第65話 彼の話
小さい頃の僕はとても泣き虫だった。
「ひっ…………う、く……ひぐ…………」
鼻を啜り、涙に濡れた目を何度も擦った。
擦りすぎたせいできっと目元は赤く腫れてしまっているだろう。家に帰ったら、できるだけ俯いていなくちゃ。じゃないときっと、心配しちゃう。
歩くたびにランドセルが揺れ、海斗くんに蹴られた背中が痛む。ボロボロと涙を零しながら道角を曲がると、瓦屋根の日本家屋が見えてきた。そこへ向かう僕の足取りは重い。
玄関を開けてそうっと中に入る。ただいま、と囁くような声を零した。買い物にでも出てやしないだろうか。もしそうであれば、好都合。
僕はそそくさと自分の部屋に行こうと廊下に足を踏み出した。しかし爪先が床板を踏んだ瞬間、キィ、と木が軋んだ音がした。顔を顰める僕に、声がかけられる。
「――――帰って来たのですか?」
築何十年と広くも古いこの家は歩くと床板を軋ませる。物音に気付いた祖母が居間から顔を覗かせる。薄紫色の着物が、窓から差し込む日の光に照らされていた。
「おかえりなさい、咲」
静かな声に顔を上げ、ただいま、と小声で言う。
挨拶をするときは相手の目を見て、と散々教えられてきた。けれど今日ばかりはそれが辛かった。泣いていたことがバレてしまうだろうから。
けれど予想に反して祖母は何も言わなかった。気が付いていないのか。ほっと安堵し、そのまま座布団の上に座る。
机の上には大量に散らばった写真の山。首を傾げて見ていると、祖母はその数枚を揃えながら言う。
「今までに撮った写真を整理していたのですよ。写真のまま溜めていたけれど、そろそろアルバム一冊にでもまとめてみようかと思いましてね。裏に日付が書いてあるので、古い順に並べてもらえますか?」
お茶を淹れてくると席を立った祖母を見送り、写真を整理しながら目を通していく。祖母と僕の写真だった。僕が生まれたばかりの頃の写真から、つい最近のものまでたくさんある。
懐かしいなぁ、と思いながら見ていくと、そのうち数枚に男の人と女の人が写っているものがあった。
祖母が戻ってくる。おばあちゃん、と声を上げ、さっきの写真を見せた。
「これ、お父さんとお母さんでしょ!」
この人達の、仏間に飾ってある写真の中で微笑む姿を知っていた。祖父だと言う人の写真の隣に飾られたその二つ。
両親のことは祖母から何度か聞かされてきた。僕が生まれた日に亡くなったという両親。明るい人達だったと祖母は言っていた。
生まれてくる赤ちゃんへ、と二人が撮ったホームビデオを見たことがある。お腹の大きな母と、それを支えて座る父、二人とも幸せそうに笑ってこちらに手を振っていた。
生まれてくる君へ。
生まれたら、三人で色んなことをしようね。
君は男の子かな、女の子かな。どんなことが好きで、どんな人になっていくのかな。
それを見るのがとても楽しみだよ。元気で生まれてきてね。お父さんもお母さんも、君と出会える日を待っているよ。
君の幸せを心から祈ってる。
私達は君のことを愛しているよ。
僕が会えるお父さんとお母さんは、ビデオの中にしかいない。
正直、両親というものの存在が僕は分からない。記憶にもない二人のことを考えようとしても上手くいかず、今まで育ててくれた祖母が僕にとっての親だった。
祖母は祖父に先立たれてから一人でこの家に住み続けているらしい。一人で住むには広い家だし色々大変だろうからと両親が同居を提案したりもしたそうだが、祖母はそれを断り、僕がくるまで一人で暮らしてきたようだった。菊さん、と近所の人も祖母のことを親しみを込めて呼んでいる。
「懐かしいね、おばあちゃん。この頃の僕、まだ子供だぁ」
「そうですね。咲も大きくなりました」
