第68話 孤独
とても寒い日だった。
目を覚ましてすぐ、自分が布団の中に潜り込むようにして眠っていたことに気が付いた。目覚まし時計を掴もうと布団の外に伸ばした腕に、ひやりと冷気がまとわりつく。ここから出るのが億劫になるほど部屋は冷え切っていた。
時刻は普段起きるときより少し早い。だが、二度寝をしてしまえばもう起きられないだろう。ぬくもりを名残惜しみながら、俺は布団から起き上がった。
目を擦りながら廊下を歩く。吐く息が白い。最近どんどん冷え込んできたと感じていたが、今日にかけてぐっと寒くなったようだ。外に出るのが嫌になってしまう。
台所を覗いたところで、意外な光景に瞬いた。祖母の姿がない。俺が早く起きすぎてしまったのだろうか。いや、祖母はこの時間には起きてきているはずだ。
なら寝坊か? と考えながら廊下を通って祖母の部屋に向かう。冬になると起きるのが辛くなる。祖母も布団から出るのが嫌になっているのかもしれない。
部屋の前に付いた。閉まっている障子を前に声をかけてみたが、返事はない。
「ばあちゃん、開けるよ」
言って、少し待ってから障子を引く。真っ先に目に付いたのは雪だった。
部屋の雪見障子。そこから見える庭に雪が降っていた。しんしんと降る白い綿は、既に庭の草木や岩を白く染め上げていた。今年の初雪に感嘆の吐息を零すと同時に、どうりで寒いはずだと納得がいく。
祖母は部屋の中央に敷いた布団に、仰向けになって眠っていた。雪明かりの差し込む薄暗い部屋、白く照らされる祖母の顔。
「起きて、朝だよ。初雪が降ってる」
何度か呼びかけてみても祖母は身動ぎ一つしなかった。音が雪に吸い込まれているのか、俺が黙ると、部屋は怖いほどの静寂に満たされる。
祖母は起きなかった。一声かければ、すぐ起きてくれるはずなのに。不思議に思いつつ、肩を揺すって起こそうかと、肩に手を伸ばす。頬を手の甲が掠めた。
冷たかった。
弾かれたように手を引っ込める。両目を大きく見開いて、布団に横たわる祖母を見下ろした。性格が表れているかのように整った寝相。微かに動くことさえなかったかのような姿。
激しく脈打つ心臓と裏腹に、俺の手は空を彷徨うようにゆっくりと祖母の顔へ伸びていく。呼気が手の平に当たらない、頬を触っても目を開けない。何より、触れた肌は、陶器のように固く冷たかった。
「ばあちゃん」
自分が呟いた声は、ザラリと掠れて聞こえた。
遠くから携帯の音が聞こえた。弩にでも弾かれたかのごとく立ち上がり、自室へ向かう。急く気持ちと真逆に、足は力が抜けたように震え、立っていることさえままならない。それでも何とか電話が切れる前に部屋に戻ることができた。枕元に置かれたそれを耳に当てる。
『もしもーし。……お、繋がった? 咲ちゃん朝だよ、起きてる? 寝坊かー?』
一体何時間ぼんやりとしていたのだろう。時計を見れば、既に学校へ着いているはずの時間を越している。今更になって冷えた体がかじかむような寒さを訴えてきた。
電話の向こうから聞こえる冴園の明るい声。教室からかけているのだろう、背後から聞こえるクラスメート達の賑やかな声。昨日聞いたばかりのその喧騒が、やけに遠くから聞こえてくるような気がしていた。
冴園は一方的に語りかけてきた。課題の話、さっきまでクラスメートとしていた話、雪の話。けれど一向に喋らない俺を不審に思ったようで、訊ねてくる。
『風邪で声が出ないとか? それとも、まだ寝ぼけてる? 聞こえてるかこの声?』
「ばあちゃんが」
ようやく出せた声は固かった。ただならぬ様子に気が付いたのだろう、冴園が声色を変える。
『菊さん……? 菊さんが、どうかしたのか』
菊さん、と俺の祖母のことを昔から冴園はそう呼んでいた。自分の祖父母とあまり会ったことがないという彼は、俺の祖母のことをよく慕ってくれていた。
『咲、説明してくれ。ゆっくりでいいから』
「…………ばあちゃんが。起きないんだ。いつまで経っても、眠ったままで」
『……………………』
「触っても、冷たくて、固くて。……息、してなく、て」
喉が震えて喋れなくなる。携帯が手の平から落ちてしまいそうになる。カチカチと歯を鳴らして黙る俺の耳に、冴園の張り詰めた声が聞こえた。
