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第59話 マーゲイ

 視聴覚室に飛び込んだ私を、入口のすぐ脇に立っていた一年先輩が迎え入れ、部屋の鍵をかけた。ほぼ同時に外側から激しく扉を叩かれる。そんなに丈夫じゃない扉は今にも壊れてしまいそうだ。


「どうするんですか?」

「そこに隠れて」

「……え、ここ?」

「うん。時間になったら合図するから、そうしたら後は任せたよ」


 渋々私は指示された場所に隠れる。淀んだ空気が体を包む。私が隠れたことを確認してから、先輩は教室の電気を消した。


 鍵を無理矢理壊して入ってきた三人は、教室が真っ暗なことに気付き可笑しそうに声を立てた。かくれんぼかな、と声を弾ませて歩き出す。やけにゆっくりとした足取りなのは、私達の心をじわじわと追い詰めたいのだろう。

 ただのかくれんぼだったらどれだけいいだろうか。命をかけたかくれんぼなど、これっきりで終わりにしたい。

 隙間から三人の様子を眺める。暗いせいでろくに見えやしないが、どの辺りを歩いているのかは何となく分かる。中央の通路を歩いている三人。と、窓際の方から小さな物音がし、彼女達は足を止めた。

 窓際の席が小さく動いていた。目敏くそれを見つけた三人は、それぞれが手に持つ物を掲げながら、子供っぽく声を上げる。


「みぃーつけたっ!」


 その席に隠れていた人影が立ち上がる。三人の視線を一身に浴び、その人は窓にかかっていたカーテンを一気に引いた。

 太陽光が一瞬にして教室を明るく照らし出した。暖かく、そして眩いその光は、暗闇に慣れ始めていた三人の目を焼く。


 三人が悲鳴を上げて目を覆った。窓を背に立っていた先輩が、よし、と声を上げる。その合図に、ロッカーに隠れていた私はそこから勢い良く飛び出して三人に襲いかかった。一番手前にいた衣世さんの腕を捻り上げ、床に押し倒す。変な方向に曲げられた腕に衣世さんが呻いた。

 姉の声に反応した滝さんが、振り向きざまにカッターを振るってくる。けれどまだ視界が明瞭ではないのだろう。私が僅かに顎を引くだけでその刃は簡単に避けられた。滝さんの顔を平手で打ち、怯んだその隙にカッターを奪う。

 滝さんも衣世さん同様に床に組み伏せ、首筋にカッターを軽く押し当てた。ようやく目が慣れてきたのだろう彼女は、むっと不機嫌な面を私に向ける。


「縛るものはあるかな」


 隣では、容赦なく千恵さんを気絶させた先輩がそんなことを言っていた。引きずろうとしたのか彼がその両脇に腕を入れて持ち上げると、彼女のポケットから何かが床に落ちる。先輩はしばらくそれを見下ろしてから、面白そうに微笑んだ。




 痛いって、と不満の声を上げる滝さんを無視して、私は縄跳びの結びを固くしていく。


「ちょっと我慢してて。全部終わったら、すぐ外すからさ」

「警察が?」

「あはは」

「ほらー!」


 暴れ出す滝さんの隣で千恵さんが呻き声を上げた。


「ちょっと動かないでよ痛いんだから!」

「そんなこと言ってもしょうがないでしょ、もー!」

「二人とも騒々しいわねぇ」


 喚く妹達に衣世さんがのんびりと微笑みを浮かべる。

 足を投げ出して座る三人は、一本の掃除用箒に縄跳びで腕を括りつけられていた。複雑な結び方のせいで、抜け出そうとしても難しいだろう。その上彼女達の腕、足、服はぴったりとくっついて離れない。チラリと横を見れば、もうほとんど中身のない瞬間接着剤を手持無沙汰に弄る先輩がいた。


「これは没収しますからね! 衣世さんまで、こっそり持ってきて」


 片手にカッター、片手にオリーブオイルの瓶を持った私は、それらをスカートのポケットにしまう。あぁん、と滝さんが非難がましい声を上げた。


「全然遊べてなーい! 結局あの男子だけじゃん、遊べたの!」

「でも滝あなた、何だかんだで楽しんでたじゃない、演技とか」

「そうだよ滝ねえ。『あんた達誰さ?』なんてしら切ってさ。下手だったけど」

「下手って何! そっちも上手くなかったじゃん!」


 ぎゃいぎゃいと騒ぐ彼女達に一年先輩が目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「やっぱり君達、あの男とグルだったんだ」