「今はまだ前から二番目だけど、そのうち誰よりもおっきくなるからね!」
今はまだ低い僕の背。だけどこの写真に写っているときよりは、うんと身長も伸びた。牛乳を飲んで骨を鍛えて、そうすればきっとクラスで一番……ううん、学年で一番背が高くなってくれるはず。
そのときはきっと、僕をいじめる奴なんかいなくなってくれる。
僕を見て祖母は優しい目をした。いいですか咲、と祖母は凛とした声を僕に注ぐ。
「浮世の苦楽は壁一重」
「なにそれ?」
突然の囁くような声に首を傾げる。祖母は清流を思わせる静かな眼差しを向け、続けた。
「この世は、楽しいことばかりじゃありません。苦しいこと、辛いことがたくさんあるのです。幼いあなたには殊更、苦しくて逃げ出したくなるようなことが多いかもしれませんね」
「おばあちゃんもそうなの? 悲しいこととかいっぱいあったの? 大人になれば苦しいことはなくなるの?」
期待を込めて投げた質問に、祖母は薄い微笑みを返した。
「大人になっても嘆くことはたくさんあります。ただ、幼い頃よりも少しだけ、それに立ち向かう勇気が増えるのですよ」
「勇気が増えるだけ? 嫌なことがなくなるわけじゃないの?」
「ええ」
がっかりして肩を落とした。大人になれば毎日いいことばかりなんじゃないかってほんの少しだけ期待していた。だけどやっぱり、そんな都合のいいことはあるわけがなかった。
大人なんて遠い未来の話だ。子供の今でさえこんなに辛いのに、大人になってからも辛いことが続くだなんて。酷く悲しくなって、目に涙が滲んだ。
「けれど。明けない夜はない、ということも覚えておいてくださいね」
零れそうになっていた涙を堪え、僕は祖母を見上げた。着物の薄紫色がぼんやりと視界いっぱいに映る。
「苦しいことにはいつか終わりがきます。耐え切れないような悲しみや、死んでしまいたくなるような絶望さえ、いつかは『ああ、こんなこともあった』と笑って話せるような過去になる。長く悲しい夜が終われば、温かで優しい朝日が昇ってくるものなのですよ」
祖母は静かに僕の頭に手を置いた。
「いいですか、咲」
静かな声が僕の名を呼ぶ。パチクリと瞬くと、祖母は静かな微笑みを浮かべた。
「優しい人になりなさい。人を思いやり、他人のために生きるのですよ」
「……どうして?」
祖母の言っている意味が分からず、頬を膨らませた。
頭の上に置かれた手が髪を撫でていく。少しくすぐったい心地良さに、耐え切れず頬を緩めて笑った。祖母も静かな笑みを浮かべて言う。
「それがいつかは自分の幸せになるのですから」
やっぱりよく意味が分からなかった。大人になった今もきっと、祖母の言いたかったことの半分だって理解できてやいないのだろう。
けれど。懐かしい白粉のにおいと、祖母の手の温かさを。
今でもよく覚えている。
窓の外へと突き出された平森くんの腕。そこに掴まれた本に向けて、僕は必死に手を伸ばそうとした。
「やめて、返してよ!」
「返してほしいなら取ればいいじゃん。ほら!」
平森くんが笑いながら本を左右に大きく揺らす。あっと思わず声を上げれば、からかうような笑い声が返ってきた。僕の目の前に立って通せんぼをする海斗くんもニヤニヤと口を歪めている。
窓の下には中庭の花壇があったはず。平森くんが手を離せば、二階の距離から落下した本は土だらけになってしまうだろう。図書室から借りた本なのだから、汚すわけにはいかない。
図書室から戻ってきたところを二人に見られたのがまずかったんだ。人見知りで皆と上手く馴染めず、図書室に入り浸っている僕のことを、平森くんと海斗くんは何かと馬鹿にしてくる。いつも外で遊んで汚れたドッチボールを投げつけ、日に焼けた顔で意地の悪い笑顔を浮かべてくる。今日もそうだ。
