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第66話 星の輝き

 授業間のうたた寝から目を覚ましたとき、教室にいたのは俺一人だった。


「…………ん?」


 パチパチと瞬きをして目を擦る。ぼんやりとした頭を振って辺りを見回せど、教室は静まり返っている。黒板を見れば、そこに白いチョークで大きな文字が書かれていた。次の授業が急遽変更となり、教室移動となったらしい。しかも授業開始まであと三分。次の先生は遅刻に厳しい人で、一秒たりとて遅れると猛烈に怒ることで有名な人だ。

 どうして誰も起こしてくれなかったんだ、と慌てて準備をしながら嘆く。と、そういえば今日、冴園は家の都合か何かで休んでいたことを思い出した。クラスメート達が起こしてくれることも、当然ありえない。

 泣きそうな気持ちを堪えつつ、席を立って移動しようとした。だが誰かの机にぶつかり、大きく揺らしてしまう。咄嗟に支えたおかげで倒れはしなかったが、机の中から飛び出した何かが床を滑っていった。机を直してから落ちた物を拾い上げて、首を傾げる。


「何でこんなものが?」


 ライターだ。どうしてこんな所に、と疑問を抱えつつしげしげ眺めているとき、教室の扉が開く音がして思わず手を背に隠す。

 あれ、という声に入ってきた人物を見やった。クラスメートの女子だ。名前は確か……と思い起こしているところで、彼女の方から先に声をかけてくる。


「東雲くん、やっと起きたんだ。急がなきゃ授業始まっちゃうよ」

「え、あ……ああ」

「私はちょっと忘れ物しちゃって」


 クラスメート、ましてや女子からこうも気軽に声をかけられることは高校に入ってから初めてだった。少し呆気に取られたが、クラスによくいる積極的なリーダータイプの子なのだろう。

 彼女は自分の席へと向かう。それはさっき俺がぶつかった机だった。横にずれ、何気なく彼女を横目で見る。机をまさぐる彼女。背中に垂れた金髪がゆるりと揺れた。

 この高校で髪を染めたりピアスを開けたりする生徒は結構多い。けれど教師達としては、真面目でさえいてくれれば特にそういった点に注意を促すことはないらしい。ただ髪を染めてなかろうがピアスを開けてなかろうが、不良と呼ばれる生徒に注意はするらしい。そういった点は、オシャレをしたいが真面目な性格の生徒達にとってはありがたがられているようだった。


「あれ……おかしいな」


 彼女は不安気な顔で机の中を掻き回している。よほど大事な物なのだろうか、と思ったところで、ふと自分が握っていたライターの存在を思い出す。

 もしかして、と傍に近付き、気付いて顔を上げた彼女へとライターを差し出した。


「間違ってたら悪いけど、これのことか?」

「あっ」


 素早く伸びた手がライターを取る。彼女はそそくさとライターを胸ポケットにしまい、視線を彷徨わせた。


「ああ、うん、そうそうこれこれ! 拾ってくれたんだありがとう!」


 何をそんなに慌てているだろうか。しどろもどろになる彼女の顔をまじまじと眺めると、次第にその顔が気まずそうに歪んでいく。手持無沙汰に下ろしていた手で、前髪を留めるヘアピンに触れる。黒い星型のヘアピンがコツリと爪で音を立てた。

 まずいことでもしてしまっただろうかとこっちが焦りかけたとき、スピーカーからチャイムが鳴り響いた。授業に向かおうとしていたことを思い出し、ああ、と嘆きの溜息を零す。これで説教は確定だ。どうせ遅刻なら、ゆっくり行くことにしよう。

 スピーカーを見上げていた彼女がひょいと俺に顔を戻す。先程までの動揺が消えた、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。


「今から行っても怒られちゃうね」

「そうだな」

「ねえ、東雲くん」

「何だ?」

「デートしよっか」

「…………はい!?」


 狼狽する俺を無視し、彼女は自然に俺の手を取った。すらりとした白い手にドキリと心臓が跳ねる。

 だがそのまま彼女は鞄を取り、教室を出て駆け出した。腕を取られたままの俺も後ろを走る。おい、と慌てて呼びかけるも、彼女は笑い声を上げて振り向くだけで、足を止めはしなかった。


「美輝って呼んでよ」

「え?」

「私の名前、星空美輝っていうから。よろしくね」


 そう言って、女はふわりと顔を綻ばせた。




 海にでも行こうか、と声を弾ませた美輝は、駅に着くまで小走りの姿勢を崩さなかった。サラサラと揺れる髪を見ながら、俺も必死でその背を追う。

 意外と体力のある彼女を追うのは苦労した。改札を通り抜けると、ちょうど発進しようとしていた急行の電車に彼女が乗り込んだ。すぐ後に俺が乗り込んだ直後、扉が閉まり電車が動き出す。


