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第32話 ガラスの雨

 背中を無理矢理切り開かれていくような激痛が襲いかかってきた。皮膚をガラスの切っ先が切り裂き、筋肉を断裂し、神経を切り裂く。床に突いた手足に容赦なくガラス片が降り注ぎ、赤い肉が露出していく。全身から溢れ出した血が激痛を伴って服を伝い、床にパタパタと小さな赤い水たまりを作る。喉から音にさえならない悲鳴を迸らせて、涙の滲んだ目を瞑った。

 失いかけた意識を揺り起したのは、耳元から聞こえてきたしゃくり上げる声のため。大分長い時間が経っているような気がしたけれど、実際のところ、こうしていたのはたった数秒程度だろう。やけに重い瞼をゆっくりと開くと、倒れた私の下敷きになった女の子が困惑した顔で泣きじゃくっていた。頬に赤い血が付いていることに焦ったけれど、拭ってみればそれは私が垂らした血で、彼女自身の体に怪我は見当たらなかった。ホッと安堵の息を吐いた途端、傷だらけの全身が酷く痛みを訴えてきた。


「和子っ!」


 悲鳴のような叫び声を上げてあざみちゃんが駆け寄ってくる。私よりも血の気の失せた蒼白な顔を見て思わず口元に緩い笑みを浮かべると、彼女は泣き出しそうに顔を歪めた。辺りに散らばったガラスを踏まないようにその場にしゃがんだあざみちゃんが、傷に触れないよう慎重に私の肩を支えてくれた。後ろからやって来た太陽くんも狼狽の様子を隠せないらしく、けれど女の子をそっと立ち上がらせて散らばったガラスから遠ざけてくれた。悲痛な悲鳴を上げて走って来た母親の元へ泣きながら腕を伸ばす。

 怪我は深いの、と上ずった声で訊ねてくるあざみちゃんに首を振る。呼吸する度刺さったままのガラスが肉と擦れ、神経を鷲掴みされるような耐え難い痛みが全身に走る。だけど、あざみちゃんに言った言葉は嘘ではなく、本当に傷自体は酷いわけじゃなかった。全身ズタズタになってはいるものの致命傷ではない、頭を守っていた左手の裂傷は酷いがそのおかげで頭の怪我はほとんどない、背中のガラスも脊髄やら太い神経やらを辛うじて逸れている。ガラスの雨の直撃を受けたにしては奇跡なまでの結果かもしれない。


「はは……ツイてる、かもね、私…………」


 私を見て半ばパニックに陥っているあざみちゃんを落ち着かせるため、途切れ途切れの言葉で軽口を叩こうとした。だが、私の唇は最後まで言葉を紡ぐことなく、あざみちゃんの背後に広がる光景を見てひゅうっと掠れた息を吐いた。

 ガラスの雨が降り注いだ直径数メートルの空間。おびただしい量の血液と肉片がまき散らされた床。そんなおぞましい物さえ気にならない……気にできない様子でその上に転がる人々。誰かは顔中にガラス片が突き刺さり、まるで剣山のようになった状態で動かない。ある人は恐らく友人だろう真っ白な顔をした女性の周りに流れている血を一生懸命女性の体に塗りたくって、ぶつぶつと混乱した様子で何かを呟いている。また誰かは全身を真っ赤にした状態で泣き叫び、しきりに助けを求めていた。

 噎せ返るような血の臭いが辺りに充満している。床に置いた手の先に流れてきた血が粘り付き、悪寒を感じながら手を引いた。上空から本物の雨が降り、残酷な光景に叩き付けていく。


「ネコ」


 茫然としていると、声をかけられハッとした。横を見ると携帯を片手に怖い顔をした東雲さんが私を見下ろしていた。傍らにしゃがみ込み、じっと私の背中の傷を眺める。その視線に戸惑いを覚え始めたとき、ポツリと小さな声で呟いた。


「痛むぞ」

「え……? うぐっ!」


 東雲さんの言葉を反芻する前に、ぬちゃりと濡れた音が背中から聞こえ、鋭い痛みが走った。背中の大きなガラス片が東雲さんの手によってゆっくりと引き抜かれていく。皮膚を引っ張りながらじれったく抜かれるガラスの冷たい感触に吐き気がした。つぷりとガラスが抜けた傷口から、熱い血が溢れて背を伝うのを感じる。荒い呼吸の間に堪え切れない呻き声が零れる。苦痛に耐えるため握り締めた拳が血と脂汗のせいでぬめる。そんな私に東雲さんは何も言わず、ただ慎重にガラスを引き抜いていく。


「東雲さっ……ひ、ぁ…………」

「喋るな。すぐ終わる」

「でも……で、電話……」


 東雲さんの傍に転がっている携帯電話の画面は、いまだ通話中であることを示していた。私の言葉に東雲さんが一瞬呆れたように眉根を寄せ、それから太陽くんに指示を出す。太陽くんが素直に携帯を拾ってスピーカーにすると、如月さんの声が聞こえてきた。


