第71話 初めて人を殺した日
美輝がいなくなったと報告されたのはそれから三日後のことだった。土日を挟んだ月曜日の朝、ホームルームが始まり、難しい顔をした担任が挨拶もそこそこに突然だが聞いてほしい、と皆に言った。続け、この休日に星空と連絡を取っているものがいないかと訊ねてくる。
家の用事ということで一週間ほど休みをもらっている最中の彼女。俺が最後に会ったのは金曜日、七夕の日のことだ。それから今日まで美輝とは連絡を取っていない。生徒達の怪訝な視線を受けながら、担任は言った。
「実は彼女が行方不明になったらしい」
途端に教室がどよめいた。唐突な言葉に俺も目を丸くして担任を凝視する。委員長が立ち上がり、どういうことですかと驚いた声で聞いた。
「親戚の家に行く予定だったみたいなんだが、予定の時刻を過ぎても現れなかったらしい。連絡もなく、夜まで待ってみても連絡が取れない。もしかしたら事件に巻き込まれた可能性があるかもしれない」
「事件って例えば?」
「誘拐とか交通事故とか……何だ、色々あるだろう。とにかく、もし星空と連絡を取った者がいたら教えてくれ」
騒めく教室で皆が顔を見合わせる。だが、一人として担任の言葉に挙手をする者はいなかった。俺は半ば信じがたい気持ちで冴園の座る方向に顔を向ける。彼も驚いている様子で、口元を手で覆って目を見開いていた。
ホームルームが終わってから担任は俺と冴園を職員室に呼び付けた。授業の準備に追われる先生方の視線を感じながら、担任の席の前で話を聞かれることになった。
「お前達二人は特に星空と仲が良かっただろう。彼女のこと、何か知らないか?」
「そう言われても……行方不明って、何かの間違いじゃないですか?」
突然行方不明だなんて言われたところで納得できるわけがない。事情を聞かれようが、俺の頭には困惑しか浮かんでいなかった。
隣で俯く冴園もきっと俺と同じ思いのはずだ。先生の言っている言葉が、冗談にしか聞こえない。
「新幹線を乗り間違えたとか、携帯の充電が切れたとか、きっとそういうのですよ」
「それにしたって一日以上あれば連絡は取れるし、目的地にも戻れるはずだ。土曜日の朝に着く予定だったんだからな」
「でも…………」
「やっぱり事件に巻き込まれているのかもしれない。……もしかしたらもう、戻ってこな」
担任が自分の失言にハッと言葉を呑みかけたのとほぼ同時、俺の真横から荒々しく机を殴り付ける音が聞こえた。
「違う!」
騒がしかった職員室が水を打ったように静まり返る。驚きに目を丸くする俺と担任の前で、冴園が肩を怒らせて足元を睨み付けていた。
強く握りしめられた拳が震えている。違う、ともう一度繰り返して、冴園は声を張り上げた。
「美輝が行方不明だなんて、そんなはずがない……いなくなるはずがないんだ!」
ビリビリと空気を振動させる大声。茫然としていた先生達が次第に冴園に対し不審の目を向けてくる気配に気付き、俺は焦って冴園の肩を掴む。
「お、おい。どうしたんだよ冴園。落ち着けって」
「違う、違うんだ! あいつが、いなくなるなんて、戻ってこないわけがっ!」
「……佑!」
名前を叫ぶと、我に返った冴園が振り向いて俺を見た。わなわなと震える唇が何かを言おうとして言葉に詰まっているように空気を吐き出す。騒めきだした先生達に一礼を残し、冴園の手を掴んで逃げるように職員室を出た。
人気のない階段の踊り場にやって来て冴園に向き直る。先程までの威勢はどこへやら、彼はぼんやりと俯いていた。
「大丈夫か? 何があったんだよ、なぁ」
不安気に揺れる瞳が俺を見つめ、逸らされる。視線を逸らしたまま冴園は静かに呟く。
「挨拶に行くだけだって言ってただろ」
「ああ」
「だって美輝、言ってたじゃないか。俺達を置いてどこにも行かないって……。なぁ、言ってただろ……」
冴園の言葉は尻すぼみしていき、遂には噛み殺した嗚咽が混じる。あまりにも動揺している冴園の姿にこちらまで狼狽えてしまう。
美輝がいなくなったことだって担任から説明されただけに過ぎない。どうせ担任の勘違いに決まっている。もしくは待ち合わせ場所を間違えていたとか、携帯の電波が届かない所で立ち往生してしまっているとか、きっとそんなことだ。