「一回限りの仲だけどね」


 衣世さんが目を細めて先輩を見つめ、話し出す。


「情報を渡してほしいって言われたの」

「僕達の情報?」

「学校内の地図、登校予定の人が誰か、教室にいる人数、職員室の人数……。とにかく色々」

「報酬はお金? 無償で協力するわけじゃないだろう」

「お金は別にいらないわ。ただね、私達もあの男と同じ。ちょっと遊びたかったの。かまいたちとして」


 生徒として生活していく中、この三姉妹は獲物を狙っていたのだという。自分達の遊び相手になってくれる獲物を。けれど当然そんな事件が起きたら騒ぎになってしまう。だからやりたくてもやる機会を得ることができなかった。

 そんな彼女達に飛び込んできたのが今回の事件だった。武装集団による学校占拠。これに紛れて遊べば、それも武装集団の仕業として処理される。素晴らしい機会だ。


 くすくすと笑い合う三姉妹に私と先輩は肩を竦めた。

 とにかく、これで情報を流していた人物が分かった。三人を捕らえ、相手の数も着々と減らすことができた今、残るはマーゲイか……。



 不意に、校舎内に響き渡るような銃声が聞こえた。防音効果のあるこの部屋にも聞こえてくるそれ。一発、二発、三発と立て続けに鳴った音に私と先輩は顔を見合わせた。

 三人を置いて視聴覚室を飛び出す。悲鳴が聞こえたのは確か、職員室の方向だ。けれどそこへ向かった私達は、廊下に見えた光景に思わず足を止めた。職員室の中から転がるように数人の先生達が出てきていたからだ。彼らは恐怖に歪んだ顔で逃げ出していたが、廊下に立ち竦む私と先輩を見て、一人の先生が駆け寄って肩を揺さ振ってきた。


「あなた達こんな所で何してるの!? 早く逃げなさい、早く!」

「せ、先生! 中の様子はどうなってるんですか? 皆逃げられたんですか?」


 そんなこと今はいいでしょう、と上擦った声で怒鳴り、先生は私達の腕を引いて逃げ出そうとする。そんな先生を制してなおも訊ねる私達に見かねたのか、他の先生が戻って来た。


「職員室に不審者が入ってきたんだ。常に二人か一人が交替で見張っていたんだけど、今見張っていた一人が他の仲間と連絡が取れないって慌て出したんだ。持っていた銃を連射して、お前達がやったんだろうって。俺や他の何人かの先生は逃げ出したけど、残りの先生達は……」


 そこまで言ってその先生は青くなった手で口元を押さえた。まずいことになった、と唾を飲み込む。

 そのとき、今まで物陰から私達の会話を聞いていたのだろう、人影が飛び出して私達の間を擦り抜け職員室へと向かっていく。一瞬呆気に取られた私達だったが、すぐにその人が早海さんだということ、その表情が張り詰めたものであることに気が付く。


「早海さん!」


 咄嗟にその背中を追う。待ちなさい、と先生達が慌てる傍で、早海さんは躊躇なく職員室の扉を開く。そこから見えたのは、両手を振り回して暴れる男の姿だった。

 銃は既に撃ち尽くしてしまったのだろう。使い物にならなくなったそれを捨て、小振りのナイフを勢い任せに振り回している。畜生、と大きく開いた口から怒声が溢れた。


「人質奪って金要求するだけじゃないのかよ!? 何でこうなってんだよ、おかしいだろうが! おい!」


 喚いていた男は入口に立っていた早海さんに気付き、ギロリと視線を向けた。彼の振り回すナイフに気圧された様子で固まっていた早海さんは、その視線に息を呑む。


「ひっ……!」

「逃げろ、瑠唯!」


 固まる彼女に叫ぶ人がいた。八木先生だ。壁にもたれるように床に座り込んでしまっている彼は、肩を押さえ、そこから血を滴らせている。けれどもその顔に浮かぶ痛みの色は薄く、早海さんがいることに対する驚きと焦燥が満ちていた。

 彼女を逃がすために言った八木先生の言葉は逆効果だったようだ。早海さんは意を決したように唇を噛み締め、職員室の入口に飾ってあった花瓶を掴む。

 男のナイフが早海さんの目の前を掠めた。キャッと悲鳴を上げながらも、咄嗟に振り回した花瓶から飛び出した水と花が、男の顔に降りかかる。

 早海さんは叫びながら男の頭に花瓶を振り下ろした。呻き声を上げてその場に崩れ落ちる彼に、何度も血管の浮いた手を振り下ろす。花瓶にヒビが入って割れるまで、その行為は繰り返された。


