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第57話 合流

 その男は文字通り、木を駆け下りてきた。幹を蹴るようにやって来た彼は、ぐるりと足を回転させ近くの枝に足を引っかけ、勢いのまま枝で大回転を果たし跳んだ。廊下の壁にぶつかりそうな勢いで飛び込んできた男を、私達も早海さん達も慌てて避ける。

 勢い付いて飛び込んできたわりに、膝を折って軽やかに着地した男は、ゆっくりとその場に立ち上がる。吹いた風がふわりと黄褐色の髪を撫でる。こちらを向いたその男は爽やかに、人懐っこそうなあどけない笑顔を浮かべた。


「こーんにっちは」


 声変わりさえ来ていないような少年らしい声。小顔の中で大きくくりくりとした黒目は、彼の顔を一層子供らしく見せる。それでも既に私は知っている。彼、マーゲイは、私達よりも年上の大人で、人を騙して殺す天才なのだと。


「連絡をくれたから何だと思ったけど、こんなに生徒がいたんだね。土曜日だっていうのに」

「あんたが直接来るとは思ってなかったな。教師達を見張ってたんじゃないのか?」

「飽きたから他の奴に任せて来たよ」


 男はマーゲイに呆れた表情を向けた。教師という言葉に早海さんが視線を向けたが、二人は彼女に目もくれず話している。


「あなたが主犯なんですか?」


 私が二人にそう言うと会話が止み、マーゲイがこちらを見た。ぽっかりと空いた穴のように黒い目が、私を吸い込んでしまうような錯覚に見舞われドキリとする。彼は首を振って目を細めた。


「いいや。ぼくは主犯ってわけじゃない、仲間の一人だよ」

「目的は?」

「それはぼくの? それとも、全員の?」

「その言い方、あなたは他の人達とは違う目的なんですか?」

「さあてね」

「……死刑囚がこんな所にいていいんですか」


 そう切ると、そこまで知ってるんだ、とマーゲイは素直に驚いた顔を見せた。死刑囚という単語に早海さんと恋路さんが反応する。強張った顔で私に無言の疑問を投げかける。

 それを知ってるなら教えてもいいかなーと、マーゲイは合わせた手の平で、笑んだ口元を隠す。うふふ、と奇妙な笑いを零して言葉を発した。


「ぼくはねぇ、遊びにやって来たんだよ」

「あ、遊び?」

「そう、遊び。脱獄したはいいけれどやっぱりこそこそ隠れて生きるってのは性に合わなくてさ。でも今まで通りってのも、一度捕まった以上足取りをすぐつかまれてしまう。だったら、いっそ派手なことをしてみたいと思わないかい」


 そんなことを言うマーゲイを私は黙って見つめていた。しばらく経ってようやく言葉を飲み込んだ私は、ゆっくりと区切るように彼に告げた。


「……他の人達の目的がこの学校にあるから。だからそれに便乗したんですか?」

「本当よく知ってるね、凄い凄い! そうそう、暴れられるならどこでも良かったんだけど、タイミング良く彼らに会えたからね。学校にテロリストっていう展開も一度経験してみたかったんだよ」


 まあ生徒役としてだったんだけど、と楽しそうにマーゲイは笑う。

 しゃくり上げるような声にハッとして振り向いた。極度の怯えを顔に浮かべ、ガチガチと歯を鳴らす恋路さんがマーゲイを凝視していた。


「死刑囚って何? 誰か殺すの? 殺されちゃうの?」


 恋路さんが上擦った声で繰り返す。目いっぱいに涙を溜めた彼女をマーゲイが見る。私の背に必死で体を隠そうとする恋路さんに笑いながら、軽やかな口調で彼は言う。


「そうだな。まだ誰も殺してはいないけれど……。どうせ遊びに来たんだ。一人くらい、殺してもいいかもね」


 ニタリと彼は表情を歪めた。笑顔とも言いたくない、おぞましいそれにゾッとする。


「やめろ!」


 早海さんが叫んだ。必死の形相で彼を睨む。恐怖に頬を引き攣らせながらも、その険しい目は逸らさない。


「友達を心配してるんだ、優しいじゃん。安心して。殺すなら先生達からにしてあげる」

「先生達にも手を出すな!」

「ふぅん、必死だね。そっちの方が大事なの? ……あ、そっか、分かった。好きな人でもいるんだね」

「ふっ!」


 ふざけるな、と言おうとしたのだろう口を開いた早海さんは、開いた口を数回ぱくぱくさせて目を見開いていた。真っ赤に染まった顔が彼の言葉を肯定している。

 ひゅう、とマーゲイが茶化すように口笛を吹いた。純朴そうな笑顔で早海さんの顔を覗き込む様子は、女友達の恋愛相談に乗る同級生のようなものだった。しかし、続く言葉はそんな明るいイメージを一掃する。