そう言って冴園に笑いかけると、彼はゆっくりと大きな溜息を吐いた。潤んで赤くなった両目を細め、冴園は静かな笑みを浮かべて言った。
「そうだよな。戻ってくるよな、美輝は」
「ああ、戻ってくるよ」
そうだな、ともう一度言って冴園は笑った。作ったように見える笑みだった。
現実から目を背けていたのは俺の方だった。今にして思えば、きっと冴園は最初から気が付いていたのだろう。お気楽に見えてクラスの中でも一番敏い奴だった。きっと話を聞いたときから、分かっていたに違いない。
明星市で行方不明になった人間がどんな末路を辿っているかということを。美輝が本当に事件に巻き込まれたのだということを。
もう二度と、会えないだろうことも。
秋が来て、冬が来て、そうしてまた春がやって来る。
いつものように騒がしい教室も、今日はどことなくしんみりした空気に満ちていた。皆の笑顔に、会話に、仄かな悲しみと名残り惜しさが含まれている。
高校の卒業式はつつがなく終わった。最後のホームルームも終わり、もう帰る以外することはないものの、まだほとんどのクラスメート達は教室を出ようとはしていなかった。
俺も自分の席に座り、さっき渡されたばかりの卒業アルバムを見返す。懐かしい思い出の写真に目を通して最後のページでへ。真っ白だったそのページには、数人に書いてもらった寄せ書きが並んでいる。友人の少ない俺は誰からも寄せ書きなど書いてもらえないと思っていたが、卒業式というのは普段ろくに話したことのないクラスメートとも言葉を交わす機会が増えるようだ。
委員長から隣の席の女子、またはクラス全員分の寄せ書きを集めようと張り切る男子、担任からの長く熱いメッセージ。それら一つ一つに目を落としていると少しだけ泣きそうになる。何だかんだあったけれど、この高校生活はいいものだったんじゃないだろうか。
アルバムを閉じ、鞄にしまう。名残り惜しさを感じつつも席から立ち上がった俺に声がかかった。
「咲ちゃーん! 一緒に帰ろうぜ!」
はしゃいで大きく手を振りながら、冴園が隣にやって来る。笑顔で肩を抱いてくる冴園は今日も相変わらず元気そうだ。
「他の奴らからカラオケとか誘われてたんじゃないのか?」
「そうだけど断った。カラオケくらい明日とかでも行けるし、高校生最後は咲ちゃんと帰りたいしな」
「そうか」
簡素な返事をしつつも、内心冴園がそんな風に思っていてくれることが嬉しかった。思わず笑みを零す俺を冴園がからかう。
クラスメート達に挨拶をして教室を出る。廊下に飾られた紅白の花飾り、校舎の外で俺達を見送ってくれる下級生達。そのうちの一人に冴園が携帯を渡し写真を撮ってもらう。その子の腕が良かったのか、校舎を背景に笑みを浮かべる俺と冴園の写真はとても良く撮れていた。この写真はアルバムに残しておこう。祖母が残してくれたアルバムの中、思い出の一枚として。
他愛もない話をして俺達は帰路を進む。路地に生えた桜の木に膨らみかけの蕾が見えた。きっともうすぐ咲き誇る桜の下を、新しい制服に身を纏った学生達が歩いていくことだろう。
「美輝もいたら良かったのにな」
ふと、口を突いてそんな言葉を零してしまった。一瞬冴園が笑顔を消し、切なげに眉をひそめたのが目の端に留まる。
美輝が行方不明だと言われてから半年。結局、卒業するまで彼女が俺達の元に姿を見せることはなかった。最後のホームルームのときもちらりと美輝のことが話題に上がったものの、長く話を割かれることはなかった。最初こそ大いに騒がれた彼女の失踪事件。半年も経つ今ではすっかりと話題にも上がることはなくなり、街角のポスターで見かけることもなくなっていた。返答のない一方通行のメールだけが俺の携帯に残っている。
もはや皆が美輝の無事を諦めている。だけど俺は今でも、彼女が行方不明になっただなんて信じられないのだ。そこの曲がり角からひょっこりと姿を現せて、ただいま、と言ってくれるのではないかと思っている。
だって美輝は言っていたんだ。戻ってくるよと、笑顔で。
