表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/164

第26話 遊郭の秘密事

「わっ!」

「きゃあっ!」


 咄嗟に壁に手を突いて体勢を立て直し、目の前で倒れそうになっていた人の手を掴む。後ろめりに倒れそうになっていたその人は、驚いた様子で手を掴まれて空中に留まった。

 オレンジ色の着物と赤い帯に身を包んだ女性だった。茶色いサイドテールを百合の花が付いたかんざしでまとめている。彼女が体をふらつかせる度、その簪が揺れた。


「す、すみません! 前を見てなくてっ」

「いえ、こちらこそすみません……大丈夫ですか?」


 慌てふためく彼女に尋ねると、照れたようにはにかんで頷く。頬が紅潮し、健康的な肌色に赤みが差す。耳は厚い横髪で覆われてどんな色かは見えなかった。

 見たところ十代後半から二十代前半に見える人だった。彼女は僅かに身をかがめて私の顔を覗き、問う。


「お客様、ですよね? どうなされましたか? お部屋が分からないとか?」

「あ、ああいや…………」少し考えてからこう言う。「ちょっと空気に酔っちゃって、外の空気が吸いたいなって」


 すると彼女は納得したように笑い、目を輝かせる。それならいい場所があるんです、と言って私の手を引いて歩き始める。その楽しそうな笑みにこっちの心まで弾みそうな気がした。しばらく手を引かれて歩いた後、廊下の突き当りにある扉の前で彼女が足を止める。私に振り向いて子供のように無邪気に笑い、関係者以外立ち入り禁止、と書かれたそのノブを回した。いいのかな、と思いつつもその向こうへ姿を消す彼女の後を追う。

 そこは庭だった。砂利が水面のような模様を描く道と、苔の生えた岩。室内の暖かな空気が一気に掻き消される、冬の刺すような冷気。冷たい夜の中に、私の感嘆の意を込めた白い吐息が溶け込む。


「おぉ…………」

「ね、素敵でしょう?」


 庭に飾られたいくつもの淡い光を放つ灯篭、目に優しい草木の色がそれによって柔らかく照らされる。時折吹く風が葉を揺らし、遠くから聞こえる三味線の音を運び、耳に心地良い。

 日本に住んでいるというのに、都会である明星市では滅多に見ることのできない日本庭園の姿。瞬きさえも惜しくなるほど、胸に沁みる景色がここに広がっていた。


「私もここがお気に入りなんです。凄く落ち着く場所だと思いません?」


 ちょっと寒いけど、と着物越しに腕を擦って彼女が笑う。私も笑いながら、目の前の光景をしばし目に焼き付けていた。

 数分が経っただろうか。ようやく興奮の静まってきた私は、ふと隣に座って庭を見つめている彼女に問いかけた。


「あのー……ここって関係者じゃないと入れないんですよね? いいんですか? 私なんかが入っちゃって」

「あはは。本当は駄目なんですけどねぇ、でも私がお客様に見せたかったから。それに、冬には誰も来ないから平気ですって」


 ふふっと人懐っこそうに笑う彼女は、そこで思い立ったように顔を上げた。


「そうだっ、私、百合子と申します」

「百合子さんは、ここの従業員さんなんですよね?」

「はいっ幼い頃に祖父母も父も事故で亡くなって、途方に暮れてたときに知らない大人にここに連れてこられました。まだまだ半人前の遊女で、最初は留袖新造にされそうだったんですけど……えへへ、姉様が私を見込んでくださって、何とかお給料を貰える立場になったんです」


 姉様、と言うときに百合子さんはうっとりと目を細めた。白い吐息が僅かにその色を濃くしたように見える。恐らくその姉様とは、あの子達が言っていたのと同じ花魁のことだと思う。

