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第67話 幸せな日々

「東雲くん、さっきの授業でここ分からなかったんだけど、分かる?」


 俺の席までやって来た美輝が、古文の教科書を見せてくる。どれ、と手元を覗き込んで内容を眺めた。


「ああ、これは打消しの意味で使われてるから。翁の言葉に対しての文だな」

「なるほど、そっか!」

「俺じゃなくて友達に聞いても良かったんじゃないのか?」

「東雲くん古文得意じゃない。こないだも先生に褒められてたし」

「……そうか」


 ありがとー、と大きく手を振って美輝は自分の席へと戻っていく。それにひらひらと小さく手を振って、少し赤くなった顔を隠すように頬杖を突く。

 美輝と知り合った昨日から一晩過ぎた今日。今朝教室で顔を合わせたときから、彼女は俺に笑顔で話しかけてきてくれた。急激に距離を縮めてくる彼女に少し戸惑ったのも確かだが、嫌な気はしない。

 他の席の友人達と話を終えた冴園が、やけに機嫌のいい顔で肩に腕を回してきた。おいおい、とからかいと歓喜の混じった声を弾ませる。


「隅に置けないなぁ咲ちゃん! いつの間に彼女ができたんだ?」

「彼女じゃない」

「じゃあ何だよ」

「友達だ!」


 海に行ったり、星を見たり、そういうことをするのは友達になった証拠だと思う。高校に入って初めての友達。そう呼べる人が増えたことがとても嬉しかった。

 得意満面の表情を浮かべる。冴園はポカンと口を開けて俺を見ていたが、数秒してから堪え切れなかったように笑い声を上げた。そうか、と何度か頷いて髪の毛を乱暴に撫でてくる。


「良かったな、友達ができて」

「ああ」

「昨日休まなければ良かったなぁ。……それにしても美輝か。人見知りにしては、お前もやるね」

「どういう意味だ?」

「知らないのか? あの人、俺達より一年上だろ? 自己紹介のとき、家の都合か何か……とかで皆より一個上だって、自分で言ってたじゃん」


 目を丸くする俺を見て、冴園は知らなかったのか? と苦笑した。

 自己紹介のときだなんて言われても、あのときはいかに自分が噛まずに言えるかという緊張感で必死だったから、他人の紹介などろくに耳に入ってはこなかった。結局発表も、緊張し過ぎて固く不愛想なものとなってしまった記憶しかなく、自分の番が終わってからも後悔が頭をぐるぐる回ってたせいで後ろの人の紹介も聞いていない。

 苦い記憶を思い出し顔が赤くなる俺を気にせず、冴園は続ける。


「だから何となく話しかけづらいって思う人もいるみたいなんだ。話してみれば気さくでいい人なんだけどな」

「……冴園はもう話したのか?」


 何度か、と冴園は微笑んだ。高校に入ってからもその友好的な性格で誰にでも話しかける彼のことだ、入学して数日足らずでクラスメートの全員と言葉を交わしたに違いない。いまだにクラスメートのほとんどと視線を合わせたことさえない俺からすれば、羨ましい限りだ。


「でも綺麗な人だよな。知ってるか? 美輝を狙ってる奴、結構いるみたいだぜ」

「ふーん」

「咲ちゃんの好みのタイプは年上かな? あ、俺の好み? 気になる? 俺の好きなタイプはねー……可愛ければ誰でもーっ!」


 聞いてもいないことを話す冴園を無視し、美輝の席へと目を向ける。友人と楽しそうに話し、時折肩を竦めるように笑っている彼女の姿。制服から覗く白くすべらかな肌。背中に垂れる金髪は、光の加減で透き通るように美しく輝く。整った顔立ちは笑うと、まるで百合の花が綻ぶような甘いしとやかさがあった。

 改めて見ると、確かに綺麗な人だった。今しがた年上だと聞いたからだろうか、他のクラスの女子よりも、どことなく落ち着いた雰囲気も感じる。

 それにしても。まだ入学して数ヶ月と経っていないのに、既に好きだの恋だのそういう話題が出ていることに驚く。それとも俺が恋愛に疎いだけで、こんな短期間で人を好きになるのは普通のことなのだろうか。美輝をぼんやりと眺めながら、他人から好意を抱かれるというのはどんな気持ちなのだろうと考えた。