「八木先生に手を出すな!」


 涙交じりの震えた声で彼女は男に叫んだ。それから壁際に顔を向け、座り込む八木先生の元へと歩き出す。

 その足を倒れていた男が掴んだ。悲鳴を上げることもなく早海さんは床に倒れこむ。驚愕に見開かれたその目が捉えたのは、眉間から血を滲ませながら血走らせた目を向ける男の姿だ。

瑠唯、と八木先生が大声で叫ぶ。あぁ、と掠れた悲鳴が早海さんの口から零れる。握られたナイフが、彼女の足の付け根に刃を煌めかせる。


 だが切っ先は彼女には届かなかった。寸前で差し込まれた出席簿に、刃先数センチが食い込んで留められている。驚く男に向かって、二人の間に割って入った私は精一杯の睨みを利かせた。

出席簿を掴んだまま手を思いっ切り捻ると、ナイフが男の手から弾かれ床を転がる。焦って手を伸ばす男の顔に、靴の爪先を叩き込んだ。


「怪我はないか!」


 怪我も気にせず駆け寄ってきた八木先生は、茫然としている早海さんを抱え起こして肩を抱いた。しばらく呆けた様子だった早海さんの目にじわりと涙の膜が張り、せんせぇ、と弱々しい声を出す。


「怖かったぁ……!」


 ぼろぼろと涙を流して八木先生に縋り付く。私が今まで見たことのない早海さんの甘える姿。先生はそれに応えて彼女を抱き締め、愛おしげにその頭を撫でた。良かった、と心底安堵した吐息交じりの呟き。

 邪魔をしてはいけないだろうと、私は二人の元を離れて他の先生たちの元へ向かった。既に様子を確認していた一年先輩が、私を見て軽く頷く。不幸中の幸いとでもいうのか、撃たれたのは八木先生だけで、残る先生達は多少の擦り傷や痣を除いて怪我はないようだった。


 先生達を連れて外に出る。足早に外へと向かう先生達、最後尾を歩くのは八木先生と早海さんだ。こんな状況でもやっぱり親しげな様子を見せるのは良くないと感じているのか、しれっとした様子で歩いている。ただ時折ちらちらとお互いの顔を窺っているのを、少しだけ微笑ましいと、更に後ろを歩く私は思っていた。

 と、廊下の途中でふと八木先生が何かに気付いた様子で足を止める。そのまま道を外れて横の廊下に向かう八木先生を、早海さんが目を丸くして追った。先生達は極度の恐怖に怯えているらしく、列を外れる最後尾の二人に気付かない。私と一年先輩が足を止めて早海さんたちを目で追っている間に、先生達は先に行ってしまった。


「どうした、大丈夫?」


 廊下の先に一人の女子生徒がしゃがみ込んでいた。

 こちらに背を向けるその子は、項垂れ、茶褐色のショートボブを首筋に垂らしている。寒がりなのか、夏なのにぶかぶかのベージュカーディガンを羽織り、その華奢な肩が細かく震えていた。

 八木先生の問いにその子は項垂れたまま、足が、とか細い声で言った。オーバーニーソックスを履いた足が床に投げ出されていた。


「挫いたの?」


 こくりとその子は小さく頷いた。先生は頷いて、その子の傍にしゃがみ込む。


「立てる? ここは危ない。俺達と一緒に外に出よう」


 いいんですか? とその子が小さな声で呟いた。勿論だ、と先生が答える。

 早海さんが手を貸そうと二人の傍に寄ろうとした。八木先生が差し伸ばした手にそっと自分の手を重ね、その子は顔を上げ、可愛らしい声で笑う。


「ありがとうございます」


 その口元が歪んでいることに、離れた距離にいた私も先輩も気が付いた。

 重なった手が引かれ、先生の体がその子の方に寄り掛かるように倒れる。その子が袖から滑り落とすように出したハンティングナイフが、八木先生の脇腹に吸い込まれるように突き刺さった。

 八木先生の目が大きく見開かれる。体を強張らせ、その場に崩れ落ちる先生を見て、早海さんが絶叫した。

 ニタニタと歪んだ笑顔を浮かべてその子は立ち上がる。そして前髪を掴むと、ずるりとそれを取り払った。下から覗くのは、似た色だがさっきよりも短い褐色の髪。楽しげな笑みを張り付けたマーゲイの顔が、私達に向けられていた。



