第49話 美しい者
「私の生まれは北の方で、大学に進学するためにこっちに上京してきたの」
滔々と語られるのは過去の回想。昔を懐かしむような、柔らかな声色がそれを語る。
「隣県にある短期大学。学びたい学部があるっていうのも理由の一つだったんだけど、それ以上に、都会に憧れていたの。でも一人暮らしに選んだアパートは明星市の住居だった。ここの治安が悪いことは、たまにニュースで知っていたわ。家族や友達も心配してくれたんだけど、生憎我が家はそれほど裕福じゃなくて……。ほら、ここって治安が悪い代わりに物価が安いじゃない?」
確かに明星市は治安の代わりに物価が安い。彼女の言う通り、他県とはいえそれほど距離はない大学に通う苦学生が明星市に住居を構えることは多い。
「不安もあったけど大学生活は楽しかった。友達もできたし、親友と呼べる子もできたわ。皆を誘って、呆れられるほど何度も街に遊びに行った。首が痛くなりそうな高い建物が密集してるし、ちょっと寄ったお店には可愛い服が目移りするほどある、海外で流行りだなんて言われるよく分からない食べ物があちこちにあるの。半年経ってもまだまだ見てない所がいっぱいあって……本当に楽しかったわ。妹にも電話して羨ましがられるくらい。
でもなにより都会には綺麗な子がたくさんいた。地元でも可愛いクラスメートとかはいたのだけど、その子達みたいな、もしくはそれ以上に可愛い人や綺麗な人が至る所にいるの。それまでオシャレに興味なんてなかったのに、そういう人達を見てたら恥ずかしくなっちゃって……頑張って綺麗になろうとした。なけなしのバイト代で化粧品を買い漁ったりして、しばらく貧窮した生活だったわね」
ふふ、と可笑しそうに真理亜さんは笑みを零す。
「化粧品を買って、古本屋で買ったファッション誌を手に勉強した。でも最初は上手くいかなくて失敗続き。眉毛を整えようとして変になっちゃったし、手が震えてマスカラはズレるし、チークを付け過ぎてまるでオカメインコみたい」
「でも今の真理亜さん、凄く綺麗ですよ」
「ありがとう。自分で言うのも何だけれど、ここまでくるのに凄く頑張ったの。美人の子に頼んで化粧のアドバイスを貰った、たった数ヶ月でメイクの仕方にはブームが出ると知ったから雑誌も新しい物を書店で買うようにしたわ。スタイルを良くしようと食生活にも気を配るようになったし、早朝のランニングを日課にした、毎朝毎晩の肌のケアも欠かさないようになったわ。……正直大変だった。何でこんなことしてるんだろうって思うようになった。でも、綺麗になりたかったのよ。それだけを目標に努力していたの。きっと私が憧れていた綺麗な人達もそうだった。皆、ただ美しくあるばかりじゃない、美しくあるために辛い努力をしているんだって分かった」
真理亜さんが足元の女性の死体を見る。目を見開いて絶命していた彼女の瞼に指を触れ、そっと下ろす。
「この人は醜いことで苦労してきた。それこそ私なんかとは比べ物にならないでしょうし、今の話を聞いていたら怒っていたでしょうね。でも我儘を承知で言わせてほしいの。私だって、楽だけをして生きてきたわけじゃない」
「それって……今言った、毎日努力してること?」
あざみちゃんが問いかけるも、真理亜さんはゆるりと首を振った。それだけじゃない、と続ける。
「彼氏ができたの。授業で同じグループに分けられたことを切っ掛けに話すようになった人だったのだけど、素敵な人だったの。話が面白くて、皆をまとめてくれる。そのうち授業以外でも見かけるようになって、話すようになって友達になって、そして気が付けば好きになっていた。告白したのは私からだったわね。上手く告白の言葉を言えないくらい緊張してたのに、彼が微笑んで頷いてくれたのを見た瞬間叫んじゃった。それから彼とはよくデートに行ったりしたわ。映画を見たり、喫茶店で話したり、海で泳いだり、スキーをしに行ったり、イルミネーションを見に行ったり」
そのときの光景を思い浮かべたのだろう、無意識のうちに真理亜さんの頬は緩み、幸せそうな笑みが零れていた。
「彼のためにもっと綺麗になろうと思った。服だって多少高くても可愛ければ買ったし、髪にも気を付けた。とにかく一生懸命だった。バイトを詰め過ぎたせいで学校に行く時間が減った、彼に会う時間も減った。今思えば本末転倒だったのだけど、当時の私はそれに気づいていなかった。