 小さな悲鳴と、バシャンという水音がした。

 段差の上にある教壇。躓いたのだろうか、床に委員長が倒れていた。彼女の手から離れたらしい花瓶はコロコロと床を転がり、誰かの爪先に当たって止まる。それは教壇に寄りかかって友人と談笑していたクラスメートの男子だった。、素行の悪いことで有名な、クラスメートの男子だった。明るい色の髪から、ぽたぽたと水滴が垂れている。

 教壇の脇にある机。教室に華やかさを出したい、と担任が花を飾っている場所。けれどその水を換えるのは生徒達の役目だった。誰も積極的にやることのない役目を、委員長は率先してやっていた。痛みに呻いていた委員長は、すぐにハッとした様子で我に返り顔を上げる。目の前の現状に段々と彼女の顔が青くなる。あーあ、と男子が委員長に向き直った。


「ごっ、ごめんなさい!」

「超濡れちゃったんだけど。どうしてくれんの、委員長?」


 委員長は怯えきった様子で身を縮めていた。まるで小動物のような彼女の姿を、男子はじとりと見下ろしている。明るい色に染まった髪の毛から、ポタポタと水滴が垂れていた。

 学年に数人は素行の悪い生徒がいる。このクラスにも数人いるものの、中でも彼は一際たちの悪い奴だった。実際に目にしたことはないが、教師に暴力を振るっただの、他行の不良と煙草を吸っていただの、裏路地で薬を売っているだの。嘘か本当か分からない噂ばかりが出回っている。

 よりによって彼に水をかけてしまうだなんて。委員長の顔は青を通り越して血の気が失せ、恐怖に涙を滲ませていた。座り込んだままの彼女に彼が舌打ちをする。


「黙ってないで謝れよ」


 ただならぬ空気に周囲が騒めき始める。今にも何か嫌なことが起こりそうな雰囲気だ。

 やばいな、と呟いて冴園が声を上げようとする。だがそれより前に、立ち上がった一人が委員長と男子の前に割り込んだ。


「そのあたりで落ち着きましょ?」


 美輝だ。いつの間にか席を立って移動していた彼女は、柔らかな微笑みを浮かべながら、けれど委員長を背に守るようにそこに立っていた。

 あ? と男子が威嚇するような声を上げる。動じる様子もなく、美輝は静かに言った。


「委員長も悪気があったわけじゃない。ここは一つ、男らしく許してあげて」

「そう簡単に許せるか。何だよあんた、関係ないのにしゃしゃり出てきて」

「別にいいじゃない。委員長だって、最初に謝ってたでしょう?」


 彼は眉をひそめた。何か言おうとその口が開きかけたとき、美輝の言葉に押されたようにそうだそうだ、という声が教室の隅から上がる。


「あんたが先に委員長にぶつかってたんじゃない! あたし、見てたんだから!」


 お前が悪いんだろ、と罵声が一層強く上がる。非難の大合唱に、男子の怒りは更に増長されてしまったようだ。明らかな怒りの表情を剥きだした彼は、目の前の美輝を鋭い目で睨み付ける。


「流石、留年した先輩の言うことは違うなぁ」

「伊達に年上じゃないわよ。ありがとう」


 皮肉に応じた様子もなく、サラリと美輝が答える。返答が気に食わなかったのだろう。男子が横に下ろしていた拳をキツク握り締めた。冴園がサッと顔色を変えたのが見えた。

 耐え切れなかった。弾かれたように立ち上がった俺は、驚く周囲の反応も無視して、彼の前に飛び出す。突如目の前に現れた俺に驚いたのか、振り上げようとしていた拳を空中で止めた。

