第51話 鬼ごっこ(前編)
「街で夏物のパジャマを見て、靴も見て、それからスーパーで牛乳と卵と特売の豚肉……あとは何かありましたっけ」
「最初に本屋に寄って英和辞典を買う。いつの間にかなくしたって言ってただろ?」
そうでした、とはにかんだ。
初夏の強い日差しがジリと肌を焼く。だが今私達が歩いている第三区の駅前通りは辺りに木々が生い茂り、豊かに茂る緑葉の落とす影が暑さを和らげてくれていた。木漏れ日の中を歩くのが心地良い。こうして穏やかに、東雲さんの隣を歩くのが私はとても好きだった。
久しぶりの休日だった。疲労が溜まっていた東雲さんを説得して得た数日の休み。私も東雲さんとほとんど同じ日程で仕事に休みを入れ、ゴールデンウィークに合わせて学校もなかったため完全な休日だ。一昨日と昨日は冴園さんを呼んで三人で惰眠を貪り、部屋の掃除をし、適当に映画を借りてきて昼夜ぶっ通しで見続けた。ホラーを見て私と冴園さんが叫んだり、恋愛映画を見て私と冴園さんが泣いたり、アクション映画を見て私と冴園さんが興奮して東雲さんにうるさいと叱られたり、楽しかったな。
今日は不足していた食材や日用品を補充するために、二人で街へやって来た。
本屋で手頃な辞典を買い外に出る。分厚い本は内容ばかりでなく重さもそれに見合ったもので、二重になった袋が腕に痛い。
「結構重いなぁこの本。後で買えば良かったかも」
「そうだな。帰りに寄った方が……」
「東雲さん?」
突然、東雲さんが表情を険しくした。何かを警戒するように鋭い視線だけを動かす。疑問を口にしようとした私に、彼は小声で言った。
「振り返らずに後ろを見ろ」
「は?」
おかしな言葉に首を傾げつつも、近くのガラスウィンドウに目を向けた。建物に日光が遮られ、暗い影に包まれたガラスはまるで鏡のように通りを歩く人々を映し出す。
その人混みの中。紛れるように身を潜めつつも、早足にこちらへ近付いてくる男の姿があった。
「気付いたか?」
「……はい」
自然と私の声も鋭く警戒の色を帯びていた。決して後ろを振り返らず、けれど挙動不審にならぬよう気を付けてガラス越しにその人物を観察する。
ただ急いでいるにしてはおかしな足取りだ。人にぶつかっても謝る素振りさえ見せず、肩で大きく風を切って歩いている。目深に被った帽子で顔を隠そうとしているのだろうが、サイズが合っていないのか歩くたび額が見え隠れし、そこから覗く目もこちらを直視しているとしか思えない。
私達と彼の距離はそんなにないが、こちらに辿り着くにはまだかかるだろう。連休で人がごった返している街、溢れる人混みのおかげで上手く進めないのだ。
「人混みを避けるのは得意か?」
「そこそこには」
「この道を真っ直ぐ行って、信号で撒く」
「了解です」
一度顔を見合わせてから私達は早足で歩き出した。小さく首を捻って背後を見れば、男は一瞬驚いた様子だったがすぐさま焦ったように足を速めてくる。
人の間を擦り抜けて進む。目の前からやってくる人の動きをよく見て、空いた隙間に滑り込むように体を進ませる。急に止まる人や目の前を横切っていく人を機敏に避けながら進んでいく。前を歩く東雲さんは長身で人混みの中でも目立ってしまい身を隠すことはできないが、その分進む先がよく見えるのだろう、ぶつかることもなく歩いているようだった。その後ろにくっ付くようにして進むだけで大分楽だ。
そうして歩いていると私達と男の距離はどんどん離れていき、交差点が見えてくる。ちょうど青信号のようで大勢が行き交っていた。音楽が変わり始まる点滅。私と東雲さんはほとんど駆けるようにして信号を渡った。渡り終えるかという所で信号は赤に変わる。車がエンジンを吹かして走り出し、追って来ていた男が向こう側の横断歩道手前で息を切らして立ち尽くしていた。
走る車の隙間から男と目が合う。悔しそうなその顔に、小さく舌を出して笑ってみると、彼は顔を引き攣らせて悔しげに地面を蹴り付けていた。
「おい、からかうな」
「へへ……でも、あの人なんだったんでしょう?」