美しくなれば幸せになれると思っていたの。事実、化粧や服に気を使っていくうちに自信が付くようになった。元々は街中の美人を見て恥ずかしくなったからってだけだったのに、いつしか自分が誰よりも美しくなろうと思ってしまった」
真理亜さんにそんな時期があったなんて知らなかった。てっきり、最初から今のように綺麗だとばかり。
ふとその顔に影が差す。細められた目が空を睨み、眉間にしわが寄った。
「……二年生になって気付いたときには、彼がよそよそしくなっていた。久しぶりのデート中もどこか上の空。笑顔だって、私の大好きだったはにかむようなそれじゃなくて、取り繕ったようなものだった。不安になって親友に相談したわ。私が彼と付き合う前から相談に乗ってもらっていた子で、そのときからいいアドバイスをくれる子だった。でもそのときの彼女はただ笑うばかりで、『大丈夫、きっと就職活動に気を取られているだけで、心配することはない』って。彼女が言うならそうなのかなと思って、それ以上彼に追及することはなかった。だけどいつになっても距離は開いていくだけだった。
夏のある晩のことね。バイト先の人と生活費のことについて話していたら、入って来たばかりのバイトの男が『いい仕事先がある』と言ってきたの。行くだけ行ってみようと思って伝えられた場所に向かったんだけど、そこは第七区の紅街、着いたお店も所謂そういう所。馬鹿にされたって気付いても、騙された自分が馬鹿だった。イライラしてた私はそのまま近くの居酒屋に飛び込んで一人でお酒を傾けてた。その数日前に二十歳を迎えたばかりでお酒に慣れてるわけでもなかったのにね。当然悪酔いしてふらふらになったまま外に出て、街の明かりと香りが気持ち悪くなったから表の通りを避けるように路地裏に入った。工事途中で放置された鉄ビルの横道、人なんていないと思っていたの。でも、そこで見ちゃったの」
「何を?」
「抱き合ってキスをする、彼と親友の姿」
水を打ったように場が静まり返る。日が沈み切った空が僅かにオレンジの光を残しつつ、夜の色へと変わっていく。表情を固くする私とあざみちゃんに真理亜さんが可笑しそうに笑う。
「私に気付いた二人も今のあなた達みたいに強張った顔で固まってた。でもね、怒鳴りながら問い詰めていたら、親友のその子が一変して冷たい顔をした。そして言った『今更気付いたの?』って」
「今更って……」
「想像通り。彼がよそよそしくなっていた頃から……いえ、もっと前から二人はそういう関係になっていたみたい。それを聞いて茫然としてる私を見て強気になった彼女は更に罵声を浴びせてきた。その隣にいた彼も、『君といると疲れるんだ』って呟いた。意味が分かる? 私が綺麗になろうと努力して実っていくたび、彼は肩身の狭い思いをしていたんですって。そのことを私の親友に相談していたら、そのうちお互いに引かれ合うようになったそうよ。……私は彼のために頑張っていたのに、そのせいで捨てられるなんて、皮肉にも程があると思わない?」
自虐的な笑みがその唇に張り付く。鮮血に濡れた唇は艶やかに光った。
段々とその声に感情がこもっていく。じわじわと滲むその感情は愛憎の念が入り混じり、私の背筋に悪寒を這わせた。
「裏切られた。愛していた人と、大好きだった親友、その両方に裏切られた」
ガリ、と何かを噛む音がした。真理亜さんが凄絶に険しい顔で自分の唇を噛んでいた。相当な力だったのだろう、唇に血の球が浮かび、つうっと一筋の赤線が流れる。けれど真理亜さんは痛みなど気にしてもいない様子で続ける。
「立ち尽くす私を置いて二人は立ち去ろうとしていた。でもね、工事現場だったそこには砂を被った鉄筋や落書きをされたコンクリートが放置されてたの。きっと不良もたむろしていたんでしょう。その中に、不幸にも、錆びた小型のナイフが転がってた。何も考えないままそれを握って、数メートル先で背を向けていた二人に駆け寄った。怪訝そうに振り返った二人が目を見開いて私を見たわ。……それからしばらくの記憶はないの」
我に返ったときにはもう遅かった、と彼女は呟く。
「酷く驚いて固まっていたのか、ろくに抵抗はされなかったと思う。慣れていなかっただけじゃなく衝動任せだったから、すぐには殺せなかったはず。運が良かったのよ。だって、その悲鳴を聞きつけて現場を最初に目撃したのが、警察や一般人じゃなくて、掃除屋と呼ばれるこちら側の人間だったんだから。