 お姉様、姉様、花魁。従業員からここまで慕われる花魁は…………一体、どんな人なのか。



「こんな所で何をしているの?」



 背後からかけられた声に振り向くと、そこに着物姿の女性が一人立っていた。私が口を開くより先に百合子さんが顔を輝かせて「姉様っ!」と声を弾ませる。

 真紅色の着物にオレンジ色の前帯、着物に疎い私でさえ、一目見ただけでお高いのだろうと分かる豪奢な風格。長髪を後頭部でふっくらとまとめ、透き通るようなガラスでできた彼岸花の簪を差している。歳は二十代中頃から後半程か。着物を崩しているわけでも目付きが微睡んでいるわけでもないのに、溢れる艶やかさ。

 ……間違いない、この人が皆の言っている『花魁』だ。


「百合子。こんな所にお客さんを連れてきちゃ駄目でありんしょう。風邪を引いてしまうわよ」

「ご、ごめんなさい姉様…………」


 姉様に叱られ、百合子さんはしょんぼりと頭を下げる。その姉様は私へ顔を向ける。薄くおしろいの塗られた綺麗な肌に、目尻にほんのりと差すピンク色、唇の中央に小さく塗られた口紅は、どうしてか下唇だけが玉虫色に輝いていた。


「初めんして、わっち日雅奈ひがなと申しんす。以後お見知りおきを」


 廓言葉を使用して深々と礼をする日雅奈さん。私もぺこりと頭を下げて、彼女の顔をじっと見つめていた。

 この人が花魁か…………。真理亜さんとはまた違った感じで、凄く綺麗な人だ。と、私の視線に気付いた彼女が口元に袖を当てながら妖艶な笑みを浮かべる。


「見惚れてしまいんした?」

「えっ!」

「ごめんなさいね、わっちは男のお客様専門でありんすから」

「い、いや、そういうわけじゃ……」


 くすくすと笑う日雅奈さんに顔を赤くさせる。ああ、何だもう、からかわれた。彼女は今度は百合子さんに顔を向け、まだ少し気落ちしていた彼女の頬を撫でる。百合子さんが顔を上げ、少し目を細めて日雅奈さんを見上げた。


「姉様はこれから?」

「そう。今日は後一人…………そねえに怒らないで。後でまた、ね?」

「…………はぁい」


 頬を膨らませてそっぽを向いてしまう彼女の顔を、日雅奈さんはクスクスと笑って撫でる。その手付きはとても優しく、百合子さんはその優しさに微睡むように表情を崩していく。

 日雅奈さんに施されて私達は店の中へと戻った。途端に暖気が体を包み、ほうっと私と百合子さんが同時に息を付き、顔を見合わせて笑った。私達に軽く言い残して去っていく日雅奈さんを見送ってから問いかける。


「日雅奈さんって、この店の花魁なんですよね?」

「ええ。姉様はこの店で一番人気の花魁で、とても凄い人なんですよ! 他の花魁の人は結構厳しい人が多いんですけど、姉様はそんなことなくて、私みたいな奴にも良くしてくれて……優しい人だから従業員は皆、姉様のことが大好きなんです!」


 一気に捲し立てて喋る百合子さんの顔は、とても嬉しそうに輝いていて、まるで日雅奈さんを褒めることが何よりも嬉しいことだと言わんばかりだった。

 心底輝いた顔を見て私の胸がチクリと痛む。そんな私に気付かずに、百合子さんはハッと私に顔を向けてきた。慌てて歪んでいた表情に笑顔を張り付ける。


「お客様もそろそろお部屋に戻った方がよろしいのでは? どこの部屋です? 私、案内いたしますよ!」

「あ…………ああ、大丈夫。部屋の場所は覚えているので、平気です」

「ですけど……」

「もう少しぶらぶらして行きたいので。ありがとうございました。凄く綺麗な庭が見れた」


 心からの笑みを浮かべて礼を言う。百合子さんもそれ以上は何も言ってこずに、それならと素直に下がった。


「じゃあ、ごゆっくり! 今度来たときは姉様と歓迎しますね!」


 背を向けて去っていく前に、百合子さんはそんなことを言って手を振ってくれた。私も手を振り返し、その姿が見えなくなってから数秒後、大きく深い溜息を付く。その溜息は難を逃れたことによる疲労の意味だけじゃなかった。