「咲は、これからどうするんだっけ」
冴園が呟いた。今後の話か、と思い答える。
「とりあえず引っ越しの準備だな」
「第五区だっけ? 一区から五区っていうのも、大分治安の差が激しいな」
「職場が近いからな」
生まれたときから住んでいた、祖母との思い出の詰まった実家は売ることにした。思い出が詰まっているからこそこれ以上あそこには住んでいられない。それに、いくら祖母が遺してくれた分があるとは言え、金銭にも大きく余裕があるわけではないのだ。
優しかった祖母との思い出、温かな記憶。祖母がいなくなってから、それは俺を追い立てるしがらみでしかなかった。いっそ全てを遠ざけてしまいたいと思った上での決断だった。できることなら次にあの家を買う人が、建て直しやリフォームをすることなく、家を大事にしてくれればいいと願う。
寂しくなるな、と悲しそうに呟く冴園を見て俺もまた言った。
「お前もこれから大学生だ、忙しくなったら結局会う機会も減るだろ。改めて合格おめでとう」
ありがとう、と少しだけ複雑そうな笑みを浮かべて冴園が目を細めた。
冴園が受かったのは彼が第一志望の欄として書いていた大学だった。親に半ば強制的に勧められたとはいえ、親友が第一志望校に合格したのは友人の立場としても嬉しい限りだった。
美輝の存在は冴園の中でも根強いものだったのか。彼女がいなくなってから、冴園もどこか変わった。あれほど入れ込んでいたバイトをすっぱりと辞め、勉学に励むようになったのだ。自主学習に連日の塾に、とまるで自分を追いつめる一時は受験ノイローゼのような様子にもなった冴園には、見ているこっちもハラハラしたものだ。とにかく無事に終わって良かった。
冴園は大学に、俺は仕事に。お互いバラバラの道を歩むことになったことで、これまでのように容易に会うことは難しくなるだろう。同じ市内に住んではいても、明星市は広く、人も多い。
分かれ道に来た。いつもここで俺達は別れる。この道を曲がればもう次に冴園の顔を見れるのはいつになるか分からない。内心に湧き上がる寂しさを隠し、片手を上げて冴園に微笑む。
「じゃあ、元気で。佑」
「ああ。またな咲」
時間をかけた会話はしない。短い挨拶と笑みを交わし、俺達はそのまま手を振って別れた。
長くも短い、高校生活だった。
俺が就職したのは第五区にある小さなドラッグストアだった。就職、といっても資格を持っていない俺がやることはほとんどアルバイトと同じようなもので、給料や店長からの扱いもアルバイトそのものだ。
それでも無事就職が決まったのは良いことだったと思う。就職先が見つからず焦る学生達を、キャバクラやホストクラブの下っ端として雇ったり、低賃金長時間労働で働かせる会社も当たり前にある。そういう所に比べればまあいい方なのではないか。
駅から離れた所にある小さめのドラッグストアにはあまりお客もやってこない。会社帰りや学校帰りといった風情の人が時折来店して、日用品や薬を買っていく。夜中ということもあってか、酔っ払いの声が外から聞こえてくる。暇だ、と腕を伸ばして体の凝りをほぐしているとちょうど店長がやってきて、慌てて手を下ろす。
「あっちの段ボール捨てとけ」
「分かりました」
店長は吐き捨てるように言って通りすぎていく。笑顔の欠片も見せないぶっきらぼうな物言いは、慣れたところで嬉しいものじゃない。
ここで働き始めて半年。仕事にも慣れ戸惑うことこそなくなったものの、一番の問題は店長だった。彼は適当な人で、仕事の合間もほとんど事務所にこもって昼寝をしたり私用の電話をしていたりと、尊敬できる人ではなかった。他の店員達も店長の不真面目な態度には呆れているものの、減給や退職してしまうのが怖く迂闊に口を出せない。俺もその一人だった。働く以上店長と折り合いを付けなければどうしようもない。
余った日用品がもらえるから、ここを辞めたところで他に仕事を見つけるのが難しいから。だから俺は今日もここで働いている。色々と難しい。
ダンボールを片付けながら溜息を付いていると、レジ前にお客が一人並んだことに気付く。早足でレジに行って商品を読み取った。
