第4話 自殺
白いシーツに包まって、わたしはぼんやりと部屋の天井を眺めていた。
窓から覗く景色はすっかりと暗くなっている。今は夜の何時なのか、帰ってから何時間が過ぎたのか、あれから一条さん達はどうしたのか……。全部分からない、分かろうとも思わない。
「……………………」
ゆっくりと身を起こすと重い頭がズキズキと痛んだ。視界を覆うように前髪が垂れてくるが、払うことも面倒だった。
窓を開ければ肌寒い夜風が吹き付けた。近くに見える夜空には、無数の星が瞬いている。
視界に映る星空がぐにゃりと歪んだ。潤んだ眼球から零れたものが顎を伝って滴り落ちた。それが涙だと分かるまで僅かに時間があって、それに気が付けば次から次へと涙が止まらなくなった。
「ひっ、ぅ」
笑い声のような掠れた声が零れる。ひくひくと唇が引きつって、大声で叫んでしまいたいのに、熱く震える喉がそれを許さない。
みっともなくしゃくりあがる声。それがあまりに悲しくて、ぐずぐずに溶けそうな目から溢れる涙が火傷しそうに熱い。
「あっ、あぁ、あー……ふぅっ、うわぁ、ああ、あ、あ、あ…………」
嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。
耐えられない。これ以上、我慢したくない。
助けて助けて、もう無理だよ、もう楽になりたいよ。
辛い、苦しい、一人は限界だ。どうでもいい、もうどうだっていい。
だから、
「もう……死にたい」
わたしは今までの人生で最大の決意を固めた。
それが起こったのは今日の三時間目が終わったときのことだった。わたしが次の授業の準備をしていると、教室前の扉が開く音。そして、元から騒がしかった教室が不穏な賑わしさになったことに気が付いた。小さな悲鳴まで聞こえることを怪訝に思い、わたしは伏せていた顔を上げる。そして両の目を大きく見開いた。
教室に入ってきたのは一条さんだった。朝、彼女の姿は席になく、恋路さんと瀬戸川さんが「風邪かなぁ?」「でもメールとかないし」なんて話していたのをふと思い出す。一条さんは特にふらついた様子もなく、風邪を引いているというわけではなさそうだった。けれど。
血相を変えた瀬戸川さんが一条さんに駆け寄る。彼女の顔を覗き込み、酷く眉根を寄せて「どうしたの!」と叫んだ。
一条さんは何も言わなかった。彼女がゆるりと顔を上げ、教室を舐めるように見回す。彼女と目の合ったものは慌ててその視線を逸らしていく。そして、一条さんの瞳がわたしの目を見つめた。彼女と目が合っても、わたしは茫然としてしまい、視線を逸らすのが遅れた。
いつも端正な一条さんの顔が歪んでいた。
切れた口端から滲む、乾いた血液。赤黒く腫れあがった片頬に、額の分け目から覗く大きな青痣。
腫れた頬のせいで片目は半分ほどにしか開いていない。それでも、異常なまでにギラギラと光を帯びたその目が、わたしを睨み付けていた。
「えりなどうしたの!? 大丈夫? 事故?」
「そんなわけないでしょ、誰かにやられたんだよね? 誰? 言ってちょうだい!」
「それより誰か絆創膏持ってないの、保健室行こうよ」
さっきは彼女から視線を逸らしていた子達がようやく我に返ったのか一条さんに群がり始める。その腕に恐る恐る触れ、しきりに心配するように声を投げかける。
一条さんはその言葉のどれにも耳を傾けず、ただその腕を振り払って真っ直ぐに歩く。こっちの方向へ、わたしの方へ。……わたしは怯えたまま座っていることしかできない。
彼女の手が優しくわたしの肩を叩く。気を取られたその一瞬に、彼女の手が襟首を掴み強引にその場に立たせられた。
直後。思いっ切りわたしの背中が壁に叩き付けられた。
「っ!?」
教室に満ちた悲鳴を背景に、わたしは声も出せずに床に崩れ落ちる。悪い所に当たったのか息も止まりかけた。激しく咳き込みながら悶えていると、一条さんが倒れているわたしの上に馬乗りになって、また襟首を掴んで引っ張る。顔と顔が近くなる。その唇から「あなたのせいだ」という怒号が漏れた。
訳が分からず混乱するわたしの頬へ、熱い平手打ちが襲いかかってきた。普段通りのいじめ。だけど、今日の彼女はいつもとどこか違う。様子がおかしい。
