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第60話 プール掃除

 太陽が眩しい。

 セミの合唱が青い空に響き渡る。ベンチに座る私の頬を汗が流れていった。握っていたブラシの柄に顎を乗せ、息を吐く。


「疲れた……」


 誰もいないプールサイド。キラキラと光を反射して輝く青い水に、虫が浮いている。濡れたブラシで床を磨いても、磨いた傍から乾いてしまい、もうどこからどこまで掃除したのか分からなくなってきた。

 一時間目から始めたプール掃除も今はとっくに二時間目に入っている。けれど一人だけで作業をするのはやっぱり時間がかかる。掃除を命じられたのはプールサイドの床だけなのだから、あと数人でもいればとっくに終わっていただろうに。

 ベンチに横たって空を仰ぐ。眩しい太陽から隠れるように両腕で顔を覆った。じりじりと日差しが肌を焼く。いくら日焼け止めを塗っても、この太陽じゃあ意味がないのではないかとさえ思った。

 視界を閉じると代わりにセミの声がうるさくなった気がする。けたたましい鳴き声に耳を塞ごうかと考えたとき、頬にひやりと冷たい物が押し当てられ、私は悲鳴を上げて飛び起きた。


「ひゃうっ!?」

「やあ、おはよう」


 笑顔の一年先輩が、両手に持っていた缶を揺らしてそこに立っていた。彼は隣に座ると缶の片方を私に寄越し、自分は残るもう一つを飲み始める。手の中に収まるサイダーの蓋を開け、私も一気に中身を煽った。ビリビリとした炭酸が渇いた喉に落ちていく。

 爽快な顔をする私の横で、先輩が足元に置いてあるブラシを見て、からかうように笑った。


「和子ちゃんの掃除場所がここだなんて知らなかったなぁ」

「馬鹿にしてます?」


 頬を膨らませた私を見て先輩はますます笑い出す。冗談だよ、と肩を竦めた。


「できなかった補習の代わりなんですって。プール掃除」

「あれ、でも一人じゃないだろう? 他の子はどうしたのさ」

「皆、都合が合わないらしくて」


 本当なら今ここにいるのは、あの日教室にいた人達全員のはずだった。けれど皆が素直に掃除に来てくれるとは限らない。

 荒木くんは現在入院中で暇そうにしているらしい。新田くん達はそんな彼のお見舞いということで今日は学校を休んでいる。早海さんも同様で、まだ大事を取って休んでいるらしい八木先生の元に行っているのだろう。一条さんと恋路さんは学校にこそ来ていたが、当然掃除などするはずもなく、瀬戸川さんを連れてどこかに逃げてしまった。

 いっそ私もサボってしまおうかとも考えたが、それはちょっと心が痛んだ。けれど結局一人、疲労困ぱいになって掃除をしていることを考えると、休んでも良かったのかもしれない。


「掃除するのは床だけ?」

「はい。水抜きして本格的に清掃するのは、夏休みに水泳部がやるからって」

「一人より二人の方が楽だよね」


 言いながら先輩は余っていたブラシを見つけて持ってくる。手伝ってくれるんですか? と訊ねると、彼は当然と言うかのように微笑んだ。





 学校で起きたあの事件から数日。休校が開けた今朝、全校朝会で校長が事件について生徒全員に事件について長々と語っていた。しかし語らずとも既に生徒のほとんどは事件のあらましを知っている。流石に自分の高校で起こったそれなりに大きな事件ともなれば、話題にならないわけがない。学校側は警察や保護者の対応に追われていたらしく、校長はどこかぐったりとした顔で演台に立っていた。

 私や一年先輩達も警察に事情を聞かれたり、記者から電話がかかってきたりとしばらくの間は慌ただしかった。その度に自分達がしたことを曖昧にぼかして伝えなければならなかった。正直に言えば当然、私達にも不審な目を向けられただろう。けれど明星市には他にも大きな事件が毎日のように起こる。それほど経たないうちに、そういった喧騒もどこかへ行ってしまった。


「でも夏休みに入るのが伸びるっていうのは、少し困るねぇ」

「そうですね……。まあ、授業っていう授業ももうないから、楽ではあるんですけど」


 他愛ない会話をぽつぽつと交わしながら掃除を続ける。

 休み前に急遽入った休校によって、夏休みに入るのは数日伸びてしまったようだった。校長がそう伝えたとき、それまで神妙な顔で黙っていた生徒達から一斉にブーイングが上がったのは今思い出しても可笑しい。けれど教師陣も授業をするのは億劫なのか、それとももう進めるところまでは進めてしまったのか、今日はほとんど教師の談笑や自習といった授業ばかりだ。だからこそ、こうして教室を出て掃除をしているのだけど。