「百八十円が一点、百六十円が一点……」
買い物かごの中に転がる酒の山と、山の中に埋もれる数種類の薬の数。レジを打ちながらちらりとお客の顔を見た。見た目は三十代にも五十代にも見える男だ。白髪交じりの無造作に伸ばした髪と、何が楽しいのかニヤけた口から覗く黄色い歯。
彼は店の常連客だ。決まっていつも酒と薬を買っていく、独特な雰囲気の男。薬だけなら分かる、酒だけなら分かる、ただ両方を合わせて買っていく理由がどうにも分からない。まさか薬を酒で流し込んでいるわけでもあるまいに。
そんなことを考えていると、男が顔を上げて俺に言った。
「兄ちゃん今日も遅くまで大変だなぁ」
「仕事ですから。もう慣れましたし」
「まだ若いだろうに、こんなちんけな店で働いてて楽しいのか?」
「……いえ、そんなことは」
「俺はな、やっぱり働くにも何するにも楽しくなきゃいかねえって思うのよ。楽しけりゃどんなことだってできるのよ。逆に、毎日毎日ぼーっとレジ打ってぼんやりしてるなんてごめんだね」
男が店にやってきたとき、仕事仲間達は嫌な顔をして彼の回りから逃げていく。その理由がこれだった。話がしつこく面倒くさい。いつもこうして、愚痴なのか自慢なのか嫌味なのか、よく分からない話を振ってくる。商品を袋に詰め終わってもレジ前に居座るせいで、何度彼の後ろにお客の行列ができたことか。
はぁ、そうですね、と曖昧な返事をしたところで男は語りを止めない。酒と独特の香辛料が混じったような息が鼻にかかる。
「俺の所で雇ってやろうか。楽しい仕事をさせてやるぜ」
「……お買い上げありがとうございました」
酒でズシリと重い袋を渡す。男は袋を受け取って、ふと思い出したように声を上げる。
「ああそうそう、これ店長に渡しといてくれ」
差し出されたのは細長い茶封筒。中に手紙でも入っているのか、僅かに厚みがあった。
「この間は急用ができて渡せなかったからな」
押し付けられた茶封筒に視線を下ろしている間に、男は意味不明な台詞を残して店を出て行ってしまった。
よく分からないが、頼まれたからには届けに行くしかないだろう。レジを出て事務所に向かう。ノックをしてから扉を開けた。
「失礼します」
机に向かっていた店長がビクッと肩を跳ね上げながら振り向いた。驚きに丸くなった目が険しく細められ、お前か、と苛立ち混じりに呟かれる。
どうしてそんな態度を取ってくるのか、内心ムッとしつつも表情には出さないまま封筒を差し出す。
「これ。店長に渡しといてくれってお客様から頼まれたので」
「ああ? 誰だよ」
「いつも薬とお酒を買ってく人ですよ」
ああ、と納得したように頷いて店長は俺の手から封筒をもぎ取る。と、その拍子に机上にあった一枚のメモがひらりと床に落ちた。あっと声を上げる店長より早く、俺はそのメモを拾い上げる。
仕事のメモだろうと思って拾ったそれには人の名前が書かれていた。根元始。名前の下にずらりと書かれているのは多様多種の薬名だ。怪訝に首を傾げていると、店長が素早く手を伸ばして俺からメモを取り上げる。
「根元……って、あのお客様ですよね。そのメモなんですか?」
「うるせえな、お前には関係ねえだろ!」
店長が声を張り上げる。挙動がおかしい。あまりの慌てっぷりに、俺は眉を顰めた。
あの客が根本という名であることは、彼自身の会話から知っている。店長と根元がそれなりに親しい様子であることも俺は知っていた。数回、店の裏で会話する二人の姿を見かけたことがあったから。……そういえばあのとき根元は確かうちの店の紙袋を手に提げていた。薬か何かを買ったのだろうと思っていたが、彼が店内にいた覚えはない。
ハッと気が付き店長を見る。喉を鳴らして唾を呑み込み、まさか、と口にする。
「もしかして、あの根元って人に直接薬を売ったりしてないですよね?」
メモに書かれていた薬はどれも処方箋がなければ売れないようなものばかりだ。薬局を通さず売れるわけがない。だがあの人が処方箋を持っていたか、そもそも病院にかかったのかという疑惑が浮かぶ。
