第6話 訓練
車内に響くアナウンスにまどろみから引っ張り出される。目を擦って窓外を見ると、まだ薄暗い空が見えた。電車が駅に着いた。始発に乗る人は少なく、疎らな人の波に乗って駅に降りた。丸い形をした明星市を走る環状線、背後の電車は次の駅へ向けてゆっくりと動き出す。秋の早朝は少し肌寒い。上着でも着てくれば良かったかな、とジャージを見下ろして思った。
第五区の駅に来るのは初めてだ。紙ナプキンの地図を取り出し、それを見ながら駅を歩く。えーっと、東口はどっちかな……あ、こっち南じゃん。
何度か迷いかけながらもなんとか目的地に辿り着く。そこは住宅街から離れた先の、とある小さな山のふもとにある寂れた神社だった。長い階段の先に見える鳥居のような物。手すりを掴みながら階段を上り切ると、見えたのは左右対称に並ぶ二匹のお狐様、古びた境内、そしてそこの小さな段差に腰掛ける彼の姿。
明け方の、サワサワと靡く木々が並ぶその中にある古びた神社は厳かでどこか幻想的で、そこにいる彼は何だか昨日以上に威圧感があると思った。
「本当に来るか、正直半信半疑だったんだけどな」
開口一番そう言った彼に苦笑する。
「学校を知られているのにそんなことできませんよ。どうせ住所だって知ってるんでしょう?」
「第四区、二十七階建てのファミリーマンション『リリーフ』、部屋番号は一一〇五号室。だろ?」
「……正解です」
プライバシーも何もあったものじゃない。というか、そんな個人情報をどこで手に入れたんだろうこの人。
さて始めるか、と腰を上げた彼を見て、思わず身を強張らせる。そんなわたしを見て彼は首を傾げた。
「何を緊張してるんだ」
「だって……」
「…………ああ、まさか俺がお前を殺すために呼んだと思ってるのか?」
「違うんですか?」
彼は眉をしかめながら「そう思っていてのこのこ来るってのも、お前結構抜けてるよな」と呆れているのか馬鹿にしているのか分からないような口調で言った。
「動きやすい格好で来いと言っただろ。ただのスポーツだよ、軽い運動だ」
――――どこが軽いんだ、と地面に寝転びながら、数時間前に聞いた台詞を恨んだ。
彼が言う軽いスポーツとは神社の階段の上り下りだった。しかも五時間ずっと。途中何度か休憩を挟んでいるとはいえ、全身はじんじんと重い疲労感に包まれていた。髪ゴムで結わえた髪もいつの間にかゴムがなくなっていた。何度足を滑らせたか、膝と肘を擦りむいたか。荒く呼吸を繰り返しても、酸素がろくに肺に入っていく気がしない。
湿った土が汗ばんだ肌に張り付き、僅かに口に入り込む。それでも嫌悪感より冷たい土の心地良さが勝っていた。だくだくと額から流れる汗に目を閉じる。
疲れた疲れた疲れた。朝も早かったから寝不足なんだ、いっそこのまま眠ってしまいたい。けれどそれを許さないように彼の言葉が降りかかる。
「次やるか」
「うえぇっ!?」
ガバッと上半身を起こして彼を見る。まだやるの!? 疲れてるんですけど、死にそうなんですけど。不満が浮かぶわたしの顔を一瞥して、彼はそれを無視する。コートの下から何かを取り出し、わたしに放る。反射的に空中で受け取ってから、悲鳴を上げた。
鈍く銀色に光る大きなナイフ。それがわたしの手に握られていた。
「なんっ……何ですか! 何ですかこれ!!」
「ナイフだよ」
「それは知ってます!」
聞きたいのはそんなことじゃない。混乱するわたしに、彼が溜息を付きながら静かに言う。
「刃先を指に当ててみろ」
「はぁ!?」
「安心しろ、ゴムナイフだ」
ゴムナイフ? 挙動不審に視線を泳がせ、それから恐る恐るナイフの先端に指をちょんっと触れさせる。何度かそれを繰り返し、深呼吸をしてからゆっくりと刃先に指を押し付けた。
ぐにっと刃先が曲がった。ぐにゃぐにゃとしたものではないけれど、硬質なゴムが曲がるように。本当だ。
神社の土を踏みしめながらわたしと彼は対峙する。距離は僅か数メートル。わたしの手にはナイフ、彼は素手でただその場に立っていた。
次にやるのは体術らしい。ナイフを使って彼を倒すのが目的だと言われたけれど、もはやスポーツでも何でもないし、何が目的でこんなことをさせるのか分からない。
「どうした、かかってこい」
無言で立ち尽くすわたしに彼が言う。それでも中々一歩を踏み出すことができない。ゴム製とはいえ、ナイフだ。武器を人に向けるだなんて後ろめたくて躊躇してしまう。