「海ならどこがいいかな。第五区? それとも第七区? いっそ隣の県とか行ってみる?」

「なあ星空、本当にサボるのか? まだ他の授業も残ってただろ。今からでも遅くないし、次の駅で降りて……」


 溜息混じりに吐いていた言葉が途中で途切れる。下から美輝が顔を覗き込んできたからだ。至近距離の顔に驚き仰け反ると、背後のドアに頭を強打する。痛みに呻きながら後頭部を擦っていると、彼女が噴き出すように笑った。


「もしかして東雲くんって、意外と真面目?」

「い、意外とって何だよ」

「ごめんごめん。もっと不良っぽい子だと思ってたからさ。いつもムスッとしてて怖い顔してるし」


 俺の醜態が本当におかしかったのか、彼女は目尻に涙を浮かばせて笑う。明るい色彩の瞳がキラキラと光った。

 ぼんやりとそれを見つめていた俺に、彼女はもう一度身を乗り出してきた。今度は驚きはしなかったものの、僅かに身を引いて肩を竦めた。


「それと! 私のこと、美輝って呼んでって言ったでしょ!」

「え、でも」

「名字で呼ばれるのは好きじゃないのよ」

「だけどそんな、急に星空のこと」

「だーかーら、美輝だって」

「…………美輝」

「よくできました!」


 偉い偉い、とまるで小さい子供のように頭を撫でられる。子供っぽい扱いに眉間にしわが寄るが、しばらくされるがままになっていた。

 名前を呼ばれるのが苦手な気持ちはよく分かる。誇りに思っている咲という自分の名前だが、それでも可愛らしい響きがあるそれで呼ばれるのはどうにもくすぐったい。

 両親が事故で死に、俺が生まれたあの日。今にも死にそうだった俺に咲と名付けてくれたのは祖母だった。体の弱い赤ん坊に異性の名前を付けると死神に連れて行かれることはない。そんな言い伝えから名付けられたこの可愛らしい名前は、コンプレックスでもあり祖母の優しさを感じることのできるものでもあった。

 確かに星空という名字はとても珍しいだろうし、呼ばれたら目立つのかもしれない。けれど星空、なんて凄く綺麗な言葉じゃないか。


 適当な駅で俺達は降りた。話しているうちに俺も学校に戻るのが何だか面倒に思えてきたし、一日くらいこんな日があってもいいんじゃないだろうか。

 改札を出ると潮のにおいが鼻孔をくすぐった。風を胸いっぱいに吸い込んだ美輝は明白に両目に光を湛え、海へと続く道を駆け下りていく。平日の微妙な時間帯だからか、辺りを通る人はほとんどいない。アスファルトの上に差す木漏れ日。光の中で、二人分の影がゆらゆらと揺れていた。

 家並みの間を抜けた先に青色が見えた。はしゃいだ声を上げた美輝が、道路の手擦りから身を乗り出して海を眺める。追い付いた俺も隣で同じ方向へ視線を向けた。眼前に広がる青い海。太陽の光を反射させ、眩しく輝く波。


「海だー!」


 言うが早いか、美輝が手擦りを乗り越えて海へと走り出す。砂の上を走るうち、靴も靴下も脱ぎ捨て、濡れた砂の上に足跡を残していく。気を付けろ、と叫びながら追いかけるうちに靴に砂が入り、俺も靴を脱いで裸足で砂の上を歩く。熱い砂に足裏が焼けそうになるが、すぐに濡れた砂の冷たさに変わる。

 小さな水飛沫を上げながら、美輝が両足で海に飛び込む。すぐに素っ頓狂な悲鳴が聞こえてきた。


「冷たい!」

「そりゃそうだろ」


 夏本番とはまだまだ言い難い初夏の季節。毎日暖かいと言えど、夏服への衣替えもまだだ。海の水だって真夏よりずっと冷たいに決まっている。海に爪先で触れてみると、大分冷たい温度が伝わり、身震いがした。

 冷たいと悲鳴を上げていたはずの美輝は嬉しそうに水を弾かせて遊んでいた。ひらひらとはためくスカートの下の素足を見て、寒くないのだろうかと心配になる。見られていることに気付いた美輝が、ニッと笑ってこちらに近付いてくる。やっぱり体が冷えて上がりたいのだろうかと思った瞬間、顔に冷たい水が飛び散った。