店長は俺の問いに答えなかった。だがその目が明らかに動揺し、泳いでいる。その反応こそが間違いのない証拠だった。何をやってるんですか、と初めて店長に向かって声を荒げる。
「処方箋もなしに薬を渡すのは違法でしょう? しかもこんな大量に!」
「……いいだろ別に。金は払ってくれてるんだ。しかも、正規の値段より大分高値でな」
「余計駄目じゃないですか! 過剰にもらった分は? 店長の財布の中ですか? そもそも、薬を横流ししてるってことですよね?」
「バレなきゃいいんだよバレなきゃ! 一々うるせえなお前、くそ真面目でよ」
舌打ちをして店長が机を殴る。怒りに顔が熱くなり、ぐっと拳を握りしめた。ありえない。何でそんなことをしているんだこの人は、仮にも店長の身分として。
「まさかこのことを上に言うつもりじゃないよな?」
「言うに決まってるじゃないですか。いい加減にしてくださいよ」
こんなことまでされて黙っていることはできない。今すぐにでも告白するべきだと壁にかかっている電話の受話器に手をかける。だがその手を上から抑え込まれた。店長の手が力強く俺の手を壁に押し付ける。
「できると思ってんのかよ。そんなことをする前に、お前をクビにしてやる」
「理由もなしに解雇なんてできると?」
「ないなら作ればいいんだ。『東雲は仕事ができないからクビにした』。これだけでいい」
「そんな理不尽なこと……」
「仕事をなくすことになってもいいのか? この仕事がなくなったらお前、しばらく生活できるのかよ」
即答はできなかった。そればかりはこの人の言う通りだ。ここをクビになったらしばらくの間安定した収入は手に入らない。家賃に光熱費に食費に、生活費のことを考えると頭が痛い。次の仕事を見つけようにもそう上手く新しい仕事に就けるだろうか。
俺の思考を読み取ったように店長がほくそ笑む。
「新しい仕事先を見つけても俺が電話して言ってやる。東雲くんは全く仕事はできないし、レジのお金を盗んで逃げるような奴ですよ、ってな。それを聞いてお前を雇うお人好しな所なんてないだろ」
「なっ……そんな嘘を付いたところですぐバレるに決まってるだろ!」
「でも一年足らずで辞めたのは本当だろう? ただの社員の言葉と店長の言葉、どっちが信じられるかな」
ただの脅しだと一蹴することができない。この人ならやりかねない。いくら信用に値しない店長だと言えど、次の仕事先の上司は彼がこんな人間だとは知らないだろう。
悔しさに歯噛みする俺にニヤニヤと笑みを向け、店長は机の引き出しを開けて紙袋を手に押し付けてきた。
「根元さんに渡す薬だ。今夜渡すことになってるんだ。東雲、お前が代わりに渡してこい」
ギョッと目を見開く。どうして俺が、と思わず呟いた台詞に店長が笑う。
「断れる立場か?」
「……………………」
「クビなって路頭に迷うのと、一度だけ俺に協力してここで働き続けるのと、どっちがいい?」
形勢逆転だ。悪いことをしているのは店長のはずなのに、何故俺が脅されているのだろうか。
店長の言葉に、首を横に振ることができなかった。思わず力を込めた手の中で、袋がくしゃりと少し潰れた感触がする。
指定された時刻である深夜一時、人気のない高台で俺は男を待っていた。ベンチに座って星空を見上げながら溜息を吐く。どうしてこんなことをしているのかと今更後悔がよぎった。手元の薬袋を握り直し、何度目か分からない溜息を吐く。
うとうとと眠気に微睡みかけていたとき、背後からガサリと草を踏み分ける足音が聞こえた。警戒心に跳ね起きながら振り向く。暗闇の中近付いてくる人影。徐々に露わになるその姿は、待ち合わせ人である根元だった。彼は俺の姿を目に留め、ニヤリと笑いながら手を振る。
「よう、悪いなぁこんな時間に。夜中にしか時間が取れなくてよ」
根元は店で会うとき以上に歪んだ笑みを浮かべていた。彼の体からは変な臭いがする。ぐっと眉間にしわを寄せ、取り出した紙袋を渡す。
「これです」
「おう、ありがとう」
根元は袋の中を確認して頷く。料金が入っているのだろう茶封筒と、ポケットから綺麗に折り畳まれた万札を数枚取り出して俺の手に握らせた。
「こっちは釣りだ。兄ちゃんがもっとけ」