さあな、と軽い口調で言いながらも東雲さんの顔は険しいままだった。私も何となく背後を振り返ってみる。そうして気を付けずに歩いていたからだろう、通りを曲がった先の道、連立するビルの裏側が立つ道へと進んだ瞬間誰かにぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさ…………」
咄嗟に謝ろうとしてふとその雰囲気に口を噤む。ピリッとした威圧感が首筋を這った気がした。
ぶつかってしまったのはストリート系の服に身を包んだ青年だった、その後ろには似たような格好をしている同じ歳ほどの男が数人。彼は私を一瞥すると、すぐに隣の東雲さんへと目を向けじろじろと眺める。露骨に怪訝な顔をし警戒する私達に最初にぶつかった青年が話しかけてきた。
「お前がオオカミだな?」
空気が鋭く張り詰めた。私達の顔を見て確信が持てたようで、青年がニヤリと笑う。
その名を知っているということはただのカツアゲなどではないのだろう。逃げるべきだと思ったが、いつの間にか背後をぐるりと男達が囲んでいた。不安と警戒に拳を握ると、本屋の袋がガサリと音を立てた。
東雲さんがキッと周囲を睨みながら腰に手を添える。だが、銃を取り出すことはない。強い口調で青年へと訊ねた。
「こんな所で争う気か」
「『こんな所』だからだ。まさかこんな真昼間から銃声を出すわけにもいかないんじゃねえか?」
青年の言葉に東雲さんが肩を竦める。確かにその通りだ。少し外れた裏通りとはいえ大通りに近い場所、それも昼間という人気の多い時間帯に銃は使いづらい。彼らが何者かは知らないが恐らくこれはオオカミ、東雲さんを狙った犯行だ。彼の得意な銃を封じることで少しでも自分達を有利にしようとしているのだろう。
一気に嫌な空気が漂う。青年の横に付いていた男が袖に手を突っ込んで何かを取り出そうとしているのに気が付き、私は咄嗟に一歩前へと踏み出して声を震わせた。
「あの…………」
「あ?」
威圧感のある目が私を見下ろす。東雲さんの目に見慣れた私としてはそこまで怖くはないのだが、あえて怯えるように身を竦ませ、おどおどと青年の顔色を窺うように目を潤ませる。
「すみません。どいてくれませんか?」
「は? どくわけねえだろ」
「そもそも、誰なんですか? 私達が何か?」
「お前こそ誰なんだよ」
苛立ちを含めた嘲笑を吐く青年の様子を静かに観察する。一挙一動に集中し、私がすべき行動を考える。どうにかしてこの場から逃げなければいけない。
幸いにも私が必死に周囲を探ろうとしていることに青年は気付かなかった。警戒心のほとんどを東雲さんへと向けているようだ。
と、男達の一人の携帯から着信音が鳴り響く。視線をこちらに向けたまま素早く携帯を操作して耳に当てた男が、低い声で携帯越しの相手へと話し出す。
「もしもし。…………おう、分かった。あ? ……女? 何人だ…………子供……茶髪のガキか? ……分かった、おう、おう。切るぞ」
「どうした」
「いや、それがオオカミは一人だけじゃなかったと。女のガキと一緒だったみたいだ。茶髪の……そう、そいつみたいな」
「女のガキ……いや、待てよ。確か言われてなかったか? 標的はオオカミだが、もしかすれば近くにもう一人いるって。名前は確か……」
何気なく青年が視線を横にいた男へとずらした。
その瞬間私はぐっと足を開いて地面のアスファルトを踏み締めた。両拳をキツク握って伸ばし、片足を蹴って全力で腰を捻る。音に気付いた彼が素早く顔をこちらに戻したのとほぼ同時、その鼻に辞典を入れた買い物袋が遠心力の効果でめり込んだ。鼻血を垂らして仰け反るその顎に追撃として拳を突き上げる。ガチンと舌を噛む音がして彼が痛みに呻き声を上げた。胸板を蹴り付ければ呆気なくその体が地面に倒れる。放り投げた辞典がゴトリと音を立てて地面に転がった。
背後から飛び出してきた東雲さんが私の手を掴み、男を飛び越えた。私も同じようにジャンプして、空いた隙間から逃げ出す。一拍遅れて背後から聞こえてきた怒声に足を止めることもなく私達は走り出した。
