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第34話 お父さん

「うん。化膿もしていないようだし、もう包帯はいらないだろう」

「本当ですか?」


 肩越しに後ろを振り返り、私の背中の傷を見ながら微笑む薄命先生に笑顔を浮かべた。彼の手に巻き取られている包帯は白く、付着する血の量はほとんどない。一週間も経ちようやく傷が癒着してきたようだった。

 背中に手を回してそっと撫でると、僅かにとっかかりがあるように感じるものの、痛みを感じたりすることはなかった。とっかかりは大きな傷の痕だろう。傷自体は治癒してきたものの、大きな傷痕が残ってしまうとは言われていたから。体に傷が残ることはこの仕事をやっている以上仕方がないことだと理解はしているが、やっぱり少し残念だとは思う。

 最後に薄命先生が背中の消毒をしてくれた。消毒液をかけて薄く軟膏を塗る。冷たいクリームが肌を這う感触がくすぐったくて、ふふっと含んだ笑いが口端から零れた。これも、数日前まではただ傷に沁みて痛いだけで、くすぐったいと思う余裕さえなかったのだけど。終わって、胸に当てていたシャツを羽織る。ボタンを留めるのに少し苦労している間に、先生が溜息のような吐息を付いた。


「『連続爆弾魔の心の闇。現代社会に潜む怪物とは?』、ねぇ……」


 机上の雑誌を手に取り、表紙の隅に書かれた文字を読んでいる先生。その台詞が一週間前の出来事を脳裏に思い浮かせる。あの連続爆破事件を。

 多数の死傷者を出し、犯人の自害によって終了した連続爆破事件。第二区を中心として連続したその事件は大きな被害を出し、連日殺人やら賄賂やらの事件が起こる明星市だが、その事件は一週間経った今でもまだ報道されていた。遺族の怒りと喪失感に満ちた言葉をニュースキャスターがひっきりなしに全市民へ伝え、警察の無能さをこれでもかと怒鳴る。どうすればこんな事件が起きなかったのか、警察が早く動けばもっと早くに収束していたのではないか、そんな原因を爆弾の写真と共に伝えてくる。ショッピングモールのことも映されていたが、そこに不審な四人組(私達)のことは存在さえも仄めかされていなかった。運良く目撃されていなかったのか、依頼を要請してきたという警察が隠ぺいしてくれたのか……。

 ワイドショーの出演者達が思い思いの感想を述べている番組も昨夜見た。犯人の目的、彼の抱えていた闇、空中で爆発した最後の爆弾の真意。一時間もの時間ずっとその話題について話し合えど一つの結果にはまとまらなかった。『快楽のため』『政府に対する反感』『大がかりな自殺』。彼の抱いていた目的を出演者達はそう考察していた。誰一人として、彼の持つ才能について言うことはなかった。結局犯人の目的はただの自己満足だと世間には見られている。


「……………………」


 歯がゆい思いを噛み締めた。言いようのない感情に捕らわれかけたとき、ノックとほぼ同じ勢いで扉が開き、廊下から誰かが入って来た。


「せんせー! しんさつきた!」


 勢い良く開け放たれた扉がギィッと軋んだ音を立てた。ドアノブより少し上ほどしかない低い身長。やって来た小さな子供は、室内にいる私を見て目を丸くした。


「おねえちゃん!」

「久しぶり、ネズミくん」


 室内に入って来たのはネズミくんだった。駆け足に私の傍に近付き、そのまま軽く飛び上がるようにして腰に抱き付く。だっこをすると前より少しだけ増えた重さが腕に乗った。防寒対策の帽子を脱がせ、丸い頭をくしゃくしゃ撫でていると、廊下からもう一人ふらりと誰かが入ってくる。仁科さんだった。


「おや、今日は仁科くんも一緒なのかい」


 普段はネズミくん一人だけなのに珍しいね、また腕でも切ったのかな? と薄命先生が微笑を浮かべながら話す。仁科さんはぼんやりとした顔で室内を見回し、ふるりと首を横に振った。


「今日は……これ、定期健診終わったら。ネズミを公園に連れていかなきゃだから……」

「こないだね! マスターにそとでたいっていったら、だいいちくの? こうえん。 はじめていったの!」


 仁科さんの言葉に被せるようにネズミくんが弾んだ声を上げる。楽しかった思い出に浸るような恍惚の笑みを浮かべ、きゃあきゃあと頬に手を当てながらはしゃぐ。


「仁科くんも中々保護者としての自覚が付いてきたようじゃないか」


 私達の隣で薄命先生が仁科さんに語りかけていた。腕の中のネズミくんからふと視線を逸らし、私は二人の方を見る。


「あれほど外に出ようとしなかったのに。今じゃあこうして外に出るだけじゃなく、電車に乗って公園までとは! 成長したんだなぁ」

「ネズミ……うるさいから。一人じゃ道が分からないからついてこいって、明け方から叩き起こされる。疲れる」

「子供は元気だからね。そうしていると、まるで仁科くんはネズミくんのお父さんのようだな」


 二人の会話に耳を傾けていると、腕にくすぐったいような感触があった。顔を下ろすと、私の腕をもにゅもにゅと甘噛みするネズミくんが、キョトンとした目で私を見上げていた。


