第35話 風邪
秒針の音だけが静かに響く空間に、ピピッと電子的な音がした。脇に挟んでいた体温計を取り出して数字を見ようとする前に、背後から先生がそれを覗き込んであららと困ったように笑った。
「三十七.三度、風邪ね。寝不足とかストレスなのかな?」
返事の代わりに鼻を啜った。いつもなら薬品臭さの抜けていない保健室だけれど、今日はそんな臭いを全く感じない。
保健室の先生である若い女の先生は、ティッシュを丸めてうーうー唸る私に笑いながらも部屋の温度を上げてくれた。もうすぐ三時間目が始まる時間を差す壁時計を見て尋ねる。
「どうする。保健室で休んでく? それとも早退しちゃう?」
「んー……早退します」
ベッドで休んでいってもいいのに、と先生は言ってくれる。だけど保健室には授業をサボる生徒や駄弁りに来る先輩達が入り浸ることが多い。そんな騒がしい中で眠るよりだったら家に帰った方がマシだと思った。
たまには一時間目から授業を受けようと思った日に限ってこれだ。朝から少し体が怠かったけれど大丈夫だと思ってた。でも二時間目の途中から熱っぽくなったせいでろくに授業が頭に入ってやしない。最近では私の欠席が(残念なことに)クラスにも受け入れられてきているので早退自体は難しくない。いまだしつこく理由を尋ねてくる金井先生も、具合が悪くてと言えば納得してくれるだろう。
「担任の先生に頼んで、お家に連絡入れてもらいましょうか」
「大丈夫です」
「本当に大丈夫?」
保健室の先生の好意に首を振る。家に電話したところで誰も出ないし、二人に直接電話をかけたってきっとどちらも戻ってはこない。心配そうな様子の先生に一人で帰れるので、と念を押して椅子から立ち上げる。軽く眩暈がしてよろけそうになるのをぐっと堪え、礼を言って保健室から出る。途端に温かな部屋から寒々しい廊下へと変わり、骨まで沁みそうな寒さに鳥肌が立った。
これは急いで帰った方がいいかもしれない。そう考え、私は廊下を早足に歩いて教室へと向かった。
「……気持ち悪い」
ふと目を開いて最初にそう呟いた。視界に映るのは見知った白い天井、自分の部屋だということは分かったが、これまでの記憶がなかった。頭がガンガンする、胸がモヤモヤする、熱い、苦しい。……何で部屋にいるんだっけ? あれ、さっき保健室を出たばかりじゃなかった?
…………あー、そうだ、ぼんやりと思い出してきた。学校出てからどんどん辛くなってきて、途中でタクシー使ったんだっけ。数百円の距離に五千円出したけどお釣り貰ってない気がする、まあいいや。えと、それからエレベーターでしゃがんで吐き気を我慢してたり、家に入ってそのままベッドの上に転がって……って、うわ、私制服のままだ。暖房も付いてないし、布団にも潜ってない。どうりで寒気が酷いはずだ。
「うっ!」
体を起こした途端強烈な吐き気が襲いかかって来た。咄嗟に口元を手で押さえるも、喉まで競り上がってくる液体にダッシュでベッドから駆け出した。リビングと廊下を抜けてトイレの扉を蹴り開ける。その勢いのまま便器の縁に爪を立てて背中の筋肉を震わせた。胃の中に物がなくなっても嘔吐感は収まらない。涙で顔中をぐしゃぐしゃにしながら涎を垂らしても、胃の中のムカムカとした不快感は拭えない。
頭痛と眩暈が酷い。体の節々が痛いし、寒気が止まらない。顔の血の気が失せ、熱っぽい体に反して頭だけが氷のように冷たくなっていく気がした。
「あ、うぁー……う、ええぇ……」
嘔吐が段々嗚咽に変わる。ぐずぐずと詰まった鼻を啜り、トイレの冷たい壁に寄りかかってしばらく泣きじゃくった。