じわりと首筋に汗が滲むのは、夏の暑さのせいではない。お釣りと称されて渡された万札数枚。お釣りにしても、あまりにも多すぎる。
違法に薬を渡していること自体最悪だ。だが、渡されたこのお金は、更に危険な香りを含んでいる。
「風邪でも引いてるんですか」
ぎこちない声で尋ねる。根元は一瞬目を細めて、黄ばんだ歯を見せて笑った。
「いいや、至って健康だ」
「……じゃあその薬は」
「仕事に使うんだ」
仕事、と口の中で繰り返す。薬を使う仕事とは何だろう。根元が笑みを深くした。歪んだ顔が、俺に向けられる。
「あんたも薄々気付いてただろう?」
彼が紙袋から薬を取り出して俺に見せてくる。白い粉薬が入った薬袋、結晶が入った袋。一見すると風邪薬と同じに見えるそれらだが、根元は風邪など引いていないと言っていた。
いや、本当はとっくに気が付いていた。こんな場所で、こんな時間に、こんな大金でやり取りをする薬。つまり、つまりこれは。
「これも立派な薬さ」
男の声が耳を抜けていく。夏だというのに悪寒が背筋を這い上がり、歯の根が合わない。震え出す足から力が抜けそうになる。ああ、馬鹿だ。どうして断らなかったんだこんなこと。どうして……。
愕然とする俺に根元が粘着いた声で問いかける。
「あんたも苦労してそうだな。あの店長にこき使われてるんだろ。お前、どうして今日自分が薬を届けに来るはめになったか分かるか?」
「知らない……知らない」
ガクガクと首を振る。目尻に涙が溜まり、視界がぼやける。何も分からなかった。何故自分が薬の売人などをやらされているのか、理解できない。
「あの店長はあんたのことを大事になんて思ってない。薬の取り引きなんてバレたら人生終わりだからな、リスクの高い仕事はいつでも捨てられる人間に任せた方がいい。つまり捨て駒なんだよ」
茫然と根元の話を聞く。彼は半ば嘲笑を交えながら続ける。
「俺が今まで店長とやり取りをしていたのは市販の薬だ。流石に薬物を自分で渡してくれるほど、危機感のない奴じゃないようだからな」
「……何で市販の薬なんか」
「純度の高い覚醒剤は仕入れるのに手間も金もかかる。普通にどこにでも売ってる薬を混ぜて渡す方が、結果としては金になる。いくら市販の薬が高いと言っても、覚醒剤や麻薬に比べれば安いからな」
これ以上何も聞きたくない。ここにいたくはなかった。背を向けて走り去ろうとした俺の腕を根元が掴む。いくら引っ張ってもビクともしない。どう見ても俺より力が弱そうなのに……と根元を見て思ったが、捕まれている腕が小刻みに震えていることに気付く。彼が強いんじゃない、俺が怯えて弱くなっているだけなのだ。
「離して、離してくれ!」
「おいおい、落ち着けよ。俺の話を最後まで聞いといた方がいい」
「お前の話なんて聞きたくない!」
「兄ちゃんはまだあの店で働く気なのか? 部下を捨て駒扱いするような店長の元で? 悪いことは言わない、やめておけ。あんな所で働くよりうちで働く方がいい。高収入で雇ってやる」
「高収入で、高リスクなんだろ」
根元は黙って曖昧な笑みを浮かべた。歯を食いしばり、鋭い眼光で根元を睨み付ける。けれども彼はしわ一つ崩すことはなかった。
もはやどの道を選んだところで結果は同じなのだろう。根元の誘いを断りドラッグストアで働き続けても、店長に今回のような目に合わされるかもしれない。だが根元の話に乗ったとしても、どんな仕事をする羽目になるか分からない。
それでも俺は根元の手を振り解いた。困ったように肩を竦める彼に叫ぶ。
「お前達が他にどんなことをやっているのかなんて知らない。だけど、平気で薬物を取り引きするような人とする仕事なんてごめんだ!」
「それはあの店の店長も同じことだろ?」
「でもお前達はどうせ薬だけじゃない、他にも色々やってるんだろう! 人身売買とか、殺人とか……」
「偏見だな。確かに仕事は選ばずやっているとしても、俺の仕事は比較的軽いものばかりだ。そこまでリスクが高くて面倒なことをやるのは暴力団やバイヤーや殺し屋くらいのものだろう」
何が偏見だと言うのか。根元の仕事が何かは知らないとしても、結局悪事に手を染めていることに変わりはない。