「やっぱり怖いし……無理、ですよ」
「臆病者だな。そんなだから、いじめられるんだよ」
「っ! それとこれとは関係ないでしょう!」
声を荒げると、彼はやんわりと首を振ってわたしを見つめた。鋭いその目に捕らわれると一瞬固まってしまう。けれど今、その目はどこか遠くを見つめているようにも見えた。
「いいや、関係ある。お前はそうやってビクビク怯えているから弱く見られるんだ。何を躊躇う? 自分を信じて動くことの、何が怖い?」
「そうじゃなくて、その、刃物は……」
「いつも自分にぐさぐさ刺されてるくせによくそんなことが言えるな。言葉の刃物の方が鋭利だと言うだろう? こっちの方が大分優しいだろ。それとも、お前はいじめられて喜んでる変態なのか」
あまりに乱暴な理論だと思った。けれど、ふつふつと湧き上がる怒りが、疲労を上回って全身を熱くしていく。無意識にナイフの柄をキツク握りしめていた。……そうだ、これはゴムナイフ、傷を付けることはない。彼も来いと言っているんだ。
一条さんの姿がぼんやりと彼に重なった。その瞬間、わたしは地面を蹴って彼に飛びかかっていた。
「わああぁっ!」
長く伸びたその足目がけてナイフを振り下ろす。けれどそれはいとも簡単に彼が足を引くことによって失敗し、直後にその引かれた足が強烈な勢いでわたしの肩を蹴り上げた。
「ぎゃっ!」
「単純すぎるんだよ。もっと考えろ」
びりびりと痺れるような肩の痛みを感じながら彼の言葉を聞く。痛み以上の怒りに歯を食いしばり、再度彼へ突進した。
今度に狙ったのは彼の腹部。彼が反転し、あっさりとナイフを避ける。地面を踏み締めてその場に踏み止まり、勢いを付けてナイフを握る腕を伸ばす。ステップを踏むように彼が躍り、わたしの攻撃を避け続ける。掠りもしない。悔しくて泣きそうになった。
突如、視界の端から迅速に伸びてきた彼の大きな手。わたしの腕を掴もうとしている。短く息を吸い込みながら素早く横に体を滑らせ、その手から逃げた。
「ほぅ」
初めて、感心したような声で彼が呟く。互いにその場から数歩飛び退き、わたしたちの距離は最初と同じになった。
額に滲む汗を拭い、呼吸を整えながら彼を睨む。
反射神経が優れているから素早い動きに反応できる。
瞬発力が優れているから瞬間的に行動できる。
――――この体質は、こういうときに使えるのかもしれない。
「はあぁっ!」
ナイフの柄を握り直し彼へ駆け寄る。頬の汗が一筋後ろに流れるのと同時、間近に迫っていた彼の顔がふっと緩んだ。呆れるように。
またしても反転し、簡単にナイフを避けた彼は、今度は距離を取らずに腕を伸ばしそのままわたしの襟首を掴んだ。もう片方の手はわたしのナイフを握る手首を掴まえる。
「駄目だ」
「え――――」
景色が回転する。耳元で聞こえた風を切る音。しまったと血の気を引かせる間もなく、背中に息が止まりそうになるほどの衝撃を受けた。
空気が肺から絞り出される。視界が真っ暗になり、チカチカと赤い光が瞬いた。背中から全身にじわじわと広がっていく痛みに、ただ唾を吐きながらその場で悶えた。
いつまでそうしていたか、気が付けば視界にはわたしを見下ろす彼がいた。
「動きが大きすぎる、隙だらけだ」
心配でも謝罪でもないのね、と苦い思いが口に広がる。休む暇もなくわたしは立ち上がり、地面に転がっていたナイフを拾った。
それからまた数時間、わたしたちは運動を続けた。二人とも素手で戦うときもあれば、彼だけがナイフを持つときもあった。そしてそのどれもでわたしは彼に勝つことができなかった、ナイフを掠りさえできなかった。逆に、彼の動きは迅速で、わたしがいくら特異体質を使って避けようとしたところで避け切れない。
何度地面に叩き付けられたのか、五回目辺りからもう数えていない。彼の攻撃に一切の容赦はなかった。それが痛くて怖くて、悔しかった。
「そろそろ今日は終わりにするか」
彼がそう言ったとき、太陽は既に山の間に沈みかけていた。午前五時から続いた、永遠にも感じるこの拷問も、ようやく終わるのかと思うと嬉しかった。
ぐったりとした疲労感を感じながら近くの木の幹に寄りかかる。疲れ切って足が棒のようだ。
「あ、でも最後に」
「まだあるのぉ!」
疲れ切って言葉も乱暴になる。彼は表情を変えず、「最後だ」ともう一度告げて今度は別の何かを取り出した。それを目に入れた瞬間、ひゅう、と変に息を吸う音がわたしの喉から聞こえた。
