第37話 海の工場と誘拐犯
コンクリートの屋上に手を付いていると、そこから冷気が体に伝わってくる。四階のビルに吹く夜風が冷たい。鳥肌の立つ腕を撫でながら、首に巻いた深緑色のマフラーに顎を埋めた。
双眼鏡を手に手すりから身を乗り出して見下ろした、ビルとビルの隙間に入り組んだ狭い路地、そこに動く人影を見失わないように追いかける。その人間は踊るようにくるくると両手を回しながら楽しそうに路地を歩いていた。跳ね、回り、ゆらゆらと揺れるように体を揺らしながら。酔っているわけじゃない、お酒など飲めるわけがないのだから。
パーカーのポケットに突っ込んだ小型の通信機、そのスピーカーが振動して、私の耳に音声を伝えてくる。
『おっしごっとおっしごっと……ふふ、リンゴ、いっぱいもらえるかな?』
双眼鏡に映る人――ネズミくんがピタリと動きを止め、肩を揺らして口元に拳を当て、楽しそうに笑う。緊迫感のないおっとりした声に苦笑しながら、私は通信機を取り出して小声でネズミくんに伝える。
「ネズミくん? 危ないって思ったら、すぐに叫ぶんだよ? 私達が助けるから」
『はぁーい』
きっと分かってないだろなと上がっていた口角を引くつかせる。
と、屋上の扉が開く音がして東雲さんが屋上にやって来た。吹き付ける風に目を細めながら、彼は私の隣で手すりを掴んで下を見下ろす。
「どうだ?」
「特に何も。仁科さんは?」
「そこの階段で寝てる」
寒いから監視とかパス、と言って屋内から出ようとしなかった仁科さんの姿を思い出して笑う。東雲さんが手に持っていた缶飲料を渡してくれた。甘くて温かいミルクティーに頬を緩める横で、東雲さんはブラックの缶コーヒーを啜る。空になった缶が冷え、再び体が寒くなってきた頃、ようやく事態が動き出した。
小さな悲鳴が聞こえた。ネズミくんの声かと一瞬思ったが、女の子の声だ。ネズミくんが足を止めて辺りを見回しているともう一度同じ声が聞こえる、ネズミくんが走り出したのを私達も視線で追った。
それはすぐ見つかった。路地を抜けたちょっとした道路、数台の廃車が停まっている中に紛れるように停まっている黒い大きめのワゴン車、そこから細い足のような物がはみ出してバタついていた。車の外にいた二人の男が必死にそれを押し込もうとしている。
『おい、早く黙らせろ』
『助け……んー! うむー!』
苛立ったような男の声と、急にくぐもって聞こえる女の子の声。男の一人が力任せにその足を折り曲げていると、そこにネズミくんが姿を現した。突如として現れた第三者に男達がギョッとするのがここからでも分かる。
『なにしてるの?』
純粋に問うような口調でネズミくんが言う。男達はしばし狼狽えるように顔を見合わせていたが、舌打ちをして一人がネズミくんに向き直る。
『仕方ねえ……!』
『おぉ?』
ひょいっと襟首を掴まれ、子猫のように持ち上げられたネズミくんがそのまま車内に投げ込まれる。ガタゴトと物にぶつかる音がして、『いて』とネズミくんの声、それから布越しに喋っているようなもごもごとした呻き声。男が車のドアを閉め、運転席と助手席に乗り込んですぐに車を発進させる。あっという間に車は道路を曲がって見えなくなったが通信機からの音声は明瞭に聞こえていた。ネズミくんのあくびと、くぐもった泣き声、それが複数。
見届けてから双眼鏡から顔を離して東雲さんを見る。彼は取り出した携帯を少し操作してから、よし、と頷いた。
「行くぞ」
彼が見せてきた携帯の画面。映っているのはこのビル周辺の地図、それからゆっくりと移動する赤い点だった。
「おしごと?」
「ああ、仕事だ」
仁科さんの部屋。東雲さんの言葉に、彼が買ってきたリンゴを齧りながらネズミくんが首を傾げる。口端から果汁を一筋垂らし、怪訝な表情を顔に浮かべた。
「えっと、それって、おいしい?」
「食べ物じゃない。何て言えばいいのか……あれだ、お金が貰えるお手伝いみたいなもんだ」
「おかねぇ? あれ、きらい」ネズミくんはうぇーっと舌を出して苦虫を噛み潰したような顔になる。「おいしくないもん」
食ったのかよ……と呆れたように言って東雲さんは続ける。