「素敵だな! 先生を好きになるなんて、青春だなぁ! じゃあ、その人の喉をぜひ君の目の前で掻っ切ってあげよう! 誰、誰だい? その先生は!」

「っ…………!」


 もはや言葉も出ないようだった。真っ赤な顔を一瞬で青白くさせた早海さんは、信じがたいものを見るようにマーゲイに目を見張る。

 そのとき、窓の外からサイレンの音が聞こえてきた。ようやく警察がやって来たようだ。マーゲイと男が外の様子を横目に窺う。



「時間があまりなさそうだぞ」

「そうだね、早くした方がいいかな」


 マーゲイが私の方へ一歩近付く。さっきの話に怯えきっていた恋路さんは、きゃあ、と高い悲鳴を上げて私の服を引っ張った。だけど私は彼をまっすぐ見据えて動かなかった。


「こっちにおいで、ネコちゃん」


 そう言って彼は私に手招きをする。ギクリと顔に緊張を走らせる私の背後で、恋路さんが猫? とよく分かっていない声で呟いた。


「道仏高校二年二組、秋月和子さん。合ってる?」

「……ええ、そうですね、合ってますよ」

「良かった。間違ってたらどうしようって、ちょっとドキドキしてたんだよね」


 場にそぐわない明るい声で胸を撫で下ろすマーゲイに、私は厳しい声音を崩さないまま訊ねた。


「さっきその人も同じこと言ってました。どうして私なんですか?」

「ここで言ってもいいの?」


 マーゲイの返事にそっと早海さんと恋路さんに目を向けた。彼女達は理解ができていない顔で、私達の会話を緊張気味に聞いている。このまま話し続ければ、私の隠している秘密に勘付かれてしまうかもしれない。

 どうして私を指名するのだろう。人質にするのなら、早海さんが言うように別の人でも、早海さんと私の両方でもいいはずだ。それを何故私一人だけなのだろう? そこまで考えてハッと思い付いた考えに目を見開く。ゴクリと唾を飲み込んで、彼らへと視線を投げた。

 もしかして。この人達の目的は、最初から私なんじゃないだろうか。



「和子ちゃんをどこに連れていく気ですか?」


 ドアの開く音がして、一年先輩の声がした。家庭科室から出てきた先輩が、静かにマーゲイを睨み付けている。その視線を向けられてもマーゲイは意にも介していない様子だったが、先輩の背後から衣世さん、滝さん、千恵さんまでもがぞろぞろと出てくるのを見て、耐え切れないように吹き出した。



「ちょっと、あんた達誰さ? ここから早く出ていってよ」

「そ、そうですよ。まだ課題とか色々やりたいこと残ってるから……今邪魔されるのは、困ります」

「そうよぉ。用があるならまた後でいらっしゃいな」


 笑われたことに苛立ったのか、滝さん、千恵さん、衣世さんが口々に文句を言った。どこか呑気というかズレているというか……そんな言葉に男がムッとしたように何かを言おうとしていたが、それをマーゲイが制する。


「そうだね。じゃあ、また後で来ることにしよう」


 随分とあっさりな物言いにこちらが拍子抜けしてしまう。驚いた目でマーゲイを見たが、それは早海さんを捕らえている男も同じのようで、戸惑いの目をマーゲイに向けていた。


「できればその子も置いていってくれると助かるんだけどなー」


 滝さんがずうずうしくマーゲイに告げた。流石にそれはと思っていると、マーゲイは男の手から素早く早海さんを離し、背を軽く押しやって私達へと寄越してきた。

 僅かによろけた早海さんだったが、すぐにハッとした様子で駆け寄ってくる。その手を引いて私の後ろへと隠し、戸惑いと警戒を入り混じらせた目でマーゲイを見た。


「……さっきまでの態度はどうしたんですか」

「時間がないって言ったろう。無駄な取り引きを続けているよりだったら、早く次の行動に移る方がいいんだよ、ぼくらとしても」


 そうとだけ言い残し、マーゲイはひらりと手を振って私達に背を向けた。銃を持った男も警戒しながら彼の後に続く。背後からなら奇襲として攻撃することができるだろうかと一瞬考えたが、恐らくマーゲイは即座に反撃してくるだろう。結局そのまま二人は廊下を曲がって姿を消した。