彼は銃を握っていた。
ゾッと皮膚が粟立つ。咄嗟に踵を返して逃げようとして、湿った土に足を取られて転んだ。
「何やってるんだ……」
「来ないで!!」
裏返った声で叫ぶ。銃を凝視し、疲労と恐怖に息を荒げるわたしに、彼は納得したように頷いた。そして銃を別の木の方向へ向け、引き金を引く。鈍く小さな発砲音。けれどその音はわたしの心臓を縮み上がらせるには十分だった。
弾丸が撃ち込まれた木の方向を見ると、そこに穴は開いていない。唖然とするわたしの前で、彼が地面に落ちた弾丸をブーツで踏んだ。ぐにっと僅かにその弾丸がへこむのが分かった。
「これもゴムだ、軟質の。それほど危険じゃない」
そう言って彼は銃を片手に歩み寄ってくる。びくっと怯えていると、彼はわたしを立ち上がらせ銃を握らせた。「あの木を撃ってみろ」と一本の杉の木を差す。それは神社にある他の木々より一回り以上大きなものだった。
痙攣したように手が震える。そんなに大きくないはずの銃は意外にも重量感があって、だけどわたしの感じている重さは銃の重さだけではないだろう。撃つ際の注意点や準備を彼が説明しているけれど、頭に入ってこない。
銃をゆっくりと持ち上げ、銃口を木へと向ける。慎重に準備をし、あとは引き金を引くだけなのだが、激しくなる手の震えで狙いが定まらない。落ち着け、落ち着け、わたし。
「あっ……う、あ」
恐怖で心臓が破裂しそうだ。呼吸が浅く、息が苦しい。目の前がぼやけてきた。
嫌だ、嫌だ嫌だ、銃なんて撃ちたくない。だって怖い、だってこんなに重い。
それに、それに……保良さんも、保良さんも銃に――――
「早くしろ」
彼の冷たい声がわたしの心を揺さ振った。
息を止め、真っ白になる思考の中で、涙を流しながらわたしは絶叫する。
「ああああっ!」
指に力がこもった。
破裂するような発砲音がして、心臓がドクリと激しく鼓動を打った。
意識が遠のいていく。
「――――おい」
「うあっ!?」
すぐ後ろから聞こえた声にビクッと体を震わせた。無表情の彼が倒れかけたわたしを支えてくれたのだ。慌てて飛び退き、謝る。けれど彼はただ息を吐いて呆れた顔で言うだけだった。
「ナイフはともかく、お前、銃は下手なようだな」
「え? あっ、ど、どこに……!?」
彼は無言で指を差した。木とは全く見当違いの方向に。どうやらわたしが撃った弾は、木の幹どころかその頂点の葉を数枚散らしながら上空へと飛んでいったらしい。
銃は教えても無駄かもな、などと呟いている彼をぼんやりと見つめた。わたしのことなどお構いなしに考え事をするその態度。
怒りが湧いた。
「…………何なの」
「あ?」
「何なんですか、あなたは!」
わたしの叫びが神社の空気を震わせる。一度口から言葉が飛び出れば、あとは堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「一体あなたは何をしたいの!? わたしに何をさせたいの! わざわざこんな所まで呼んで、変なことばっかさせて……何を考えてるのか分かんない! わたしを殺したいんだったらさっさと殺せば良いじゃない!! もう、もうわたしのことなんて放っておいてよ! お願いだから、構わないでっ!」
最後はもう言葉にならず、熱い涙が頬を伝った。体中カッカと熱に浮かされながら、震える言葉を紡ぎ出す。
「わたしが何をしたっていうの。何で、何で上手くいかないの……。どうして誰も、わたしを必要としてくれないの。ただ生きてるだけで悪口言われるほど、悪いことした? ――あなたは保良さんを殺した。あんなに優しかった保良さんを殺した! あの人は誰よりもわたしの傍にいてくれた。一番大切な人だったのに、唯一の居場所だったのに……っ」
保良さん、保良さん、保良さん。優しかった保良さん、小さい頃から大好きだった保良さん、楽しそうにホラ話をしてくれた保良さん、わたしに笑いかけてくれた保良さん。
もう会えない、もう話せない、もう笑ってくれない。
わたしの保良さんはもうどこにもないんだ。
それを認識し、初めてわたしは保良さんを想って泣きじゃくった。現実だと認めきれなかった保良さんが死んだという事実。それが今になってようやく飲み込め、滝のように溢れ出す感情の整理が付かず、子供のように泣き喚いた。
最悪だった、最低だった、限界だった。