だって本当に辛い。体は上手く動かないし怠いし、眩暈がして吐き気が止まらないし、こんなにも苦しいのに家には誰もいないし。縋れるものがなかった。
誰かに傍にいて欲しい。お父さん、お母さん、帰って来てくれないかな。私を寝かせて氷枕とか作ってくれないかな。小学生の頃、風邪を引いたら流石にお母さんが帰って来てくれておかゆを作ってくれたっけ。今日もあのときみたいになればいいのに。
いくら願ったところで叶うわけじゃない。吐き気が収まるまでじっとして、ようやく収まって来たのを見計らってトイレから出てうがいをする。少しはスッキリしたけれど気持ち悪いのは変わらない。部屋に戻るまでの間、廊下にローファーが脱ぎ捨てられていた、それを玄関に戻す気力もなく先へ進んだところで、今度は鞄が横倒しになっているのを見つけた。
「あ…………」
それを逆さまにすると、筆箱やノートが床に散らばった。ゴトリと固い音を立ててスマホが転がり落ちる。それを拾って操作しながらふらふらと部屋に戻った。数コールで通話が繋がる。
『もしもし?』
「東雲さん……」
聞こえてきた低い声にほっと全身の力が緩む。ぼすっと力なくベッドに横たわり毛布を被りながら、耳元から聞こえてくる声をまるで子守唄のように聞いていた。
『どうかしたか?』
「ううん。ただ、ちょっと声が聞きたくて、今大丈夫ですか?」
ゲホ、と咳が零れる。一度なるとそれをきっかけとするように咳が止まらなくなって、何度か咳き込んだ。
『風邪でも引いてるのか』
「……はい、すみません」
『今は仕事も来てないからいい。それより、家なのか? 他に誰かいるのか』
「私一人です」
少しの間東雲さんから返事がなかった。何かを考え込むように静かな呼吸音だけが聞こえ、それから僅かに潜めたような声で彼は言った。
『平気か?』
ピク、と頬の筋肉が引き攣った。特に考えはなく言った一言なのだろうが、その言葉が何故か耳に残る。
「平気ですよ」
『本当に?』
「だから、大丈夫ですってば……」
『和子』
「しつこいなぁ」
『じゃあ何で電話してきたんだ』
言葉に詰まってしまう。それは、とだけ呟いてみてもそこから繋がる返事が思い浮かばなかった。
冷たく震えた指先で目を覆う。熱い瞼の裏で滲んだ涙が、じわりと滲み出して目尻に溜まる。熱い液体がゆっくりと頬を伝うのを感じながら黙っていると、東雲さんが再度言う。
『和子。本当は辛いんじゃないか?』
視界が大きく揺れた。笑みを浮かべていた唇が歪み、か細い声が口から零れる。
「寂しい」
どっと荒れ狂うような感情が溢れた。ツンと鼻が痛くなって、喉の奥から呻くような嗚咽が零れる。
「寂しいよ、辛いよ、東雲さん……。会いたい、会いたいよ……東雲さん、会いたいよお」
『うん』
「一人はもうやだぁ……」
『うん……』
ひぐひぐと喉を震わせてしゃくり上げる。しばらくの沈黙の後。分かったという優しい声が聞こえてきた。涙で潤んだ目でスマホの画面を見つめて、枕に顔を押し付けるように布団に潜り込んだ。
「――――起きたか?」
次に目を開けたとき、すぐそこに東雲さんの顔があった。パチクリと目を丸くする私に彼は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「病院は? 何か薬は飲んだか? 制服のまま寝るな、寝苦しくなる。ほらタオル。これで体を拭いて、パジャマに着替えろ」
「え……あ……どうしてここに?」
テキパキと手を動かしていた東雲さんが動きを止め、怪訝そうに私を見下ろす。熱のせいで記憶まで飛んだのかと半ば真剣そうな顔で呟いた。