 東雲くん? と後ろに庇った美輝が驚いた声を出す。返事はせず、目の前の彼をじっと見つめた。


「何だよ」


 困惑と苛立ちの入り混じった声。鋭い目に睨まれる。俺より僅かに身長の低い彼を見下ろす形になっているはずだが、何故か、自分よりも遥かに背の高い相手に思えてしまう。

 無表情を貫くも、内心は緊張と恐怖で激しく心臓が鼓動していた。固い拳で殴られるんじゃないかと思うと、恐ろしさに泣きそうにさえなってしまう。顔も身長も何もかもが違うのに、目の前の彼が、小学校のときのクラスメートに重なってしまう。平森くんと海斗くんの顔が思い起こされる。

 泣くまい、と頬肉を噛んだ。ここでそんな醜態を見せるわけにはいかない。震えないよう必死で平坦な声を装って、彼に言った。


「すまなかった」


 キョトンとした目に見つめられる。まさか謝罪の言葉が出てくるとは、思いもしていなかったのだろう。

 喧嘩になんてできない。ここで彼を非難することに意味はない。争うよりは、穏便にこの場を宥めたかった。俺にはそれしかできやしない。


「……もうすぐ担任がやってくる。無駄に言い争うより、さっさと終わらせた方がいいだろ」

「それは、そうだけどよ」

「委員長は躓いただけなんだ。だけど、水をかけてしまったのは、悪かった。俺からも謝っておく。すまない」


 頭を下げる。目の前の彼が困惑する気配は見えずとも分かった。

 笑い声が聞こえる。視線を上げると、水に濡れた彼の髪をわしゃわしゃと撫でながら、先程まで彼と談笑していた友人が俺達へ笑顔を向けていた。


「そうだな、先にぶつかったのはこっちの方だ。こいつ、話に盛り上がると身振り大きくなっちまうんだよ」

「おいっ、それでいいのかよ!」

「いいも何も、悪いのはこっちだ。ごめんなー委員長」


 委員長がぶんぶんと勢い良く首を振った。大丈夫、という意思表示に男子は何度か頷く。

 何とかなりそうだとほっと胸を撫で下ろす。だが彼が突然こっちを向いたせいで、ドキリと肩を強張らせた。


「東雲って思ってたような奴じゃないんだな」

「え……あ、おう……?」


 予想外の言葉にもごもごと小声で答える。それに笑って、渋々とした顔の男子を引っ張って教室を出て行こうとする。

 ちょっと待って、と美輝が呼び止める。振り向いた彼の頭に、取り出したハンカチをそっと当てた。黄色のハンカチが濡れた髪を拭く。


「濡れたままだと風邪を引いちゃうから。良ければそれ、使って」


 彼は一瞬目を丸くし、パッと美輝から顔を逸らす。噴き出す友人をうるせえと怒鳴り付け、彼らはそのまま離れていった。

 それを見届けてから、俺は座り込んだままの委員長に振り返った。


「大丈夫か?」


 彼女はまだ怯えていたらしい。真っ赤になった目が俺を見上げ、顕著にまつ毛を震わせる。

 どうしたものかと考えた末、しゃがんで委員長に目線を合わせる。安心させるように小さく笑みを浮かべてみた。


「怪我は?」

「だ、だいじょう、ぶ」

「なら、良かった」


 言葉通り、彼女に怪我はないようだった。良かった、と心から安堵して息を吐く。委員長は俺の顔を見て目を丸くし、素早く俯いてしまう。


「あ……悪い。怖がらせたのなら、その、ごめん」

「え? あ、や、違う。違うのっ」


 再度顔を上げた委員長は慌てた様子で否定する。もごもごと口の中で転がした言葉を、意を決したように吐き出した。


「ありがとう、東雲くん!」


 ぶわっと顔が熱くなった。緊張が掻き消え、強烈な歓喜が胸に込み上げる。

 プリントを渡したとき、俺のことを怖い人だと話していた委員長。彼女が俺に向けてくる視線には、恐れと拒絶が滲み出ていた。今は違う。キラキラと目の輝いた赤い顔が、俺に真っ直ぐ向けられていた。