怒鳴り声を上げるその顔は、怒りと悲しさ、そして僅かな不安に満ちていた。高校に入学して、いじめられてきて、約七ヵ月。この子のこんな複雑な顔を見るのは初めてだった。
「あなたが悪いんだ……。全部、全部、あなたのせいなんだ。あたしじゃない。あなたがいたから、あたしはこんなに惨めなんだ……」
「…………い、ちじょうさん?」
胸中におぼろげな不安が広がった。一条さんの声は激情を押し殺しているように淡々としたもので、その一定な声は、自分自身に言い聞かせるような口調だった。
そのとき何気なく彼女に手を伸ばした、伸ばしてしまった。わたしの手が彼女の頬に触れた瞬間、びくりと顕著に体を跳ねた彼女が、一度大きく唇を震わせた。
感情を膜のように覆っていた顔が壊れる。子供のように泣き出しそうに歪んだ顔は、わたしの手の平に僅かに目を細めた。そして直後、大きくその手を彼女が掴む。
「ずるいんだよ、お前は!!」
一条さんの激昂が静まり返った教室に反響する。廊下を歩いていた生徒の足音が止み、「先生呼んだ方がいいんじゃない」と焦る声が遠ざかって行った。
一条さんの目からは大粒の涙が流れていった。滴るその数滴が、わたしの制服に垂れる。
「あたしがどんなに辛い思いでお金を稼いでるか知ってる? どんな思いで、弟と妹を育ててるか知ってる? 知らないでしょ、そもそもあなた、お金になんか困ってないものね。あは、は、本当、ばっかみたい」
彼女の言葉の意味が分からない。一条さんがアルバイトをしていることも知らなかった、弟妹がいるなんてことも今知った、そもそも一条さんがわたしをそう思っていることも知らなかった。
「えりな……? もしかして、それ、その傷、お家の……」
瀬戸川さんが遠慮がちに呟くように一条さんを見て言った。けれど一条さんは彼女の方も見ず、わたしに微笑みながら話し始める。
「……ねぇ秋月。あなたって確か、ご両親の仲が悪かったのよね?」
「え、あ……うん」
「そっかぁ。きっと、父親も母親も、別の男や女を作って遊んでるんじゃないの?」
サッと頭から血の気が引いていく。ありえないものを見るように一条さんを見つめると、彼女は泣き笑いのような表情のままでわたしに微笑んでいた。
首を振る。違う、と囁くように呟く。
「第七区のホテル街、あそこって疲れたサラリーマンとかが若い女子中学生や高校生といっぱい歩いてるの、知ってる? その中にあんたの父親もいたりして」
「やめて……」
「見てもないくせに。母親だってね、あなたの世話もろくにしてないんだからだいたいそんな人だと思うわよ。可愛そうな和子ちゃん。パパにもママにも捨てられちゃって」
「やめてっ!」
頭を抱えて叫ぶ。首を振り、きつく目を瞑って嫌な想像を頭から振り払う。
お父さんもお母さんも、滅多に家に帰ってこない。お父さんなんてここ数ヶ月声も聞いていない。だけど、だけどそれでも、二人のことが大好きなんだ。わたしは、お父さんとお母さんの一人娘だから。
「違うもん、お父さんもお母さんも、二人ともそんな人じゃない! 今は仲が悪くても、いつか仲直りしてくれるはず! わたしのことだって嫌いじゃないよ! いつか、いつか、また三人で――――」
「いつまでそんな夢を見てるつもり?」
わたしの言葉を遮って、一条さんが吐き捨てるように言った。彼女の言葉に耳を塞いでいると、その手を無理やり剥がされる。鼓膜を震わせる激しい現実の言葉。
嫌だ、嫌だ、聞きたくない。
「あなたが大切だっていうなら、どうして二人はあなたの傍にいてくれないんだろうね? 今だって辛いでしょ? 苦しいでしょ? でも、お父さんもお母さんもあなたのことを助けてくれるどころか、見てさえいないじゃない。いつか、いつかって、言い続けて何年が経ってるのよ。うざいのよ、そうやって現実見ないで甘えてる姿が。そういうところが嫌いだから、あたしはあなたをいじめてるのよ」
「やだ、違う、やだ、やだやだ……やだあぁ…………」
「そうやって泣いて逃げられると思ってんの! ああ、ムカつく、気持ち悪い!! どうせあなたなんか、どこにいたって邪魔なだけなんだから! だったらいなくなっちゃいなさいよ!」
