第69話 俺達の未来
ロングホームルームの時間を利用したニ者面談。廊下に締め出されたように置かれた一つの机を挟み、俺と担任は向かい合う。自習と告げられた教室からは案の定騒がしい声が飛んでくる。沈黙の流れる廊下廊とは真逆だった。
本当にいいのか、と何度も聞いた言葉を担任が吐く。鬱陶しさを抱きつつも俺はしっかりと頷いた。
「進学はしません。もう決めましたから」
机上に置かれた進路希望調査票に目を落とす。氏名欄に記された東雲咲という名前、それ以外は全てが空欄のままだ。
でもなぁ、と担任は頭を掻いて渋るように言った。
「東雲は成績も悪くないし、普段の素行も十分いい。この調子でいけば希望の大学くらいどこだって可能性があるんだぞ」
「行きたい大学もないですから」
「費用の心配か?」
思わず眉間にしわが寄った。俺の反応に目敏く気が付いた担任は、僅かに早口になって奨学金制度などといった提案を振ってきた。
俺のためを思って言ってくれていることは分かっている。親身になって生徒のことを考えてくれるのはとてもありがたい。だけど一度決めたことをそう何度も突かれるのはうんざりしていた。
「とにかく俺は就職希望なので。就職希望の生徒は、俺以外にもいるでしょう」
「でも東雲お前、去年は進学希望だって書いていただろう」
「……気が変わったんです」
担任の目が何かを訴えるように俺を見つめてくる。すみません、とだけ告げてその視線から逃れるように横を向いた。差し込む温かな日光が眩しく、目を細めた。
見えるのは外の風景。窓の外に見える校庭に桜が咲いている。薄桃色の花弁を小雨のように降らせながら、今もまた数枚の桜が窓に張り付き、風で飛んでいった。
温かな春の季節。三年生になった俺達。決めなければならない未来は、もうすぐそこに迫っていた。
「どうだった?」
席に戻った途端に冴園と美輝がそう言って迎えてくれた。どうだった、とは当然面談の内容のことだろう。小さく首を振り肩を竦める。
「進学はしないのかってしつこく」
「就職にしたんだっけ? どこの会社に入りたいんだよ」
「……そういうのはよく決めてないな」
「就職希望にしても大体会社とか職業とかは決めるからね。先生もそういうのが聞きたかったんじゃないかな」
「はは、だからあんなにしつこかったのかもな」
きっと去年まで進学希望だったのが、突然就職希望に変わったことも原因なのだろう。
去年までの俺は、卒業したらどこかの大学に進学するのだろうと漠然と考えていた。けれど進学を意識していたのは祖母の方だった。できることなら大学まで進学させたい、そんな思いが祖母にあったから、なんとなく俺も進学を考えていたというだけのことだった。
けれど祖母が亡くなり、三年生になり。将来のことについて改めて考えてみたとき、自分のやりたいことが分からなかった。
どこに会社に就きたい、どんな仕事がしたい、そもそも最終的に何がしたいのか。詳しい将来図というものを何一つ考えていなかった。
就職希望というところに嘘はない。こんな思いのまま進学したところで意味はない、学びたいことなど何一つとして思い浮かばないのだから。だったらせめて一日でも早く働いて日々の生活費を稼いだ方がいい。
「冴園は進学か?」
冴園が頷き、頬を掻いた。
「とりあえずは。まだ、どこの大学にするかまでは絞ってないんだけど」
「どこの大学なんだ?」
訊ねると冴園はつらつらといくつかの大学名を上げていった。どれも名前を知らぬ者はいないだろうというほど有名な大学ばかりだ。
俺と美輝は驚嘆の視線を冴園に注いだ。凄いじゃないか、と思わず手を叩く。
「冴園くんこの間の成績も凄かったもん。もしかしたら、推薦枠取れるんじゃない?」
美輝が嬉々とした声色で言う。だが冴園は苦虫を噛み潰す顔をしたかと思うと、両の目を曇らせた。
「本当はあまり行きたくないんだけどな」
「え……どうして?」