「電話してきたことも忘れたのか? ……というか、体調が悪くても玄関の戸締りはしっかりしろ」
危ないだろうが、と言う彼の言葉に、玄関の鍵をかけないまま部屋で寝てしまったことを思いだした。風邪とは違う寒気がヒヤリと首筋を撫でる。不用心だった。
東雲さんから渡されたパジャマを手に上半身を起こす。それだけでも酷く頭が痛み、眩暈と吐き気がした。枕に手を付くと冷たい温度が伝わり、視線を下げるといつの間にやら氷枕が置かれていた。
流石に着替えは手伝えないと東雲さんが部屋から出ていく。タオルで体を拭いてからパジャマに着替えるだけでも一人でやるのはしんどくて結構手間取ってしまった。ようやく着替え終わったとき、ドアをノックしてから彼が戻ってくる。その手にお盆が乗っていた。食欲はあるか? と問われて小さく首を振る。胃の中は空っぽだけど何も食べたくはない。
「じゃあ、せめてこれを飲め」
「何ですかこれ」
渡されたのは一つの小皿。少し底の深いそれに入っているのは透明な液体で、白いサイコロ状のような物も浮かんでいる。見たことがないそれに顔を顰めていると、東雲さんが説明してくれた。
「大根あめだ」
「大根あめ?」
「蜂蜜に小さく刻んだ大根を浸す。しばらく置いてから出た汁が、喉にいいんだ。お湯で割って飲んだりするんだが、俺はそのまま飲む方が効く気がする」
「へぇ……これ、東雲さんが作ったんですか?」
「寒い季節はよく作り置きしておくんだ。昔から風邪を引いたとき、よくばあちゃんが作ってくれてな」
一気にな、と言われた通りにそれを一息に煽る。甘辛いようでさっぱりとした味が喉を通っていった。少しべた付くような辛味に眉を顰めたけれど、粉薬ほど悪い味じゃない。
その後にスポーツドリンクを渡されて一口だけ飲む。それだけでもうお腹がいっぱいになった気がして、東雲さんに支えられながらベッドに横たわった。
「熱は?」
「学校で測ったときは、七.三でしたけど……」
東雲さんが手を伸ばして私の額に当てる。前髪を分けて額に直接触れる手は、骨ばっていて大きくて冷たかった。
「今は大分上がってるんじゃないか? 待ってろ、体温計を――」
ベッドから離れようとした東雲さんの手を思わず掴んだ。驚いた顔の彼が振り返り、どうしたと尋ねてくる。
「吐くか? 吐くのか? トイレ行くか? 洗面器持ってくるか?」
「そ、そんな吐きません!」
叫ぶと頭が痛くなる。ムッと口を曲げて、だけど掴んでいた東雲さんの手をギュっと強く握って自分の頬に当てる。火照った肌に冷たい手の温度が心地良かった。
「東雲さんの手、冷たいから。こうしてるの気持ちいい」
「……俺の手は冷却シート代わりか」
呆れたように言いながらも東雲さんは手を離そうとはしなかった。私にされるまま黙ってそれを受け入れている。それが何だか嬉しくて、頬を緩ませて笑った。
「今日の東雲さん優しい」
「そうかよ」
「ふふ。でも、いつもだって優しいです」
東雲さんが少し困ったような顔をした。でも私の言葉に嘘はない。今日の東雲さんは凄く優しいし、ほとんど気付かない変化だけど声だって柔らかい。だけどいつもの東雲さんだって、分かりにくいだけで私にとっても優しくしてくれる。こんなに優しい人なのに、皆に誤解されているのが堪らなく悔しい。東雲さんは私にとって、保良さんのように、優しくて大好きな人なのに。
「電話してきたときより元気になってないか?」
「だって東雲さんがいてくれるから」