泣きすぎて頭が痛い。一条さんの声が脳味噌をガンガンと殴りつける。やだやだ、と否定しながら泣き叫んだところで、一条さんはわたしを解放してくれない。
廊下から騒がしい足音が聞こえてくる。他の教室の生徒達が、野次馬気分で教室を覗き込んでいるのが見えた。床に倒れるわたしと一条さんを複雑そうな目で見つめつつ、助けてくれようとする子は一人もいない。
「えりなっ、言い過ぎだよ! もう止めて」
「うるさい、あっち行ってよ!」
瀬戸川さんが伸ばした手も一条さんは払いのける。そのまま激しく襟首を揺さぶられて、一条さんの喉からは絞り出したような絶叫が轟いた。
「死んじゃえよ! あなたなんか、あなたなんか、いたって邪魔なんだよ!! どうせどこにもあなたの居場所なんてないんだから!」
わたしの唇から溢れる泣き声が遠くに聞こえる。視界がどんどんと狭まり、真っ暗にぼやけていく。
全身から血が引いていく。妙に冷たくなる頭が、一条さんの言葉だけを拾い集めて、繰り返す。
「死んじゃえ」
死んじゃえ、と。
「死んじゃえ、死んじゃえ、死ね」
死ね、死ね、死ね、死ね。
「――――……ああ」
だったらもう、本当に死んでしまおうか。
「……………………」
泣き続けてぐずぐずになった顔を拭いもせず、わたしは黙ってベッドから降りる。そこで初めて自分が制服姿のままであることに気が付いた。ベッドの傍に転がっているのは学校の上履きだ。
あれからどうしたのだったか記憶が曖昧だった。けれどぼんやりと思い出した断片を繋げてみれば、嫌な記憶と共にこれまでのことを思い出す。一条さんを突き飛ばして、そのまま逃げ帰ってきたんだった。廊下で擦れ違った先生に声をかけられても答えずに、靴も履き替えないまま外に飛び出して、一目散にマンションまで走って。そしてそれからずっとベッドの中で震えていた。ずっとずっと、何時間も。
ノートや漫画の散乱している机に近寄る。一番上の鍵がかかった引き出しの鍵を開け、そこに置かれていた数個のファイルのうち、赤いファイルを取り出した。それを床の上にぶちまける。白い色の紙の中、一つだけ茶色いそれを見つけて手に取った。
中くらいの茶封筒。封のされていないそれを逆さまにすると、中から三つ折りの白い紙が滑り落ちた。
遺書だ。
いつだったか、前に一度、今と同じように思い詰めたときに書いたものだった。最初は順調に書き出されていた文字は後半にいくに従って僅かに震えた字になっており、紙面の所々に小さな歪みがあるのは、涙が落ちて乾いた跡だろう。
今の自分の気持ちと文章に特に違いはないようだ。これで、遺書を書く時間が短縮できる。
簡単に部屋の掃除を終わらせてしまえばあとは特にすることもなくなった。キッチンも、両親の部屋も、和室も。必要最低限のものしか置かれておらず整頓する意味もなかった。私物も汚れもなく、あるのは薄っすらと積もった埃だけ。……なんだかとても切ない。自分の家だっていうのに、どうしてこうも自室以外に生活感がないのだろうか。
遺書をしわくちゃになった制服のポケットに突っ込み、上履きを片手に玄関へ向かう。この廊下を歩くのも最後だと思うと感慨深かった。
扉を開け、最後に一目家の中を見つめる。電気を消してしまえばもうほとんど何も見えなくなった。
「行ってきます……」
結局最後の最後まで、行ってらっしゃいという言葉を聞くことはなかったな。
屋上から飛び降りようと思った。
実を言えば、自殺を考えたことは今までに何度もあった。けれどその度に恐怖に負けた。もしくは、一晩寝ればそれなりに気分も落ち着き、決意が薄れてしまったり。わたしは単純だ。
遺書を書いたときだって手首を切って死んでしまおうと思っていた。ちゃんとネットで調べたからできると思った。お風呂にぬるいお湯を溜め、文具屋で買ったカッターを手首に当てた。けれどいざとなるとどうしても怖くなった。結局、新品のカッターは未使用のままゴミ箱に捨てられるはめになった。
……今日はできるだろうか。……いや、しなければならないんだ。
もし明日、わたしが普通に学校に行ったとして、一条さんがいつも通りでいるはずがない。もしかしたら今まで以上に辛いことをされるかもしれない。それだけは嫌だった。わたしの脆い精神で耐えられるはずがない。
やっぱり今日、死んでしまうことが一番いいんだろう。