『もしもーし? おや、繋がってるかなこれ?』

「聞いてるぞ、皆で。何か新しい情報でも入ったのか?」


 太陽くんが早口に言った。その様子から意味を汲み取ったのか、それとも周りの悲鳴が聞こえたのか、如月さんは納得のいったような明るい声を上げた。


『その様子だと、もう爆発したみたいだなぁ』


 私がその言葉に疑惑を抱く前に、ギリッと歯を軋ませる音が聞こえて横を見た。肩が強張ったように固まる。凄絶な憤怒の表情を浮かべる東雲さんがいたからだ。背筋に寒気が走る迫力に、一瞬痛みさえ忘れた。


「そういうことか?」

『そういうことってどういうことだよ?』

「恍けるなよオウム。お前、最初からそのつもりで俺達をここに寄越したな? ろくな説明もしないで」


 何が事情があるだ、ふざけやがって。吐き捨てるようにそう言う彼に、如月さんの軽い笑い声が聞こえる。


殺し屋(俺達)は使い捨てってことなんだろ」


 あざみちゃんが目を細め、太陽くんは目を丸くした。理解できずに困惑する私の前で、如月さんの声が続く。


『警察の依頼は確かに爆弾の撤去、それから犯人の取り押さえも含まれている。でも最優先事項は爆弾の発見だ。それがお前達の本当の仕事。いつ爆発するかも分からない爆弾を、誰よりも先に見つければいい』

「失敗しても真っ先に犠牲になるのは俺達だからな、それが狙いだろう? 一般人や警察の被害を最小限に留めるように、一番危ない仕事を俺達みたいな、死んだところでどうってことないような人間を使うんだろう?」

『理解が早くて助かるよ。大丈夫だって、見つけて撤去したら後は警察に任せていいんだから。別に解除までやれってわけじゃないんだから』

「ふざけないでよ!!」


 怒りを爆発させたのはあざみちゃんだった。太陽くんの手から携帯を奪い取り、真っ赤な顔で怒鳴り付ける。周囲の喧騒の中でも彼女の怒りはよく響いた。


「何よそれ、最初に言いなさいよ! 和子が怪我したのよ!? 最初から言ってくれてればこうはならなかったかもしれないのに!」

『正直に言って了承したか? 怪我ってことはまだ死んだわけじゃないんだろう。じゃあ大丈夫さ』

「オレ達を道具みたいに使うなよ! そんなの、ただの犬死にじゃねえか!」


 横から太陽くんが割り込む。あざみちゃんと同じように顔を真っ赤にして怒りを露わにして。二人分の激しい敵意にも如月さんは笑い声を上げていた。


『いいじゃん犬死に。イヌなんだし。名前通りってことだ』

「お前……っ!」


 今にも噛み付かんばかりに大きく歯を剥き出しにした途端、遠くの方から大きな爆発音と悲鳴が響いてくる。ハッと同時に顔を向けた私達に、如月さんが無常に言った。


『ほら、早く仕事をしなきゃ。この仕事は信用が第一なんだから。失敗したらもうおしまいだぞ?』


 肩を怒らせて携帯を睨む太陽くんとあざみちゃん。そんな二人を制するように東雲さんが「もういい」と溜息を付いてその手から携帯を取り通話を切る。私に目を向け、静かな声で問う。


「走れるか?」

「え、っと…………歩くことはできそうですけど、走るのは、ちょっと」


 呼吸する度痛む背中。東雲さんはそうか、と一言だけ呟いて私の肩に手を回す。と、急に視界がぐるりと回った。


「きゃっ!」

「落ちるなよ」


 下から聞こえる東雲さんの声にぎこちなく頷く。視界がいつもより凄く高くて、地に着いていない足元が心もとない。いつの間にか彼の背におぶわれていた私は、頬に彼の髪のサラサラした感触を感じながら目を丸くしていた。恥ずかしさを覚える間もなく爆発音の聞こえた方向へ駆け出した東雲さん、後ろからついてくる太陽くんとあざみちゃん。彼の呼吸と走る揺れを感じながら、私はその首に強く手を回した。

 通路に出るとそこは完全なパニック状態だった。突然の轟音と悲鳴に釣られ、状況が分からないまま混乱した人々が我先に出口へと駆け出している。だが、元より混雑しているところに更にパニックが注ぎ込まれたせいで流れは滞り、あちこちで誰かと誰かがぶつかっている。倒れた人が手足を踏まれて立ち上がれず、絶叫していた。必死に誘導しようとする冷静な店員が声をかけているものの、それに従う人など誰一人いなかった。

 まるで人の波。そこを逆方向に掻き分けながら進んでいく。落ちないよう東雲さんの背にしがみ付きながら、長身の彼のおかげで辺りの人々より多少高くなった視野。それで周りの様子がよく観察できた。逃げ惑う一般客の中に紛れて、険しい顔で爆発地へと向かう人が数人、恐らく私服警察官というやつだろう。


「あれ…………?」


 ふと視界の端に何かが映った。ピンク色の……長い耳?

