第50話 眠れぬ夜のホットミルク
お風呂上りの火照った肌に夜風が気持ちいい。濡れたままの髪の毛先から垂れた水滴が首を伝って落ちていく。ベランダの手すりにもたれかかって心地良さに目を閉じて風を浴びていると、不意に視界を白い布が覆った。
「わぷ」
「乾かしてからにしろ」
また風邪引くぞ、と呆れたように言いながら、東雲さんが私の頭をバスタオル越しに乱暴に撫でていく。くすぐったいような可笑しさが込み上げて来て、頭を揺らしながら笑った。
仕事が終わり、二人で東雲さんの家に帰り、食事を取ってお風呂に入る。いつも通りの夜だった。
ボサボサになった髪を手櫛で梳かしながら何気なく空を見上げる。一つ一つが青白く輝く星が一面に散らばった夜空。満天の星空。
「星が綺麗ですね」
無意識にそう呟く。東雲さんは、特に感慨深い様子もなく、平然とした顔で肩を竦める。
「いつもだろう?」
「もう、風情がないなぁ。星だっていつまでも綺麗なわけじゃないんですよ?」
曇りの日とか、雨の日とか。そう言って笑う私の横で、東雲さんがふと目を細めた。その表情に影が差す。そんな顔をされるとは思っておらず目を丸くした。
「……いつまでも星が輝いてるわけじゃないよな」
東雲さんがふっと息を零す。意味深な発言に首を傾げてみたけれど、結局彼が答えを教えてくれることはなかった。
髪も乾かして後は寝るばかりとなった時間。いつものようにソファーに横になる私と、寝ることなく机で仕事の確認をする東雲さん。おやすみ、と言い合って私は目を閉じた。
いつも通りの日常、いつも通りの夜。
だけどその日だけはちょっと違った。
夢を見た気がする。
暗い暗い森の中を手探りに進んでいく。湿った木の幹に手を付きながら、ぬかるんだ土に足を取られそうになりながら、冷たい空気を肺に吸い込みながら。見上げた夜空は黒一色で塗りつぶしたように暗く、満月だけがぽっかりと寂しく浮かんでいた。
仄かな月明かりだけを頼りに深い森を進む。靴はとっくに泥まみれで、スカートの裾や素足にもこびり付いてしまっていた。随分と歩いているせいで息が切れ、足が痛い。冷たい空気に肩が震える。それでも進まなければならない気がしていた。
声が聞こえた。空気を震わせる、小さな小さな声だった。静寂に包まれた森の中でも辛うじてにしか分からない声だった。人の声に似た、獣の唸り声。敵を威嚇するような、だが恐怖に怯えるような、救いを求めるような声にも聞こえた。
突然視界に映る景色が変わる。それまで暗い緑色に埋め尽くされていた空間が開け、広い花畑のような場所に出た。白く可憐な花が柔らかな風に靡いている。
その中央に一匹の獣がいた。
大きな獣だった。体を丸めている上、全身が長い毛に覆われているせいで何の生き物かは分からない。
けれど近付いてみると、その獣は閉じていた瞼を開き、精悍な目でこちらを睨んだ。ザラリとささくれ立った激しい敵意に足が竦む。
風が一層強く吹き、白い花びらが舞い上がる。と、獣がゆっくりとその場から立ち上がった。姿は狼に似ている。だがその大きさは普通の狼より遥かに大きく、二本足で立ち上がれば私の身長さえゆうに超すだろう。
獣が低く唸りながら一歩近付いてくる。本能的に私の足は引いていた。獣が近付いてくる度、じりじりとこちらも後ろに退いていく。花を踏み潰すその手足から伸びた鋭い爪。唸り声を上げる口から覗く光る牙。
足がもつれ、体がよろめいた。咄嗟に手を伸ばしてみるも近くに手すりがあるわけでもなく、花畑の上にドサリと座り込んでしまった。ハッとして前を見たが、そこに獣はいない。ヒラヒラと花びらが舞っているだけだ。
顔に影が差し、見上げた先に獣がいた。鋭く目をギラつかせ、私へと飛びかかってくる。夜空に浮かぶ黄色い月が、獣の全身を覆う毛を黄金に輝かせていた。
迫り来る牙、迫り来る爪、迫り来る獣。
それに私は、
「ん…………?」
カチ、コチ、と時計の音が闇の中に聞こえている。ぼんやりとする意識の中でゆっくりとそれに目を向けると、まだ深夜であることが分かった。
中途半端な時間に目が覚めてしまったという気怠さが体を包み込む。んー、と意味もなく声を零して、もう一度寝ようとズレていた毛布を掴む。
獣の唸り声が聞こえた。
「っ!?」
反射的に身を起こし、枕元のナイフに手を伸ばす。警戒心が膨れ上がる。だが、もう一度聞こえてきた声にはたとその動きを止めた。獣の唸り声だと思ったそれは、よく聞いてみれば人の声だったからだ。
広い部屋に置かれた机。私が寝る前にそこで仕事を続けていた東雲さんは、今は机に突っ伏して身動ぎをしていた。机上に書類が散らばっている。それだけを見れば眠気と疲労に耐え切れずうたた寝をしてしまったと思えただろう。けれど近付いてみればその様子はどうみても安眠しているようには見えなかった。
眉間にはキツクしわが寄り、目は力強く閉じられ苦悶に満ちた表情だ。削れそうなほど食いしばった歯の隙間から聞こえる唸り声。固く張りつめた肩が震え、服をぐしゃぐしゃにしながら左胸を鷲掴みにしている手は震えて骨が浮いている。
「東雲さん……?」
東雲さんってば、と彼の肩を軽く揺さぶる。そうまでしているのに彼が起きる気配はない。普段から気配に敏感な彼にしては考えられないことだった。