このままだと昼休みが終わってしまう。先生がやってくるまでに取り返せなかったら、平森くんは絶対に手を離してしまうに決まってる。だけど背の低い僕じゃあ、まず海斗くんの前を通り抜けて平森くんの傍に行くことさえ難しい。
そろそろ授業の始まる教室には、ほとんどのクラスの子達が戻って来ていた。皆僕らの騒ぎに気付いているものの、二人を止めてくれる子はいない。せいぜいやめなよ、と投げかけるだけだ。
必死になるうち視界がじわりと滲んできた。海斗くんが目敏く僕を指差して叫ぶ。
「うっわ、こいつ泣いてるじゃん!」
「泣き虫かよ!」
「女みたいな名前してるしさー、咲ちゃん、本当は女の子なんじゃないのぉ? スカート穿いて来いよ!」
「こんな目がギョロッとした女子いるかよ。東雲、マジ弱っちいよな」
込み上げてくる悔しさに耐え切れず、とうとう目尻から大粒の涙が零れ出す。拭っても拭ってもそれは止まらない。
弱虫だからだ。
僕が弱いから、二人とも僕のことをからかってくるんだ。
悔しくて堪らない。なのに僕の手は震えたままで、込み上げる怒りを拳にしてぶつけることもできなかった。
「ほーら、早く取りにい」
海斗くんの言葉が途切れる。彼の頭に直撃した黒いランドセルは、宙を舞って床で跳ねた。
目を丸くして蹲る海斗くんを見下ろす。平森くんも両目を丸くさせていた。涙目になった海斗くんが声を張り上げながら立ち上がる。
「いってえな! 何するんだよ!」
「そっちこそ何してんだよ」
スタスタと歩いてきたその子は、落ちたランドセルを小突いた。ズボンから伸びる、日に焼けた足で。
「冴園くん……」
クラスメートの冴園佑くんだった。
昼休みに入ってすぐ、友達数人を連れて外に駆け出していた彼だが、いつの間にか戻ってきていたらしい。
短い黒髪を掻いて彼は二人を睨み付ける。日頃、人懐っこい明るい笑みを浮かべているクラスの人気者は今、僕も怖気るほどの冷ややかな目をしていた。
冴園くんの視線を受ける平森くん達は、尻込みしたように足を引く。平森くんの傍へ歩いてきた冴園くんが本をもぎ取った。
「さっさと席に戻れよ、バーカ」
ムッと不愉快な顔をした二人が冴園くんをねめつける。今にも殴りかかりそうな雰囲気を察知し、どうなることかと様子を窺っていたクラスメート達が騒めき出す。
このままだと喧嘩になってしまう、僕のせいで。
「だっ……!」
駄目だよ、と叫びかけたときだった。廊下を覗いていた女子が、先生来た、と声を張り上げた。
途端に皆が慌てて席に着く。平森くんと海斗くんも、不服そうな顔は崩さなかったものの、渋々席に戻った。茫然と立ち尽くす僕の元に冴園くんがやってくる。
「はい」
「あ…………」
差し出された本をキョトンと見下ろし、おずおずと受け取った。返事をしようとする前に、教室に入ってきた先生が僕達に着席を促し、冴園くんは僕に背を向けて行ってしまった。
そのまま授業が始まってしまう。先生の話を耳に流しながら、僕は机の中に隠した本をそっと掴んでいた。
その日の授業が終わり、放課後になった。慌ててランドセルに荷物を詰めて学校を出る。チャイムと同時に外に駆け出して行ってしまった彼を追いかけていると、校門を出てしばらくした所を歩く後ろ姿を見つけ、声をかける。
「冴園くん!」
振り向いた彼は、息を切らして走ってくる僕を見て少し目を丸くした。なんとか追い付いて膝に手を突き息を整えて、顔を上げる。不思議そうに首を傾げている冴園くんに言った。
「あ、ありがとう」
「え、何が?」
「え、あ、あの……さ、さっき……これ、あっ」