『今すぐ行くから』
その言葉を最後に通話は切れる。急にまたシンと静まり返った部屋にいることに耐え切れず、俺は玄関へ向かって冴園を待っていた。
冴園が来たのはそれから幾ばくもしない頃だった。足音が聞こえてきたと思ったら、咲、と叫びながら鍵の開いた玄関の戸を開いて姿を見せる。黒髪や肩に白い雪を僅かに積もらせた冴園は、コートも着ておらず鞄も持っていなかった。唯一身に付けてきたのであろう青いマフラーは、ほとんど脱げかかって背中に垂れている。見るからに寒そうな薄着姿であるにもかかわらず、真っ赤になった頬には汗が滲んでいた。
「冴園」
俺のか細い呼びかけに冴園は頷き、靴を脱ぐ暇も惜しいとばかりの荒々しさで上がる。菊さんは、と問いかけられ、部屋に、とぽつり返す。
冴園はほとんど駆けるように廊下を進む。その後ろを追おうとしたが、どうにも体に力が入らず距離が広がってしまう。ハッとしたように振り向いた冴園が俺に小さな微笑みを浮かべてきた。だがその笑みは、俺が見知った明るいものではない、無理して作り上げたぎこちないものだった。
出るときに開けたままだった障子から、冴園が部屋の中を覗き込んで祖母の元に駆け寄る。菊さん、と何度も呼びかけて頬に触れた彼の手が、ぎくりと強張った。愕然と祖母を見下ろしていた顔がくしゃりと歪む。
膝に置いた拳を強く握りしめる冴園の隣で、俺も茫然と祖母の顔を見下ろした。
ただ眠っているようにしか見えない、安らかな顔だった。
葬儀や諸々の手続きは全て周囲の人が行ってくれた。担任や、良くしてくれた近所の人達が、何もできない俺の代わりにあちこち駆け回ってくれたようだった。難しい書類や手続きは、気が付けばいつの間にかほとんど終わっていた。
父からの祖父母は俺が生まれる以前に亡くなっている上、両親共に兄妹はいなかった。近しい親戚と呼べる人間なんて誰一人いないのだ。幸い、祖母が俺にと残してくれた遺産はそれなりにあったようで、急に生活に困ることはなかった。
それでも問題は山積みだ。今後の生活、学校、手続き……やらなきゃいけないことはたくさんある。だというのに、俺に残された気力は皆無だった。
何もする気が起きない。まるで動く気が起きない。ただ毎日をぼんやりと過ごし、市役所から渡された書類に目を通すか、冴園に連れられて学校に行ってぼうっと過ごすかしかできない。俺の事情はとっくにクラス中に知れ渡っているようで、憐憫の視線が絶えずどこからか注がれた。
冴園は、いつもと変わらぬ明るい笑顔で俺に接してくれた。祖母の葬儀やら何やらを行う間、喪心していた俺を支えてくれたのは冴園だった。葬儀が終わってからも俺を元気付けようと遊びに誘ったり面白い話をしてくれたりと彼なりに励ましてくれた。
日が経つにつれ少しずつ周囲も落ち着いていった。俺も、表面上は笑顔で冴園や美輝に触れることができた。冴園の話に美輝と笑って、授業に耳を傾けて、毎日家に帰って課題に手を付ける。
だけど、心の奥底に根付いた不安は、いつになっても取れやしない。
とある夜のことだった。部屋で課題をやっていたときに、玄関からチャイムの音が聞こえて顔を上げる。午後九時過ぎ、こんな時間に誰がやって来たのだろうか。
新聞勧誘かセールスだったら追い返そう、と思いながら玄関に行って戸を開ける。そこに立っていた人物の顔を見て少しだけ驚いた。
「美輝?」
「こんばんは、東雲くん」
玄関に立っていたのは美輝だった。ニットにロングスカートという私服姿の彼女は、肩に下げた鞄から取った一冊のノートを差し出してきた。東雲咲、と名前が書かれている。俺が数学のときに使うノートだった。
「ノート返却のとき他の子が間違って渡されちゃったみたいで。東雲くんと仲がいいから、渡してくれって頼まれたの。でも私も思い出したのがさっきだったから。遅れちゃってごめん」
「それでわざわざ? 別に、明日とかでも良かったのに」
「だって明日数学の授業あるじゃない。もし復習に使うんだったら、早く渡した方がいいでしょう?」
「ああ、うん……ありがとう」