溺死、薬物、首吊り、窒息、リストカット、轢死……。色んな自殺方法があるけれど、どれもこれも痛そうだし苦しそうだ。そうなると消去法で、高い所から飛び降りるのが最も簡単だと考えた。
投身自殺ならそれなりに楽に死ねるだろう。人気のない所を選べば、迷惑もかからないと思う。
とぼとぼと足元を見下ろしながら歩く。よく行っているスーパーの前を通り、昔からある急な段差を飛び降り、公園に出る。噴水の方を見た。
「あれ?」
最後に一目、保良さんに会いたいと思っていたのだけれど、そこに保良さんの姿はなかった。辺りを見回してみてもどこにも彼はいない。他のホームレス達はとっくに寝入っているようで、他のダンボールハウスの扉は閉まっていた。保良さんの家でもある、ブルーシートで作られた簡易式の住み家にも目を向けてみたけれど、中に人がいるような気配はない。どこかに出かけてるんだろうか。
かなり残念だったけど、保良さんが帰ってくるまで待つことはできない。決意が薄れてしまわないうちに死ななくちゃ。わたしは名残惜しく思いながらも公園の横を通り過ぎた。
公園から少し行った所には、古い三階建ての廃ビルが一棟建っている。昔は出版社として使われていたが、それも数年前の話で、話によれば社長が夜逃げしたらしい。従業員が首を吊って自殺したという噂もあるせいかどうかは分からないけれど、三年ほど経った今でも解体されることもなくそのままだった。
扉を開けて中に入ると、空気中に漂う埃がわたしを歓迎してくれた。顔に降りかかるそれにゲホゲホと咳き込み、それから慎重に辺りを眺める。当然ながら何もない。あるのは建物を支える柱ぐらい。割れたガラス窓から冷たい夜風が吹き込む。満月が淡く室内に差し込むけれど、それは日光と違い、少しも温かくはなかった。
エレベーターのボタンは反応しなかった。階段を上り、三階まで来たけれど更に階段が続いている。このまま屋上に上がれるみたいだ。
階段を上りながらスカートのポケットから封筒を取り出す。少し折れてしまっているけれど目立つほどじゃない。それを手に持ちながら上に顔を向け直すと、屋上の鉄扉が見えた。ドアノブに手をかけようとしたところで、ふと扉に僅かな隙間が開いていることに気が付いた。
そこから、夜風に乗って声が聞こえた。
「――――おれが仕事を辞めた理由なんて、聞いてどうするんだ?」
保良さんの声。
パッと自分の顔がほころぶのが分かる。衝動的に扉を開けようとドアノブに手をかけようとして、
「気になっただけだ」
別の声に手を止めた。
若い男の人の声だった。冷たく低い、だけどよく通る声。聞いたことのない声だった。少なくとも公園にいるホームレスの誰かじゃない。
……じゃあ、誰? 保良さんは誰と話しているの?
「そうだな。一言で言うなら、疲れたんだよ」
「疲れた?」
「そうさ。――――人を殺すことを仕事としていると、心にある大切な物を見失ってしまう。言い換えてしまえば……そうだな、生きがいとでもいったところか。殺し屋の仕事は殺人だ。仕事といえど殺人であることに変わりない。殺人に何も感じなくなっては殺し屋としては一人前だが人としては終わりだ。プロのあんたもそうなっているんじゃないか? まだ若いのに、勿体ない」
保良さんの笑い声。それに返る返事は聞こえない。
心臓が不安に締め付けられる。喉が乾いていき、頬を一筋の冷や汗が流れた。
保良さんは何を言ってるんだろう。こんな夜に、こんな所で、どうしてそんな話をしているんだろう。殺し屋? 殺人? 昨日言ってた、昔の話だ。
だって、だって嘘だって。あの人が話すことは全部ホラ話なんだって。楽しんで、面白可笑しな作り話で、あんな、真剣な声色で話すものじゃないって……。
二人の対話がしばらく続く。どちらも淡々とした声なのだけど、そこにはちょっと触れただけで弾けてしまいそうな緊迫感があった。わたしが出ていっていいような雰囲気じゃない。
扉一枚を挟んだ向こう側の光景を思い浮かべながら息を殺す。ドキドキと緊張で心臓が高鳴り、その音があっちに伝わってバレてしまうんじゃないかとさえ思う。
妙に嫌な予感がした。同時にふと思い出す。
保良さんは一度でも、昨日の話を嘘だと言ったっけ?
