第3話 保良さんのホラ話
その日の夜は、星空を眺めてみても何の感慨も浮かばなかった。三十分ほどベランダに出てみても駄目。ただ体を冷やすだけの結果になってしまった。……こういうときは別の気分転換をするに限る。
ベランダからリビングに戻る。パジャマを脱いでジャージに着替え、鍵をポケットに放り込んでから玄関で靴を履き部屋を出る。鍵をかけることは忘れない。
廊下を歩き、エレベーターを待って乗り込んだ。二十七階まであるうちの一階を押し、僅かな振動に揺られて着いた先にはエントランスホール。今の時間帯ではほとんどの人が部屋に戻っているのか、ソファーでくつろぐ人の数は少なかった。
すれ違ったコンシエルジュさんに軽く会釈をしてマンションを抜ける。月光を浴びてキラキラと輝く噴水の傍を通り、マンション前の大通りを進む。学校へ向かう道とは逆方向に進むと、そっちの方にあるのは駅だ。だんだんと人通りも多くなり、道が混雑し始める。その間をするりと避けて歩きつつ途中で外れた小道へと進行を変えた。スーパーの前を通り過ぎるとようやく目的の場所が見え始めた。自然と足が早まる。
見えてきたのは小さな団地の傍にある公園だった。昔は子供の笑い声に溢れていた公園も、今ではすっかり遊具が錆び付き廃れた姿に変身している。水の涸れた噴水、軋んだ音を立てる木馬、錆でささくれだった滑り台、何故か左右に揺れるブランコ、変色した半球状のドーム。
今ではこの公園寄り付く子供はおらず、代わりにここを住居にするのは数人のホームレス達だった。ダンボールハウスやブルーシートで作られた簡易式の住み家があちこちに置かれている。大体皆寝ているようだったが、何人かはまだ公園の隅などで駄弁っていた。
そのうちの一人。噴水の縁に座り、ぼんやりと星空を見上げていたホームレスがふと顔を下ろし、わたしに気が付いた。
乱暴に切り揃えた髪は白髪が目立つ。無造作に生えた髭もぼさぼさで、その身に纏う茶色いダウンはあちこちが汚れている。そんな彼がわたしを見て手を上げる。わたしは迷うことなく、彼の元へと飛び込むように駆け寄った。
「保良さんっ!」
「おお、和子ちゃん。よく来たね」
朗らかな笑顔にホッとした。彼の隣に腰を下ろすと、僅かに体臭が鼻につく。けれどそんなことはどうでもいいし、すぐに慣れて気にならなくなった。
公園に住むホームレスの保良さん。だけどその名前は偽名だし、本名は知らない。何度聞いても忘れたと言ってはぐらかしてしまうのだ。年齢も詳しくは分からないが、多分五十代前後、わたしのお父さんと同じくらい。だけどお父さんと保良さんで随分違う点は、くしゃくしゃと顔をしわだらけにして笑うか、全く笑顔を見せないか。
今日も保良さんは顔中しわだらけにして笑う。その笑顔はわたしの心を落ち着かせてくれるから大好きだ。
わたしが保良さんと仲良くなったのは小学生の頃。放任主義の両親はあまり家におらず、わたしは学校帰りによく外を出歩いていた。
そんなときに公園にいたのが保良さんだった。まだ水が流れていた噴水の縁に座り、ぼんやりと夕暮れを見て黄昏ていた彼は、恰好がいかにもホームレスにしか見えなかったからか避けられているようだった。公園で遊んでいた子供達が彼をからかい、子供を迎えに来た親達は慌てて子供の腕を引っ張る。彼は何もしていなかったのに。ただ座っていただけなのに。
オレンジ色に照らされるその横顔が寂しそうに見えたから。あのときのわたしはなんとなく彼に話しかけてみたのだったっけ。どうしたのとか、大丈夫とか、おうちに帰らないのとか。ホームレスに関わってはいけないだなんて誰も教えなかったから、あのときのわたしは平気で保良さんに話しかけていた。わたしを咎める両親はどこにもいなかった。
保良さんは私に微笑みかけるだけだった。その笑顔はやっぱりなんだか寂しそうで、私は思わず言ったのだ。
ここがおじさんのおうち。わたし、おじさんのお友達になってあげる。
保良さんは私の言葉に笑って、それから頭を撫でてくれた。その手は大きくて、あったかくて、子供だった私は無邪気に笑った。
保良さんが公園によく訪れるようになって、暇だったわたしがよく公園に遊びに行くようになって、そして公園に他のホームレス達が集うようになって、公園に人が少なくなって、わたしとホームレス達だけの公園になったのは。
そう遠い日ではなかったはずだ。
「今日は何かあったのかい?」