 彼らが消えた廊下の先をしばし呆然と見送っていた私達だったが、一年先輩の咳払いに振り返る。彼は小さく笑って、


「そろそろ手を打った方がいいね」


 と言ってから、神妙な顔に戻して私達を見ていた。






 七人という大人数で廊下をこっそり歩くのは無茶なものだと痛感した。どこからか誰かの近付く気配を感じても、近くに教室でもない限り隠れる場所などない。常に警戒心を張り巡らせ、気が気じゃなかった。

 それでもなんとか一階に降り立った。そのまま少し進んだところで、ピタリと恋路さんが歩みを止め、辺りを見回した。


「どうかした?」

「……誰かの泣いてる声がする」


 啜り泣きみたいな、と言って恋路さんは耳を傾ける仕草をした。もしかしたらまだ誰か残っていたりしたのだろうか。恋路さんはしばらく耳を傾けていたが、不意に顔を上げたかと思うと近くにあった教室、視聴覚室の扉を開けて中に入り込んだ。

 視聴覚室は授業で何回か来たことがある。広い教室に並ぶ長机、前方に垂らされたスクリーン、その手前に置かれたプロジェクター。昨日誰かが使ったのだろうか、黒いカーテンが閉められて教室内は真っ暗だった。その中から聞こえてくるのは、押し殺そうとして失敗しているような啜り泣き。暗闇と相まって、まるでそれは幽霊の声のようだった。

 恋路さんは少し怯えた様子で暗い教室内を歩く。彼女が泣き声の元へと辿り着いたとき、一瞬泣き声が止んだ。そして次の瞬間、恋路さんの上擦った声が教室に響く。


「えりな!」

「……綾?」


 机と机の間にしゃがみ込み泣いていた一条さんが、恋路さんに腕を引っ張られて立ち上がる。暗がりでも分かるほどその顔は恐怖に引き攣っていたが、恋路さんや私達の姿を見て、僅かに弛緩した。

 電気を付けては外にバレるかもしれないと一年先輩の言葉に従って、恋路さんは携帯のライトで足元や一条さんの顔を照らした。怪我がないのを確認し、彼女もほっと泣きそうな顔で微笑んだ。


「えりな、酷い顔になってる」

「う、うるさいっ」


 アイシャドーやマスカラが涙で濡れ、取れたつけまつ毛が目尻に張り付いている。きっと長い間泣いていたのだろう、赤く充血した目が恋路さんを恨めしそうに睨んでいた。

 その目が私達を見留めた。一年先輩や滝さん達がいることに驚いて見開かれた目が、私を見て嫌そうに歪んだ後逸らされる。私は一年先輩達の傍から一条さんに声をかけた。


「大丈夫?」

「黙って。こっち見ないで」

「えっと……逃げて、なかったんだ?」

「逃げようとしたわよ。でも、途中で変な人に見つかりそうになって、急いでここに隠れたの! 出ようと思っても廊下を誰か歩いたりしてて、出るに出られなかったんだから!」


 怒鳴る一条さんの肩を、宥めようと近寄った早海さんが撫でる。私達と別れてからここに隠れていたわけか。ずっと誰にも見つからなかったというのは幸運だった。

 今なら大丈夫だったから一旦教室を移動しようか、と先輩が提案する。私達もそれに頷こうとしたとき、またもや廊下から誰かの気配が近付いて来た。早足に廊下を進む足音に、私達は黙りこくる。だがその足音が視聴覚室の前で止まったとき、一条さんが息を呑んで体を小さく丸めた。


「嘘。やだ、嘘! こっちに来る!」

「え、えりな…………」


 怯える彼女に恋路さんが不安気に抱き付く。二人を守るようにその前に立つ早海さんだったが、彼女の目も緊張に引き攣っていた。

 私と先輩は目配せをして教室の扉に向かおうとする。しかし、滝さんに肩を掴まれ立ち止まった。隣を見れば、先輩も同じように衣世さんに手を掴まれている。その後ろで千恵さんが困ったような笑みを浮かべて二人を見つめていた。