「全部親が決めたんだよ。進学しろ進学しろってうるさくてさ、俺自身としては別に行っても行かなくてもいいと思ってたんだけど……どこも堅苦しくて、つまらなそうだ」
昔から冴園は、うちに遊びに来ることはあっても自分の家に俺を誘ったことはあまりなかった。自分の家で遊ぶのはつまらないから、という理由だったが、確かにたった数回程度遊びに行ったときの彼の家は俺の家と大分雰囲気が違っていた。
冴園の部屋の本棚に詰められた、自己啓発本やら大学ノート。親が無理矢理並べるのだと愚痴を言いながら奥に隠した漫画を取り出す彼の姿。壁に張られた世界地図やらテスト用紙も、強制的に張り付けられたらしい。
よくある普通の家だったと思う。子供のためにと、自分達が良いと思ったものを与え、子供の成長を望む普通の親。何度か会ったことがあるご両親も、いたって普通そうな人達だった。
けれど冴園にとってはそれが苦痛だったらしい。少し奔放なところがある冴園だ。真面目でしっかりした道を歩んでほしいと願う両親と、堅実でなくていいから様々なことを求めたい冴園とでは考えも生き方も合わないはずだった。
「自分が楽しめなきゃどこに行ったって意味がないんだよ」
進路は楽しい楽しくないの問題で決めることじゃない。でも冴園にとってそれは、何を犠牲にしても一番大切にしなければならないことだった。
神妙な顔をしていた冴園は、空気を切り替えるように頬を緩めて笑う。美輝は? と話題を彼女に振った。
「大学? それとも就職?」
「私は、そうね……」
しばらく悩んでいた彼女は、はぐらかすように笑って首を振った。
「ううん、まだ決めてない。分からないわ、将来のことなんて」
「美輝も分からないか……。そうだよな、将来って言われても何も分からない」
「今すぐ決めろって言われても無理な話さ。でもまあ、咲ちゃんと美輝なら大丈夫だな」
どういうことか、と冴園を見る。彼はやけにニヤけた顔を俺達に向けて言う。
「結婚っていう最終的な将来は決まってるだろ?」
思わず噎せ返りそうになった。ひっくり返りそうになる声を咳払いで誤魔化し、パクパクと口を震わせて冴園を凝視する。
ニヤニヤとした笑みを浮かべ続けている冴園は、そんな俺をなおもからかう。
「やだなー咲ちゃんってば。顔真っ赤だぞっ」
「お、お前が変なこと言うからだろ!」
「えぇ、でも本当のことじゃん? 大人になったらするんだろ? 結婚」
俺と美輝が付き合っていることを冴園はとっくに知っていた。
あの冬の日から俺と美輝は付き合い始めた。告白をしたわけでも好きだと伝えたわけでもないが、気が付けば自然と距離が近くなっていた。
俺達の関係に真っ先に気が付いたのは冴園だった。普段から三人でいることも多い上、美輝が俺を咲くんと呼ぶようになっていれば当然気付くだろう。直接問いただしてきた冴園に俺達のことを伝えると、彼はしばらくポカンと俺達を見つめた後、やけにはしゃいで喜び、盛大に祝ってくれた。
「いやっ、結婚とかそういうのは……」
「しないのか?」
「するに決まってるだろ!」
思わず叫んでからハッと我に返る。祖母の教えを受けていたせいか、付き合った人と結婚を考えるというのは俺にとって普通のことだった。美輝とそうなることを考えたことも何度もある。けれど彼女からしてみれば重い考えかもしれない。
引かれていたらどうしよう、と美輝の顔を恐る恐る覗き込んだ。真っ赤な顔が俺を見つめ返していた。
「……咲くんの馬鹿」
「何で!?」
ぷいっとそっぽを向いてしまう美輝。慌てる俺を見て、冴園が可笑しそうに笑う。
何なんだよ、と頭を抱える俺にちらりと視線を向けて、美輝は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
放課後、鞄に荷物を詰めて教室を見回す。ぽつぽつと帰り始めているクラスメート達。その中に冴園と美輝の姿はない。今日は二人とも用事があると早々に帰ってしまった。冴園はアルバイト、美輝は私用らしい。