 俺のことを怖がっていたクラスメートから向けられる、好意の眼差し。それが、こんなにも嬉しいだなんて。


 赤くなる顔を隠したくて転がったままの花瓶に手を伸ばした。次の瞬間、チクッとした鋭い痛みに手を引っ込める。手の平を見てみると、指先に小さく血が滲んでいた。

 見えないどこかが割れていたらしい。怪我を見た委員長が慌てて掃除ロッカーへ用具を取りに行く。


「割れた物に手を出すと危ないわよ」


 横からぬっと美輝が顔を出してきた。保健室に行きましょうか、と言う彼女に大げさだと肩を竦める。


「舐めれば治るさ」

「あら、怪我は馬鹿にしちゃいけないのよ。これ使って」


 彼女は俺の正面にしゃがみ、ポケットから取り出した絆創膏を指に巻いてくれた。些細な怪我だけれど気のせいか痛みが和らいだような気がする。


「ありがとう…………その、えっと、美輝……さん?」

「やだ、やめてよ他人行儀な呼び方なんて」

「でも、年上だし礼儀くらいは」

「他人行儀なのは礼儀とは言わないわ。それに、前まで普通に美輝って呼んでくれてたじゃない。美輝のままでいいよ」


 それは知らなかったからで、と言葉を続けかけたがやめた。祖母から年上に対する礼儀というものを懇々と教えられてきたが、同時にそれは使いようだとも教えられた。今がそのときだろう。

 美輝がじっと俺の顔を見つめていることに気付き、何だと首を傾げる。彼女は微かな笑顔を浮かべて言った。


「さっきの東雲くん格好良かったよ。ヒーローみたいだった」

「ヒーロー?」

「うん。私を助けに来てくれた、英雄さん」


 英雄。その言葉を何度か繰り返し、俺は堪え切れずに小さく笑い声を上げた。キョトンとした顔をする彼女に教える。


「俺は、俺の憧れたヒーローの真似をしただけだよ」

「東雲くんの憧れた人?」


 怪訝に首を傾げる美輝に頷いたとき、咲ちゃん、と俺の名を呼ぶ声がした。ほっとした安堵の表情を浮かべた冴園が俺達の傍にやって来た。


「あー、もー! 殴られるんじゃないかって心配しただろ! でも、お前よくやったな、凄いぞ! 美輝も怪我はない? あ、委員長、ここの掃除俺やっとくよ」


 ベラベラとまくし立てる冴園を見て、俺はチラリと美輝に目配せをした。彼女は冴園を見て納得したように頷いた。


「俺の憧れたヒーローだ」


 そう言ってくしゃりと笑うと、美輝も釣られたように笑顔を綻ばせた。当の冴園は何が何だかよく分かってない顔で疑問符を浮かべていた。

 小学生のときに俺を助けてくれた、格好良くて憧れたヒーロー。あのときの冴園のように、俺もまた、誰かのヒーローになることができたのだろうか。






 朝起きて台所に行くと、味噌汁の香りがするのが好きだった。

 窓から差し込む太陽の白い光。それに照らされる祖母の後ろ姿は、幼い頃から見慣れた朝の風景だ。


「おはよう、ばあちゃん」

「おはようございます、咲」


 振り返った祖母が静かな笑みを浮かべる。壁にかけてあった緑のエプロンを身に付け、隣に立つ。

 昔は自分よりずっと大きかった祖母の背も、今ではすっかり白いつむじが見える位置だ。高校二年の夏。昔と比べ、随分俺も背が伸びたものだと改めて実感する。


「何すればいい?」

「魚を焼いてくれますか。下味は付けてあるので」

「分かった」


 塩を振ってあった魚をグリルで焼く。待っている間にだし巻き卵でも作ろうかと考え、材料を用意して卵を溶く。熱したフライパンに液を流し入れ、頃合いを見計らって箸で形を整える。