 校庭の方から、走る音が聞こえてくる。どこかのクラスでは普通に体育の授業が行われているのかもしれない。そんなことを考えていたら、足音の一つがこちらに近付いてきた。手を止めて顔を上げると同じく不思議そうに首を傾げた先輩と目が合う。

 ガシャンという音がフェンスの方から聞こえる。網目に指をかけて、もう片方の手を大きく振り回しながら、ジャージ姿の女の子がこちらに満面の笑みを向けていた。


「すーばーるーせんぱーい!」


 手の動きに合わせて彼女のサイドテールがぶんぶん揺れる。少し汗ばんだ頬に髪の毛を数本張り付かせたまま、彼女は弾んだ声音で喋る。


「何してるんですか?」

「プール掃除だよ」


 手元のブラシを小さく掲げて先輩が微笑む。その子はちらりと私の方に目を向け、そのまつ毛を僅かに伏せた。怪訝そうなその表情に、思わずブラシを握る手に力を込めつつ小首を傾げる。ふいと逸らされた視線は、すぐにまた屈託のない笑顔を一年先輩に浮かべた。

 二人だけで? という問いに先輩が頷く。するとその子はパッと顔を輝かせ、挙手をする。


「じゃあわたしも手伝う!」


 こちらとしてはありがたい提案だった。けれど、私が何か言うより前に、一年先輩が首を振る。


「ありがとう、でも大丈夫」

「えぇ……でも、たった二人だけだと大変じゃないですかぁ」

「十分だよ。それに、まだ授業中だろ?」

「もうすぐ終わりだし、ちょっとぐらいバレませんって!」

「こら、授業は真面目に受けないと。……それに手伝ってくれても君が怒られたんじゃあ、意味がないからね。その気持ちだけで嬉しいよ、ありがとう」


 今だ不服そうな顔をするその子に先輩が微笑みながらそう言うと、彼女は満更でもなさそうな顔をして、仄かに頬を染めた。

 一年先輩はそんな彼女にもう行くようにとやんわり伝えようとする。けれどそれを遮るように、彼女は早口に言った。


「あ、そうだ先輩。もうすぐ夏休みじゃないですか」

「うん。ちゃんと宿題もやらなきゃ駄目だよ」

「わ、分かってますって……。それで、その、何か予定とかあります? どこかに遊びに行くとか……」


 視線を泳がせながら尻すぼみになっていく声でそう言う彼女を見て、傍で黙って二人の会話を聞いていた私も、ああ、と納得がいった。

 この子もきっと先輩に気がある子の一人なんだろう。見たところ二年生……いや、一年生だろうか。本当に先輩は顔が広いと、心の内で溜息を吐く。

 でもだったら、私がここにいるのは邪魔になるだろうか。好きな人とは二人っきりで喋りたいはずだ。頬を上気させて目を輝かせるその子を見ていると、微笑ましさと、甘酸っぱい感情が浮かんでくる。


「夏休み。夏休みかぁ……」

「海とか、夏祭りとか、バーベキューとか! 旅行もいいですよね!」

「そうだねぇ」


 腕を組んで悩んだ様子を見せる先輩に、その子は何かを祈るように胸の前で両手を組んだ。一年先輩がそれに気付き、静かに目を細めた。

 向こうの方から誰かの名を呼ぶ声が聞こえてきた。その子が振り返り、今行く、と大きな声で返事をする。フェンスから指を離し、彼女は急いた声音で先輩に告げる。


「授業終わったらまた来ますから!」


 返事も待たず彼女は走り去っていく。手を振ってそれを見送った先輩は、何事もなかったかのように掃除を再開する。けれど横から私が送っていたじとっとした視線に気付いたようで、顔を上げて小さく笑った。