「おねーちゃん、『おとうさん』って、パパのこと?」


 その言葉を、聞いたこともないような単語を問うイントネーションで言うネズミくんに、ハッとした。そういえばこの子は父親という存在を知らないようだった。いるのは母親だけで、彼の世界には自分と母親以外の人間が存在していなかったから。地上ここに来てからはテレビや絵本、母親から得ていた僅かな知識で大抵の事柄は理解できるようになってきたのだけど。

 お父さん。何て説明しようか。母親と子供を、家族を愛する人? 一家を支える人? 家族の中で一番頼りになる人…………。


 あ。


「そうだよ。でもごめんね、それ以上はよく分からない」


 そう言って抱き上げているのに私の腰辺りまで届く長い黒髪を優しく撫でる。最初からそんなに興味もなかったのか、ネズミくんはふぅんと鼻で返事をしながら胸元に頬をすり寄せた。

 ネズミくんに父親のことを説明するのは難しい。そのうち大人になれば自然に分かるだろう、別に今私から説明するまでもない。

 ……私が、よく分からないというのは本当のことだけど。






 正午少し前の駅。ホームにいる人数はごく僅かで、それぞれの話し声まで明瞭に聞こえてくる。その中でポツンと一人立ちながら、直接吹き付けてくる冷たい風に身を震わせた。ズッと鼻を啜りながら白い息を吐く。今日はいつもに増して更に冷え込んでいるように感じた。

 今日は日曜日だからまだまだ時間はある。他の区に行って遊んでくるという案も浮かんでいたけれど、家でまったりしていたい気持ちの方が勝った。コンビニで温かい物でも買って帰ろうと思い歩き出すと、横から聞こえてきた誰かの会話に意識がいった。


「それで、明日の二時から会議を開きたいと思っているんですけど」

「予定が入ってる。明後日に回してくれ」


 弾かれたように顔を向ければ、そこにいた二人の男性の姿が目に入る。どちらも会社勤めなのかスーツ姿。一人は短髪の若い男の人で、もう一人に向かって敬語を使っているところからするにその人の部下か何かなのだろう。もう一人は彼に顔を向け、私には後頭部しか見えない。けれど、少し白髪交じりの後ろに撫でつけた髪に、普通に話しているだけなのに機嫌が悪そうに聞こえる神経質そうな声には聞き覚えがあった。

 気が付けば、その男性に向かって声を張っていた。


「お父さん」


 ゆっくりと、その男性が振り返る。私と彼の目が合った。しかめっ面でもないのに眉間にあるしわ、固く結ばれた薄い唇に、厳格そうな威圧のある顔。

 ここずっと顔を見合わせたことがなくても、前に声を聞いたときさえ思い出せないけれど、見間違うわけがなかった。お父さんだ、私の。


「……お前か?」


 久しぶりにお父さんから向けられた言葉は、名前じゃなかった。久しい娘に向けるような優しい声音でなく、話を中断させられたことによる迷惑そうな色。僅かに膨らませていた期待の感情が一気に萎んでいく。


「どうしてここにいる」

「出かけてて。お父さんは?」

「仕事だ」

直人なおと部長の娘さんですか?」


 横から部下の男性が話しかけてきた。初対面だけれど親しみのこもった声に、頷いて頭を下げる。可愛らしいお嬢さんですねと微笑むその人は、お父さんよりよっぽど私に好意を抱いてくれているようだった。


「高校生くらい? 可愛いね! いくつ? 名前は?」

「あ、秋月和子です。高一で……いつも父がお世話になってます」

「なんだなんだ、部長と全然違って可愛い子だなぁ!」

「おい」


 サーセン! と気楽な様子で笑う部下にお父さんが溜息を付く。そして一度瞬いて私へ視線を向けなおす。目に浮かべられた冷たい光に射止められ、ビクッと肩を縮める。お父さんの雰囲気が変わった気がした。何もしていないのに、謝らなければならないような威圧感。心臓がキュゥッと締め付けられるような気がした。


「その髪はどうした」


 あっ、と後頭部に手を当てて苦い顔をした。そういえばお父さんにこの髪で会うのは初めてだったっけ。前のような肩甲骨まで伸びた黒髪ではなく、肩までに短くなった茶髪の毛先を弄りながら、気まずい声を出す。


「染めたの」

「見れば分かる。どうしてだ」

「気分転換、とかさ」

「戻しなさい」


 ぐっと息が詰まった。自然と目に力が入る。毛先を弄っていた手を強く握り締め、できるだけ声を強めて答えを吐く。


「…………やだ」


 その声は情けないほど震えた弱々しいものだった。言い返すとは思っていなかったのか、お父さんが僅かに苛立ちを覚えたように息を付いた。部下の男性が私達の間の不穏な空気を感じ取ったのか、そわそわと落ち着かないように私達を交互に見る。

 お父さんは私を怒鳴り付けるようなことはしなかった。ただ呆れたような顔で、彼に視線を向ける。


「次の電車は」

「えっと…………あ、あー、さっき行っちゃったみたいですね。後はしばらく各停だけです。快速急行は……十分後かー」


 お父さんが舌打ちをする。その行為にドクリと心臓が激しく痛んだ。だって、それって早くこの場から離れたいってことでしょ? 私といるのが嫌って、そういうことでしょ?


