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第70話 大人になるということ

 いくら悩もうが考えようが、時間は刻々と進む。太陽の眩しい夏の季節が到来した。間近に迫ったAO入試に向け、学年の空気は一層ピリピリと緊張感を増していた。

 受験をしない以上俺には関係ないことだ……と、呑気に思うことはできなかった。この空気の中素知らぬ顔をしてはしゃいでいられるわけがない。何より、大学受験に追われる友人が身近にいるのだから。


「喉が乾かないか?」


 大学のパンフレットを読んでいた冴園に声をかける。ぼんやりとした目が俺を見た。

 購買に売っていたラムネ瓶を渡す。水滴の浮かぶ青い瓶の中でビー玉が転がる。蓋を開けて一口飲んだ冴園は、深い溜息を吐いた。


「こういうラムネ瓶って懐かしいな。どこに売ってたんだ?」

「購買に。夏の期間限定だって」


 暑い夏に飲むラムネは美味い。俺と冴園は一気に中身を飲み干し、ビー玉をカラコロと転がして遊んだ。

 中から取り出そうと瓶を振っている冴園の横顔を見つめる。目の下にできた青いクマ、血の気の失せた顔色。明らかに彼の体調が万全でないことが分かる。

 大丈夫だろうかと心配になった。このところ冴園は受験勉強に忙しい。暇なときがあれば問題集に目を通し、職員室に質問をしに行く。だがそれほど勉強に精を出すのと同様に、放課後はアルバイトに奮闘しているようだった。塾などに行くこともなくバイトに時間を割いていることを、冴園の両親は酷く批判しているらしい。それでも冴園がバイトを辞める様子は今のところない。


「どうしたんだよ、人の顔ジロジロ見て」


 視線に気が付いた冴園がくすぐったそうに笑って言った。滲んだ汗が首筋を伝う。


「ちゃんと寝てるのか?」

「寝てるさ、空いた時間に」

「……それはちゃんと、とは言わないだろう」


 昼は学校、夜はバイト。そんな風に忙しい毎日でろくに睡眠を取ることなどできないんじゃないだろうか。昨日の全校集会のとき、最前列で堂々と爆睡して怒られていた冴園の姿を思い出す。


「勉強のしすぎで体を壊したら元も子もないだろ」

「平気だって。受験までまだ時間はあるし、その日が近付いてからしっかり寝ればいい」

「馬鹿なこと言うなよ。せめて少しくらいバイト休んだらどうだ? 受験まで日数減らして……」

「嫌だよ」


 固い声が速答した。思わず肩を縮ませ目を丸くする俺を見て、冴園が我に返ったように慌てて首を振った。


「最近忙しくてとてもじゃないけど休めないんだ」

「そんなに厳しい所なのか? 受験生なのに?」

「受験だなんて関係ないさ。猫の手も借りたいくらいに忙しい」

「どんな仕事をしてるんだよ」

「…………物を運んだり、電話番をしたり、まあ色々かな」


 色々、と言葉をはぐらかされる。だが微笑んでいた冴園の顔にふと影が差した。


「楽しいことは楽しいんだけど……最近はちょっと、面倒なことが多いかもしれないな」


 面倒なこと、と繰り返す。冴園は頷いて苦笑した。だがそれ以上何も言うことはなく、また瓶を振ってビー玉の音をカラカラと鳴らす。俺もそれ以上訊ねるのはやめておいた。

 面倒なこととは何だろう。クレーマーへの対応だろうか、バイト仲間との仲だろうか、それとも給料の問題か。冴園のことだからきっとイベントスタッフやゲームセンターなんかで働いているのかもしれない。どこにしろ、働くというのはやっぱり大変なことなのか。


「苦労してるな」

「皆そんなもんだろ」


 冴園が静かに言って、意味ありげな目を一つの席に向けた。俺も同じ席を見つめる。人の座っていない空いた席。今日だけでなく、昨日も一昨日もそこは空いていた。

 美輝がしばらく学校を休むと言ってから数日。休み続ける理由は分かっていた。彼女の母親の容体が悪化しているのだという。その見舞いとして、美輝は学校を休んで母の見舞いに行っているらしい。

 彼女の母を見たのは、あの春の一回きりだ。それでもあの光景は今でも忘れられない。女性の様子も、それをまるで自分が母親であるかのように宥めていた美輝の姿も。


「皆苦労しているんだ」


 冴園が独り言のように繰り返した。ビー玉がまた、瓶の中でコロリと綺麗な音を奏でる。

 きっと誰もが苦労しているのだ。他人とは違う、その人だけの悩みや苦悩に揉まれている。けれどそれが大人になっていくということなのかもしれない。




 美輝の母親が亡くなったのは七月に入ってすぐのことだった。

 土のにおいが混じる雨がしとしとと降り続いている。空気は生温く肌に張り付いてくる、そんな頃。その日教室にやって来た美輝を見て、一瞬教室は気まずそうな雰囲気が漂った。けれどすぐに数人の女子が美輝の元へと駆け寄っていく。