「いやあああ! 先生、先生っ! 先生ってばぁ!」


 早海さんが悲痛な声を上げて八木先生に縋り付く。すぐ目の前にマーゲイがいることさえ忘れてしまっているようで、血の気が失せた顔をした八木先生を必死に揺すっていた。

 マーゲイは隙だらけの彼女の腕を取って立ち上がらせ、その頬にナイフをあてがう。恐怖に濡れた瞳が八木先生とマーゲイの間を交互に動いた。


「やめろ!」


 叫んで身を乗り出しかけた私を、マーゲイが視線で制する。


「はは、さっきと同じだ。君は何度も人質になるねぇ」


 マーゲイはそう馬鹿にした声で早海さんに話しかけるが、当の彼女は小さく首を振って八木先生を見下ろすだけだった。

 緊迫した空気の中に、彼の笑い声がやけに響く。一年先輩が自虐的な笑みを浮かべた。


「あのとき彼女を逃がしたのは、まさかこの展開を狙ってたんですか?」


 先輩の言葉に戸惑った。疑問符を浮かべる私の先で、マーゲイはゆっくりと目を細めた。それからチラリと倒れている八木先生に目をやり、軽く溜息を付く。


「やっぱり宣言通り喉を切れば良かったかな?」


 その言葉を聞いてさっき彼と会ったときのことを思い出した。早海さんが人質に取られたとき。彼の煽りに、彼女は怒りを露わにさせていた。目の前で好きな人を殺してやるという言葉に。

 あまりにも呆気なく開放された人質。けれど、もしかしてあのときからこの状況を見越していたのだとしたら? わざわざ一度早海さんを逃がしたのは、彼女が職員室に閉じ込められた最愛の先生を助けに来ると知っていたから、目の前でその先生が倒れていく様を見せつけたかったから……。

 ギリ、と歯を噛み締めて彼を睨み付ける。敵意のこもった視線を浴びても、爽やかに浮かんだ笑みは揺らぎさえしない。


「いい趣味をしてますね」

「人の宝物を壊すのってゾクゾクしないかい?」

「ああ、分かりますよ」


 一年先輩が静かに頷いた。それにマーゲイは興味深そうに目を光らせたが、その前に先輩が吐き捨てるように言った。


「でも僕がそう思うのは、好きな子に対してだけだ。あなたみたいに、誰でも彼でもいいってわけじゃない」

「ふぅん……残念」


 私は複雑な思いで横にいる先輩を一瞥する。一瞬目が合ったが、先輩はすぐマーゲイに視線を戻した。


「それで? 可愛らしい格好をして、どこに行くつもりです? 」

「あはは、さぁてどこでしょう?」


 そう言った声は、まるで本当に女の子のような声色だった。ウィッグを被れば、いや、被らずとももしかすれば道仏高校の女子生徒として通りそうだ。


「君達もぼくの変装に騙されたでしょう? 昔から声マネや変装は得意でね。散々遊んだ後に、こうして生徒に扮して逃げようとしてるんだ」

「変装して逃げる? 他の人達は。彼らはどうやって逃がすつもりだったんですか」

「何度も言ってるじゃないか。あの連中とは目的が違うんだって。ぼくは遊ぶことができれば、それでいいの」

「……最初からそのつもりだったんですね?」


 先輩の言葉にマーゲイは微笑みを浮かべるだけだった。

 多分、人質と引き換えに車を手配させるとか、身代金を持ってヘリを呼ばせるとか、そういうことを言うだけ言って最初から自分一人で逃げる気だったんだろう。

 彼は最初から、遊ぶためだけにここに来た。身代金、人質、報復。そんなこと全て彼には関係ない。自分の悦楽を満たすためだけ。そんな考えだからこそ、マーゲイという名が付けられるほどの猟奇殺人鬼となっているのだろう。


 マーゲイは早海さんの後ろ髪を引っ張り、晒しだされた喉元に刃を煌めかせる。早海さんが悲鳴を上げ、カチカチと歯を鳴らした。


「待って! お願い、やめて!」

「やめると思う?」

「私が代わりになるから! 最初の目的は私だったんでしょう!? ねえ!」


 そう叫んでも意味がないことは分かっていた。私を目的としていたのはあの青年達で、マーゲイじゃない。彼にとっては、私でも一年先輩でも早海さんでも、誰でもいいのだ、遊ぶことができれば。