 この店一番人気の日雅奈さん。従業員……小町ちゃんや千代ちゃんや若葉ちゃん、そして百合子さん、たくさんの人達に慕われている日雅奈さん。

 私の溜息に含まれていたのは、罪悪感という感情だった。





「うわ、うわぁ、いたあ!」

「うおっ」


 目の前を通りがかった人影が東雲さんだということに気付いた私は、それまで隠れていた階段の陰から飛び出して、思わずその腰に抱き付いた。驚く東雲さんの胸に顔を押し付けて安堵の溜息を吐く。


「あー良かったぁー。東雲さん、全然見つからないんですもん、一人でどうしようかと思いましたよ」

「悪かったな、少し手間取った」


 腰から私を引き剥がしながら彼が言う。今の東雲さんは私と同じ着物姿だった。紺色の着物に黒い帯がよく似合う。自分でやると言っていたが、本当に一人で着付けたのだろうか? そうだとすれば特に崩れたようにも感じないし、きっと上手いんだ、誰から教えてもらったんだろう。……何だかいつもと違って新鮮で、ちょっとドキドキする。

 物思いに耽っていると、お前はどうしてたんだ? と聞かれ、今までのことを説明した。


「――――それで百合子さん達と別れた後、誰にも見つからないようにずっとここに隠れてたんです」

「適当にぶらついてれば良かったじゃないか」

「そうしたら部屋に案内されちゃうでしょ!? 嫌ですよ、そんなの!」


 こんな店自体、来たくて来たわけじゃない。下手して部屋に案内されたらどうすればいいか分からなくなる。

 顔を赤らめてそっぽを向いていると、東雲さんはそれもそうだな、と前髪を掻き上げる。


「そうだ。聞きたかったんですけど、ここってどういうお店なんですか?」

「説明しただろ? 娼館だ」

「そうなんですけどそうじゃなくて、何でこんなに閉鎖された感じなんです? ただ遊郭を再現しているだけにしては、あまりに凝りすぎですよ。何か秘密があるんじゃないですか?」

「それは――」


 東雲さんが顔を上げて目を細める。続きを言わない彼に痺れを切らし、背伸びをして彼の顔に顔を近づける。


「それは?」

「それは、私がお話しましょう」


 突如聞こえた声に振り返る。そこにいた一人の女性に、腰を抜かさんばかりに飛び上がって驚いた。五十代頃に見える女性は深々と腰を折る。丁寧な様子だが、その固く引き締まった表情に、私達を心から歓迎しているといった様子はない。少し訛りの含まれた固い声で彼女は告げる。


「お初にお目にかかります。当店の楼主、オミツと申します」


 そう言ってオミツさんはもう一度頭を下げた。それは礼儀というよりも、まるで儀式のように深く丁寧なものだった。



「この店は建立約三十年、制度も従業員も遊郭のような雰囲気を保ってきました。その独特な雰囲気がお客様方に好まれ、こうして今までやってこれたのです。従業員用の別屋も用意し、住み込みで働いている。完全に外界と切り離した空間を徹底しているのです」


 オミツさんが固い声に、少し誇らしげな色を含ませて語る。それを聞きながら私達は廊下を歩く。途中一度振り返ってみると、入って来た扉が大分奥に見えた。

 私達が歩いているのは従業員専門の通りだった。その中でも特にこの通路は非常時にしか通れないものなのだという。彼女が持っている鍵でしか、扉は開かないのだと。その為か、電気も付いておらず薄暗い廊下には、あちこちに埃や蜘蛛の巣が張っている。乾いた空気に咳き込みながら、オミツさんの背を追う。ふと斜め前を歩く東雲さんの顔を見れば、彼は平然とした顔でオミツさんの話を聞いているだけだった。

 彼女はこの店の店長のようなものなのだろう。一般の客である私達をこんな所に連れて来て、何をするつもりなのだろうか、東雲さんは怪しんでいないのだろうか。警戒しながら、袖のたもとに隠したナイフにそっと触れる。小町ちゃん達に着付けてもらうとき、こっそりと移動させたのだ。脱いだ服から刃物が出てきたら怪しまれるものね。いざとなったら、これでオミツさんを脅して逃げることができるか? いやでも、そんなことをしても何もしていない彼女を殺すのは忍びない。じゃあどうしようか。…………ああ、そうだ思い出した、受け付けのときに東雲さんが、経営者に呼ばれたと話していたっけ。じゃあオミツさんが……?