保良さんの優しい声がそう言った。彼は知っている。わたしがここに来るときの大半は、何か嫌なことがあった日だと言うことを。
わたしもそれを知っている。そして溜めこんでいた鬱憤を吐ける相手が彼しかいないことも知っていた。だからわたしは口を開き、吐き出すように愚痴をぶちまけた。
一条さん達にいじめられること。こんなに辛いのに優しくしてくれる相手がいないこと。険悪状態の両親はいつになったら家に帰って来てくれるのかということ。
保良さんはただうんうんと相槌を打つだけで、特にアドバイスはしてこなかった。それがむしろ心地良く、わたしは自分の胸のモヤが取れるまで、延々とほぼ一方通行な愚痴を零し続けた。
「……ああ、スッキリした!」
「終わったのかい?」
「うん! ありがとうございます」
良かった良かった、と保良さんが微笑む。わたしは身を乗り出し、彼の顔を覗き込みながらお願いした。
「ねえ保良さん。いつもみたいに、お話してくれませんか?」
「勿論。今日はどんな話がいいかな? おれが勇者だったとき、ドラゴンを倒してお姫様を救った話? それとも、ダイバーの仕事をしていたときに、深海で宝の山を見つけた話?」
彼が保良さんと呼ばれるのには理由がある。彼は息を吐くように嘘をつく。その口から饒舌に語られる話の大半は現実にはありえそうもない空想の物語。嘘つきの彼を他のホームレスの誰かが『ホラ吹き男』と呼ぶようになったのがきっかけで、それがだんだんと訛り、最終的に保良さんという名前になったのだ。
嘘と虚言と偽りでできた彼の話。ホラ話とはいえ、その話がまた面白いのも事実だった。
わたしは彼のホラ話を聞くのが大好きだった。そんな経験はないのだけれど、幼い子供が寝る前に親に絵本を読んでもらうときのような、期待と安心に包まれるから。
「それじゃあ昔、おれが殺し屋として裏の世界で働いていた話をしようか」
「保良さんその話お気に入りなんですか?」わたしは肩を揺らして笑う。「もう何十回も聞きましたよ、その妄想!」
「妄想なんかじゃないぞ」保良さんは頬を膨らませ、ニヤリと笑う。「全部本当の話さ!」
彼は自分の嘘を嘘だと認めない。まるで自分の語ることは全てが本当のことだと言わんばかりに真剣に喋る。特に彼お気に入りのこの殺し屋の話なんて、いかにも真剣そうに真面目な顔と口調で語るものだから、可笑しくてしかたがない。
「――――そのときおれがどうしたと思う? 男のナイフを蹴り上げて、そのままズドン、ズドン、ズドンだ! その仕事の後に飲んだコーヒーは格別だったなぁ」
「あはっ、保良さん、凄かったんですねぇ」
「当たり前さ。おれはプロだったんだぞ?」
「そんなプロの殺し屋さんが、どうしてそのお仕事を辞めたんです?」
何気なく尋ねると、ふと保良さんの表情が曇ったような気がした。わたしは身を引き締め、「あ、別に言いたくないのなら……」と手を伸ばす。保良さんはゆるりと首を振り、少し切ない微笑を浮かべて口を開いた。
「強いて言うなら、怖かったのかな」
「怖かった?」
その言葉を繰り返すと、保良さんは静かに頷いた。膝上で握られていた両拳に力が入る。
「そんな仕事を続けているとな、どうしても命の価値が薄れていってしまうんだ。自分の命も他人の命も。……例えば和子ちゃん。ドラマなんかで、悪役は初っ端から誰かに殺されたりするだろう? それも、みっともない死に方や、あまりにも呆気ない方法で」
「……はい」
「だけどな、そんな悪役の一人一人にもそれまでの人生があったんだよ。父と母に祝福されて生まれてきた。周囲の人達に可愛がられて育ち、学校に入学して、仲の良い友達ができた。反抗期がきて親を嫌いになったりして、卒業して独り立ちし、大人になって親の有難みをようやく理解した。中には結婚してる人もいるだろう。可愛い子供に恵まれたり、命の尊さを理解していた奴もいるだろう。もしかしたらそろそろ足を洗おうと考えていた奴もいるかもしれない。――そんな一人の人間の人生が、たった一瞬であっさりと消えるんだよ」
保良さんの視線はどこか遠くに投げかけられていた。ぼんやりとその虚ろな目は星空を眺めているのに、その眼球に星の輝きは映っていない。