 不幸事って聞いたよ、と心配する女子達に美輝は微笑みを浮かべて曖昧な返事をするだけだった。母親が亡くなったというのに嘆く様子もなければ、涙を流すこともない。普段とそう変わらない様子で話していた。

 俺と冴園がようやく美輝と話せたのは昼休みになったときだった。空き教室に移動して三人で話すことにした。俺は勿論、以前簡単に話して美輝の事情を知っていた冴園も、心配そうな顔で美輝を見つめていた。しばらくの間お悔やみの言葉や励ましの言葉をかけてから、冴園が言った。


「これからどうするんだ?」


 そうだ。両親がいなくなった美輝は一人、これからどうするのか考えなくてはいけない。

 美輝はしばらく目を伏せるように考え込んだ後、ぽつりと言った。


「……おばさんの所に行こうかな」

「いなくなるのか?」


 咄嗟に口に出してから、ハッとして唇を噛んだ。キョトンとした顔をする二人の視線が気まずくて、目を逸らした。


「いや、その……別に寂しいとかじゃなくて……」


 取り繕うように言葉を紡いでも逆効果だ。何を言ってるんだ俺は。こんな、まるで子供みたいなことを。

 美輝がくすりと可笑しそうに笑った。頬が熱くなる。手に滲んだ汗を隠すようにシャツの裾を握りしめた。


「安心してよ、二人を置いてどこにも行ったりしないから。挨拶に行くだけだよ。一度、話し合わなきゃいけないし」

「こっちに残るか、おばさんの家に行くかって?」

「うん。お葬式には流石に来てくれるらしいけど、仕事があるからすぐ帰らなきゃいけないらしくて。私がおばさんの所に行って話し合った方がいいだろうから」


 そんな会話を聞いてほうっと息を吐く。情けないとは思いつつ、彼女がここを離れていくという意味ではなかったことに安堵を浮かばせていた。

 いつ行くのか、と冴園が訊ねる。今月の七日だという返事に目を丸くした。


「そんなに早く? 葬式とか通夜とかやらなきゃいけないことも多いだろう」

「ちょうどお寺の都合がいいみたいで、葬儀自体は数日もあれば終わりそうなの」

「でも来てくれる親戚に連絡したり都合を合わせてもらわなきゃ……」

「きっと誰も来ないからいいの」


 呆気からんとした声で美輝が言った。

 俺と冴園が思わず口を閉ざして彼女を見ていると、彼女の複雑そうな笑みが俺達を見る。


「私のお母さんね、昔から子供みたいな人だった」


 皮肉げな声色で言う。棘のある声は、今まで聞いたことのない彼女の声だ。


「我儘ばかり言う人だった。いじわるばかりする人だった。自分勝手で、横暴で、周りのことなんか気にしちゃいないの。友達からお金を借りてそのままにしてたり、お店の人にいちゃもんを付けて無理矢理サービスさせようとしたり。とにかく色々やらかしちゃってるの。きっと、私の知らない所でもそういうことをたくさんしてきたんだと思う」


 病院で会ったときにも美輝は母親のことをこんな風に言っていた。だが今は更に黒い感情を上塗りしているように見えた。

 だけど、そんなに嫌な母親のことを見捨てずに介護し続けたのだ。どんなに嫌いでも、やっぱり自分の親である以上、完全に嫌うことはできなかったのだろう。

 現にこうして語る美輝は、少しだけ、寂しそうに見えた。


「……だからきっと、お母さんのお葬式にわざわざ来てくれる人なんていないのよ」


 言って、美輝は複雑な顔のまま微笑んでいた。






 七月七日の夜。静かな縁側に座って星を見上げながら、俺は去年のことを思い出していた。

 去年の七夕。三人で行った七夕祭りは、今でも色濃い思い出として胸の中に輝いている。あの幸せな時間をもう一度繰り返すことができるなら、とそんなことを思った。

 この一年間で全てがガラリと変わってしまった。周りの環境も、俺達自身もだ。


 ピンポーン、と玄関先のチャイムが鳴らされた。ハッと我に返って立ち上がり、足早に玄関に向かう。

 来客だろうか。今行きます、と声をかけながら玄関の鍵を開ける。ガラガラと引き戸を開く。そこに立って微笑んでいた美輝と目が合う。


「こんばんは、咲くん」


 ノースリーブのシャツに空色のロングスカート。爽やかな軽い私服姿とアンバランスに、彼女が肩に下げているのは重量感のありそうなボストンバッグだった。

 どうしたんだ、と言いかけて彼女が今日ここを発っておばの所に向かう予定だったことを思い出す。


「もう行ったかと思ってた」

「夜行バスで行こうと思って。時間までまだ少し暇があるから」


 それでね、と彼女が小首を傾げるように肩を上げ、楽しそうに笑う。


「夜の散歩でもしない?」



 俺達がやって来たのは近所の川だった。時間帯もあってか周囲を歩く人は一人もおらず、離れた橋の方から車の音が聞こえては遠ざかっていく。

 夜の川は暗く、底なしの沼のように思えてこころもち恐ろしい。だがぽっかりと浮かぶ月が水面に光の道を作り、星明かりがキラキラと波を輝かせる。

 土手の草の上に腰を下ろした美輝は、バッグを放り投げて解放されたように大きく伸びをする。そのまま大の字になって仰向けに倒れた美輝が俺を隣に呼んだ。横に腰かけ、真似をして仰向けになる。