ランドセルを下ろして蓋を開くと、バランスが崩れ、ぐちゃぐちゃにして詰め込んだ荷物が雪崩を起こす。慌てて拾う。冴園くんも苦笑しながら拾うのを手伝ってくれた。
「あーあ、もー、何やってんだよ」
「ごめん……そう、これ!」
その中の一つを拾い、冴園くんに突き付ける。『簡単和食レシピ』と書かれたレシピ本だ。昼休みに、平森くん達に取られた。
「お礼言ってなかったから。取り返してくれて、ありがとう」
「それ言うためだけにわざわざ? 別にいいのに。律儀な奴だなぁ」
「お礼は大事だって、おばあちゃん、いつも言ってるから」
へー、と冴園くんが感心したような声を零す。それから本のタイトルを目でなぞり、裏に押された学校の判子を見つけた。
「図書室から借りたのか? 俺、図書室なんて全然行かないよ。漫画読むとき以外。家の人から、借りてくるよう言われたとか?」
「ううん、僕が自分で作ってみたくて。料理、上手くなりたいから」
自分で、と冴園くんが声を上げる。凄いなぁ、と心底驚いたように目を輝かせていた。
「よく料理とかできるな。母さんとかじゃないんだ」
「お母さんいないから、おばあちゃんがご飯作ってくれるんだ。でも、おばあちゃんばかりに任せるのも悪いし。お手伝いとか上手くなりたいんだ」
「いないって……母さん、旅行か何か行ってるのか?」
「いや、僕が生まれたときに事故で亡くなっちゃったんだって」
冴園くんがしまった、と言いたげに顔色を変える。申し訳なさそうな顔をする彼に慌てて手を振った。
「別に気にしてないよ! 本当にありがとう。この本なかったら、困ってた」
本を抱え直し、冴園くんにもう一度礼を言った。
「冴園くんって凄いんだね。たった一人で、あの二人を言い負かしちゃうなんて。でも、先生来なかったら危なかったね」
「知ってたんだよ、先生が来るって」
「え?」
「外から戻ってくるときにさ、先生が歩いてるの見えたから、そろそろ来るんだろうなって。だからだよ」
今度は僕が身を乗り出して冴園くんを覗き込んだ。キラキラと輝く目で彼を見つめ、凄い、と声を上げる。
「そこまで考えてたんだ! 凄い!」
「考えて動くの、得意だから」
冴園くんが言ってはにかむ。僕は嘆息し、冴園くんみたいになれたらなぁ、と呟いた。
「冴園くんみたいに、僕も強くなれたらいいのに」
今年の春、クラス替えで一緒のクラスメートになった冴園くん。明るく人気者の彼の周りには、いつもたくさんの人がいた。教室の隅で黙々と読書をしている僕は、そんな彼とはまるで違う人間だ。
ずっと憧れていた。誰とでも仲良くなれて、明るい彼のことが羨ましかった。もし僕が彼のように人気者だったなら、平森くん達に馬鹿にされることも、物を盗られることも、泣いて帰ることもないのだ。
「なればいいじゃん」
平然とした物言いに顔を上げる。何てことないような顔をしている冴園くんは、不思議そうな目で僕を見ていた。無理だよ、と力ない声を零して首を振る。
「そう簡単にできないよ。僕、暗いし、弱虫だし……」
「東雲なら変われるって。それに、弱虫のどこがいけないんだよ! 読んだことあるぜ。弱い人の方が、最後は元々強かった人よりも強くなれるんだって」
漫画で、と付け足して冴園くんは僕の背を力強く叩く。ジンジンと痺れる痛みに苦笑した。
冴園くんが手を打った。名案だと言いたげに僕を見る。
「俺みたいになりたいっていうなら、まずは一緒にいることから始めよう。今日から一緒な、東雲!」
「え? ……いいの?」
「何か悪いことでもあるのか?」
「う、ううんっ。ない、全然ない!」
「じゃあ決まり! 今日から俺達、親友な!」
冴園くんが二カッと歯を見せて笑う。その笑顔に何だか、胸の奥からじわりと温かな熱が込み上げてきた。