 皿に二人分の焼き魚とだし巻き卵を盛り付け、他にもお新香やらお茶やらご飯やらを食卓に並べる。祖母が注いでくれた味噌汁を置き、俺達は席に着いた。

 いただきます、と両手を合わせてから味噌汁に口を付ける。空っぽの胃に温かな汁気が沁みていき、ほうっと息を吐いた。やっぱり祖母の作る味噌汁は美味かった。


「料理が上手くなりましたね」


 だし巻き卵を飲みこんだ祖母が言う。俺は苦笑して答えた。


「何年教えられたと思ってるんだよ。当たり前だって」


 祖母が教えてくれた料理は俺の腕と舌にしみついている。物心付いたときから厳しく教えられてきたのだ、目を閉じていても簡単にこなせてしまいそうなほどに。

 炊事、洗濯、掃除。これまで祖母が教えてくれたことは、俺の頭と体にしっかりと刻み込まれている。いつ自立しても大丈夫なようにと。

 広い家を一人きりで支えてきた祖母。俺が家事をすることで少しでも支えることができていればいいのだが。もう結構な年だというのに、一人で何でもこなしている祖母を見ていると、俺がいくら頑張ったところで支えるどころか足元にも追い付けていないのではと心配になる。


「……あ、そうだ。俺の浴衣ってどこにしまったっけ」


 ふと思い出して訊ねると、湯呑を持っていた祖母は小首を傾ける。


「桐箪笥の中ですよ。何かに使うんですか?」

「もうすぐ七夕祭りでしょ? 着ていこうと思っててさ」


 七月七日に控えた七夕祭り。街の大通りで行われるそれに、一緒に行こうと誘われていたのだ。

 着付けもしなきゃな、と考えながらお茶を啜る俺を祖母がじっと見つめる。何? と不思議に思って訊ねた。


「それは冴園くんと? それとも、星空さんという子と?」

「美輝?」


 昔から家に遊びに来ていた冴園のことは祖母もよく知っている。冴園自身俺の祖母のことを慕っていて、遊んでもらったり、書道を教えてもらったり、調子に乗りすぎて一緒に正座して数時間も説教されたり……。とにかく俺達の仲の良さも、祭り事には一緒に行くことも知られている。けれど美輝のことを祖母に話したことはあまりない。

 彼女と俺達が仲良くなったのは去年、一年生の春頃だ。関わりを持ったのをきっかけに冴園が積極的に話しかけるようになって、いつからか俺と冴園と美輝という三人組の構成ができていた。何となく一緒にいるようになって、遊ぶようになって。去年は美輝が家の都合があるといって無理だったが、今年は三人で七夕祭りに行こうという話になっていた。

 それほど話したことのない美輝のことを祖母が振ってきたのは初めてだ。驚いていると、祖母がしみじみと呟いた。


「咲にもとうとう良い人ができたんですね」


 噎せかける。何度か咳をしてから、目を丸くして祖母を凝視した。


「な、何言ってるんだよ!」

「違いますか?」

「美輝はただの友達だって! それに、三人で行くんだよ!」


 なるほど、と言いつつも祖母は微笑ましそうな笑みを浮かべていた。その視線がやけに気になって、俺は急いで食事を終えた。

 学校に行く仕度を整え、玄関に行って靴を履く。見送ってくれる祖母に振り返る。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 手を振る祖母に微笑んで、玄関から一歩外に踏み出した。





 数日が経ち、七夕祭り当日の夕方。既に大通りはたくさんの人で賑わっていた。電柱の間、屋根と屋根の間に、ずらりと並ぶ提灯と吹き流し。日が落ちていないにも関わらず満ちている祭りの空気。

 待ち合わせ場所である広場の銅像前でキョロキョロと辺りを見回していると、余所見をしていたせいで人にぶつかってしまう。きゃっとよろめくその人の腕を咄嗟に掴んだ。


「すみません!」

「いえ、こちらこそ」


 緩くカールした髪をふわりと肩に泳がせながら、その女の子は小さく頭を下げる。浴衣を着たその子は俺と同じようにしばし周囲を見回していたが、遠くから彼女の友人らしき人物の声が聞こえて、顔をそちらに向けていた。