一人教室を出て下駄箱へ向かう。校舎を出てぼんやりと歩きながら、これから何をするかと考えた。早々に帰るのは少し嫌だ、寄り道でもしていこう。
「バイトかぁ……」
今まではしたことがなかったが、今後のことを考えるとバイトを探した方がいいだろう。でもどういうところで働けばいいのか分からない。
高校三年生という中途半端な時期からバイトを始めたらしい冴園だが、働く場所は恥ずかしいからと教えてくれない。だが中々楽しんでいるようで、よく嬉々とした顔でバイト先に向かっている。
今日はバイト先でも探してみようか。せっかく暇な時間なんだ、この辺りでそういう場所を探してみようか。
考えながら周囲を見回したときだった。視界の先に、ゆっくり歩いているおばあさんの姿を見つけた。
困ったような顔をして辺りに視線を泳がせているおばあさん。ただ迷っているだけでなく、彼女が着ているものは寝間着だった。それを見ている間にもおばあさんはしきりに首を傾げておぼつかない足取りで歩く。
思わず駆け寄って声をかける。放っておくことなどできなかった。
「どうかされましたか?」
俺の声に振り向いたおばあさんは、ほっとしたように表情を緩めて、のんびりと声を伸ばす。
「あのね、家に帰らなきゃいけないのに、道がないのよ」
「道が?」
「そうなの。こっちなの、でもなくなってるのよ」
「……えっと、良かったら一緒に探しましょうか?」
「あら、いいの?」
「ええ。時間もありますから」
良かったわぁ、と微笑むおばあさんの手を取り、歩き出す。
予想はしていたが家は中々見つからなかった。どこを歩いてもそれらしい道はないし、目印になると言われたスーパーも見つからない。本当にその家というものがあるのかさえ気になった。
嘘をつかれているのかもしれない。だけど今更この道案内を投げ出すわけにもいかないだろう。何より心苦しい。歳が近いからだろうか、このとき俺の頭の中に浮かんでいたのは祖母の顔だった。
「小沢さん、探しましたよ!」
おばあさんの会話に付き合いながら歩いていると、前方から駆けてきた女性が俺達を見て声を上げた。おばあさんを見て安堵したように顔を緩めながら、女性は俺達の前にやってくる。
小沢さん、と呼ばれたおばあさんはぼんやりとした顔で首を傾げる。女性はそんなおばあさんの手を取って言う。
「ほら、帰りましょう」
「帰るってどこに? 家はそっちじゃないわよ」
「今日はご家族がいらっしゃらないから、私の家に泊まっていくって言っていたでしょう?」
「そうだったかしら? でも、着替えとか用意していないわ」
「全部揃ってますよ。大丈夫」
不思議な会話をしながら女性はおばあさんの手を引いて歩き出そうとする。けれど途中で振り返り、俺を見て頭を下げた。
「小沢さんを見つけてくれてありがとう。本当に助かりました」
「あ、いえ……」
俺達の会話を聞いていたおばあさんは、そうだわ、と思い付いたように突然笑って言った。
「あなたも遊びに来てよ。ねえ、いいでしょう?」
え、と女性が困ったような顔をした。突拍子もない提案を、嬉々とした顔でおばあさんは語る。
一人はつまらないからと微笑むおばあさんと対照に、女性は困惑した顔を俺に向けてきた。来るのを拒むというよりは、俺に対して迷惑じゃないだろうかと言いたげ表情だった。
「……俺は大丈夫ですよ、行っても。もしそちらがよろしければですけど」
「本当? 嬉しいわぁ」
申し訳なさそうながらもほっとした顔をする女性に笑む。ここまで来たら、最後まで付き合ってもいいだろうと思った。
女性に連れられて向かった先は、とある小さな病院だった。オフホワイトとオレンジ色の優しい色合いでできた建物。風にそよめく緑葉が目に心地良い。
だけど、家とはどういうことなのか。困惑する俺をよそに二人はどんどん先に進んでいく。玄関を通って建物内に入る。温白色に照らされる広い部屋が目に映った。リビングなのだろうか、数人がぽつぽつと席に座って談笑している。