「あの子も知り合いなんですか?」

「この間知り合ってね。迷ってたあの子を教室に案内してあげたら、それからよく話しかけてくれてね」

「先輩ってば優しいなぁ」

「あはは、そんなんじゃないよ」

「あの子が先輩の本当の一面を見たら、どう思うんでしょうね」


 嫌味混じりに言うも、先輩はどうだろうと肩を竦めるだけだった。飄々としたその態度に呆れながらも、私は少しだけ笑顔を浮かべて先輩を見つめる。


「でも、まあ」

「ん?」

「この間の一年先輩のことは……嫌いじゃなかったですよ」


 少しだけですけど。そう言葉尻に付け足して、気恥ずかしくなって視線を泳がせた。


 学校で起きたあの事件。多分あの場に一年先輩がいなければ、そして彼の助言がなければ、私はとうに死んでいたかもしれない。私だけじゃない、早海さん達だってそうだ。

 皆を守らなきゃとそればかりに気を取られて焦っていた私の目を覚まさせてくれたのは先輩だった。アイデアをくれたのも、殺されそうになっていた私を助けてくれたのも。

 あのときの一年先輩は、確かに先輩だった。優しくて、私を支えてくれて、頼りになる先輩だった。



 恥ずかしさを隠すように私はブラシで床を力任せに擦る。視界の端に映る先輩の靴が、力強く床を踏み締めた。


「和子ちゃんっ」


 張り上げた声に驚き、顔を上げて先輩を見る。いつの間にか太陽が移動していたのか、先輩の顔が逆光に入ってよく見えない。表情の見えない彼が口を開き、言葉を発する。


「もうすぐ夏休みだね」

「さっきも言いましたよね」

「楽しいことがいっぱいだ」

「あの子が言ってたみたいな?」


 くすくすと微笑んで私は目を伏せる。夏が始まる。暑くなる。イベントや行事や楽しいことがいっぱい待っている。

 青空に浮かぶ太陽。そこに漂う入道雲。草花は濃い緑に色付き、セミがけたたましく鳴き喚く。楽しいことがいっぱいの夏。


「夏は楽しいことが多いから。暑さでダラダラしないで、色んな所に出かけたいですよね」

「…………じゃあ」

「一緒に行ってくれるかなぁ、東雲さん」


 思わず口を付いてそんな言葉を零した。


 東雲さんと出会ったのは去年の秋。彼と出会って、初めての夏だ。今年は彼と色んな所に行きたいと思った。海も祭りも、プールも旅行も。水着を着たり浴衣を着たり、可愛い服を着て、彼に可愛いと思ってもらいたい。あざみちゃんや太陽くんとか、真理亜さんとか仁科さんとか、皆も誘って一緒に遊びたいな。

 きっと東雲さんは人混みとか苦手だろうし、仕事が忙しいからどこかへ出かけるなんてしないかもしれない。それでも、彼と一緒にいることができれば、それだけで私は素敵な夏休みを過ごすことができるだろう。


 思いを馳せてわくわくしていた私だったが、ふと先輩の反応がないことが気になってそっちを見る。


「先輩?」


 彼は足元に視線を落とし、じっと動かない。よく見ればブラシを握るその手が白く骨を浮かせ、小刻みに震えているような気がした。

 暑さで具合が悪くなってしまったんだろうか。心配になって声をかけようとしたとき、向こうから二人分の足音と、微かな話し声が聞こえてきた。それはこっちに近付いてきている。

 一年先輩が顔を上げた。そこから笑顔は消え、冷めた真顔が私を見据えていた。ドキリと胸が不安に鳴る。彼は足音に耳を傾けるような仕草をして、小さく呟いた。


「……あの子が戻ってきたのかな」

「そ、そうみたいですね。……どこに行くんですか?」


 ふらりと静かに歩き出した先輩は、プール際の方へと寄っていく。離れた手から倒れたブラシが、床の上を転がった。プールの飛び込み台の上に先輩の素足が乗る。

 振り返った彼がニッコリと微笑み、そのまま小さく頭を傾けた。彼の背後にある太陽が眩しくて、私は僅かに目を細める。狭くなった視界の先にいる先輩。その体がゆっくりと横に倒れ、そしてそのまま、プールへと落ちていった。


「先輩!?」


 大きな水音を立てて水飛沫が上がる。ギョッとしながら慌てて台へ膝を突き、身を乗り出すようにプールを覗き込んだ。ぷはぁと息を付いて水面に顔を出した先輩に、上擦った声を投げつける。


「何やってるんですか、暑さでおかしくなっちゃったんですか!? ああもう、ほら、捕まってください!」


 髪からポタポタと水滴を垂らしながら、先輩はぼんやりとした目で私を見上げていた。シャツもズボンもすっかり水に浸かってしまっている。早く引き上げて、乾かさないと。

 けれど先輩は私の手を取ることなく、淡々と口を開いて言う。


「東雲さんのことがそんなに好き?」


 そんな質問にギクリと表情が強張る。ただでさえ真夏の暑さに辟易していたというのに、顔がどんどん熱を持つ。この人は突然何を言い出すのだろう。

 しどろもどろになる私と対象に先輩は黙って私を見つめたままだった。何故だかその視線から有無を言わさぬ圧力を感じ、顎を引くように頷く。


「そりゃあ……」

「ハッキリ言って」

「な、何でそんなことを先輩に」

「言ってよ」


 どうしてそんなことを聞いてくるのか分からなかった。だけど、答えなければ先輩はプールから上がってくれそうもない気がする。もうすぐやってくるあの子達がこの様子を見たら驚いてしまうだろう。