ノートを受け取ると、美輝はそれじゃあと手を振って帰ろうとした。服の裾を反射的に掴む。
彼女が不思議そうな顔で振り向いた。戸惑って視線を泳がせ、おどおどと言い訳がましい言葉を述べる。
「わ、悪い。えっと、その、躓いて……お、お茶でも飲んでいかないか?」
キョトンと目を丸くする彼女を見て、顔が熱くなっていくのを感じていた。何を言っているんだ俺は。
裾から手を離す。と、逆に美輝が手を伸ばして俺の手首を掴んだ。驚いて彼女を顔を見つめる。彼女は白い息を吐きながら薄く微笑んだ。
「せっかくだから、お邪魔させてもらおうかな」
机の上に二人分のお茶を置く。湯呑に口を付けてほう、と息を吐いた美輝は、キョロキョロと部屋を見回した。
「和室って落ち着く匂いがするよね。私の部屋は洋室だから、羨ましいな」
「俺はむしろベッドが羨ましいけどな。敷布団もいいけど、二段ベッドとかに寝てみたい」
「あはは、二段なんて兄妹がいなきゃ買わないわよ。私も一人っ子だから、確かに憧れるけど」
他愛ない会話をしながらお茶を飲む。表面は平静を保ちつつ、熱い緑茶を何度も喉に流し込む。
何故俺は美輝を部屋に上げてしまったのだろう。いくら仲がいい友人とは言え、こんな時間に女子を部屋に上げてしまうだなんて、祖母が見ていたら何て言うだろうか……。
ふと、美輝が静かに俺の横顔を眺めていることに気が付いた。どうしたのかと問いかけると、彼女は僅かに目を細めて言う。
「ちゃんと食べてる?」
「え?」
「野菜とか、お肉とか。夜は眠れてる?」
美輝の手の平が俺の右頬を包むように触れてくる。細い指がすり、と目の下を撫でた。
「やつれたように見えるよ」
鏡を見たとき、目の下が暗くなっている気がしていた。顔色も血の気が薄いような色をして。やつれた、と言われても仕方がない。
俺は美輝の問いに小さく頷いた。頬に添えられた美輝の手に、そっと自分の手を重ねる。
「料理はばあちゃんに習ってたんだ。ちゃんと毎日食べてるし、心配ない」
「……睡眠は?」
「……夜は。夜は、怖いんだ」
怖い、と不思議そうに美輝が繰り返した。
「今までは夜になってもばあちゃんがいた。部屋で書道をしてたり、眠れない俺のためにお茶を淹れてくれたり、たまに縁側で月見をしてたり。どこかに必ず、ばあちゃんがいたんだ」
美輝は黙って俺の話を聞いてくれていた。沈黙に促されるように、俺はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「でも今はもうどこにもいない。家中どこを探したって、もうばあちゃんはいないんだ。この家に俺は独りきりなんだ」
夜になると漠然とした不安に押し潰されそうになる。もう祖母がいないという現実、自分が独りぼっちなのだという孤独感。広いこの家は俺一人で使うにはあまりにも広すぎて、祖母がいたときとそれほど変わったわけじゃないのに、広さと静寂に怯えてしまう。
毎晩のように襲いかかる不安。布団に潜り込むと考えてしまうその恐怖に、安らかに眠ることが難しくなっていた。
「この家に限った話じゃない。俺には親戚はいない、兄妹もいない。俺には誰もいないんだ」
「……違うよ」
「違う? 違うって何だよ。俺一人でこの先、どうやっていけばいいのか分からない。どうすればいいんだよ!」
「それは、違うでしょう」
きっぱりと言い切った美輝に顔を上げる。凛とした顔付きの彼女が、俺を真っ直ぐに見据えていた。真剣な眼差しに思わず息を呑む。
「東雲くんの傍には皆がいるじゃない。先生や、役所の人とか、頼ってもいい大人達はたくさんいる。それに冴園くんがいるじゃない。小学校からの親友なんでしょう?」
「冴園…………」
そうだ、冴園。小学校のときから俺の親友になってくれたあいつは、ずっと俺の傍にいてくれた。
支えてくれて、引っ張ってくれて。あいつがいなければ、きっと今頃、俺は俺じゃなかっただろう。
「あの子はこれまでもあなたをずっと支えてくれていた、これからだってそう。独りだなんて言ったら冴園くんが怒るわよ」
「……うん」
「それに、私もいる」
「……………………」