 頭上に広がる満天の星。夜空に泳ぐ天の川。今にも溢れて雨のように降り注いでくるのではないかと思うほどの、美しく大量の輝き。


「あのときと同じだね」


 囁くように呟いた美輝の言葉に記憶が蘇る。

 初めて彼女と話したあの日。あのときも、こうして一緒に星を見上げていたのだったっけ。


「あのとき落とし物をしてなければ、今こうやって咲くんと話してることもなかったかもね」

「まさか煙草を吸うような人だとは思ってなかったよ」

「咲くんも吸ってたくせに」


 ははっと乾いた声で笑った。

 勧められて吸い始めた煙草は今でもたまに吸っている。噎せることはなくなったもののいまだに美味いと感じることができない煙草だが、ふと吸いたくなるときがある。吸っていれば、一人の寂しさを紛らわせることができる、そんな気がして。美輝が煙草を吸い始めたのも、もしかしたら同じ理由なのだろうかと不意に考えた。

 俺より長い間吸っているはずだろうに美輝から煙草のにおいが香ることはなかった。甘いようなしっとりとした、柔らかな香りがする。シャンプーや香水で香りを誤魔化しているのかもしれない。けれど俺は、彼女の香りが好きだった。


「変わっちゃったねぇ」

「……何が?」

「みーんな。全部全部、変わっちゃった」


 夜風が草を揺らす。黙り込む俺を気にせず、美輝が息を吐くように言う。


「こうして大人になっていくのかな」


 俺が何度も考えてきたことを、彼女がハッキリと口にした。

 一年生のあの頃、小学生のときの自分、そして今の俺は何もかもが違う。楽しいことや嬉しいことばかりじゃない、辛苦を舐める日々がきっと今後も続いていく。

 それが大人になるということなのだろうか。

 大人とはそういうものなのだろうか。


「……嫌だな」


 え、と美輝が聞き返してくる。それに答えるように、俺は静かに言葉を紡いだ。


「それが大人になるってことなら……俺は、子供のままでいたい。こんな思いだけを抱えて生きていくくらいなら、大人になんかなれなくたっていい」


 将来のことなんて何も考えていなかった頃。先のことなんて考えても分からなくて、ただ毎日を過ごすだけの単純な日々だった。

 だけど俺はそれで良かったんだ。俺はただ、皆と一緒にいたかっただけなんだ。祖母と、冴園と、美輝と……大切な人達と共に過ごしていくことが、俺が一番望むことだったんだ。

 みっともなくてもいい。無様だと言われようが、俺の前から誰かがいなくなっていくくらいなら。俺は皆に囲まれて笑って過ごす、子供のままでいたいんだ。


「…………きっとね」


 震える俺の手に、細い手が重ねられた。滑らかな肌が俺を撫でる。

 横を見れば、美輝の長いまつ毛に伏せられた目が俺を見つめていた。頬に流れる長い髪が風にそよぐ。


「きっと、大人っていうのは一人でも生きていくことのできる人なのよ」

「一人でも……?」

「誰かを支えて生きていくのもいい。誰かに支えられて生きていくのもいい。誰かと共に生きていくのもいい。でも、大人っていうのはね、その誰かがいなくなっても……一人になっても、生きていける人のことなんだよ」


 大人っていうのは辛く苦しいだけじゃない。楽しいことも嬉しいことも幸せなこともたくさんある。

 だけどもしそれがなくても、悲しみに襲われたとしても、それでも一人で立っていることのできる人が、大人なんだ。


「だから大人にならなきゃね」


 重なった手に力を込めた。細い手が壊れてしまわないように優しく、けれど強く。


「俺は、大人になれるかな」


 星明かりに美輝の顔が白く照らされている。星を取り込んだようにキラキラと輝く彼女の目。

 同じだ。あの夜と。


「なれるよ」


 静かに言って微笑んだ美輝は、俺と同じように、僅かに力を込めて俺の手を握りしめた。




 重そうにボストンバッグを持ち、美輝はスカートに付いた草を払う。細い草がはらはらと地面に落ちていく。


「バスまで送ろうか?」

「大丈夫、それくらい平気よ」

「戻ってくるよな?」


 美輝がピタリと動きを止めた。一瞬目を細めて俺を見てから、ふっと息を吐くように顔を綻ばせる。


「戻ってくるよ、勿論」


 彼女の伸ばした指がするりと俺の手に絡む。一瞬だけ絡まった指は、すぐに離れた。

 夏の夜、心地良い風が俺達の間を吹き抜けていく。少し先を歩き出した彼女が振り返り、立ち止まって背を見送っていた俺に手を振った。


「じゃあね、咲くん」



 美輝と出会った、最後の日のことだった。

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