「もう……もぉ、やだあぁ…………」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、ただ感情に任せて声を上げ、止めどない涙を流す。
彼は無言でそんなわたしを見つめていた。
「居場所が欲しいのか」
わたしの涙が落ち着いてきた頃、唐突に彼が言う。咄嗟に反応できずポカンとするわたしに彼は同じ言葉をもう一度吐いた。鼻を啜ると、ツンとした鈍い痛みを感じる。
「秋月和子。今日お前をここに呼んだのは、お前を殺すためじゃない」
そうするのだったらとっくにやっているさ、と付け加えて。
彼がわたしとの距離を縮める。その距離僅か三十センチ。彼の鋭い目をわたしは覗き込む。
深い色をした両の目。気のせいだろうか。それがふと、どこか寂しそうに揺らいでいるように見えた。
彼の唇が開く。
「――――殺し屋にならないか?」
どこからか、カラスが飛び立つ鳴き声が聞こえた。彼の背後で夕日が沈みかけていく。濃紺とオレンジ色の境界線。夕日の色濃いオレンジ、その最後の一線が闇に溶けたとき、
「は?」
と、あまりに間抜けな声が口から零れた。
「…………あ、は。やだ。何、言ってるんですか……冗談……」
「本気だ」
「なっ、に。……だから、どうしてっ!」
「お前に居場所を与えてやる」
彼の言葉に、挙動不審に動いていた手を止めた。ゆるりと視線を彼に定めなおすと、その顔は恐怖さえ覚える無表情のままだった。
一瞬止まっていた思考がまた動き出す。殺し屋?
「ころ、殺し屋? だって、それ。ねぇ? こっ、殺しって……人、殺すって……、そうでしょ? 殺人なんでしょ? やだ、そんなの、わたし、無理。無理だよ、無理です」
「じゃあ殺さなければいい」
彼の返事に意味もなく笑った。そんなわたしを気味悪がるわけでもなく、彼は喋り続ける。
「名だけの殺し屋などごまんといる。お前もそういう風になればいい、名だけを借りた殺し屋だ。俺のサポート役として殺し屋になってみないか?」
「サポートって……あなたの?」
彼が頷いた。わたしは唇を噛みしめ、一度視線を地面に下ろして考えた。
今日の意味不明な彼の行動。体力作り、体術訓練、射撃練習。それら全ては確実に、わたしを殺し屋にするかどうかのテストみたいなものだったのだろう。
殺し屋のサポート。それはどんなものなんだ。直接殺人に手はかけないけれどそれを補助する形、殺人幇助、共犯?
けれどどっちにせよ答えは決まっている。NOだ。彼が言っていることを信じようがどうしようが、悪事の手伝いなんかしたくない。この誘いを断ってしまえばどうなるのか分からないけれど、今のわたしにはもはやどうでもいいことにも思えた。
わたしはまだ生き延びたい。生きて、家に帰るんだ。こんな恐ろしい世界には関わらない日常に戻るんだ。こんな怖い人の傍じゃなく、家で学校で、温かい家族や優しいクラスメートと普通の日常を――――。
「うぁ…………」
そのとき、脳裏に様々な思い出が鮮明に浮かび上がった。家で学校で、家族やクラスメートと過ごしたわたしの日常を。
家に帰っても誰もいない真っ暗な部屋、無駄に広い部屋の隅に積もる埃、生活感のない両親の部屋、テレビの前で食べる冷めかけのパスタ、ベッドにもぐりこんだときに感じる胸の苦しみ、枕を抱き締めて静かに泣く夜。画鋲が入っているかなくなっているかトイレの中に捨てられている靴、楽しげな皆の笑い声がする教室の中に独りきりの孤独、机に描かれた嫌な落書き、いじめもわたしの存在も無視するクラスメート、一条さんの馬鹿にした笑い声。
冷たい家族、寂しい家。狭い教室、怖い学校。わたしの日常なんて、そんなものじゃない。保良さんだって、もういないじゃない。
温かさも優しさも居場所も、もうどこにもないじゃないか。
ゆるりと視線を上げて彼の目を見る。居場所をくれるんですか、とそんな言葉が無意識にわたしの口から零れた。ああ、と肯定の言葉が聞こえた。
拒絶しようと用意していた言葉が出てこない。ぶるぶると震える唇が、わたし自身も驚くほどあっさりと全く違う言葉を告げた。
「――――よろしく、お願いします」
言い切ってから、ああ、と妙な溜息が零れ落ちた。
どうしてそんな返事をしてしまった理由なんて自分でもよく分からなかった。
だけどきっと、そのときのわたしにとって、他に選択肢なんてなかったんだ。