「冴園くんも、私も。東雲くんのことが大好きなんだから」
「……本当に?」
美輝は返事をする代わりに俺の方へと体を傾けてきた。咄嗟に支えようとした俺の腕を握り、自分の方へと軽く引く。
身を乗り出すように距離の近付いた俺の唇に、柔らかな彼女の唇が触れた。大きく開いた視界に、サラリと靡く金色の髪が映る。
時間が止まったような気がした。ゆっくりと顔を離した美輝は、柔らかな微笑みを浮かべて俺を見つめた。
「あなたは独りじゃない」
視界が歪んだかと思えば、頬を伝った涙が服に落ちた。彼女の手を乱暴に掴み床に押し倒す。彼女は驚いた様子も見せず、笑んだまま俺を見上げていた。
美輝、と彼女の名前を呼んだ。喉が熱い。声が震える。彼女の柔く白い手が、涙に濡れる俺の頬を撫でる。
「美輝」
「うん」
「美輝、美輝……」
「咲」
下の名で呼ばれ、一瞬息が詰まった。揺らぐ視界の中、彼女はゆっくりと俺に手を伸ばした。
「おいで」
優しい笑みを浮かべる彼女の唇に、涙が一粒落ちた。
それを追うように、俺は彼女の唇に食らい付いた。
辺りはすっかり暗くなっていた。重い頭を枕から上げ、ぼんやりと横に顔を向ける。すぐ隣に美輝が座っていた。窓から差す青白い星明かりに、服を纏っていない彼女の素肌が照らされる。
彼女は口に何かを咥えていた。ふとその顔がこちらを向き、微笑みを浮かべる。
「起こしちゃった?」
答えず、彼女が右手に持っている物を凝視した。見覚えのあるライターだ。俺の視線に気が付いた美輝は、困ったような恥ずかしそうな顔をして、ライターを振る。
よく見れば彼女が咥えているものは一本の煙草だった。駄菓子屋で見るようなお菓子でも何でもない、本物の煙草だ。
「実は吸ってるんだよね、私」
「……気付かなかった」
「気付かれたら困るよ」
でも今日でバレちゃった、と彼女は肩を竦める。
「吸いたくなったけど、考えてみれば人の家だし。やめとくよ」
意外だった。大人びていて優しく、真面目な彼女がこんなものを吸うだなんて。二年間付き合ってきて初めて知る衝撃だった。けれど、彼女の咥えている煙草から、何故か目を離すことができなかった。
美輝はライターをしまおうとする。それを制し、彼女に言った。
「俺にも一本くれないか」
美輝は驚いたように目を丸くした。本気? と訊ねてくる彼女に頷く。途端に眉を顰めた彼女は言い聞かせるように言葉を吐いた。
「煙草なんて体に悪いだけだし、未成年のうちに吸うのは良くないよ。格好付ける目的で吸おうとしてるのならやめなさい」
「知ってる。それに、体に悪いっていうなら、美輝も同じだろう」
「……そうだね」
美輝は苦笑して、煙草ケースを取り出した。そこから出した一本を俺にくれる。手慣れた様子で自分の煙草に火を付け、ゆっくりと吸った息を紫煙として吐き出す。
「こうやるの。吸ってみて」
「こう?」
煙草を指に挟んで息を吸う。美輝がライターの火を先端に近付けた。直後、盛大に噎せ返った。ゲホゲホと涙目になって咳き込む俺の横で、美輝は笑いながら煙草を吸う。
女性向けの煙草は甘いだとか、タールが少ないだとか、それくらいは聞いたことがある。けれど美輝が吸っているものは決して女性向けとは言えないような普通に苦い煙草だった。
「無理に吸わなくてもいいんだよ?」
美輝の言葉に首を振る。噎せそうになるのを必死に堪えながら、なおも煙草を吸い続けた。苦くて煙っぽくて、思っていた以上に不味い。どうしてこんなものを吸っているのかと自分が馬鹿らしく思えてくる。それでも煙草が吸いたかった。胸に込み上げてくる感情を殺すかのように、煙を肺に吸い込んだ。
煙草のせいか、視界がぼやけて胸が苦しくなる。苦しい思いを飲み込みながら、美輝の手に指を絡めた。彼女がぴくりと指を反応させる。
「美輝」
「……なぁに?」
「お願いだから。ずっと、俺の傍にいてくれ」
情けない言葉だった。みっともなく震えた声も、無理して吸う煙草も。何もかもが格好悪い。
美輝がそっと俺の肩に頭をもたらせる。絡めた指に僅かに力が込められた。彼女が微笑む様子が、気配で伝わってくる。
うん、という静かな返事が、紫煙の中に溶けていった。