ふと、彼の口がもごりと動く。何かを思い出すように口内で転がして、思い出した、というように手を打って目頭を細める。
「殺したことがないと言ったら嘘になるか」
やっぱりあるんじゃないか、と愕然とした視線を向ける。嘘は良くないからな、と常識ぶった言葉を吐いて彼は続けた。
「昔、仕事仲間にも平然と嘘を吐く奴がいてなぁ。冗談ならともかく大事な所でも嘘をつくから困ったもんだったよ。腕はいい奴だったけれど、今はどこで何をしてるんだか……」
「そんなことどうでもいい。やっぱりお前は、ただの人殺しだ!」
「殺そうと思って殺すわけじゃない、暴れられたり口を滑らせそうになったから、仕方なくだよ。普通の会社員に、元暴力団員……兄ちゃんくらいの年の奴も前に殺しちまったっけ。確か、高校生だったか」
「…………高校生?」
「ああ。去年の夏だったかなぁ。女だったよ。長い金髪の女」
根元は俺の様子を見ることなく、べらべらと一人で喋り続ける。ここまで情報を漏らしているのは恐らく自分にも打っている薬のせいか、それとも俺が確実に仲間になると思っているからなのか。
どうして、と呟いた。殺した理由を聞いていると悟ったらしい根元は素直に答えてくれる。
「女自身に用はなかったんだ、用があったのはそいつの母親だったんだよ。以前から回りに色んなことをやらかすような人間だったらしくてな、金銭トラブルや中には怪我を負った人間もいたんだと。その母親のせいで引きこもりになったっていう依頼人が、奴をとっ捕まえていたぶりたいって言ってきたんだが……依頼を受けたときにはもう母親は病気で死んでたんだ。死んでる以上依頼なんて受けられない。だが、その依頼人は娘がいることを知って、そいつでもいいと言い出す始末だ。どれほど恨まれるようなことをしたんだろうなぁその母親って奴は」
「その娘って」
「ああ、結局その娘を捕まえて依頼人の元に連れて行こうとしたんだ」
母親の代わりに。それがどんな結果になろうとしていたのか、想像に難くない。だけど、と根元は僅かに気まずそうに表情を歪めて言う。
「無理だったんだ。女一人捕まえるくらいなら誰にでもできるだろうと思って任せた奴が、何をとち狂ったのか間違って殺しちまったらしくてよ」
「殺した……本当に?」
「嘘じゃねえよ。なんだったら見るか? 写真」
俺が断る隙も与えず、根元は操作をした携帯画面を突き付けてくる。何故そんな写真を持っているのかという疑問は、写真を目にした瞬間に吹っ飛んだ。
小さな携帯の画面からでも、それから明らかに生気が感じられないことが分かった。目を閉じて横たわる姿はまるで眠っているようだ。だが、そんな小さな希望は真っ赤に染まった白いシャツの左胸によって裏切られる。一目で致死量だと分かる血の量と傷口。
息ができなくなる。頭がガンガンと激しく痛み、心臓が押し潰されるような感覚がする。俺はこの目で見てしまった、ハッキリと認識してしまった。
あの寒い冬の朝の祖母のように、血の気のない真っ白な肌をして横たわる死体の顔を。
美輝の顔を。
「殺したのか」
自分でもゾッとするほど低く唸るような声が零れた。
全身が冷えていく。夏の暑さなどまるで感じない。夜街の音も、風の音も、何も聞こえない。ただ心臓だけがこのまま爆発してしまうのではと思うほどに強く鼓動を繰り返していた。
「お前が、お前達が。美輝を殺したのか……!」
根元が笑みを消しすっと真顔になる。一瞬で雰囲気を改めた彼の姿は、どことなく先程とはまるで違う風貌だった。だが、畏怖も威圧も、今の俺には気にならない。
いつ、どうして、どいつが美輝を。たくさんの疑問が浮かび上がっては絡まっていく。だけど違う。もうどうでもいい。たった一つの事実だけが目の前に突き付けられる。
美輝はもうとっくに死んでいたんだ。
「美輝を殺したのか、彼女を殺したのか。お前達が、お前が、お前が!」
詰め寄る前に、根元が表情を険しくさせ、服の下から素早く何かを取り出した。揺れる視界の中でも、それが銃だということはすぐ認識できた。彼が取り出した瞬間には既にそれが俺に向けて構えられていることも、安全装置が外されていることも。