「梢! こっちこっち!」

「あ、鈴。いた!」


 きゃあきゃあとはしゃいだ声を上げ、梢と呼ばれた子が友人の元に駆けていく。同じく浴衣を着たその子の友人は、赤いシュシュを付けた茶色いポニーテールを元気に揺らし、大きく手を振っていた。仲良さげに祭りの中へと二人が消えていく。友達同士で祭りを見て回るのだろう。微笑ましい様子に思わず微笑んだ。

 賑やかに通り過ぎていく家族連れ、手を繋いではにかみながら歩くカップル、はしゃぎながら駆け抜けていく学生達。そんな人々が俺の周囲を通り過ぎていく。祭りのせいで、辺りはこんなにも人で溢れているのだから。余所見なんかしていては誰かにぶつかってしまう。大人しく待っていなくては。

 しばらくぼんやりしていると、どこからか名前を呼ばれた気がして顔を上げた。遠くの方から、ニコニコ笑ってやって来る冴園の姿が見えた。近くまでやって来た彼は、何故か手にぶら下げていた袋をずいとこちらに突き出してくる。


「待たせた?」

「いや時間前だからいいけど……何だこれ」

「来るまでに何人か知り合いに会ってさー、くれたんだよ。えっと、こっちが焼き鳥でこっちがリンゴ飴でこっちが……」


 遊ぶ前から貰えるのか、と思わず苦笑する。交友関係が広い冴園らしい。

 二人で冴園が貰ったものを整理していると、カラコロと下駄の音がして、ごめんなさい、と声をかけられた。


「少し準備に手間取っちゃった。お待たせ」


 紺色の浴衣に浮かぶ撫子柄。美輝が、笑顔を浮かべて立っていた。お団子にまとめた髪に、星型のヘアアクセが留まっている。カラコロと軽やかな音を鳴らす下駄が足元を彩っていた。

 おー、と冴園が嬉しそうに笑って美輝に駆け寄る。その手を取って上下に大きく振った。


「めっちゃ可愛い! 浴衣、凄く似合ってる!」

「ありがとう。冴園くん、お世辞が上手いんだから」

「お世辞じゃないって。それにしても、二人とも浴衣か」


 冴園が俺にも目を向ける。今日俺が着てきたのは薄い灰色の浴衣だった。冴園はシャツとハーフパンツというラフな格好だ。冴園は肩を竦めて首を振る。


「俺も着てこればお揃いだったのになぁ、浴衣」

「できなかったの?」

「っていうか持ってないんだよ。レンタルするのも高いし、借りたところで着付けできる家族がいないから」

「ばあちゃんに頼めば着付けてくれるぞ。お下がりとかで良ければ、じいちゃんの浴衣も取ってあるって言ってたし」

「流石にちょっと申し訳ないから。っていうか咲ちゃんはその浴衣、着付けてもらったのか?」

「いや、自分で」


 自分で、と冴園と美輝が目を丸くする。

 昔は祖母とよく祭りに行ったが、そのときは浴衣を着付けてくれていた。だが中学生になってからは祖母に習いつつ、自分で着付けができるようにと練習したものだ。今ではもう、他人の浴衣も着付けることができるだろう。

 通りを歩く人々は、私服と浴衣、半々程度に分かれていた。服装からも感じる夏祭りの気配。冴園は今にも、あちこちの屋台を見て回りたそうにうずうずしていた。

 早く行こうぜ、と急かされて、俺と美輝は顔を見合わせて笑う。それから数歩先を行く彼の後を、二人で追いかけた。



 金魚が水の中をゆったりと泳いでいる。真剣な眼差しで水面を見下ろしていた美輝は、カッと目を見開いて、ポイを水の中に滑り込ませる。薄い膜の上に金魚が掬い上げられ――たかと思えば、大きく裂けた破れ目からぽちゃんと水の中に落ちていった。


「あーっ!」

「ぷっ、はははっ!」


 お腹を抱えて笑う俺に、美輝が恨みがましい視線を向けてきた。むくれた頬がリスのようだ。


「凄い真剣な顔してたのに、二匹目で……ふっ、破けるなんて」

「だってこれ難しいじゃない。東雲くんなんて、一匹も取れてないくせにー!」

「きょ、今日は調子が悪かったんだよ」


 彼女の持つお椀の中で、一匹の金魚がくるくると泳いでいる。対する俺の椀は水だけだ。確かに金魚すくいは難しい。こんな薄いポイなんかで、質量のある金魚なんて掬えるものか。