「あのな、金は上手く使えば別の物と交換できるんだぞ。お前の食ってるリンゴとか」
「リンゴ?」
「やってくれたらリンゴ、買ってやる」
「ひとつ? それともふたつ?」
「十個でも二十個でも」
食い付いてきたネズミくんを逃がさないように東雲さんが言うと、途端に顔を輝かせて興奮したように顔を赤くした。
「やる! ぼく、しごとやる!」
「契約成立だな」
よし、と頷いて東雲さんが頭を撫でる。危険な仕事にリンゴの十個や二十個はあまりに安過ぎるけれど、生憎ネズミくんはそんな価値など分からない。
お姉ちゃんと遊んでろ、とはしゃぐネズミくんを私の前に寄せて、東雲さんはベッドに潜っている仁科さんに近寄ってその布団を剥いだ。照明の眩しさに唸る彼の顔を軽く叩く。
「聞いてたか? 仕事だ」
「行ってらっしゃい」
「ああ……って、そうじゃない。お前も行くんだよ白ウサギ」
通称で呼ばれた仁科さんが不機嫌そうに顔を歪めて東雲さんを睨む。
「何でおれまで? 使うのはネズミだけでいいじゃん」
「お前はあの子の保護者だろう」
「ただの居候。関係ない」
「あいつをここに引き取るとき、拒否しなかった以上関係ある。仁科、お前大人なんだからいい加減自立しろ。もう三十だぞ?」
「まだ二十九ですぅ」
「ほとんど変わらないだろ」
二人の会話を聞きながら、仁科さんがそんなに歳がいっていたことに驚く。ぐずるような不貞腐れたようなその顔は二十代前半、言動に至ってはもっと幼く見える。造形というよりは感じる雰囲気が子供っぽいのだろうか。
「もう引退したって言ったじゃん」
「永久休職って聞いたが」
「同じようなもんでしょ」
「とにかく仕事だ、報酬は払うから手伝え」
やーだぁー、と駄々をこねるようにうだうだとする仁科さんに呆れながら、私はネズミくんを抱き締める手に力を込める。不思議そうに見上げてきたネズミくんの顔を覗き込んでぽつりと呟いた。
「やっぱりネズミくんを囮に使うなんてやだな……」
「他に手があるか?」
独り言のはずだったけれど東雲さんが答えた。不安に眉を下げながら否定の言葉を述べると、彼は澄ました顔で肩を竦めた。
「だったらしょうがないだろ」
「でも…………」
「俺だって子供を利用するのは流石に心苦しいさ。けど、他に方法がないならやるしかないだろう。納得ができなくても」
彼の言うことは正しい。だからこそ、他に方法を思い付かない自分が嫌になる。
ネズミくんはキョトンと何も分かっていないように目を瞬かせてからにへらっと柔らかな笑みを浮かべた。微笑み返し、量の多い黒髪に顎を埋めながら細い体を抱き締める。
それが五日前の話だ。
タクシーから降りると潮のにおいがした。少しだけ生臭い。死んだ魚とかプランクトンとか、そういうにおいなのかなと考えた。隣に立つ仁科さんは強風にぶるぶると体を震わせ、ネックウォーマーに鼻まで埋めて白い息を吐いている。東雲さんが料金を支払ってタクシーから降りてきた。そしてまた携帯を見て、私達を先導するように歩き出す。
「チョーカーが役に立ちましたね」
何気なく言うと、東雲さんは頷いた。
前に彼が買った、星型のチャームが付いた発信機。それは今ネズミくんの首に付けられている。ネズミくんの居場所を示す赤い点は東雲さんの携帯に映し出されており、さっきまでゆっくりと移動していたそれは現在止まっている。それがこの第二区の外れにある海だった。
明星市は県から出っ張ったように突出した形で、その大半は海に面している。二区のそこにも点々と置かれている小さな工場があり、赤い点はその一つに示されていた。
潮風を浴びながらそっと足音を潜めて歩いていると、目的の工場の手前で東雲さんがパッと物陰に身を隠した。一瞬遅れてから、ぼんやりしている仁科さんの手を引いて私も隠れる。そこから顔を半分だけ覗かせて工場を見ると、そこに一人の男が立っているのが見えた。目のつり上がった神経質そうな顔に緊張を貼り付け、手に下げたライトでビクビクと辺りの様子を窺っている。工場の監視を命じられているのだろう、逆に怪しいけど。
『一、二……五人? これだけか?』