一つのテーブルに俺とおばあさんを座らせ、女性が三人分のお茶を淹れて戻ってくる。お茶を一口飲んで息を吐いたおばあさんは早速口を開き、他愛もない世間話を語り始めた。
話が一段落付いたのはそれから一時間が経った頃だった。二杯目のお茶をゆっくりと飲み干したおばあさんは喋り疲れたような顔をして言う。
「ちょっと疲れちゃった。少し横になってきてもいいかしら?」
「勿論。じゃあ、お部屋の方に案内しますね」
「助かるわ、ありがとう」
そう言って席を外してしばらく、女性が一人戻ってきて俺の向かいに座る。早々に彼女は俺にはにかみながら話しかけてきた。
「ごめんなさいね、色々と付き合わせちゃって。事情も説明しないで申し訳なかったね」
「いえ、俺は別に。それよりここがあなたの家っていうのは……」
「ああ、それ嘘」
スッパリと言い切った女性は辺りに視線を巡らせながら語る。
「ここが病院だっていうのは分かるよね? 認知症とか脳に障害を負ってる人とか、そういった人達がここに入院してるの」
「じゃあさっきのおばあさんも?」
「小沢さんも。ご家族の方が連れてきて以来ここで暮らしてるんだけどね、今でもたまに、元の家に帰ろうとしてるの」
「だから……さっきも」
女性は曖昧に笑ってお茶を啜った。
それからしばらく話してから、女性は仕事に戻ると席を立った。今日はありがとう、と微笑む女性に頭を下げ、俺も立ち上がる。
温かな色味の廊下を歩く。途中擦れ違う寝間着姿の老人や、それに付きそう職員に会釈をしながら出口へと向かう。と、途中、廊下を曲がってきた一人と目が合った。
「美輝?」
美輝は丸くした目で俺を見つめた。俺の腕を掴み、声を上げる。
「咲くん? どうしてここに……」
「いや、俺は」
そう言って事情を説明しようとしたときだった。突然、絹を裂くような絶叫が鼓膜を劈いた。
驚き固まる間にも、絶叫は長く続く。甲高いその声は、よく聞いてみれば女性の泣き声のようだった。
同じく固まっていた美輝が、ぱっと身を翻して廊下を駆ける。思わず彼女の名前を呼んで追いかけるも、彼女はそのまま泣き声か聞こえてくる部屋に飛び込んだ。一瞬迷ってから、俺は入口から部屋を覗き込む。
白い床と白い壁、六つほどずらりと並ぶベッド。一般的な大部屋だった。今は他の患者が外出しているのか入っていないのか、埋まっているベッドは一つしかない。
唯一のベッドに座っているのは中年の女性だった。寝癖のある髪に寝間着姿、少し歳を感じさせる顔の女性。だがその顔は茹でたように赤く、あられもない大声で泣いていた。
「おかぁさん、おかぁさん! どこにいるの? 返事してよ!」
舌っ足らずな泣き声は幼児を連想させた。けれど俺達の見ている女性はどう見ても幼児を通り越した大人の姿だ。目の前の光景に唖然とする俺と反対に、美輝は怖気ることなく女性に駆け寄ってその背を擦る。
「静香ちゃん、大丈夫だよ。お母さんもうすぐ来るって」
「でも来ないよ? しずが呼んでるのに、ずっと待ってるのに全然来ない!」
「道が混んでて遅れるんだって。だから、もうちょっとだけお姉ちゃんと待とう?」
子供を宥めるように笑う美輝。女性は不服そうな顔をしつつも、美輝の言葉に泣き声を少し沈めた。
静香と書かれたベッドにあるネームプレートが目に入る。静香という名前の前に書かれていたのは、星空という名字だった。
見てはいけないものを見ているような、気まずい感情が襲いかかってくる。けれどここから離れるわけにもいかず、俺はじっと美輝が女性を宥める様子を見つめていた。しばらくすると落ち着いたらしい女性は横たわって眠りに着く。美輝はそこでようやく俺に顔を向け、疲労の滲んだ顔で微笑んだ。
「ごめんね咲くん。変なところ見せちゃって」
廊下に戻ってきた美輝が肩を竦める。上手い返事が返せずまごつく間に、彼女は廊下の窓を開け、深く深呼吸をした。
春の風が彼女の髪を舞い上げる。外には木陰で休んだり、ベンチでのんびりしている人の姿があった。
