第45話 言えない理由
廊下を曲がったとき、一人の女の子とぶつかりそうになった。咄嗟に身を引いて前に倒れそうになるその子を受け止める。目を丸くして体を強張らせるその子にふふっと微笑みを浮かべる。
「大丈夫? 一年生かな。ここの曲がり角、滑りやすいから気を付けた方がいいよ」
「は、はいっ。すみません、ありがとうございます!」
うひゃあと手で赤くなった顔を仰ぎながら、その子は近くにいた友達らしき子と照れながら早足に去っていく。ひらりと靡く長いスカートも、少し大きめのブレザーも、まだ身に付けたばかりのように真新しい。真っ白な上履きが床をパタパタと叩いていくのを見ながら、ほんわりとくすぐったい感情が心をくすぐる。
春が来て、二年生になった。クラスやクラスメートが変わるわけでも担任が変わるわけでもないけれど、何だか心機一転、素敵なことが起こるんじゃないかなという気になる。春は心が弾む。冷たい冬を溶かすように、温かな太陽の光を体中に浴びたくなる季節だ。
二年生になって一番変わったことは後輩ができたこと。部活に入っているわけじゃないから、直接私が一年生と関わりを持つことはない。それでも先輩、という立場は何だかくすぐったく心地良いものだ。
新学期に入ってしばらくの間授業はない。新入生が学校に慣れる期間ということでもあり、オリエンテーションなどが多く行われる。今日もその一つ、身体測定と内科健診があった。例年ならば身体測定はともかく内科健診はもう少し経った頃にあるのだけれど、今年はどうも都合が悪く、一日で同時に終わらせることになったらしい。その分下校時間は遅くなるため、今朝のホームルームでもブーイングが上がっていたっけ。
クラスといえば一条さん達だ。今朝教室で見たとき、一条さん達はいつものように窓際で駄弁っていた。春休み中に会った瀬戸川さんと恋路さんは私を一瞥してすぐに目を逸らしていたが、一条さんは私に目を向けることもなかった。新学期なので机の並びは名簿順、秋月と一条ということで私と一条さんは前後同士だが、席に着いたときも彼女はそっぽを向いて、プリントを渡すときでさえ私を無視しているようだった。しょうがなく私が彼女とその後ろの人達の分もプリントを回しながら、春休みに瀬戸川さんから聞いた話をぼんやりと考えていた。
「全員身体測定は終わりましたか? じゃあ次は内科健診は女子から先に行うので、隣のクラスの先生が来るまでにジャージに着替えて待っていてください」
身体測定を終えて戻った教室で金井先生がそう説明した。わいわいと賑やかな教室では皆、友達同士で身体測定の結果を話し合っていた。身長や体重に一喜一憂し、座高と身長を比べては短足だとからかう。そんな会話を傍に私もジャージに着替えつつ自身の結果を思い出す。
身長が少し伸びたのは嬉しかった。たった一センチ程度でそんなに変わりはないけれど、成長期の終わりを考えると今のうちに少しでも伸ばしておきたい。……ただ体重がショックだったな。去年に比べてぐっと増えちゃったから。数値だけで言えば平均だし、身長と合わせれば痩せ型に近い数値ではあったけど、この年頃で体重は敏感にならざるを得ない。それとも、去年が痩せすぎだったのかな。測定してくれた先生にもちょっと叱られちゃったし。
ジャージ越しに腕の肉を摘まんでみる。けれどそんなに掴めはせず、ふにふにと皮を掴むだけのようだ。太ったというよりは筋肉が付いたんだろうか。食生活も運動量も、この一年で遥かに変わったからなぁ……東雲さんのおかげで。
悪いことじゃないよね、と一人で納得していると隣のクラスの北原先生がやってくる。ジャージ姿の似合う少し厳しい女性の北原先生は、女子の内科健診の付き添いだ。教室から出た女子達が廊下に並び、ぞろぞろと保健室へ向かっていく。きゃあきゃあと騒ぐ皆に先生の叱咤が飛ぶが、声は一向に小さくなることはなかった。
そんなに広くない保健室に、名簿順に数人ずつ名前が呼ばれて入っていく。中に入ると前のクラスの子達がまだ検査を待っているところだった。部屋の隅に置かれた長机で下着とシャツを取り、前掛けのようなもので胸を隠して検査する。検査する人はおじいさんだし、隣にいるのも女子同士だけどやっぱり気恥ずかしく、皆くすくすと笑いながら服を脱ぐ。さっさと脱いでしまった方がいいと考え、ガバッとジャージと下着をまとめて取る。
「ん?」