 私が一人考え込んでいると、オミツさんが足を止める。その目の前にあるのは突き当りの何もない壁だ。行き過ぎてしまったのだろうか? と思っていると、おもむろに彼女はしゃがみ込み、壁の一箇所を弄った。それから扉の端に手を添え、ぐっと力を込めて前に押す。


「おわっ!」


 驚く私の前で、扉がゆっくりと回転していく。ズズッと重く木が床を擦る音、長年積もっていた埃がパラパラと落ちる。オミツさんはゆっくりと、けれど着実に扉を押していき、ついには突き当りの壁だったはずの所に、通り道ができていた。

 隠し通路。まるで忍者屋敷のようなそれに、目を丸くして驚いた。


「どうぞお入りください」


 促されるまま私達は新たな空間に足を踏み入れる。三人が通り、オミツさんが扉を閉めると、途端に辺りは一寸先の見えない闇へと変わる。目の前にいるはずの東雲さんの存在さえ分からなくなり、湧き上がる不安に唾を飲んだ。


「し、東雲さん……? いますか?」返事がない。「……東雲さん!? ねえ、ちょっと! 東雲さんっ! ねえってばぁ!!」

「お静かに!」

「すみません…………」


 オミツさんに叱咤され肩を縮める。くくっと含み笑いが聞こえた方向を睨み付ける、当然何も見えないのだけれど。


「からかわないでくださいよっ」

「少し面白くてな…………ふっ」

「ツボってるじゃないですか!」


 これ以上何かされてはかなわないと、闇を手探りで探して東雲さんの着物の裾を掴む。茶番を繰り広げる私達を咎めるようにオミツさんが咳払いをし、ガサゴソと音を立てて何かを動かす。と、どこからか小さな光が差し込んできた。おぼろげなオレンジ色の光が、二つ開いた丸い小さな穴から。その光に照らされて空気中に舞う埃がよく見える。それから、オミツさんの森厳さを帯びた表情。

 暗い空間に正座をして私達を見つめるその冷たい炎を燃やす眼差しに射抜かれる。肩を引き締めて立つ私達に向かって、彼女は告げた。


「『オオカミ様』、そして『ネコ様』。本日はようこそお越しいただきました。今宵の依頼人、オミツでございます」


 その言葉にハッと目を見開いた。依頼人って、オミツさんが? オオカミとネコって……殺し屋としての私達のこと?

 彼女は深々と頭を下げる。いわゆる土下座のような形をとって誠意を見せる彼女の肩が、僅かに震えているように見えた。光に浮かぶ彼女の耳たぶが、切込みの入ったように二つに分かれているのが不思議だなと、こんなときにふと思った。


「どうぞ、どうぞよしなにお願いいたします。日雅奈を――あの花魁を、殺してください」


 空気が凍っていく。頭を下げるオミツさんを、私と東雲さんは黙って見下ろしていた。

 今夜の殺しの標的ターゲット。それは『この店で一番人気のある花魁』。

 つまり、日雅奈さんのことだった。




「私は昔、小さな商店を構えていました」


 オミツさんが語り出す。私達は静かにそれを聞く。

 人を殺すということは当然許されないことだ。その罪は重く、罪以前に人の心が許さない。それは殺し屋である私達にも当てはまるけれど、間接的に殺人を犯す立場である依頼人にも当てはまる。