 呟きが聞こえたのか東雲さんが、どうした、と訊ねてくる。私は完全な確信まではいかない、戸惑いを含んだ声で言った。


「あっちの方に、うさぎが見えた気がして」

「うさぎ? 仁科か?」

「いやそうじゃなくて……」


 そういえば話していなかったなと、私は彼にゲームセンターであった出来事について簡単に説明した。きっとあの人も逃げてるのかな、とぼやく。突然東雲さんが足を止めた。彼を追い越してしまった太陽くんとあざみちゃんが振り返る。私は戸惑いながら彼の頭を見下ろした。


「し、東雲さん?」

「ネコ。そいつはあっちの方に行ったんだな?」

「そうですけど……」


 私の示した方向を見ながら彼は細い息を吐く。それから小さく頷き、その方向へと進路を変えて走り出す。ちょっと、と驚くあざみちゃんの声がした。


「おい、何だってんだよ!」


 人の波を掻き分けながら、必死で東雲さんと並走している太陽くんが聞く。人混みを抜け、横の通路に抜けたとき彼は答える。

「さっきの爆発は風船に爆弾が仕込まれていたんだろう? その風船を持ってたのは誰だ」

「じゃあ、その風船を配っていたあのうさぎが犯人ってこと?」

「確証は持てないが、恐らくな」


 あざみちゃんの疑問に東雲さんが頷く。太陽くんは一人よく分かってない顔で首を傾げていた。

 角を曲がっていったうさぎを追いかけてみたものの、大分先を進んでいたうさぎはとっくに見えなくなっていた。階段があったので上階に行ったのだろうと駆け上がる。そうして踊り場を曲がったとき、二階から降りて来ようとしていた誰かと鉢合わせる。

 短く刈り上げた髪が特徴的な、スーツ姿の男性。彼は階段の上から私達を見下ろし、一瞬ギョッとしてからすぐに険しい顔付きに戻る。


「おい、あんた等こんな所で何やってるんだ」

「そっちこそ誰だよ。お前が爆弾犯なのか?」


 切り込むような口調で太陽くんが問う。男性は警戒の色を露わにしながら、警察だ、と自分の身分を告げてきた。


「こっちに何の用がある。一般人なら、危ないから早く戻るんだ」そこまで言ってから彼は東雲さんの背におぶられている私に気付く。「……まさか、その子怪我してるのか? 大丈夫か?」


 慌てた様子で彼は階段を降りようとする。と、そのとき彼の背後に、階段の上から何かがポーンと放り投げられた。彼が音に気付いて振り向く前に私達はそれが何か理解する。丸いピンク色の物。うさぎのきぐるみの頭部だった。

 東雲さんが真っ先に身を翻して男性の直線状から身を隠す。すぐにあざみちゃんも太陽くんの手を引いて東雲さんの隣に隠れ込む。その間僅か一秒にも満たない時間で、その間男性は身を隠すどころかうさぎの頭部を確認さえしていなかった。

 ようやくその物体を確認したのだろう、男性が「あ?」と怪訝そうな声を上げた直後。

 轟音。そして灼熱の温度を伴った爆風が、私達にまで吹き付けてきた。


「っ!」


 熱で肌が炙られる。すぐ傍で起こった爆発音は私の耳を強烈に殴り付け、脳にガンガンとぶつかっていった。しばらくしてそっと太陽くんが階段の先に顔を覗かせ、息が詰まったような声を上げる。安全を確認してからあざみちゃんと東雲さん、私も顔を覗かせて同じような反応を示した。跡形もなく無残に飛び散ったうさぎの頭部があった場所を中心に、四方八方に大きく広がった焦げ。壁の一角が抉れて材を露出し、薄らと黒煙を昇らせる。端の方でぐったりと仰向けに倒れている男性は顔中に酷い火傷を負っており、生死さえ分からない。


「あ…………」

「急ぐぞ」


 音に気付いたようで誰かが駆けてくる足音が聞こえる。東雲さんは階段を蹴っ飛ばすように駆け上がり、男性の姿など気にも留めなかった。あざみちゃんも同じように、太陽くんは一瞬だけ振り返ったものの「お前のことは忘れない」とどこかズレた台詞を吐いて後に続く。上に犯人がいると確信して。

 三人が前へ視線を向ける中で、私だけが後ろを振り返り、倒れる彼の姿を見た。

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