おかしいなと感じたのは脱いだ服を畳んでいるときだった。それまで聞こえてきたくすくすと潜める笑い声が止み、いつの間にか保健室がシンと静まり返っている。真面目に検査を待とうという気ではなかった空気がだ。検査をしていた人でさえどうしたのかと訊ねてくるほどに。
キョロキョロと左右を見回すと、クラスの子達の視線が私に集中していることに気が付いた。ギョッとしたような異質な視線に晒され、慌てて前掛けで胸元を押さえながら困惑した声を上げる。
「な、何。どうしたの皆」
ろくに話してくる子もいないし、反応は返ってこないだろうと思った。けれど予想外に教えてくれたのは一条さんだ。私の後ろに並んで服を脱ごうとしていた彼女は、ギクリとした顔のまま私の体を指差す。
「秋月……それ」
「え? …………あ」
視線を下げて一条さんが差しているものが何かを認め、ようやく私は合点がいった。
殺し屋という危険な仕事をすれば当然のごとく怪我を伴うことになる。東雲さんのような腕利きの殺し屋でさえ僅かな傷程度は作ってしまうことを、ましてや私のようなまだまだひよっこが行えば、体中に怪我ができる。それは例えば細かだがたくさんの切り傷だったり、くっきりと付いた靴跡の青痣だったり……。ふと背後を振り返れば私の背を凝視する付き添いの先生がいて、彼女の見開いた目から、背中に薄っすらと残るガラスで切った痕を思い出す。
「秋月さん……だっけ。ちょっとお話があるから、抜けてもらえる?」
北原先生の固い声を聞きながら頷く。迂闊だったと後悔が浮かんだが、あまりに今更のことだったなと苦い思いを噛み締めた。
ピリピリとした緊張感が肌に刺さるのを感じる。不穏な静寂が満ちる狭い部屋。暖房は付いておらず部屋は歯の根が合わぬほど冷え切っているのに、膝の上で丸めた拳にじっとりと汗が滲んでいた。
校長室の隣にある相談室。一度も足を踏み入れたことがなかったそこは、意外と何もない空き部屋だった。無駄に大きなテーブルとソファーだけが置かれた部屋の中、室内にいる三人は総じてだんまりを決め込んでいた。
ソファーに座る私と、向かい側に座る金井先生と北原先生。彼女の顔は酷く強張っていながら険しい表情を浮かべていた。
「…………怪我があるというのは本当なんですか」
沈黙を破ったのは金井先生だった。酷く重い口を開き、膠着状態に一筋のきっかけを垂らす。私にとっては嫌なきっかけだ。金井先生の問いに頷いたのは北原先生で、彼女は大きく頷いて険しい声色のまま説明を始めた。
保健室で見た怪我、それからあの後別室に連れていかれて見せた傷を彼女は話す。痣に切り傷に血の滲む新しい怪我だったり。流石に金井先生に直接怪我を見せるわけにはいかないからこうして話す他ないのだろうけれど、彼女が話す内容は、第三者の目から見た感想のためか大仰すぎる気もした。
全てを聞き終えた金井先生が深い溜息を付く。ぼさぼさの頭を掻いて更にぼさぼさにし、眼鏡の黒縁から覗かせた目で私を見据えた。
「秋月さん、単刀直入に聞きます。誰にやられました?」
やっぱりこの質問か。
こんな質問をされるだろうとは覚悟していたが、だからといって答えを思い付いていたわけじゃない。何て答えればいいのか全く考えられない。誰って……仕事でターゲットとの交戦中にできた怪我なんだから、そういうしかないじゃないか。それを正直に言うことなどできるわけがない。
逃げ場のない質問に沈黙する。そんな様子を二人が勘違いするのは当然だった。多少の苛立ちと心配をない交ぜにして身を乗り出し気味に訊ねてくる。
「やっぱり……クラスで? もしそうなら早急に対応しなければなりません。他の人には言いませんから、教えてください秋月さん。誰がやったんです?」
それでも黙る私に、二人は互いの顔を見合わせて困ったように眉根を寄せた。心臓が痛むような静寂がしばし続いた後、金井先生が諦めたように言う。
「ご両親を呼ばなくてはいけないようですね」
「駄目っ!」
思わずテーブルに手を突いて立ち上がる。ギシ、と固くソファーが軋む。驚く先生達にしまったと思いながらも、視線を泳がせるように言い訳をした。
「お父さん達は……両親は、か、関係ないでしょ?」
「関係ない? 大ありに決まってるでしょ! 自分の子供がそんな怪我をしてるんだったら!」
「北原先生、落ち着いてください!」
声を荒げて私を叱咤する彼女を金井先生が制止する。それから、ハッとしたように目を見開き、私を見て言った。
「もしかしてその怪我もご両親が」
「違います!」