「人を殺すっていうのはただその一瞬のことじゃない。一人の人間の数十年間分の人生を終わらせるということなんだ。その感覚がだんだんと麻痺していってしまうのが、おれは怖くて怖くてしょうがなかった。仲間に相談したこともあったが、『考え過ぎだ』の一言で終わらせられてしまった。だけどおれは心配性なんだな。どうしてもその考え過ぎをやめることはできなかった。結局おれは殺し屋を抜けることにしたよ」
「殺し屋って簡単に辞められるものなんですか?」
「当然簡単にはいかない。ヤクザだって易々と組を抜けられはしないだろ? それと同じだ。……おれは逃げたんだよ」
「逃げた?」
ああ、と保良さんは頷く。物悲し気に遠くを見る目は、いつもの保良さんと様子が違っていた。表情も話す口振りもとてもリアルだ。
妄想に磨きがかかっているのだろうか。彼の口から語られる緊張感をまとったホラ話に、手に汗を握りながら身を乗り出す。
「逃げたんだ。これ以上こんな仕事をしていたら、殺される前に自分から死んでしまうと思って。全てを捨てて新しい人生を歩みたかった。だから、自分の痕跡を消して、家も金もそれまでの人生を全て捨てて逃げ出した」
「追手はいたんですか? 映画とかであるじゃないですか、たくさんの銃を持った人が追いかけてきたり」
「ああ、あったなぁ。氾濫した川に飛び込んだときは死ぬかと思った」そこで一瞬保良さんは笑ったが、すぐにその表情は引き締まる。「何人も殺してしまった。もう人を殺したくないと思って仕事を辞めたのに。結局、自分が生きるために」
苦渋に満ちたしわがその顔に刻まれる。自分への怒りなのか、その顔は赤くなり、ぶるぶると震えだした。
「追手がいなくなって落ち着くまで長い時間が経った。安い部屋を借りてフリーターとして働き始めた。まっとうな生き方をしようとね」
「じゃあ、やっと望んでいた生活ができるようになったんですね!」
「でもなぁ、そう上手くいかないんだ。仕事先の憎い客や店員を見ると、すぐに腰に手が伸びる。もう銃は持っていないというのに。一度染みついた生き方を簡単に変えるのは無理なんだ」
保良さんが唸る。わたしも、長年続けていた生活を急に変えようとしたところで上手く順応はできないだろう。ましてや殺し屋などという非常識な仕事から普通の日常というのは酷なことだ。
「他にも色々あったんだが、収入が入らずに部屋も借りられなくなった。それから点々と市内の区を下って、数年前に――和子ちゃん、君と出会ったんだよ」
「わたし?」
「そう、君だ」
わたしは彼と会ったときのことを思い返した。あのときの保良さんは確かに、追い詰められたような苦しそうな顔をしていた気がする。
だけど……。
「和子ちゃんのおかげでおれはこの公園に住むことを決意した。ホームレスになることに抵抗がなかったといえば嘘になるが、あのときは他にいい案がなかったんだ。それから数年間なんとか必死に暮らして、仲間も増えて――そして、今に至るってわけだ」
「そ、そんな、子供が適当に言った言葉で?」
「大人が言う真剣な言葉より、子供の戯言の方が心に響くときだってあるんだよ」
保良さんが空を見上げて笑う。わたしも釣られて、キラキラと星の瞬く空を見上げてみた。
しばらく沈黙が続いた。それを、わたしの思わず零れた笑い声が柔らかく崩す。
「今日のお話すっごくリアル。本当にドキドキしちゃいましたよ」
一瞬だけ反応はなく、だけどすぐに保良さんの細められた目がわたしを見つめた。柔らかく笑いながら保良さんは言う。
「妄想なんかじゃないぞ」
ニヤリと笑って。
「全部本当の話さ!」
そろそろ夜も遅いからお家にお帰り、と保良さんがわたしに微笑む。まだ帰りたくないなぁと呟くも、そんなわけにもいかないだろうことは理解していた。
噴水から地面に飛び降り、保良さんの手を握る。少し垢でぬめる厚い皮の手はこんな寒々しい空気の中でも温かかった。
名残惜しいもののその手を離し、そのまま公園の出口までゆっくりと歩く。最後に一目振り返ってみると、噴水に座る保良さんが柔らかい顔で小さく手を振っていた。
不意に吹いた風が、淡く紅葉し始めた公園の木の葉を揺らした。わたしはどこかぼうっとした心地で保良さんを見つめていた。
星空の下で笑う彼が、どうしてか、今にもふっと消えてしまいそうな儚さを纏っているように見えたのだ。
「…………」
わたしはきっと疲れているんだ。そうだ、彼の言う通り、早く帰って寝てしまうことにしよう。それで明日も頑張って乗り切らなくちゃ。
自分自身をそう結論付け、わたしは公園に、保良さんに背を向けて歩き出した。