「うわっ!」

「冷たい?」


 濡れた手を振りながら美輝が笑う。けれど俺が黙り込んでいると、心配になったのか腰をかがめて顔を覗き込もうとしてくる。だから、俺もその顔に水をかけた。うわぁ、と驚いて顔を拭う彼女が可笑しくて噴き出してしまう。


「あははっ。お返しだ」


 俺の顔をしばしキョトンと見つめていた美輝は、ゆっくりとその顔を破顔させる。やったね、と悔しそうに言って手の平に溜めた水をまた投げ付けてくる。お互いに笑い声を弾ませて、服が濡れるのも気にせず水をかけ合った。

 学校をサボっていることも、彼女と初めて話したのが今日だということも、とっくに忘れていた。遊び疲れるまで俺達は海で遊んでいた。



 次に目を開けたとき、辺りは薄暗くなっていた。弾かれたように飛び起きると、すぐ隣から驚いた声が聞こえる。闇の中、ぼんやりと微笑む美輝の顔が見えた。


「起きた?」


 首や背中が痛かった。傍に下ろした手から、岩肌のゴツゴツとした感触が伝わってくる。海で遊んだあと岩辺に座って休んでいるうちに、疲れて眠ってしまっていたようだ。

 一休み……にしては辺りが暗すぎる。昼はおろか、夕方でさえないだろう。不安を抱きながら、恐る恐る美輝へ訊ねた。


「今何時だ?」

「夜八時かな」


 思わず両手で顔を覆って項垂れた。午後八時。サボりどころか、とうに夜遊びと呼ばれる時間帯。連絡もなしにこんな遅くまで出歩いていたことを、祖母は酷く怒っていることだろう。正座で淡々と説教をされてしまうに違いない。静かな祖母の怒りは、授業を遅刻して教師に怒られること以上に恐ろしい。

 学校でもうたた寝をしてしまったというのにまだ寝足りなかったのか。落ち込む俺の様子に、美輝が申し訳なさそうな声色で話しかけてくる。


「ごめんね。ぐっすり寝てたから、起こすのも悪い気がして」

「別にいい、寝てた俺が悪いよ。それより美輝こそ大丈夫なのか? こんな遅くまで」


 俺の言葉に美輝は肩を竦めた。家族はそういうことを特に気にすることはないらしい。自由なご両親だと思ったが、それ故に彼女も自由奔放なところがあるのだろう。初めて話したクラスメートと海にやってくることも、夜になるまでぼんやりと海を眺めていることも、彼女にとっては何てことないのかもしれない。学校を抜け出すこと自体抵抗がある俺とは大違いだ。

 それに、と美輝は続けて口を開いた。


「見たいものがあったんだ」


 突然彼女は仰向けに倒れた。岩にコテンと頭をくっ付け、頭上を指差す。ほら、と弾んだ声で俺を誘う。

 首を傾げながらも彼女に倣って倒れ、頭上に目をやった。両の目が大きく見開かれる。


「…………凄い」


 青く大きな星粒が空に輝いていた。何百、何千、数えきれないほどの光が濃紺の夜を埋めている。鮮やかな輝きが、今にも俺達を呑み込もうとしているかに思えた。

 美しかった。あまりにも幻想的で美しい光景に、呼吸さえも忘れてただただ星空を目に焼き付けた。


「ここなら星もよく見えるかと思って」


 正解だった、と美輝が微かに笑う。

 名物が星空だと言われるほど星が綺麗な明星市。この市に生まれ育った俺は、当然幼い頃から星空を眺めることはあった。毎晩のように空に輝く星を何度も見上げた。

 けれど、今夜の星はそれ以上だ。海だから街の方より空気が良いということもあるのかもしれない。季節や日時も関係しているのかも。そういった理屈的なことは分からないが、とにかく、今俺が見上げている星空は、今まで見てきたどんな夜空よりも美しかった。

 

 東雲くん、と名前を呼ばれて我に返る。横に顔を向けると、美輝が柔らかな笑みを浮かべて俺を見つめていた。

 星明かりに頬が青白く照らされている。艶めいたまつ毛の下に覗く両目は、まるで星を取り込んだかのように、輝きを増していた。

 吸い込まれるような瞳から目が離せない。ふわりと綻ぶような微笑みのまま、彼女は優しい声で言った。


「綺麗だね」


 無数の星の美しさを。胸に込み上げくるような感動を、今目にしているのは俺と彼女だけだった。そのことにどうしようもないほどの喜びを覚え、俺はそっと胸を握りしめる。

 そうだな、と静かに答え、俺はまた星空を見つめた。

 溢れんばかりの星はいつまでも美しく、俺と美輝の姿を映し出していた。

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