何てことを言うんだ。頭に血が昇り、拳に血管が浮く。けれどそこまで必死になって否定すればするほど疑われるもののようで、先生達の表情は一層険しくなる。
二人の考えていることが分からないわけでもない。クラスメートからのいじめ、両親からのネグレクト、急な外見の変わりよう。私だってそんな子を見れば邪な想像をしてしまう。虐待、いじめ、リンチ……。
本当のことを言わないからそんなことを思われる。だけど本当のことを言ったところで更に問題が大きくなるだけだ。私は嘘を付くのが苦手だし、無理に言い訳をしたってボロが出るだけだ。
先生達は繊細な話題に慎重に歩もうとしているのか、それ以上突っ込んだ質問を振ってくることはなかった。当然私から話しかけることもなく、そのままチャイムが鳴るまで誰一人として喋らなかった。
「たまには相談してください」
退室を促され部屋から出ようとしたとき、金井先生がポツリとそんなことを呟いた。扉にかけた手を一瞬止めて振り向きかけるも、そのまま私は何も聞こえなかったフリをして部屋を出た。
そして教室へ戻るために廊下を歩いていると、女子トイレの前で声をかけられる。横を見れば、ニッコリと笑った一条さんがそこに立っていた。
「秋月ー。ちょぉっとお話したいんだけど。今、暇でしょ?」
「いや、私もう教室に……っていうか今自習中じゃ……」
いいからさ、と一条さんが私の手を引く。ぐっと握られたその手には強い力が込められ、指が食い込んで痛かった。近付く彼女の顔から笑みが消え、口紅とグロスを塗った艶めいた唇から、冷たく低い言葉が囁かれる。
「来いよ」
それ以上反論はできず、私は大人しく彼女に従って女子トイレの中に引きずり込まれた。幸か不幸か他に人はいない。入ってすぐ、一条さんが私の肩を掴んで勢い良く壁に押し付けた。背が壁に叩き付けられる。私の顔の真横に手を突き、逃げられないようにしてから制服の裾を掴み、シャツごと捲り上げた。
外気に晒された素肌に鳥肌が立つ。正面の鏡に戸惑う顔をした私と、一条さんの後頭部が映っていた。そんな一条さんは私の腹部をじっと観察し、そこに映る怪我に目を細めた。
「どうしたのこれ」
「これは、その」
「……あたしじゃないわよね」
言葉を切って彼女の顔を見た。僅かに眉根を下げ、不安気な色を浮かべている彼女に驚く。けれどぎこちなく私がその質問を否定すると、途端に強気な感情が戻ったようにその目がつり上がる。
「じゃあ何? 親の虐待? それとも彼氏からDVでもされてるってわけ?」
「そういうわけでも……」
曖昧な否定ばかりを続けていると、一条さんは興味を失ったように鼻を鳴らす。手が離れ、捲り上がった服がずり落ちた。
「ま、あなたがどうなったところであたしには関係ないから」
捨て台詞のようにそんなことを言って一条さんは私に背を向けた。その姿を見て、思わず言ってしまう。
「関係ないって……でも、今ちょっと心配してくれたよね? えへへ、やっぱり一条さん、少しは私のこと気にして……」
振り返った一条さんの頬が引き攣っていることに気付き、唇を引き締めた。不愉快を露骨に示した表情の彼女に睨まれる。
「ほんっと……言うようになったわね……!」
ギチリと歯を噛みしめる音が私にまで聞こえる。一条さんは立ち去ろうとしていた姿から半身を私に向かせ、吐き捨てるように言った。
「秋月のことを思ってなんかいない。あなたに何かあると、あの眼鏡が真っ先にあたしを疑うでしょ」
「眼鏡? あ、金井先生のこと?」
「そうよ。いつもいつもあのくそ担任、あんたのこと気にしてんの。本人はさり気無く装ってるつもりなんだろうけど、あたしや小夜や綾にまであなたのことを訊ねてくるのよ。迷惑なの」
キョトンと目を丸くする。金井先生が? 一条さん達に?
考え込む姿勢になった私に、一条さんが舌打ちをする。彼女の気を害さないようにへらりとした笑みを浮かべてみる。けれどそれは逆効果だったらしい。冷たい熱を孕んだ目で睨まれ、一瞬背筋に怖気が走った。
「ほんの少し前まであなたはそんなんじゃなかったのに」
その目が僅かに歪む。照明のせいか、滲んだように一瞬揺れた。
「どうやったら……そうなれるの」
囁くように呟いた言葉を残し、今度こそ彼女は立ち去った。意味深な言葉にしばし私はその場に残ったままだったが、トイレの鏡を見てようやく服を直し始める。
春休みの瀬戸川さんの言葉。そして、今の一条さんの態度。
もしかしたら私は、一条さんのことを何も分かっていないのかもしれない。