 二人でわいわい言い争っていると、横からどよめきが聞こえてきた。何事かとそちらを見た俺達も、おお、と歓声を上げる。

 冴園が流れるような手付きでポイを水に入れていた。水から出したとき、そのポイの上には二匹の金魚が跳ねている。素早くそれを椀に入れた冴園は、すぐに次の金魚を掬い上げていく。店主の顔に焦りが浮かんだとき、ようやく冴園は手を止めてニヤリと椀を掲げた。その中に泳ぐ多数の金魚に、俺は思わず拍手をする。


「凄いな! 何匹取ってるんだよ冴園!」

「ふふん。金魚王として名の知れた、ゆう様とは俺のことさ!」

「あ、それは知らない」

「知らないのかよ!」


 散々金魚を取った冴園だったが、結局全ての金魚を店に返していた。家じゃあこんなにたくさんは飼えないらしい。それを見ていた美輝も、同じ理由を述べて一匹の金魚を店に戻していた。

 次に三人で向かったのは隣の射的だった。棚に並ぶ商品の数々。順番に二人ずつ撃っていく仕組みらしい。まず美輝と冴園が撃ち始めるも、二人とも上手く狙えないようだ。商品の角を掠めた最後の弾に、美輝が溜息を吐く。


「あー、惜しい。あの金平糖狙ってたんだけど」


 彼女が狙っていたのは棚の中央部分に置かれていた小瓶だった。カラフルな金平糖の入ったガラス瓶。小さな瓶といってもガラス製、簡単に落とせはしないだろう。きっと最初から落とさせる気のない、飾りとして置かれた一種ではなかろうか。

 美輝は心底悔しそうに瓶を見つめていた。彼女の様子を見た冴園も残りの数発で瓶を狙ってみるも、外れるか、角を掠めるかで上手くいかない。結局彼も瓶を落とすことはできなかった。


「おじさん、ちょっとは優しくしてくれよ!」

「悪いな。簡単に落とされる商品じゃないからなぁ」


 店のおじさんはニヤニヤと笑いながら言った。冴園も悔しそうに唇を噛みながら、どうすることもできないと諦めた様子だった。

 俺の番になる。冴園が意味ありげな目でこちらを見てきた。頷き、銃に弾を詰めていく。けれど最初に撃った弾は小瓶を掠めてしまうだけだ。次に撃った弾は見事瓶の上部に命中したものの、固い瓶に弾き返される。

 ああ、と冴園と美輝が、悔しさと無念の入り混じった声を上げた。店主が馬鹿にしたように笑う。俺はむっと口を尖らせ、何発か続けて瓶を撃った。


「無駄無駄。諦めた方がいいよ、兄ちゃん」


 店主の言葉に耳を貸すことはない。だが弾の残りはあと一発だけ。瓶の位置は、これっぽっちも動いていない。

 俺はじっと棚に並ぶ商品を眺めた。そして、大きく息を吸って最後の狙いを定める。少し位置をずらした銃口。引き金を引き、飛び出した弾は小瓶に当たることはなかった。

 当たったのはその隣に置かれていた小さなぬいぐるみ。上手い位置に当たったのか、それはぐらりと重心を揺らがせ、倒れていく。意識せず口元に笑みが浮かんだ。

 ぬいぐるみはただ倒れただけではなかった。横に置かれていた小瓶に当たり、巻き込まれたそれがカタンと倒れた。店主の目が驚きに見開かれる。冴園と美輝が、手を取り合って喜びの声を上げた。


