男だった。間違いなく死んでいた。俺は確かに彼を殺したのだ。自らの手で、自らの意思で。
根元を殺した。だからもう、あと一人くらい殺したところで今更殺人の罪が消えるわけではないと思っていた。だから如月の提案にも素直に乗ってしまった。違う、違ったんだ。一人を殺したからといって、更に殺していいわけじゃないのに。何人だろうと人を殺すことは許されないことなのに。
どうして、どうしてこんな簡単なことも忘れていたんだ。
「言っただろう。一度人を殺したらもう終わりだって。もう二度と戻れない」
俺の考えを見透かしたかのように如月が言った。
彼の言う通りだ。俺はもう、戻ることなんてできない。
「あ…………あぁ、あ……ああぁああぁあぁっ!」
子供のように大声で泣き出す俺を、如月はどうでもいい存在を見るような目で見下ろしていた。顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚こうが後悔しようが、もう何もかもが遅すぎた。もう戻れない。二度と戻れない。
ああ、ばあちゃん、美輝。どうして二人とも死んだんだ。どうして俺を置いていってしまったんだ。
どうして、俺を連れていってくれなかったんだ。
「助けて…………」
それは誰に向けて言った言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
「――――次の依頼は?」
カウンターに座る如月に開口一番訊ねる。彼はチラリと俺を一瞥してから、薄い書類を手渡してくる。依頼料などの情報と共に、公園の枯れた噴水に座る、薄汚れた服装の男の写真が載っていた。隠し撮りされたらしい写真の中で、男は楽しそうな笑顔を浮かべて隣に座る誰かと話している様子だった。隣の人物は見切れていて分からない。
「第四区に住んでいるホームレス。そこのリーダー格の男の殺害を」
「ホームレス? 近隣住民から景観を損ねるとでも苦情が来ているのか」
浮浪者をターゲットにした依頼はこれまでに数回受けてきた。そのほとんどは景観を損ねるだの、悪臭被害が出ているだのという近隣住民からの依頼だった。
今回もそういったものかと思っていたが、如月は頸を振って否定する。
「いいや、実はその男は元殺し屋でね」
「元殺し屋? このホームレスが?」
「今はそれでも腕の立つ男だったんだぜ。オオカミも聞いたことはあるだろう?」
如月が続けて言った動物の名前になるほどとうなずいた。その名前は効いたことがある。俺が殺し屋になるより前、数々の依頼をこなして名を上げていたと言われてる。
生き物の名前を仕事名にする。この業界ではそんな暗黙のルールが広まっているが、その発端となったのもこの男だと言われていた。それにつけても何故、生き物の名前を自分の通称にしようだなどと考えたのだろう。命を奪う側の人間が、生命のある物の名前を名乗るなど、皮肉にも程がある。
オオカミ。俺をそう呼び始めたのは誰だろう。殺し屋として生き初めて数年、いつからか俺は、オオカミと呼ばれるようになっていた。鋭い目つき、人を寄せ付けない冷たい雰囲気、冷静で獰猛な狩りのような腕前……。全部違うのに。目が鋭いのは生まれつきのコンプレックスで、人を寄せ付けないのではなく上手く人と接することができないからで、冷静かつ素早く動かなければ自分が死ぬからというだけで。オオカミなどという強い生き物の名前で呼ばれるのはあまりにもおこがましいことだった。
「元殺し屋か……」
「やっぱり気になるか。その殺し屋がどうして今ホームレスをしているのか、どうして殺害の依頼が今頃来たのか」
当然気にはなる。だが俺は顎を引き、いや、と否定の言葉を吐いた。
「関係ない。俺の仕事は、ただこの男を殺すだけだ」
依頼を受ける以上必要なのはそれだけだ。男の事情も依頼主の事情もどうでもいい。
一応元殺し屋を相手にするならばちゃんとした準備がいるだろう、などと脳内で計画を練っていると、如月がにわかにくすりと笑った。怪訝な視線を向けると、彼は肩を竦めて言った。
「随分変わったなぁと思ってさ、お前も。最初にここに来たときは泣きながら怯えてたのに」
「うるさいぞ」
「はいはい。……ああ、そうだオオカミ」
「何だ」
「興味がないにしろ一度彼に聞いてみるといい、殺し屋を辞めた理由なんかをな」
依頼を受け取って外に出ようとしていた体を止め、眉根を寄せて如月を見下ろす。何故、と冷たく吐き捨てる。
「そんなことを聞く理由はない。そもそも、これから殺しに行く人間に素直に教えてくれるものか」
「情報屋として知っておきたいんだよ。聞けたらでいいからさ。それに、案外簡単に教えてくれるかもよ? この仕事をしていたんだったら尚更、殺し屋をしている人間に話しておきたいこともあるかもしれない」
まあ頼むよ、と手を振る如月から目を逸らして外に出る。呼んでから数分も経たずに来た運び屋の車に乗り込んで目的地である第四区へと向かう。ほとんど無音で走るこの車に乗ることももう慣れてしまった。防弾ガラス仕様の窓から見える夜空、浮かぶ星明かりに目を細めた。
初めて人を殺したときから随分と変わってしまったのは、自分でも分かっていた。人を殺すことに何も感じなくなってきていたが、それ以外の神経もすり減っているような気がしていた。段々笑えなくなって、泣けなくなった。殺し屋としては一人前なのかもしれない。だが人間としてはもう終わってしまっている。
殺し屋というのは皆こんな風になってしまうのだろうか。仕事をしていく中で出会った人々、人魚と呼ばれる真理亜も、白ウサギと呼ばれる仁科も、皆疲れきって荒んでいた。殺しているのはこちらなのに、皆まるで死んでいるみたいだ。
でもこれから殺しに行く男は? 殺し屋時代の彼も、今の俺と同じように虚ろな目をしていたのだろう。だが写真に写っていた彼はとても幸せそうな笑顔だったじゃないか。殺し屋を辞めた理由、それを聞けば俺にも分かるだろうか。幸せそうに笑う方法を。
もしも、それが分からなかったら。
そのとき俺は。
「……………………」
車窓から見える夜空には無数の星が輝いている。美しく瞬くその星が。今の俺には、ただただ眩しかった。
この夜に俺が出会ったのは元殺し屋だった一人のホームレス。
そして、猫によく似た死にたがりの少女だった。