「ここを出てからどうするつもりですか? 変装しようが声を変えようが、長い間持たないことは分かってるでしょう? どうせすぐ捕まりますよ」


 時間を伸ばそうとしているのか先輩が言った。その問いにマーゲイは、あはは、と笑って答える。


「第十区にでも行ってみようかな? あそこにはぼくもまだ行ったことがないんだよね」

「無法地帯中の無法地帯じゃないですか。あんな所、逆に命を狙われるだけじゃ?」

「そうかもしれないねぇ……。いっそぼくも殺し屋に、いや、殺人鬼の方が性に合っているかな?」

「殺人鬼?」

「君もぼくと似ているなら、聞いたことがあるんじゃないの。この街での殺し屋と殺人鬼の区分」


 一年先輩はピクリと眉を顰めて目の前の敵を見る。私は話に付いて行けず、ただマーゲイと早海さんを交互に見ては、どうやって飛びかかろうかということを必死に考えていた。


「噂でしか知らないけれど、第十区には殺人鬼を集めた企業なんてものがあるらしい。影響力の強い組織に入ることができれば、少なくとも足場を構えることができる。死刑囚のぼくも生きられるだろう」


 マーゲイはナイフを握る手に更に力を込める。早海さんが大きく目を見開いた。その視線が私の視線とぶつかる。

 彼女は唇を震わせ、顔を真っ白にさせて私へと手を伸ばす。細い喉から絞り出された悲痛な声が、私の耳に届く。


「…………助けて」


 ぶわりと全身に熱い血が巡る。助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ。思いばかりが空回りして、体は全く動くことができない。

 私を馬鹿にするように、ゆっくりとナイフがその首に刃を立てていく。銀の刃に沿って、ぷつりと浮かんだ小さな血の球に、早海さんはもはや諦めたように目を瞑って泣いていた。


「お願い、やめて! 待ってって言ってるじゃない! やめてよ!」


 何度も繰り返した言葉を叫べど、彼は軽い声で笑うばかりで、手を止めようとはしなかった。

 嫌だ、と絶叫し、止めようとした先輩の手を振り払って私は駆け出した。マーゲイはゆっくりと動かしていた手を止め、勢い良くナイフを引こうと手首に力を入れる。手を伸ばしても、すぐには届かない。

 ニタリと、楽しいおもちゃを見つけた子供のような笑顔を、目の前の男は浮かべていた。



 そんなマーゲイの背後。そこに、ぬっと誰かの影が現れた。


 物音に振り返ったマーゲイの顎へ、力のこもった声と共に、新田くんが振りかぶっていた消火器が振り落とされる。突然の衝撃に床に倒れ込むマーゲイに、立ち竦んでいた早海さんが悲鳴を上げて飛び退いた。


「お前ら無事か!?」

「新田くん!? ……大西くん達は?」

「荒木を連れて外に。俺はやっぱり秋月達が気になって……それより、おい、こいつナイフ持ってたよな? こいつも犯人なのか? でも女の子……?」


 息を切らして訊ねてきた新田くんは、呻きながらマーゲイが体を起こそうとしているのに気付き、慌てた様子で消火器を彼に向け、ピンを抜いてレバーを握り締める。噴出した白い粉がその顔に降り注ぐ。

 ゲホゴホと激しく咳き込みながらも突き出された足が新田くんのむこうずねを蹴って転ばせる。真っ白になった顔の中、唯一その両目を広げ、マーゲイは床に落ちたナイフを拾い上げる。けれどそれを新田くんに刺す前に、背中から私が体当たりをして彼を突き飛ばした。


「新田くん!」


 新田くんを立ち上がらせ、茫然と立ち竦む早海さんに押し付ける。八木先生を外に、と伝えれば、彼は困惑した表情ながらも頷いた。

 と、駆け寄って来た一年先輩が私の腕を引っ張る。その直後、私の後ろ髪をマーゲイの払ったナイフが掠めた。先輩はマーゲイの顔を見て、可笑しそうに笑い声を上げた。


「あはははっ、そんな顔じゃあ逃げようにも逃げられないでしょう! 変な白粉だなぁ!」


 確かに消火器の粉で真っ白になったマーゲイの顔は、白粉を変に塗りたくったようにも見えた。頬を引き攣らせた彼の目が怒りに血走っている。

 先輩が私の腕を掴んだままマーゲイの脇をすり抜けて走り出す。狂ったような笑い声を上げてマーゲイは私達を追ってきた。一瞬だけ振り返ると、新田くんと早海さんが何か言いたげに私達を見ていた。