「どうして自分はこんな仕事をしているのかと疑問に思ったときはないか? 呆気なく消える命を見て虚しくなったことはないか? 死んでしまいたいと思ったときはないか? オレはある。だから、一から人生をやり直すために今の生活をしているんだ。金も仕事も何もかもを全部リセットさ。なぁ、オオカミくんよ」
「…………何が言いたい」
一瞬の空白。カチッと聞こえた、固い音。保良さんの焦ったような声が聞こえる。
「待て待てちょっと待て! ……まったく、最近の若いもんは血の気が多くてかなわんわ」
「それが遺言か?」
「だから待てとゆうとるに! それを置け!!」
フーッと長い溜息。そろそろ終わるから、さいごまで聞いとくれよという保良さんの言葉。二つの意味で、さいごだなぁ、と自分の言ったセリフに笑う彼。
「ただでさえ、いつ死ぬか分からん人生じゃないか。このままだとあんたは後悔する。自分の命の瀬戸際、これまでの一生を振り返ってみたときに、残るのが後悔と悲しみなんて人生は送りたくないだろう」
「だからどうしろと言うんだ」
「……簡単さ。さっきも言っただろう? 生きがいを見つけてみればいい。一匹狼でいるのは辛いだろう。物でも、者でも、何だっていい。自分の人生の中で大切なものを見つけるんだ。あんたの人生の先輩として教えておこう。元仕事の先輩としてではなく」
それに対するのは数秒の空白。それから、少しだけ不思議そうに尋ねる声。
「あんたは今、後悔していないのか」
「勿論!」
明るい声だった。それはもう、心の底から楽しそうな弾んだ声だった。
それがとても怖かった。
「全てを捨てて一から人生をやり直した俺はたくさんのものを得ることができたよ。ホームレス生活も悪いもんじゃない。慕ってくれる仲間もできたし、可愛い女の子とも知り合えた。充実した日々だったと思っているよ」
「前よりも?」
「ああ。仕事をしていたときより遥かにね。……あの頃の俺は死んだも同然だったからな。それこそ今のあんたのように、死んだように生きていた。漠然と死ぬことを願っていた。それに比べれば今は、家も家族も金も仕事も地位も女も何にもないけど、幸せすぎて怖いくらいだ」
「こうして今、俺に殺されようとしているのに?」
え?
「……おれは仕事を放り出して突然逃げ出した。殺されても文句は言えんさ。今更かって気はするがね」
「数年間も逃げ延びたのに残念だったな」
「ようやく見つけたのか、ただ泳がされてただけかはあんたも知らんだろうな。まあ、しょうがない。」
ああ悔しい、とどこか楽しそうに響く保良さんの笑い声。能天気なその笑い声がこの空気に違和感として残る。ドアノブに震える手をかけながら、わたしは自分の歯がガチガチと音を立てていることに気が付いた。
短く呼吸を吸う音、足を地面に踏み締める音、小さな金属音。
心臓がうるさすぎて頭痛まで伴ってきた。わたしはドアノブにかけた手を力強く握り締めた。
「殺されるのは悔しいさ。……だがな、あんたの顔を見てると、どうも悲しくなってしょうがないんだ。見るからに疲れ切っている。体も、そして心も」
さいごに一言だけ言っておこう、と保良さんが静かな声で言った。
さいご。
最後。
最期?
「――――……一度でいい。殺すだけじゃなく、生かしてみせろ」
返事はなかった。代わりに、張り詰めていた空気が静まる感覚。
直後、それが弾けたような気がした。
限界だった。
「保良さんっ!?」
明星市の星空。今夜は特にそれが綺麗だ。濃紺の空、零れんばかりにまぶされた青白い煌めき。一瞬息が止まりそうになるほどの幻想的な空。
そこに赤色が散りばめられた。
「あ」
パァン、という甲高く空気を切り裂いた音。
背中から妙にゆっくりと倒れてくる保良さんの体。
逆さに映るその顔の眉間に、ポツンと赤い穴が開いていた。
その目に光はもうない。
息を飲んだのはわたしなのか。
保良さんの眉間からこぷりと溢れた血液が目に焼き付いた。
――――保良さんが死んだ。
――――保良さんが殺された。
誰に?
「あ」
震える声で空気を震わせ、多分間抜けな呆然とした表情でわたしは視線を上にあげた。一人の男が立っていた。
きっとこの光景を、わたしは生涯忘れない。
さらりとした黒い短髪。凛とその場に立つ姿。威厳と畏怖の溢れるその雰囲気。
そして、わたしを見据える氷のように鋭い瞳。
黒いはずのその瞳が一瞬、深い森のような深緑色に変わった気がした。
――――オオカミが、そこに立っていた。