第7話 彼の名前
それから毎日のように訓練は続いた。毎朝四時に起き、支度を整えて電車に乗り第五区の神社へ向かう、終わったときにはすでに夜を迎えていて、くたくたになりながらろくな食事も取らずにベッドに倒れ込む日々。泣く暇もなく眠りに落ちる。
訓練を初めてからカレンダーに付け始めたバツ印。それが七個溜まったところで、ようやく久しぶりに学校へ登校することができた。
「――――……じゃあこの一週間はお家の事情があっただけなんですね?」
書類を整理する手を止め、椅子に座る金井先生がそうまとめた。
香ばしいコーヒーの香りが漂う職員室。朝は忙しいのだろう、先生達が忙しなく授業の準備に追われていた。そんな中で担任の金井先生と向かい合うようにわたしは立っていた。
今朝、一週間ぶりに登校したわたしは金井先生にホームルーム後、職員室に呼び出された。理由はなんとなく分かっていた。不真面目ではない生徒が突然一週間も学校を休み始めたのだ、それも日頃クラスから浮き気味のわたしが。真っ先に不登校を疑うのも当然だろう。証拠に、教室にいるわたしを見た金井先生の顔は、驚き以上に安堵の色に染まっていた。
「すみません風邪だなんて嘘をついてしまって。でもちょっと複雑な事情だったので、説明するのが大変で……」
「別に構いませんよ。……そ、それよりも秋月さん」
「はい?」
「何かその……最近困っていることとか、悩み事とか、ないですか? ……えっと、その、何か小さなことでも」
狼狽えながら視線を彷徨わせる金井先生に思わず噴き出しそうになった。
先生は怖いんだろう。自分のクラスから不登校になってしまう生徒が出るのが。いじめを黙認しているくせに、表面的な問題が起こるのは嫌なんだ。できることなら三年間何事もないまま卒業して欲しいと思っているはず。わたしが我慢すれば済むことだって、そう思ってるんですよね? そうでなきゃ今まで何の対処もしてくれなかった理由にならない。
込み上げる怒りを隠しながらわたしは微笑を浮かべ、本当にすみませんと頭を下げた。金井先生が慌てて手を振りながら、いいんですよ休んだことはと言った。
「いえ、それもなんですけど……これからも多分、結構頻繁に休んじゃうと思うんです」
「え? どうして……」
「ちょっと今、その、家で色々ありまして。少しややこしくなってるんですよ。だからそっちの問題で忙しくて学校に来にくくなりそうで」
真っ赤な嘘を並べ立てる。本当は全く別の、あの彼との事情だったのだけれど正直に話すわけにもいかない。幸いというべきか、金井先生もわたしの家の事情はそれとなく知ってるようで、曖昧な笑顔でその話を受け入れたようだった。
「…………まあそれならしょうがないですね。秋月さんの成績も悪くないですし、授業態度も真面目ですから。出席日数の方も課題でなんとかなるでしょう」
「ありがとうございます」
「文化祭はどうしますか?」
「ああ、申し訳ないですけど、それもちょっと」
「そうですか……残念ですね」
数日後、十月の終盤に控えた文化祭。二日間のそれでわたしたち一年二組はドーナツを売るらしい。どうもこの一週間の間に決めたことのようだ。文化祭自体は楽しみたいけれど、どうせ参加したところでクラスから省かれるだけだろう。祭りでさえ疎外感を覚えるのだったらいっそ休んでいた方がマシだ。
クラスメートたちだって、わたしがいない方が楽しいだろうから。
教室に戻ったわたしを待ち構えていたのは、わたしの席に座ってにやけた顔を浮かべた恋路さんだった。一条さんと瀬戸川さんの姿は教室にない。トイレかな? 恋路さんが一人でいるなんて珍しい。
「おはよ、秋月。ねえねえ、何でずっと休んでたのに今日来たの? 不登校だったんじゃないの?」
「あはは……違うよ」
「じゃあ何? 何? えりなが言ってたけど、援交してるってほんと?」
「はっ!?」
突然彼女の口から飛び出した言葉に声が裏返った。援助交際だっけ? と彼女は小首を傾げる。
「だって言ってたよ、えりな。女は寂しくなると男の所に行きたくなるんだって。何かそれって気持ち悪ーい。秋月のエッチ」
「は!! ……ち、違うよ! やめてよそんな変なこと言うの! そんなことするわけないでしょ!?」
わたしが声を荒げて反論すると、教室が僅かにざわめいた。迷惑そうな視線に慌てて声を落とす。でも恋路さんの楽しそうな笑顔は変わらない。
「あ、でもでもお金貰えるんでしょ? それもいーっぱい! 五万とか七万とか払う人もいるって。高いホテルに泊まらせてくれる人もいるって。そんなにお金貰えたら、お菓子とか人形とかアクセサリーとかいっぱい買えるじゃん! いーなー、秋月元々お金持ちのくせに、それ以上貰えるなんて」
「…………一条さんがそう言ってたの?」
「うんっ! あーあ、ほんっと羨ましい。あやも一回くらいやってみようかな? 一度お腹いっぱいお菓子を食べてみたかっ――――」