「私のお母さんなの」
美輝がぽつりと言った。
「脳の病気でさ。私の高校入学が決まった頃、急に倒れちゃって。バタバタしてたら私の入学一年遅れちゃったんだ」
「それは、その……大変だっただろう。お父さんと二人で」
「うちお父さんいないんだ」
思わず口を押えた俺を見て、美輝が声を上げて笑う。気にしないでと明るい声で続けた。
「お母さんね、昔から結構いじわるな人だったの。我儘なところあってすぐ癇癪起こしてさ。お父さんはそれに呆れて大分昔に離婚しちゃったの。だから今は私とお母さんの二人だけ」
「入院費とか大丈夫なのか? 高校入学のときってことは、かなりいるんだろう、ここに」
「おばさんがいるの。お母さんの妹さんなんだけどさ、凄くいい人なの。お母さんの入院費も私の生活費も毎月出してくれる。遠方に住んでるしお母さんのことが嫌いだから、こっちに直接来てくれることはないけど」
淡々と語られる美輝の素性に、心の中で驚きを浮かべていた。
だって今まで一度も話してくれたことがなかったじゃないか。確かに美輝に家族の話を聞いたことはあまりないし、その度に彼女は上手い具合に話をはぐらかしていた記憶がある。
彼女はきっと普通の家庭で平穏な日々を過ごしていると、無意識のうちに思っていたのに現実はまるで違った。自分の母親が幼児のように喚く姿を見て、娘である美輝はどう思っているのだろうか。
「でも入院費はそろそろ来なくなるかもね」
静かに美輝が呟いた。外の木々が風に騒めく。
「……どういうことだ?」
「お母さん、もう長くないから」
感情のない、乾いた声だった。長くないから。その言葉がどんな意味を含んでいるのか、俺も彼女も理解している。
「幼児退行も痴呆も、脳に腫瘍ができてるせいなんだって。私には詳しいことはよく分からないけど、本当はもう、いつになってもおかしくない」
「そうなったら、美輝はどうするんだ」
「おばさんの所に呼ばれてるんだ」
母が死んだら、既に父がいない美輝は一人になってしまう。親戚であるおばさんと共に暮らした方が遥かに良いことだろう。幸いにも彼女の話を聞く限り、おばさんもその夫であるおじさんもとてもいい人達で、幼いいとこも美輝のことをとても好いているという。引き取られるのは美輝にとてもいいことに違いない。
けれど美輝の顔色は晴れない。彼女は憂いた表情で窓の外を眺め、ゆっくりと語った。
「皆いい人達なの。でもね、いい人達だからこそ、傍にいたくないな」
沈黙して彼女の言葉を聞く。自分の思いをゆっくりと吐き出すように、彼女は話し続ける。
「迷惑をかけたくない。あの人達の幸せな空間に、私が邪魔をしたくない。歓迎してくれてるのも本当は嘘かもしれない」
「そんなこと」
「それに、咲くん達と離れたくないよ」
名前を呼ばれ、伸ばしかけていた手を止めた。僅かに震えた彼女の声が空気を揺らす。俯いた拍子に肩に流れた横髪が、彼女の表情を覆い隠した。
「咲くんも、冴園くんも、大好きな人達。もしもおばさんの所にいったら、もう簡単には会えないじゃない。嫌なの。私はずっとここにいたいの、二人の傍で笑っていたいの」
「美輝…………」
パッと美輝が顔を上げる。泣いているかと思った顔は、予想に反して明るい笑顔を浮かべていた。
目を丸くする俺の前で、彼女は一変して鈴を転がすように声を弾ませる。
「なぁんてね! 変な話してごめんね。ほら、もうそろそろ暗くなってくるし、一緒に帰ろうか」
「あ、ああ…………」
美輝は元気に言って、俺の手を掴んで歩き出す。華奢な肩を見ながら俺は美輝に言った。
「本当に大丈夫なのか?」
「勿論、そうに決まってるじゃない」
振り向いた美輝が微笑む。温かい明かりに、彼女の髪がキラリと光った。
「だから心配しないでよ」
そう言って彼女はまた前を向いて歩き出す。引っ張られながら俺は、さっきの美輝の笑顔を思い出していた。
触れればすぐに壊れてしまいそうな、脆い笑顔だった。