『あれ、もう少しいたような気がしたんだけどな……気のせいか?』
『お前なぁ! たったこれだけでどうすんだよ、最低十人は集めろっつったろ!?』
『一人でも大変なのに十人とか無理に決まってんだろ! そもそも、これで三回目だろ? 十分過ぎるぞ!?』
通信機から男達の怒鳴り合う声が聞こえてくる。その迫力に脅えるように、誰か子供が泣き出す声も。うるさい、という罵声が飛ぶ。
音だけでは心もとない。直接工場の中が覗きたい。そう思っていると、不意に東雲さんが私達にここにいるよう指示を出してそっと物陰から裏道を抜けていく。陰からその様子を窺ってみると、彼が忍び足で向かったのは工場の側面にある窓だった。工場の四方から監視しているのかそこにも見張りはいたが、正面入り口と裏口にいる人ほど緊張感はない。欠伸を噛み殺し、眠そうな顔をした監視は時折気になるように窓から工場内を覗いていた。
東雲さんが動く。小さく地面を蹴り、身を屈めたまま男の元へと一瞬で駆け寄る。物音に気付いた彼が振り返るよりも早く伸びた手が口を塞ぐ。ほとんど同時に、コートの袖口から滑り出した短剣を掴み、喉仏に深く突き立てた。力任せに手首を半回転させると、喉に刺さった短剣も回転して喉の肉が抉れ、零れ落ちる。男の体は激しく痙攣した後に動かなくなった。短剣の溝を伝って血が柄にゆっくり流れていく。それから数秒待って、東雲さんが短剣を抜きながら、投げ捨てるように男の死体を地面に転がした。そして何事もなかったかのように私達に合図をする。仁科さんと共に彼の傍に駆け寄り、ごぽごぽと喉から血を流す死体を見ないようにして窓から工場内を覗き込んだ。
青白い電球に照らされる寒々しい工場。その中央にお互いの身を寄せ合うようにして固まる五人の子供がいた。女の子も男の子も、中学生に見えるような子からまだ幼稚園児のように見える子まで、猿轡を嵌められている子もいた。その中に当然ネズミくんも。他の子達が一様に脅えているのに対し、ネズミくんはわくわくしたように頬を紅潮させていた。首に付けたチョーカーの星が、彼が首を振るごとに小さく揺れる。
しばらくして工場の外から車の音が聞こえてきた。言い争いをしていた男達が途端表情を固くし、それに不穏な空気を感じた子供達も体を強張らせる。工場の外で見張りをしていた男が顔を覗かせ大きく頷いた。それを見て、工場内の男二人が顔を見合わせる。
『とにかく運ぶぞ』
『おう。……にしても誘拐した子供を一旦ここに運んでから、また別の場所に運ぶなんて、二度手間じゃねえか?』
『一度に運ぶよりはリスクが少ないんだろうよ。まあ、俺達もここまでガキを運ぶまでの仕事だから、この後どこに連れてくのとか分かんねえだろ』
『そうだけどよぉ。……いいや、とっととトラックに積むかぁ』
子供達を荷物扱いするような言葉を吐いて、男が近くにいた女の子の手を取る。瞬間、それまで体を強張らせていた彼女は恐怖に耐え切れず金切り声を上げてがむしゃらに暴れ出した。
『やっ、やぁー! やだ、やだやだ、いやあぁぁっ! 助けて、お願い、助けて! 家に帰してぇ!』
『うおっ!? ちょ、落ち着け、おい! 手前ぶっ殺されてえのか!』
『嫌だあ! やだああ! あああああ!』
男が焦った様子でポケットから布を取り出した。女の子の口に無理矢理それを当て、後頭部で縛る。それでも暴れるその子の頬を叩くと、やっとその子は静かになった。けれどその様子を見ていた他の子供達に波が伝わったのだろう、泣き出す子や過呼吸を起こしかけている子が増えてきた。それまではしゃいでいたネズミくんもようやく空気に当てられたのだろうか、強張った表情で女の子を見ていた。
『早く持ってくぞ』
『……ごえんああい、ごえ、ごえんああい…………』
猿轡ごしにぶつぶつと謝罪を繰り返すその子を男が肩に担いで急ぎ足で工場を出ていく。さっさと運ぶべきだと考えたのだろう、男達は急ぎ足で中と外を行き来する。その度に子供が一人ずつ減っていった。ネズミくんは最後だ。同じように彼を抱えようとした男が、ふとその顔を覗きこんで驚いたように声を出す。
『なあ、こいつ目の色が変だぞ』
『おお、本当だ。綺麗な色してんな』