「二人とも休んでなさいよ」

「え? でも」

「いいから。ちょっと私達に任せて」


 そう言って二人は無理矢理私達をしゃがませる。その間に教室の前に移動した千恵さんが、プロジェクターの電源を入れた。

 青く眩しい光がスクリーンを照らし出す。空気中の埃がその中にふわふわと漂っているのが見えた。




 教室に入ってきた人物の顔は見えない。ただ荒い呼吸だけが空間に木霊する。ペタリと床を踏み締める足音が、ゆっくりとゆっくりと徘徊する。

 机の下に身を潜める私達。恐怖に荒くなりそうな息を必死に耐え、音もなく空気を吸って吐いて。近くにいる人の顔さえうすぼんやりとしか分からない。誰かの小さく震える手を握り、じっとりと汗を滲ませる。そうしつつも、そっと机から顔だけを覗かせ、足音の主を観察した。

 その人が、ふとスクリーンに顔を上げた気配がした。同時に息を呑む音がする。


 スクリーンに大きな人影が映っていた。おぼろげな輪郭のそれは、ぼうっとその人を見つめている。と、その影が揺らぎ、のっそりと手が左右に伸びた。それは両の手二本だけじゃない。脇の下から更に二本、肩から更に二本。計六本もの腕がうごうごと伸びた人影が、怪しげに体を揺らす。異様な影にその人が悲鳴を上げた。逃げ出そうとしたのか机を倒して尻餅を突いてしまう。追い打ちをかけるように、影は大きく体を膨らませた。

 暗い教室の中で唯一照らされるスクリーン。そこに蠢く異形の影。それがパッと弾け、前方の机の下から黒い影が三つ飛び出した。


「ひ、ひいぃっ!!」


 怯えるその人に飛びかかったその三つ影。団子状にもつれあうその人達のところに一年先輩が駆け寄って、携帯の明かりで影を照らした。

 明かりに六つの目が光る。キャッ、と悲鳴を上げて目が逃げていく。その六つの目……滝さん達が離れた場所に倒れているのは一人の男性だった。先輩が彼を見て訝しげな顔をする。

 その男性は顔を脂汗で光らせ、恐怖に引き攣った目を向けていた。かけていた黒縁の眼鏡は鼻の下にずり落ち、着ている服もしわくちゃの白いワイシャツと青いネクタイというもの。今まで倒してきた人達とはまるで違う服装だった。


「だ、大丈夫ですか、金井先生!?」


 先生と、いう私の言葉に、一条さん達も恐る恐るこちらにやってくる。金井先生はしばし呆けた顔で私達を見上げていたが、ハッとしたように目を見開いた。


「そっちこそ無事ですか皆さん!」


 勢い良く起き上がった先生は、慌てふためきながら私達の顔を見渡す。気圧されて僅かに身を引くその体に怪我がないことを理解し、彼はどっと肩を力を抜いて顔を緩ませた。


「良かった。本当に、心配しました……。学校に不審者が侵入してきたんです。少しだけ待っててください。どうするか、先生が考えますから……」

「せ、先生……。あの、職員室にいたんですよね? どうやってここに?」

「それももう知ってたんですね。見張りの人が一人の隙を狙って、何とか逃げて来たんですよ」


 ちょっともう止めてちょうだいよ、と言う衣世さんの声に顔を上げた。一年先輩に頬を膨らませて詰め寄る三姉妹の姿がある。急に光当てられたらびっくりするでしょ、と怒る三人に先輩は謝りながら苦笑していた。

 その光景を見つめているとき、金井先生、と横からやって来た早海さんが呼びかけた。曇った表情は晴れず、唾を飲む喉が震えている。振り向く私達に彼女は訊ねてきた。


「先生は、八木やぎ先生は無事でしたか?」

「八木? 八木広戸(ひろと)先生ですか? 彼なら無事でしたけど……」


 その言葉に早海さんが溜息のような息を吐いて胸を撫で下ろした。私はその様子を見て、ピンときた。

 二年生の生物を教えている八木先生は、別の学校から今年度道仏高校にやって来た若い先生だ。本題より余談の方が多い授業は中々面白く、授業の進み具合について他の先生に怒られたりもしている。生徒思いで優しく、普段はおちゃらけた性格だが、たまに見せる熱い一面が生徒から好評を博している。決して顔がいいとかそういったわけじゃないが、人気のある先生だ。