率直な気持ちを述べると、彼は僅かに目を細めてピクリと指を動かした。何かを言おうとして唇を小さく開き、数秒固まってからふっと皮肉な笑みを浮かべた。
「お前は本当に俺のことが好きだな」
「好きですよ」
は、と東雲さんが口端を引くつかせた。片眉を寄せたような形容しがたい表情を浮かべる彼に微笑みながら私は続ける。
「東雲さんのこと、尊敬してるし好きですよ。東雲さんは私のこと好きじゃないんですか?」
東雲さんは空いた方の手で自分の顔を覆う。はーっと溜息を吐いて、しばらくしてからゆっくり手を離し、早口に言う。
「嫌いじゃない」
「好きってわけでもないの?」
「…………好きだよ」
「どれくらい?」
「寝ろ!」
熱が出てるせいだ、とぶつぶつ言いながら東雲さんが私の髪をくしゃくしゃ撫でていく。そっぽを向く彼の顔は見えないけれどきっと怒っているんじゃないかな。でも何だか可笑しくなってケラケラと私は笑う。
実際、熱のせいか口からどんどん言葉が零れていく。体中の色々な琴線が緩んだようにふにゃふにゃとした感じだ。
「眠れない。東雲さん、お話しましょうよ」
「だから、寝ろって」
「最近ね、お父さんとお母さんが離婚するかもって話があって」
東雲さんが静かに私の顔を見た。何を言うわけでもないその表情から彼の抱いている感情は読み取れない。昨日久しぶりにお父さんに会ったんです、と私は話を続ける。
「だけどそのときにお父さんが、お母さんと離婚するかもって話してて。私の家、二人ともいないじゃないですか? これ昔からなんですよ、小学生とかのときから。元々最初からラブラブだったって感じじゃなくて。二人とも真面目な人だから。お父さんの仕事が忙しくなって、それでお母さんも仕事で出世していくようになって、段々家に帰ってくるのが遅くなって、会社に泊まったりもするようになって。私はほったらかしにされるようになって。……あれ? 二人とも仲が悪くなってきたから、仕事するようになったのかな。あはは、どっちか分かんないや、忘れちゃったぁ」
私はそっと東雲さんの手を離した。彼の顔を見て、その目を覗き込んで、言う。
「私、本当に一人になっちゃうのかな」
笑顔を浮かべているはずなのに、口から吐き出された言葉は抑揚のない平坦な声だった。自分の言葉なのにその内容が上手く頭に入ってこない。
お父さんとお母さんが離れてしまったら。二人は私を引き取ろうとしてくれるのかな。もし、そうならなかったら? 二人とも私のことを突き放してしまうのなら? そしたら私、本当にひとりぼっちだ。
目を閉じて深く息を吐いた。このまま寝てしまおう、夢の世界に逃げてしまおう、そう思った。
「大丈夫だ」
「え?」
だけど、熱い私の手を冷たい手に覆われて目を開く。さっきよりも近付いていた東雲さんの顔が、私の目を覗き込んでいた。
「安心しろ。俺がいる」
手に力がこもる。大きな手に包まれる私の手が、少しだけ強張った。
東雲さんが静かに微笑んだ。柔らかなその笑みが、その唇から紡がれる温かな言葉が、私の冷えた心をそっと温める。
「お前はもう一人じゃない」
ふ、と引き攣ったような吐息が口から洩れた。視界が一気に歪み、体中がぶわっと熱くなる。
東雲さん、と叫ぶように彼の名を呼んだ。彼は黙って私の手を握りしめた。
東雲さん、東雲さん、東雲さん。何度も何度も彼の名を呼んではその手に縋る。目からボタボタと溢れる熱い涙を指先で拭い、彼は優しく私の髪を撫でてくれた。
彼に甘えて私は泣きじゃくった。そのうち泣き疲れて眠るまで、何度も何度も叫ぶように感情を吐露して涙を零した。
冷たくも温かい、優しい温度を感じながら。