ネズミくんは自分の顔を覗きこんでくる男達に怒ることもなく、ガチガチに固まってしまっていた。そのまま一人がネズミくんを肩に抱き、外に出ていく。車に乗り込ませる音と共に『綺麗な目の奴は高く売れるらしいな』と独り言のように呟いて。
窓から顔を離して横を見る。工場の出口の方からトラックが走り去る音が聞こえた。早速追うべきだと東雲さんと目を合わせていると、工場の入り口から声が聞こえてきた。
「あぁ、疲れた……。ちゃんと金はくれるんですよね?」
「分かってるって、ちゃんとやるよ、ちゃんと」
「見張りしてるだけで一人十万ってのも楽だよな。……おい、ところで一人足りなくねえか?」
「あいつならそこの窓の方見張ってましたよ。遅いっすね、何やってんだ、寝てんのか?」
その言葉と、ザリザリと地面を踏み締めながら近づいてくる足音。早く逃げましょうと小声で言って立ち去ろうとすると、仁科さんが急にくすぐったそうに顔を歪めた。
「仁科?」
「ふぃっ…………いっぷしっ!」
「えっ」
小さなくしゃみ、けれど静かな夜にそれは響いた。一瞬空気が凍り付くような沈黙が流れ、すぐに大慌てで駆けてくる足音。額に手を当てて溜息を吐く東雲さんと、鼻を啜る仁科さん、そして口端を引くつかせている私達にライトの光が浴びせられた。
威嚇するように険しく睨んできた六人の男達が、私達、そして足元の死体を見てどよめく。その顔に浮かんだ脅えの色は、あの子供達とそっくりだった。
「おっ、お前ら……!」
ギョッとした様子の男に、東雲さんが舌打ちをしつつ、持っていた短剣を振って血を飛ばす。私もぐっと拳を握って構えた。
こうなってしまったらもうやるしかない。戦意をギッと視線に込めて素手の男達を睨めば、私よりも強いはずの男達が委縮したように後退る。
「下がっててください仁科さん」
仁科さんはこういう場面に向かない。そう考え仁科さんの前に立つ。けれど仁科さんは中々離れようとせず、怪訝に思って振り返る。
「仁科さん? …………っ」
潮風がぶわっと髪を拭き上げ、思わず目を閉じる。すぐにもう一度目を開いたとき、風が彼の前髪を煽り、長い前髪の隙間から赤く淀んだ目がチラつくのが見えた。血のようにドロリと赤いその目が私をぼんやりと見下ろしている。それから、ゆるりと顎をもたげ、仁科さんは彼らに目を向けた。白い髪を弄びながら薄く微笑む。
「こんな仕事早く終わらせよ。面倒だもん」
のんびりとしたその声色が男達の顔色を変えた。状況はよく分かっていないが、自分達が馬鹿にされたとは思ったのだろう、顔を赤黒く変色させて唾を飛ばしながら向かってくる。
「ぶっ殺す!」
一人が私に拳を振りかざす。大きく軌道を描くその隙間に私は潜り込み、男の胸倉に肘を叩き込んだ。ぐっと呻きつつも男は私の頭を掴み、壁に叩き付けようと持ち上げた。空に浮かんだ足を折り畳み、目の前に迫って来た壁に強く蹴り付けて動きを止める。頭の直撃は免れたものの、足から全身にジィンと鈍痛が滲む。けれどその痛みを堪え、壁を蹴り付けた勢いのまま男の手から逃げ出す。地面に手足を突いて獣のように四つん這いになった。ふっふっ、と息を整えながら男を睨み、横目に東雲さんを見た。
東雲さんは流石というべきか、二人を相手に顔色一つ変えずに対処していた。前から向かってくる男の腹に拳を突き上げ、後ろのもう一人に裏拳を叩き込む。二人が同時に殴りかかってくるのを寸前で避け、相打ちさせる。彼が手にしている短剣に新たな血は付着していなかった。
目の前から男が再度殴りかかってくる。避けようとするのをぐっと堪え、寸前でしゃがんで彼の足を払った。重心を崩された男は苦い顔をしてうつ伏せに倒れ込む。彼が起き上がるよりも前にその上に馬乗りになり、右腕を掴んで思いっ切り関節を無視して折り畳む。ゴリッと骨が擦れるような嫌な音がして男が絶叫した。上手く脱臼させることはできただろうか。伏せた顔を横にして私を睨んでくる男の顔面を蹴り付ける。それから両耳を掴んで思いっ切り壁に頭を叩き付けると、男は呻きながらずるずると崩れ落ちた。
東雲さんが二人、私が一人。残りは三人。……そういえば仁科さんは逃げられただろうかとハッとした。