親友。その響きは、これまでの人生の中で、初めて言われた言葉だった。
「親友なら、東雲って言うのも変かな? 名字よりは名前か? うん、咲ちゃんって呼ぼう」
「え、えぇ、普通に東雲でいいよぉ」
「だって皆、東雲くんって呼んでるじゃん。親友なんだから特別なのがいいって」
「うぅ……何だか恥ずかしい」
僕も同じように呼んだ方がいいのかなぁ、と思って、佑、と口にする。だけど何だかとても恥ずかしくて、僕はどんどん顔を赤くしてしまった。呼びやすいようにでいいよ、と冴園くんが笑う。
彼の手が僕に伸ばされる。一瞬呆けてから、そろそろと手を握り返した。嬉しそうに細まった冴園くんの目が僕を見る。
「よろしくな、咲」
「……よろしく、佑」
その日、僕に初めての親友ができた。
懐かしいな、という言葉に顔を上げる。俺の手元を覗き込んでいた冴園が写真を見つめて微笑んでいた。
「小学校のときの写真だよな?」
「卒業式のな」
「そっか、あれからもう三年か。高一だもんな」
ああ、と頷いて黒板に目を向ける。前の授業の教師が書き残していった『思い出を残そう』という白い文字を、委員長が消していた。
今日、幼い頃の写真を数枚持ってこいと言われたから何かと思えば、それについての作文を書けだなんて。机に突っ伏し頭を抱えていた冴園を思い出すと、笑いが込み上げてくる。
「全部書けた? 原稿用紙二枚とか、本当無茶言うよなあの人」
「余裕だったな」
「え? うわ、すげー! 三枚目までいってるじゃん! 流石だな咲ちゃんは、文系だものな」
「ちゃんって言うなよ」
冴園の手から原稿用紙を奪い、そそくさと机にしまう。内容をじっくり読まれるなんて堪ったものじゃない。
いいな文系で、とまだ言い続ける冴園。襟足の伸びた黒髪をいじりながら、彼は言う。
「あの頃と全然違うな」
懐かしむような、しんみりとした声に返事はせず、もう一度写真に目を落とす。
卒業式と書かれた看板を横に、ぎこちない笑みを浮かべる自分が立っていた。その首に手を回す冴園もまた幼く、まだ初々しい二人の笑顔がこちらを見つめている。
あの頃の僕が、今の俺を見たら。どう思うのだろうか。
「あ、あの、東雲くん」
おどおどした声に振り向くと、プリントを手にした女子と目が合った。途端その子は顕著に肩を跳ね、視線を彷徨わせる。
席から立ち上がりその子の顔を見ようとする。小柄というわけでもなさそうなその子の頭頂部を見下ろす形になり、彼女は顔に一層怯えを滲ませた。
「えっと……どうかした、のか?」
「このプリントなんだけど……その、授業アンケートで。今日の放課後までに私に渡してほしいの」
差し出されたプリントを受け取る。先生が渡してるとき東雲くん席を外してたから、と細い声で彼女が言う。
この前の係決めで、担任の推薦によって委員長に決まった子だった。このプリントもきっと担任の指示で渡すよう言われたのだろう。
同じクラスといえど、そもそも高校生になったのもつい最近の話だ。クラスの人の名前もようやく覚えたといった頃。彼女と話すのも、これが初めてだった。
「机の上に置いたりしてくれればいいから……そ、それじゃあ!」
矢継ぎ早に言って彼女は自分の席に戻っていく。前の席に座っていた友人の腕を掴み、ほっとしたように息を吐いていた。
「き、緊張したぁ」
「杏花ってば何をそんなに緊張してるのよ。東雲くんのこと、好きなの?」
「そんなわけないじゃん! あんな怖い顔してるんだよ。殴られるかと思った!」
ひそひそ話をしているつもりだろうが、興奮したその声はだだ漏れだった。女子達の会話を複雑な思いで聞いていると、一連の流れを見ていた冴園が噴き出した。