恋路さん、と言葉が口から弾かれた。思いのほか低くなった声に恋路さんがぴくっと目を見開いた。
わたしを見つめる恋路さんの大きな目を見つめ返しながら、わたしはゆっくりと静かに言う。
「そんなこと、本当に思っていなくても、言うのはやめなさい」
恋路さんはしばしぱちくりと目を瞬かせた。それから一拍置いて、その瞳にじわりと水の膜が張られる。
「な、何でそんなキツイ声で言うのぉ。秋月のバカッ」
「あっ、いやその、ごめ……」
恋路さんは涙を浮かべて教室から走り去ってしまう。追いかけようかと一瞬迷ったけれど、結局そのまま席に着いた。幸いクラスメート達もそれほどこちらに興味はなさそうだ。
……それにしても一条さんがそう言ったのか。わたしがそんなことをしてるって。そういえばこの間も同じようなことを言っていたっけ。…………嫌な想像はやめよう。それよりもわたしが考えなければいけないことは他にある。
一日が終わるのが早かった。放課後になった途端、わたしは既に中身を詰め終わっていた鞄を手にして教室を駆け足で出ていく。今日は一条さん達に絡まれるわけにいかない。
そのまま駆け足で学校を出て家に戻る。制服からジャージに着替え、携帯と鍵だけをポケットに押し込んでまたマンションを飛び出す。電車に乗って第五区へ。目的地はもう地図を見なくても行ける場所、ここ一週間通い続けたあの神社だ。
急な階段を駆け足で上がる。息も切れずに辿り着いた先に、彼が立っていた。
「早いな。それじゃあ行くか」
簡潔に言って彼は階段を下りていく。わたしも、今上ったばかりのそこを下りて行った。心臓がバクバクと鳴り出す。だけどそれは運動して疲れたわけじゃない、ただ緊張しているだけだ。
夕方になって空気は冷えている。そのせいで体の表面はひんやりとしているのに、内側はまるで火を焚いたように熱く感じていた。
今日はわたしの初仕事。
わたしが人生で、初めて悪事に手を染めることになる日だった。
駅に着いた。彼は二人分の切符を買い、ちょうど駅にやってきた電車に乗り込む。急いでわたしも後を付いて乗り込み、空いていたボックス席に向かい合うように座った。電車がすぐに動き出す。
ガタンゴトンと揺れる電車。それからしばらくわたしたちはお互いに一言も喋らなかったが、それがむしろ緊張を煽る気がしてわたしは恐る恐る彼の名を呼ぼうとした。
「あのっ――――……………………」
そこでふと初めてとある疑問が思い浮かんだ。口をポカンと開いたまま固まるわたしを怪訝に思ったようで、彼が視線をわたしに向け、どうした? と尋ねてくる。
なんとなくその疑問を口に出しづらくて、もにゅもにゅと唇を動かしていると、彼は眉を顰めてしまう。
「言いたいことがあるならハッキリ言え」
「…………名前」
「は?」
「わたし。あっ、あなたの名前、知らないんですけど! あなたはわたしの名前知ってるのに……理不尽じゃないですかっ」
一瞬彼がポカンと目を丸くした。初めて見るその表情に更に恥ずかしさを覚え、咄嗟に窓の方に視線を逃がす。けれど窓ガラスに映った自分の顔が赤くなっていることに気付いてしまった。
数秒間が経って、彼がぽつりと何かを呟いた。え? と聞き返しながら彼の方に視線を戻すと、その顔はどこか苦々しく歪んでいた。
「東雲」
「苗字、ですよね? 下の名前は?」
「……咲」
「偽名ですか? 可愛い名前」
女の子みたい、と思わず笑いながら言うと、彼がふいっとそっぽを向いた。少し拗ねたような、荒げたような声で「本名だ」と呟く。
「え? ……あっ、す、すみません!」
「別に。女みたいだなんて昔からよく言われてきたからな。とっくに慣れてる」
「あっと……じゃ、じゃあ、東雲さんって呼んでも、いいですか?」
「好きにしろ」
わたしのことは和子って呼んでもいいですから、と焦りながら付け加えた。
「それでその、東雲さん」
「何だ、和子」
名前を呼ばれ、思わず頬が緩みかけた。
そう言えばちゃんとした意味で下の名前を呼ばれたことなどいつ以来だろう。
「これからわたしたちどこに行くんですか? 仕事としか聞いてないですけど」
「言ってなかったか? 第七区だ」
「七区!?」
思わず腰を浮かせて驚いた。車内にわたしの声が響く。顔を赤くしながらまた座るわたしに、東雲さんは淡々と説明を続ける。
「仕事をするには依頼が必要だ。依頼人と俺達が直接交渉することもあるが、俺は大抵仲介業者を挟む。贔屓にしている業者が第七区にあるんだ。何か不都合でも?」
「いえ。ただ、第五区に行ったのも一週間前が初めてだったので。第六区にだって行ったことないのに」
地区の数字が大きくなるごとに物騒な明星市、その中でも第七区は紅街というキャバクラやラブホテルやソープランドなどが多い、いわゆる風俗街。わたしのような人間が行く所じゃない。
僅かな不安に駆られて思わず身を抱き締めた。そんなわたしの心など放っておくかのように、車内に流れるアナウンスが、もうすぐ第七区に着くことを告げていた。