 諦めて息を吐いた。気恥ずかしくて引き攣りそうになる口元を手の甲で隠し、プールの中に立つ先輩に向けて私は答える。


「……好きですよ。あの人のこと、ずっと前から」


 師弟として、仲間として、尊敬する大人として、そして何より愛する男の人として。

 東雲さんのことを思うだけで胸が苦しくなったり、嬉しかったことを思い出して眠れない夜がある。彼の部屋に泊まったとき、一緒の空間にいるというだけで温かくなって、嬉しくて、緩んでしまう頬を枕に隠して幸せな気持ちに浸るときがある。

 東雲さんの存在は、私の中で大きなものになっていた。


「東雲さんのことが好きなんです。世界で一番、大好きなんです」


 本人には決して言えない思いも、他人になら打ち明けられる。ひた隠しにしていた思いを口にすれば止まらなくなってしまう。

 頬を染めて語る私に、一年先輩が噛み締めるように頷いた。


「そっか。本当に好きなんだね」

「……はい」

「……一度でいいから」


 ぼそりと先輩が呟いた。え? と聞き返せば、彼は少し声を震わせて言う。


「一度でいいから、僕も」


 彼の頬を伝った水がぽたりと水面に波紋を作る。その手が、力なく前髪を掴んだ。

 喉仏が動き、震えた音が放たれる。弱々しく、か細い声だった。


「君にそんなにまで、愛されたかったなぁ」

「せん……」


 彼の手がそのまま私の手を掴む。そして、そのまま力任せに引っ張られた。

 油断していた私は頭からプールの中に落ちてしまう。青色が視界一面を包み込んだ。驚きで思わず上げた声は、空気となってごぼごぼと水中に吐き出される。

 パニックになって上手く動けずにいると、また腕を引っ張られ今度は水面に引きずり出された。咳き込みながら飲み込んでしまった水を吐き出し、舌の上に纏わりつく塩素の味に顔を顰める。


「先輩っ! いきなり何す――……」


 文句を言おうと一年先輩の方に振り向いた。

 けれど、それ以上文句を言うことはできなかった。



 セミの声が消えた。



 先輩の両目の中に、私の輪郭がぼんやりと見えた。水中に漂わせたまま強張る私の両腕を、彼は力強く握っていた。まるで離さないと言わんばかりに。

 唇に何かが触れている。生温かくて柔らかい、奇妙な感触の何かが、私の唇に触れている。

 私が目を見開いて茫然としている間に、その何かは私の口の隙間を抉じ開けるように入ってくる。自分の舌先にそのぬるりとした感触が触れた。


「ふっ…………!」


 その瞬間我に返り咄嗟にそれを噛む。ガリッと音がして、目の前の一年先輩が顔を歪めた。固い胸を突き飛ばす。離れた先輩の唇に、小さく血の球が浮かんでいた。ぺろりとそれを舐め取った先輩の舌からも、じわりと血が滲んでいる。

 息を呑むような声と、慌ただしい足音が聞こえてハッと視線を向けた。フェンスの向こうに走り去っていく二人の女子生徒がいた。そのうちの一人が愕然とした顔をこちらに向け、そのサイドテールを揺らした。


 思考が上手く働かない。何が起こったのか、何をされたのか、分かっているのに理解が追いつかない。いつの間にかまた聞こえていたセミの声がけたたましく脳を揺さ振っていく。

 困惑して泳がせた視線が水面に浮かぶ虫を捕らえる。虫は静かにその死骸を晒して、私と一年先輩の白い腕の周りを漂っていた。

 ははっと乾いた笑い声が聞こえて顔を上げる。ようやく一年先輩の顔がハッキリ見えた。


「やっと、捕まえた」


 嬉しそうに言う先輩は、言葉とは裏腹に、今にも泣き出しそうな脆い笑顔を浮かべていた。

 無意識に口内の唾を飲み込む。

 プールの塩素の味が、生ぬるく、舌の上に残っていた。

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