 早海さんは金井先生の顔色を見て、自分の言動に気付いたのだろう、今更ながら顔を俯かせ、赤らんだ肌を隠そうとする。その態度が逆に先生の心配を買ったようで、具合でも悪いんですかと顔を覗き込もうと腰をかがめた。


「あ、あーっ! 先生! そうです、まだ新田くん達が残ってます!」

「そうだ、四人は? 一緒じゃなかったんですか?」

「っと……荒木くんが怪我をして動けなくて、保健室に運んで……」

「怪我!? 動けないって……どうしたんですか、一体何が!?」

「それが私達にも良く分からなくて。倒れてるのを見つけたんです、足に大きな切り傷があって。その、骨折もしてるかと」


 先生の顔から血の気が引いていく。眼鏡の奥の見開かれた瞳が、動揺したように揺らいでいるのが分かった。

 ぽつりと、一条さんが口を開いて何かを呟いた。誰に言うでもない細やかな独り言のようだったけれど、目敏く一年先輩がそれを指摘する。


「どうかした?」

「え、あっ、いえ。何でもないんですけど」

「そう? もし何か言いたいこととか、思ったことがあれば僕に伝えてほしいと思ったのだけれど。……こんな状況だからね。些細なことでも話してくれれば、気が紛れるからさ」


 ニッコリと人の好い笑みを一条さんに向ける一年先輩。一条さんは恥ずかしそうに頬を赤らめ、悩ましげに視線を逸らしながら言った。


「本当に大したことじゃないんです。ただ、かまいたちみたいだなって思っただけで」

「かまいたち?」


 私だけじゃなく、早海さんや滝さん達も一条さんの方へ意識を向けていた。大人数の視線を受けながら一条さんは語り出す。


「隠れてるとき、廊下を人が通ったりして出られなかったって言ったじゃないですか? そのときに会話とかも聞こえてきて。その中に、かまいたちって言葉があったんですよ。詳しい内容までは聞こえなかったんですけど、今ふとそれを思い出しちゃって」

「かまいたちか。そうだね、確かに足の傷なんて、かまいたちそのものだ」

「足の傷がそのもの? どういうことですか、昴先輩?」

「地域によって違うところもあるけれど、かまいたちによる傷は下半身にできることが多いんだって。何でも、かまいたちが跳び上がれるのは三十センチくらいだからだとか」

「なるほどー! 先輩、やっぱり博識なんですね!」


 昴先輩ってば物知りー、と近くに立っていた恋路さんも同意の笑い声を上げる。一年先輩は二人の言葉に微笑みを返し、僕もあまり詳しくはないけど、と謙遜か分からない言葉を吐いた。


「でも何でそんな話してたんでしょうね?」


 一条さんはまだ先輩と会話を続けたかったのか、納得し切れていない顔で身を乗り出しかける。と、衣世さんが重い溜息を吐いて皆に顔を向けた。


「ねえ、保健室にいる子って急いだ方がいいんじゃないかしら。怪我してるみたいだし、落ちて頭を打ったんでしょう? 気絶にしろ何にしろ、早く診てもらった方がいいはずよ」

「そうですね。……急ぎましょう。皆さんは慌てず落ち着いて私の指示に従ってください。大丈夫です、大丈夫ですから」


 先生の言葉は私達に向けてというより、自分に言い聞かせるようなものだった。先生もやっぱりこんな状況で平常じゃいられないんだろう。

 それでも皆その顔に不安を滲ませながらも、教師という頼れる人の存在に少しは落ち着いたらしい。ぞろぞろと先生の周りに集まる。


「…………妖怪の話でもしたかったんじゃないかな」


 ぽつりと隣から聞こえた声に顔を上げる。一年先輩が私を見下ろして小さく微笑んでいた。一条さんの質問の答えだと分かったのは、彼が周囲を警戒するように私から顔を背けたときだった。

 先導していた金井先生が、緊張に張り詰めた表情のまま、静かに視聴覚室の扉を開く。

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