「な、殴られるって……! 咲ちゃんってば、いつの間に不良になったんだよ」
「殴るわけないだろ」
「だよねだよね。部屋に出てきたゴキブリ一匹殺せないような、優しい男だもんね」
「それとこれとは違うだろ!」
「先週だったっけ。菊さんがいないからって、凄い慌てて電話してきて……」
「う、うるさい、馬鹿にするな! 蚊は殺せる!」
続けた言葉に冴園は一層笑い声を大きくした。ふくれっ面でそっぽを見ると、窓ガラスに映る自分の姿が見えた。
「……………………」
三白眼のキツイ目付き。不機嫌そうに固く結ばれた口。周囲より一回りは高いだろう身長。鏡に映る自分の姿に我ながら苦笑する。
まるで不良かヤクザかといった顔。確かにこれじゃあ、怖がられても仕方がない。
「中学校からぐんと伸びたよな」
俺の視線で察したらしい冴園が、同じく鏡を見ながらしみじみと呟く。そういう冴園の背も大分高く、俺よりも数センチほど大きい。
「背を伸ばしたいからって牛乳飲みまくってたのが効いたのかね。まさか、整列のときに一気に最後尾までいくとは思ってなかったな」
「最初に牛乳飲もうって言い出したのは冴園だろ。ここまで伸びるなんて予想外だ」
「はは。まあいいじゃん。そのおかげで、平森達も咲ちゃんにちょっかい出してこなくなったんだし」
「……そうだけど」
中学校時代、急に背が伸び出してから周囲の反応は変わっていった。あれだけからかってきた平森達の背を越してから、二人はちょっかいをかけてくることもなくなった。きっといじめていた奴に身長を越されたのが悔しかったんだろうと思う。
冴園を真似して自分のことを俺と呼ぶようになって、祖母には思春期だと微笑ましそうな目で見られた。だけど身長が伸びようが呼び方を変えようが、性格を変えることは難しかった。中々暗い性格を直すことはできず、今でも人と喋るのは苦手なままだ。
元々俺の顔立ちは怖いと感じられるものらしい。単なる人見知りの性格は寡黙だと思われ、コンプレックスだった三白眼は人を睨んでいるような威圧感を与えていたらしい。気が付けばクラスメート達は更に俺から離れていき、高校生になった今ではまともに話しかけてくれる人なんて、クラスのお調子者キャラ達くらいか、冴園くらいのものだった。
「俺みたいに笑ってみればいいんだ。そしたら、怖い人だなんて思われないよ」
「笑うのは苦手だ。それに、知らない人と話すのは……難しい」
人見知りを直せればなぁ、と冴園が苦笑した。そういう冴園も高校生となった今では小学校時代と随分雰囲気が変わっていた。
伸ばした髪、耳に開けたピアス、着崩した制服。派手やかな格好をするようになったのは、高校デビューというやつなのだろうか。それとも他に思うところでもあったのかもしれない。
「別にいいんだ。今のままでも、からかわれたりはしないんだから」
独り言ちるように呟いて、窓から差し込む日差しにそっと目を細める。温かな春の温度に、瞼が重くなる。平和な一日だ。
怖がられようが、避けられようが、もう昔のようにいじめられて泣くことはない。それに俺には冴園がいる、祖母がいる。
「これでいいんだ」
きっとこれからもそんな日々が続いていくのだろう。祖母を支えて暮らし、冴園と学校生活を過ごし、卒業し、就職したり進学したり。そうやって大人になって日々を繰り返していく。
退屈にも思える。平凡で、質素な日々。だけど俺は、こんな平和な日常が、一番いいんだ。
隣の冴園は俺の考えていることが分かっただろうか。静かな声で、そうか、と呟いた。
今日も平和な一日だ。明日も明後日も、これからずっと。同じような一日になっていくのだろう。
俺は、そう信じていた。