「ちゃんと倒れたじゃないですか」


 ニヤリと笑って言うと、店主はしばし固まった後、大きな笑い声を上げた。


「まさか倒れるとは。兄ちゃん上手いなぁ! よし、気に入った。持っていけ! あとこれと、これもだ!」


 店主は豪快な笑顔を浮かべて、小瓶以外の商品も次々に手渡してきた。抱えきれないほどの品物に埋もれる俺を見て、二人が笑った。

 東雲くん射撃上手いんだねぇ、と美輝が声を弾ませた。


「昔、初めて夏祭りでやったのが楽しくて、それからよく行くようになったんだ」

「あー、小学校のとき俺が連れてった祭り?」

「うん。懐かしいな、あのときはお前の方が当たってた。悔しくてさ、ちょっと練習した」

「だからかぁ。考えてみればお前、水鉄砲で遊んだとき強かったもんな。帰ってさ、親にどこの川に飛び込んできたんだって凄く怒られた」

「俺もだよ」


 顔を見合わせて笑う冴園と俺に、美輝もまた微笑ましそうに笑った。


 たくさん遊ぶうち、気が付けばもう空も暗くなっていた。おまけで貰ったお菓子を食べながら三人で近くの神社へ向かう。もうすぐ開始する七夕祭り目玉の花火。高台にある神社から見る花火は、大通りから見るものよりずっと綺麗だ。

 神社へ続く階段の途中にも、カップルや友人同士が何組か座っている。別に穴場スポットというわけではないこの場所だが、それでも通りより人は少ない。断わりを入れつつ間を通り抜け、神社までやってくる。境内に座り空を眺めると、輝く星々が見えた。

 さっき買った焼きトウモロコシを齧る横で、美輝が小瓶から出した金平糖を美味しそうに齧る。少し開いた浴衣の襟、普段は髪に隠れて見えないうなじに張り付く後れ毛。何気なく見つめていると、俺の視線に気が付いた美輝が微笑みながら一粒の金平糖を俺と冴園に差し出してきた。


「私、金平糖って大好きなの。甘くて綺麗で可愛いもの」


 コロリと手の平に転がる星のような形の金平糖。口に放り込むと、シャリシャリと砂糖の甘い味がした。砂糖の甘さばかりで美味しいとは思えない。けれど幸せそうに星を頬張る美輝を見ていると、苦労してでも取れて良かった、と思うのだった。

 水色の金平糖を食べていた冴園が、そうだ、と思い出したように美輝へ言った。


「誕生日おめでとう、美輝」

「おめでとう」


 続けて俺も言えば、美輝は嬉しそうに顔を綻ばせて、覚えてくれてたんだと呟いた。

 七月七日は美輝の誕生日だ。あまり自分のことを語らない美輝ではあるが、何かしらの会話をしていたときにぽつりと誕生日を教えてくれた。俺も冴園も彼女の記念日を覚えている。

 美輝は俺達が自分の誕生日を覚えていたことに、くすぐったそうに微笑んだ。


「これで私も十八歳か。ふふ、二人よりまたお姉さんになっちゃった」

「咲ちゃんは早生まれだし、俺も九月だものな。でもすぐ追い付くぜ!」

「どうすれば追い付けるんだよ」


 三人でくだらないことを喋って笑い合ったとき、盛大な火薬の音が響き渡った。すぐに、爆発にも似た音が鳴り、暗い空が明るく染まる。

 驚いて空を見た俺達の目に飛び込んできたのは、色鮮やかな大輪だった。眩しいほどの光を散らしながら、大きな花火がいくつも空を染めていく。息を吐く暇もないほど連続で花火が打ち上げられていた。ドォン、ドォンと重い振動が腹に響く。

 恋人が、友人が、家族が、皆が感動の声を上げて夜空を見上げていた。その顔が花火によって明るく照らし出される。横を見ると、美輝や冴園もまた、目を輝かせて花火の美しさに見入っていた。

 俺達の頭上に浮かぶ花火は、色鮮やかな輝きを残して掻き消える。たくさんの花火が次々に消えていく。輝きを残像に、鮮やかだった夜空も次第に静かな夜空へと戻っていった。



 大切な人々と一緒に過ぎていく俺の日々。楽しいこともあった、嬉しいこともあった。幸せだった。

 それが突然終わってしまったのは、高校二年生の冬の頃だ。

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