その人達は、死体と血だらけで茫然としている私に最初は驚いていたけれど、すぐに事情を聞いてきた。頭が真っ白になっていたから、聞かれたことには素直に答えたわ。それで私が二人を殺した理由も知ったみたい。彼らは警察に連絡もせず、私にとある場所を紹介して来たわ。それが『お喋りオウム』。あの如月のいる情報屋だった。
何も分からないままそこに向かった私は、そこで如月に裏の世界のことについて教えられた。彼は最後に、私に殺し屋への道を提案してきた。正式に殺し屋になれば如月という仲介業者と契約を結んだことになるから、警察に怪しまれる前に如月が対処してくれるって。私はその条件を呑んだ」
「受け入れちゃったの? そんな、嘘に決まってる」
「あざみならそう言うと思った。ええ、確かにそれは罠だった。実際如月は私の証拠を消してくれたわ。大学で二人は行方不明扱いになって、事情聴取にやって来た警察も詳しいことまでは聞かずに、他の目撃証言があるからと明星市内の事件に巻き込まれてしまったんだろうと処理していた。私が気落ちしていたのも、親しい人が二人もいなくなってショックなんだろうってね。
如月にとって私は捨て駒扱いだったと思う。何か別の厄介な仕事に突っ込ませて、餌にする気だったのよ。……でもね、私は彼の考えを裏切った。殺し屋として開花してしまった。どんどん人を殺すようになって、どんどん殺し屋として名を上げるようになって。二人を殺したときに何かが壊れてしまったようで、人を殺すことに躊躇いなんて最初からなかった。ようやく一人前として周囲からも認められるようになってきた頃、東雲と出会った」
突然出された名前に驚いて顔を上げる。真理亜さんは静かに目を伏せ語り続ける。
「オオカミという名の殺し屋のことは噂で耳にしていたし、如月からも聞いていた。でも会ったときはやっぱりその迫力に怯んだわ。やけに荒んだ顔をしていたし、鋭いあの目も怖かった。
それでも仲良くなりたくて話しかけた私に、東雲は私が殺し屋になった理由を聞いてきたの。正直に答えたら、彼は馬鹿にしたように言った。『お前が殺し屋として生きているのは自分を正当化したいからか』って。何のこと? って聞き返せば、同じ声色で答えが返って来た『衝動に駆られて二人も殺したという事実を、こうして殺人が当たり前の仕事に身を投じることで、きっかけの一部に過ぎないと思い込みたいからなんだろう』、『結局お前は自分のことしか考えていない』。
気付けば、握手をしようと伸ばしていた手で彼の頬を叩いてた。あなたに何が分かるの、なんて叫んだけど、返事はなかったわね。それ以来ずっとよ。彼と私が険悪な仲になっているのは」
ようやく、最初に会ったときから東雲さんと真理亜さんの仲が悪い原因を知った。東雲さんのことだ、きっと彼は率直に感じた意見を述べただけに過ぎない。だけど素直に受け入れられる人なんてそういない。それ以降お互い謝ることなく今まで来てしまったんだろう。ああ、だから……。
真理亜さんがふと表情を緩める。困ったような、自分を情けなく思っているようなそんな半笑いを浮かべ、笑うように言葉を転がす。
「でもね、彼のことで今でも忘れられない思い出があるの。彼を殺すことになる数日前、二十歳の誕生日、彼が久しぶりに私の家に来てプレゼントをくれたのよ。アンティーク調の青い人魚のネックレス。儚げな顔をした人魚が凄く綺麗でね、お気に入りだったわ。例の晩も首から下げていた。いつの間にか鎖が千切れてなくなっていたけれど」
もしかしたら二人を殺したときの拍子で壊れたのかもしれないわね、と真理亜さんが儚い微笑を浮かべて言った。
その瞳が私達を捉える。大きく、吸い込まれるような不思議な美しさを抱いたその目に、静かな悲しみが満ちていた。夜になりかけた紫色の空が、彼女に影を落とす。
「和子、あざみ。あなた達は幸せになりなさい。美しくあっても、醜くあっても、幸せでなければ意味はないの。泣くだけの恋をしてはだめよ」
私のようにならないで、と。真理亜さんは、今にも壊れてしまいそうな悲しい笑顔を浮かべた。
恋が叶わなかった人魚姫はきっと、今の彼女のような笑顔を浮かべて消えたんじゃないかと、そう思ってしまうような笑みだった。