前に冴園さんが言っていた話を思い出す。不眠症の東雲さんは上手く眠れないのだと。寝ても疲労しているままだったり、何度も起きてしまったり……その中には悪夢を見ることだって含まれているんだろう。今も彼は酷い夢を見ているのか。冷静な東雲さんがここまで堪えるくらいに酷い悪夢なのか。
とにかく起こさなくては。そう思い、再度彼の名を呼ぼうと口を開いたとき、それより先に東雲さんが口を開ける。苦しげな呼気と共に、そこから掠れた声が零れた。
思わず目を見開いて東雲さんの顔を見つめた。小さかったけれど、確かに聞こえた彼の声。その言葉がじわり雫となって心に滲み、ぽたりとモヤを落としていく。
すぐに我に返って首を振る。今はそのことで悩んでいる場合じゃない。私は一瞬止めていた息を吐いて、声を張って彼の名を呼んだ。
「東雲さんっ!」
「ひっ!」
ビクッと顕著に反応した彼が目を覚ます。恐怖に喉を引き攣らせたような声を上げ、脅えと戸惑いを瞳に浮かべて私を映した。次第に瞳の震えが治まっていき、落ち着きを取り戻しつつもぼんやりとした顔で私を見つめてきた。
肩を撫でようとして手を伸ばす。けれど、無意識なのか、東雲さんが僅かに身を引いた。空で一瞬止まった手を所在なさげに自分の胸元に戻しながら、ゆっくりと言葉をかける。
「悪い夢でも見ました? 魘されてましたよ」
「夢」
夢か、と呆けた声で東雲さんが私の言葉を反芻する。それからドッと疲れを顔に滲ませ、溜息を吐きながらぐしゃりと髪を掻いた。
冴園さんに連絡を取りましょうか、と言う私に首を振り、東雲さんは起こして悪かったなと静かに言う。
「まだ夜中だ、寝ろ」
「寝ろって……でも東雲さん」
「俺は大丈夫だから」
すっかり血の気の引いた顔は紙のように白い。滲んだ汗が首筋を伝い、膝に落ちた手は細かく震えている。白い顔の中で、目の下の青ずんだクマが目立っていた。
そんな状態で大丈夫なはずがない。けれど、今のどこか刺々しく突き放す空気を纏う東雲さんには何を言っても聞いてはもらえないだろう。……なら。
「……私もちょっと目が覚めちゃったから」
ふっと微笑みを零しながら言って、ゆるりと顔をもたげて私を見てくるその顔に、優しく声を落とす。
「何か温かい物でも飲みませんか?」
小鍋の中で牛乳がとろとろと揺れる。焦げないように慎重に掻き混ぜながら、十分温まったところで火を止める。ふわりと甘い湯気が顔にかかり、目を緩めた。
二つ隣り合わせたマグカップに温めたミルクを注ぐ。棚から取り出した蜂蜜の小瓶を開けスプーンで一匙掬う。金色に艶めくそれをカップに垂らし、くるくると掻き混ぜた。
二つのマグカップを持って部屋に戻る。消沈した様子の東雲さんの前に片方のカップを置くと、ぼんやりと虚ろな顔が私を見上げた。コーヒーもいいですけど、と自分のマグカップに息を吹きながら言う。
「こういう夜には、甘い物の方が好きかな」
私はですけど、と付け足して一口啜る。火傷に気を付けながらその甘さに舌を転がす。喉を通って胃に沁みていく温もりに、ほぅと吐息を零した。
しばらくぼんやりとしていた東雲さんも、私に倣うように息を吹きかけてからカップに口を付ける。彼の喉仏が上下してホットミルクを嚥下する。強張っていた顔が僅かに緩み、眉間のしわが薄らいだ。
「……美味い」
沁みるように囁いて、こくこくと喉を鳴らしてカップを傾ける。私も自然と笑みを咲かせた。
「昔からホットミルクだけは得意だったんです」
寝付けない夜にホットミルクを飲むのが好きだった。牛乳があれば手軽に作れるそれは幼い私にも簡単に作れたから。冬の寒い夜は勿論、夏の暑い夜だってわざわざ温めたそれを飲めば、不思議とよく眠れたのだ。
最初こそレンジで温めているだけだったそれをいつからかわざわざ鍋で温めるようになった。そうするともっと美味しくなると本で読んだから。そうして手間をかけて淹れたホットミルクは、確かにコクがあって美味しく感じた。以来、できるだけ鍋を使って作るようになった。
コツは焦げないようにすることで……と説明する私に東雲さんが小さく笑い声を零す。
「本当に猫みたいだ」
「ネコですもの」
「料理はできないのにな」
「そっ、それは言わないお約束でしょ!」
東雲さんが目を細めて笑う。青いクマがその目尻から消えることはなかったけれど、温かい物を飲んだからか、頬の血色が戻っていた。表情もさっきより大分落ち着いて柔らかかった。安堵の溜息を隠すように私もカップの残りに口を付ける。優しい乳白色のこくりとした甘味が、喉にじんわり蕩けていった。
ソファーの上、毛布を被って朝を待つ。温まった体は睡魔に包まれ、とろとろと微睡む瞼は今にも落ちてしまいそうだ。東雲さんも一度仕事の手を休めベッドに横になって体を休めている。眠れはしないだろうが、横になるだけでも大分違うだろう。
次第にぼんやりと滲む思考。その中にふとさっきの言葉が聞こえた。
東雲さんが魘されながら呟いていた言葉。酷く苦しそうに、切なそうに呼ばれたその言葉。
行かないでくれ、美輝。
それが誰かなどと。結局その夜も、朝になってからも、訊ねることなんてできなかった。
 