「あー、えー……俺、飲み物買ってきますね!」


 部下の男性が言い訳がましく言って、一目散に駆けていく。自動販売機はすぐそこにもあったのにそこは素通りだった。残る場にはお父さんと私だけ。お父さんは口を開く気もなさそうで、ぼんやりと近くの広告に目を向けている、だから私は必死に話題を絞り出して口を開いた。



「さ、最近、どうしてるの?」

「仕事」


 素っ気ない返事しか返ってこない。汗ばんだ手を擦り、お父さんの拒絶に気付かないフリをして無理矢理話題を広げていくことにした。


「仕事忙しそうだね。たまには、その、休みとか取らなきゃ倒れちゃうよ」

「ホテルで生活してるからいい」

「でも家のベッドの方がいいでしょ? 落ち着くし」

「ホテルの方が掃除がされてるし、飯も美味い。家なんかより断然」

「あっ……じゃあ、私掃除頑張るからさ! ご飯とかも、しの……知り合いに教わって作れそうだし」

沙織さおりは家にいるのか?」


 突然お母さんの名前を出され、驚いた。少しの間を置いてから首を横に振るとお父さんは小さく頷いた。


「一度くらいは寄ろうと思っていたんだ」

「本当!?」


 パァッと自分の顔が輝くのが嫌でも分かった。声が弾み、思わず前のめりにお父さんの顔を見上げる。帰ってくるの? 帰ってくるの? じゃあ、お母さんも家にいた方がいいよね、仕事休めるかな。たまには休んでくれるかな。料理とか準備しなきゃ。掃除もして、それから、それから……。

 だけど、目まぐるしい速さで数日後の未来を考える私を突き放すように、お父さんは低い声で告げた。


「帰るわけじゃない。荷物を取りに行くだけだ」

「荷物? 着替えとか?」

「いや。家にある俺の荷物を全てだ」

「え?」


 意味が分からずキョトンとする私に、お父さんは静かに言った。


「もうあの家には帰らない」


 足元の影が揺らいだ気がした。ゆっくりと息を吸い、震える声で何かを言おうとした。けれど結局言葉にはならず、熱い吐息が白く昇る。足から力が抜けていく。倒れそうになるのを必死で耐え、お父さんの顔をじっと見つめた。


「もう気付いているだろう? 沙織と俺の仲はもう修繕できそうにはない」

「…………別居ってこと?」

「既にそうだろう。離婚も考えてるんだが」


 手続きが面倒だな、というお父さんの言葉が続く。頭がガンガンと痛くなって、心臓を握り潰すように込み上げる感情に唇を噛む。

 いつかまた三人で暮らせるって。そんなことを思い、ずっと信じてきた。一条さんに馬鹿にされてもずっと信じていた。……信じていた、フリだったんだ。

 私の()()はこんなにも崩壊していたんだ。


「――――家族がそんなに嫌いなんだね」


 家族。その単語に強い意味を込めて、呟いた。囁くような声だったけれどお父さんの耳には届いたらしい。振り向いたその顔に感情は何も浮かんでいなかった。呟きの答えを聞きたくなくて踵を返そうとしたとき、遠くから部下の男性が走ってくるのが見えた。息を弾ませて、寒いというのに額に汗を浮かべながら、二カッと歯を見せた笑みを見せる。


「ありましたありました! いや、そこの自販機が売り切れちゃってましてね、走っちゃったぜ。どうぞ部長。それから、娘さんも」

「……ありがとうございます」


 お茶のペットボトルを受け取ると、じんわりとした温かさが手の平に伝わってくる。冷たくなった手を温めながら私は頭を下げた。


「それじゃあ私は……失礼します」


 本当はお父さんにもっと色々言いたかった。どうしてとか、何でとか、とにかく何でもいいから縋って止めたかった。お母さんと私のことをもっと見て欲しかった。だけどきっとお父さんは何も聞いてくれない。子供みたいに駄々をこねる私を見てもきっと何の感情も浮かべてくれない。じゃあ、こうして素直に引き下がるしかないじゃないか。

 二人に背を向けたとき、ポツリとお父さんの言葉が聞こえた。


「そうだ」


 低く、氷のように冷たく突き放す言葉。それがさっきの返答だと理解したくなかった。

 息が止まり、顔中に熱が集う。ぶわっと込み上げてくる苦しい感情を押し殺し、逃げるようにして私は駆け出した。階段を一息に駆け上がって膝に手を付く。鼻が詰まって苦しいし、喉は熱く乾き、視界はぼやける。せめて喉の渇きを潤そうとさっき貰ったお茶を開けて一気に煽った。

 喉に流し込んだお茶の味。何だかとても苦くて、美味しくなかった。

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