「やるじゃないか」
東雲さんが少しだけ楽しそうに言う。認められた喜びと少しの気恥ずかしさに走り続けながら複雑な表情を浮かべた。
だが直後に背後から何かが飛んでくる音が聞こえ、咄嗟に左右に飛び退いてそれを避ける。拳サイズの石が地面に跳ねた。振り返ると男達が必死の形相で追ってきているのが見えた。
「待て!」
待てと言われて待つものか。そんなことを考えた直後、目の前の横路地から一人の男が飛び出して私の手を掴もうと腕が伸びてくる。咄嗟に体を捻ってすれすれでそれを避けた。チッと舌打ちをする男の顔は確か、さっき私達を囲んでいたうちの一人の顔だった。
今度は前の曲がり角から別の男が両手を広げながら現れた。だが今度は東雲さんが即座にその男の懐に飛び込んで肘鉄をかます。倒れはしないものの怯んだ男の横を私達は通り抜けた。
「これは……」
汗が頬を伝う。周囲を見渡してみると、いつの間にか大通りから大分離れた路地に来てしまっていることが分かった。後ろからは追手の足音。だがよく耳を凝らしてみると、別の場所からも誰かが走ってくるような音が聞こえていた。散らばった追手があちこちから向かってきている足音だ。
恐らくこの辺りの道に詳しいのは彼らの方だろう。普段からたまり場にしているのかは知らないが、近道を知っているということはそのはずだ。地の利が相手にあるというのはかなりまずい。東雲さんの銃が封じられている上、多勢に無勢だ。
不安は見事に的中した。背後からの声に追い立てられるようにして走り込んだ先の曲がり角、その先を見て私と東雲さんは思わず足を止めた。砂利を靴底で擦り付ける音がする。
道に先はなかった。横に二人並べばもうギリギリの狭い路地。左右に建つのは四階建ての古びたビル壁で、前にあるのは東雲さんの身長よりかなり高いフェンス。行き止まりだった。
追い込まれていたのか、と確信したところでどうしようもない。私達が逃げ込んだ先が行き止まりだと知っているのだろう、微かに笑いを含ませた声がすぐそこまで迫ってきている。このままだと袋小路だ。
と、東雲さんが駆け出したかと思うとそのフェンスに手をかけた。腕の筋肉を使って体を持ち上げ、十秒もかけずてっぺんにまで到達すると、すぐさまフェンスから手を離して向こう側の通りに飛び降りた。上手く衝撃を殺しながら着地した東雲さんはまだフェンスを茫然と見上げていた私を見て顎を引く。
「急げ」
「あ……は、はいっ!」
慌てて私もフェンスに手をかける。頑丈なように見えて体重を乗せれば僅かにたわむそれは、ぐねぐねと小さく揺れて登りにくい。だが落ちそうになる体を支えるだけの筋力は私の腕にもあった。東雲さんの登り方を思い出しながらそれをマネするようにして上へと手を伸ばす。途中で足が滑りかけたが何とか耐え、ようやく頂点に跨った。
男達が追い付いたのもそのときだ。彼らは東雲さんがフェンスの向こうにいることに気が付きギョッとした表情になる。すぐさま焦りを浮かべて私の足を掴もうとしてきた者もいたが、寸前でひょいと足を上げて手を離し東雲さんの隣に飛び降りた。
「急げ! 追え!」
「回り込め!」
男達が必死になって叫んでいる。振り返ればフェンスを乗り越えようとして手が滑り、仲間諸共落下してしまう姿が見えた。そのまま地団太を踏んでいてくれればいいものをとも思うが、中には私達のようにフェンスを乗り越えてくる人もいる。まだ安心するには早いみたいだ。
フェンスの向こうは更に狭い裏路地だった。左右には窓ガラスの割れた古いビルや怪しげな落書きで壁を彩られた廃屋などが立ち並ぶ。汚れた青いバケツから漏れるすえた臭いが辺りに充満していた。
どうしたものか、と思案を巡らせる。こういう道に逃げ込んだ時点で追い詰められていることに変わりはない。どうやって彼らを撒くか、倒すか……。
「……よし」
「東雲さん?」
唐突に東雲さんが頷く。上を見上げる彼の視線を追ってみたが、その先にあるのは五階建てのビルだけだ。
よく分かっていない私に彼が視線を向け、そして言う。
「鬼ごっこだな」