「仁科さんっ!」
叫びながら顔を上げた。
そして固まった。
いつも寝てばかりいて、ぼんやりしている仁科さん。実年齢よりも子供に見える頼りない仁科さん。
目の前に広がる光景は、そんな仁科さんの独壇場だった。
仁科さんが一番近くにいた男の拳を避け、その顔を殴り付ける。一瞬怯んだ男の鳩尾に拳をめり込ませる。ぐっと顔を歪めて前のめりになった男の後頭部を掴み、勢い良く下げて膝で顔面を抉る。その間たった数秒。仁科さんの気迫に気圧されていた残る二人も、最初の男が崩れ落ちてようやく我に返る。一人が仁科さんに真正面から振りかぶる間にもう一人が横から仁科さんを蹴り飛ばす。腰に靴底を受けてよろけた仁科さんの髪を掴み引きずり倒そうとする。けれど仁科さんは自ら上半身を倒していき、両手を地面に突いて倒立のようなポーズを取る。そのまま大きく足を広げて回し、前後にいた二人をそれぞれ蹴っ飛ばす。一人は鼻に、一人は顎に直撃を受け、顎に直撃を受け足をふらつかせている男の喉に、倒立から側転をした仁科さんの足がめり込んだ。ごぼっと涎を吐き出し、男は白目を剥いた。
「な、く……クソォッ!」
パチンと音がして最後の一人が腰ポーチから折り畳みナイフを取り出した。弾くように飛び出た刃に仁科さんの顔が映る。素手の彼は武器も何も持っていない、丸腰の仁科さんに男の刃が襲いかかる。
だけど仁科さんは避けなかった。ふらりと小さく揺れるその体に男の体が重なる。シュッ、と刃で肉体を切る嫌な音がした。
「仁科さん!」
自分の顔から血の気が引いていく。手応えを感じたのだろう、男もニヤリと笑って荒く息を付いていた。ポタポタとどこからか赤い血が流れ、地面に垂れていく。
薄ら笑みを浮かべる男の後頭部に手がかかった。笑顔のまま、疑問符を浮かべた男がゆっくりと仁科さんの顔を見る。
笑顔が工場の壁に叩き付けられた。
「ぶっ!」
重く固い物がぶつかる音。男の後頭部を掴んでいる仁科さんは、ぼんやりとした顔のまま男をもう一度壁に叩き付けた。後頭部を掴む手は骨ばって筋が立ち、手の平が真っ赤に染まっている。男がもがき、束縛から逃れようと後ろ向きに手を回す。空いた手でその手首を掴んだ仁科さんは、それを壁にピッタリとくっ付け、全力でそこを蹴り付けた。苦痛に絶叫が上がる。仁科さんがそれを無視して靴底で執拗に男の手の甲をぐりぐり踏み付けていると、泥に汚れたその手に赤い物が滲み始めた。
男が手で壁を叩く。それは例えて言うなら試合でギブアップを宣言するような動作で、実際にそうなのだろう。それでも仁科さんは止まらない。何度も何度も男の頭を壁に叩き付ける。何度も何度も何度も何度も……。
男が動かなくなってしばらくしても仁科さんは叩き付けるのを止めなかった。壁に凹みができ、そこに赤と黄色の汚れがドロドロと付着し始めても。
仁科さんの顔に感情は浮かんでいなかった。恐ろしくなるほどいつも通りのぼんやりした眠そうな顔で、その前髪から赤い目を覗かせて。
「――――白ウサギ。もういい。止めろ、十分だ」
「…………分かった」
東雲さんが乾いた声で言うと、仁科さんは意外にもあっさり手を離した。そうなってからようやく私も彼に駆け寄ってその手首を掴む。
「大丈夫ですか! どこか怪我は?」
「ん? んー、ここ痒い」
もごもごとそう言って仁科さんが左の手の平を私に見せる。真一文字にパックリと皮膚が切られ、そこから血がとろりと滲んでいる。深くもないが決して浅くもない傷。恐らくさっき男が切り付けたものだろう。
止血を、と焦る私に仁科さんがふふっと笑う。いいって、と柔らかく微笑んだ。その顔が不安になって、私は尋ねた。
「痛く……ないんですか?」
「痛いのには慣れてるから」
掴んでいる手首をそっと離す。そこに見える、痛々しい量の自傷行為の痕。
もう一度仁科さんの顔を見上げた。彼は眠そうに欠伸をして、ふにゃりと力ない声で言う。
「早く終わらせて、帰って寝ようよ」
そう言えば前、仁科さんに危ないところを助けてもらったことがあると東雲さんが言っていたことを、ふと思い出した。