 逃げ出したところで行く宛などない。マーゲイが冷静になって二人を狙う前に、こちらに引き付けるのが目的だった。でもここからどうすればいいのだろうか。真っ向勝負を挑んだところで、私達の勝率は低いだろう。

 とにかく目についた道を走り続けているうちに外に出てしまったようだ。校庭の方から騒がしいサイレンや人々の喧騒が聞こえてくる。恐らくニュースを見た保護者や野次馬や集まっているのだろう。まさか、そっちに方向に逃げるわけにもいかず、逆方向へと向かう。

 その先にあるのはプールだった。授業で使ったり、放課後に水泳部が泳いだりしている場所。入口に飛び込んですぐに鍵をかける。塀を乗り越えればすぐに入ってこられるだろうが、気休めだ。マーゲイが扉を乱暴に叩いている間に私達はプールサイドに上がる。青い水の溜まったプールは、所々に虫が浮いており、夏の日差しを反射してキラキラと水面を光らせていた。

 先輩は近くにあった機械室の扉を開く。訳の分からない機械やポンプが並ぶ部屋。彼は少し考えてから私に振り向く。


「ナイフか何か、切れる物とか持ってないかな」

「さっき没収したカッターなら……」


 ポケットを探ってカッターを取り出す。と、そのひょうしに一緒に入れていた瓶が落ちそうになり、咄嗟に空中でそれを掬い上げる。瓶のラベルに目をやりながら先輩にカッターを渡しに行った。先輩はカッターを手に、何かの機械の前にしゃがみ込む。

 ガサガサという不審な音が聞こえ、私はプールサイドに戻った。プールの周囲を覆うフェンス。その外側に植えられた木々のうちの一本が、葉を大きく揺らしている。その光景はついさっき見たばかりのものだった。木の上に登ったマーゲイが、枝を蹴ってフェンスを飛び越え、プールサイドに着地する。私が構える暇もなく、そのままナイフを取り出して襲いかかってきた。

 振り回されるナイフを避け続ける。一振り一振りが素早く、避けるのに精一杯だった。じわじわと追い詰められ、サイドに少し盛り上がった飛び込み台の上に逃げる。スカートのポケットに手を入れる私にマーゲイが笑う。


「いくら探してもナイフなんて持ってないだろ?」

「……………………」


 無言で彼を見つめる。ナイフを柄を握り締めた彼は、それを勢い良く私の顔に向かって突き出した。

 反射的にしゃがんでそれを避ける。足場に手を突き、後ろ向きに跳ぶカエルのように飛び退く。隣の飛び込み台に移った私に合わせるように、笑顔のマーゲイがさっきまで私の立っていた場所に飛び乗り、そして笑顔のまま足を滑らせた。


「え?」


 丸く見開かれた目が私を見る。キラキラと大きな水しぶきを上げてプールの中に落ちていったマーゲイ。彼の落ちた水面に、白い粉と薄い赤色が広がり、すぐに消えた。私はポケットから取り出した、蓋の開いたオリーブオイルの瓶をプールの中に投げ捨てた。

 水道代の傍に立てかけられていたモップを持ってきて、水面に顔を上げたマーゲイの顔を小突く。掴む手が油で滑り上手く握れない。小突かれる痛みに顔を顰めながらも、マーゲイが自分を小突くモップの柄を掴んだ。


「和子ちゃん離れて!」


 背後から聞こえた一年先輩の声に弾かれるように手を離す。ほぼ同時にモップは水中へと引きずられ、悔しそうな顔をするマーゲイの顔が私に向けられていた。

 先輩はいつの間にか濃い黄色のゴム手袋を両手にはめていた。機械室から伸びたコードのようなものが握られ、その先端は切断され銅線が剥き出しになっている。

 二人が目を合わせた。ギロリと私達を睨み付けるマーゲイに、一年先輩はニヤリと嫌らしい笑みを口元に浮かべ、プールの水面にコードを潜らせる。

 パチン、と小さく何かが弾ける音がした。私達に向かって伸ばされていた手が大きく痙攣し、マーゲイがその四肢を強張らせる。その腕が水に落ち、続いて体がゆっくりと倒れて飛沫を上げる。


 太陽の光を反射して輝くプール。立っていた波が段々落ち着き、静かな水面へと戻っていく。

 白目を剥き、仰向けになって浮かぶその体を、私と一年先輩はしばらく無言で見つめていた。

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[良い点] 和子ちゃんと先輩、ナイス連携!先輩がちゃんと和子ちゃんのこと助けてくれて良かったです·····!先輩疑ってごめんね。
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