それでも俺は自分の体を止められず、衝動のままに根元に飛びかかった。至近距離で発砲音が鳴り響き、脇腹を炎で炙られたような熱が走る。掠めた程度だとしても傷口からは肉が削げ、血が飛んだ。熱い、痛い。
握り締めた拳を根元の頬にぶつける。骨を殴る固い音と、じんと鋭く重い痛みが拳にまとわりつく。二発目の銃弾が肩を撃ち抜く。だが即座にもう一度拳を振り抜いた俺に、根元は苦痛と驚愕の目を向けてきた。
「美輝を返せ、返せよ!」
痛みより恐怖より、激しい怒りが燃えていた。
薄々気が付いてはいた。でも、気が付かないふりをしていたんだ。美輝が戻ってくるという淡い期待を、戻ってくるからという言葉を、今までずっと信じていた。一年間も連絡が取れないことなど記憶の隅に追いやって。彼女はいつか戻ってくる。そうしたら、そうしたら、また三人で……。
ずっと抱いてきた希望は写真を見た瞬間打ち砕かれた。彼女はもう戻ってこない。美輝とはもう、二度と会うことができない。
返せ、返してくれ。お願いだから。もう他には何も望まないから。美輝を、美輝を返してくれ。
「お前のせいで! お前のせいで! 俺達は、美輝は!」
根元が血走った目で俺を睨み付ける。眼前に突き付けられた銃の銃身を咄嗟に掴んで引き倒す。火傷しそうな熱さが手の内から伝わってきても俺は銃身から手を離さず、取り返そうとする根元と揉み合った。頬を殴り付けると一瞬彼の手が緩む。その隙を狙い、銃を奪い取った。見よう見まねで銃を握りしめ、銃口を根元に向ける。鼻血を出して唸っていた彼は俺の姿を見てギョッと目を見開く。
こいつのせいだ。全部こいつが悪いんだ。こいつのせいで、こいつのせいで。
「お前のせいで……!」
俺達はもう二度と、三人でいることができない。
笑うことなどできないのだ。
鼓膜が突き破れるのではと思うほどの発砲音が耳元に響く。手の内の強い反動。キィンと高い耳鳴り。
根元の胸に開いた赤い穴。
「あ…………」
呆けた声を上げて根元を見た。彼は唖然としたように自分の胸を擦る。じわじわと広がる血が手の平を染め、指の隙間から溢れる。地面に根元の体が崩れ落ちた。その顔はどんどん白くなっていく。
握っていた銃がずしりと重みを増した気がする。震える手ではその重量を支えることができず、震える手から離れた銃が地面に転がる。ガクガクと痙攣したように体を震わせて地面に膝を突いた俺の手を、根元が血だらけの手で掴んできた。喉から引き攣った悲鳴が零れた。ギリギリと、骨を砕かれるのではと思うほどの力強さだ。俺の手を真っ赤な血が汚していく。
根元がふっと口元に笑みを浮かべた。まるで笑っていない目とは対照的に、とても楽しそうに。だが次の瞬間、その手は操り人形の糸が切れたように滑り落ちた。倒れそうになる根元の体を必死に揺さ振る。
「お、おい。起きろよ。返事しろって。なあ、起きてくれよ……なあ!」
どれだけ必死に呼びかけても根元は何一つ反応を返してくれなかった。嘘だ、嘘だと涙声で自分に何度も言い聞かせる。根元から流れる血が俺の服を汚していく。噎せ返るような血の臭いが、紛れもない現実だと突き付けてくる。
目の前の男を殺したかった。美輝を殺した原因であるこの男を、自分の手で殺したいと心の底から願った。でも違うんだ。本当に、本気で殺すとは思っていなかったんだ。矛盾しているのは分かっている。だけど、本当に、こんなことになってしまうなんて。
茫然と上空を仰いだ。視界に映る星空、何度も何度も見てきた美しい星空。けれど何故だろう。今夜の星は、ちっとも綺麗に見えなかった。
「う、うぅ……う、あぁ…………」
涙が溢れ、頬を伝って零れていく。人に見られてはいけない状況だというのに、嗚咽は止まらず、次第に叫び声となって空気を震わせた。助けてくれ、助けて。誰か。
血に染まった手の平で掴んだ携帯。何度も発信してようやく出てくれた冴園に、人を殺した、と泣きながら伝えた。助けて、と続けて言った俺に、冴園はいつかのように、今すぐ行くからと言ってくれた。
俺が初めて人を殺した日の話だ。
 