 簡単な理由で殺しを依頼する人間はまずいない。誰しもがターゲットに深い事情を抱いており、どうしても殺さねばならないと思うほどに追い詰められている。そんな『殺しを依頼する理由』を依頼人は殺し屋に向けて語ることが多いのだ。重く苦しい理由を一人で抱えきれず、誰かにぶちまけてしまいたくなる。だけどそんな話をできる人間は限られる。だから、殺し屋(私達)に向けて語る。

 『ターゲットが殺されなければならない理由』を散々聞かされて、私達は仕事へ向かう。その理由がどんなに残酷で悲しくて滑稽で単純で、他に方法があるのではないかと思っても。


「……ですが友人に騙され、借金を背負うことになったのです。到底私一人では返しきれないような莫大な額を。当時いた私の家族、そして私のお腹にいた娘までもが犠牲になりかけたのです。

 そのときに救ってくださった男性がいました。彼が私に、風俗店の商売を持ちかけてきたのです。勿論最初は断りました。ですが何度も説得をされるうち、借金を返すにはこれしかないと考えたのです。そして彼の指示に従うまま商店の改造を始め、この風俗店を立ち上げました。

 夫や家族は私に何を考えているのかと怒り、彼と何度も口論をしていました。結局愛想を尽かされてしまったんでしょう、家族と夫は、産まれたばかりの娘を抱いて私の元から去っていきました。

 とても悲しかった、ですが彼に慰められるうち、悲しみも薄らいでいった。ストレスのせいか若いうちからボケが入ってきてしまい、夫や娘の顔も覚えていない……酷い話でしょう」


 そう言って寂しそうにオミツさんは一瞬微笑んだ。


「彼と立ち上げたこの店は最初こそ客足が少なかった。しかし段々とこの雰囲気が受け入れられ、経営がなりたっていった。これで借金も返せる……そう思った私が甘かったのです」


 紅を塗った唇を噛む。あまりに強く噛んでいるのか、紅よりも濃い赤色がじわりと滲んだ。


「ある晩、いつものようにやって来た彼は酷く怒っているようだった。顔中が青く腫れ上がり、二倍に膨れていた。従業員を張り倒す勢いで私に詰め寄り、『いつになれば借金が返せるのか』と怒鳴ったのです。

 何の事だと聞けば彼は『早く返済を終えなければ、自分が上に消されてしまう』と怯えるように叫んだのです。

 そのときに気が付いた。彼は、借金取りとグルだったのだと。

 それから彼との間で色々あり、店には借金取りやヤクザがよくやってくるようになりました。一般のお客様が怯えて遠のいてしまうのと比例するごとく、強面の男達が増えていった。今では暗黙に、そのようなお客様方専用の店としてやっているのです」


 オミツさんの声が震える。熱く感情を吐露した声が私達に降りかかる。


「『借金が返せなくなれば娘をこの店で働かせる』。そう彼は言ってきた。私はそれがどうしても耐えられなかったのです。顔も覚えていない、産まれてすぐ別れた娘、きっと会ってもすぐに娘とは分からないでしょう。

 ですが、ですが! それでも愛しているのです、今でも! 母親として、娘をこんな店で働かせるわけにはいかない。娘にはこんな私と出会わないまま幸せになってほしい……母親としてそう望むのは当然です」


 一瞬東雲さんが私に視線を向けた気がした。気付かないフリをして、オミツさんの言葉に耳を傾ける。


「彼らに頼み、私はたくさんの従業員を増やしてきました。要するにあちこちから子供を攫ってきたのです。可愛く美しい子を……勿論天涯孤独の子供を狙ってと伝えましたが、彼らが本当にそうしたかは分かりません。もしかしたら事故や自殺に見せかけた事例もあったかもしれない。

 それでも私は何も言わなかった。酷い女です、自分の娘以外の子ならどうでも良かったのですから。

 日雅奈もそのうちの一人です。子供のうちから彼女には目を見張るような美貌があった。度胸もあり、観察力もあった。この子は私の借金をどうにかしてくれる。そう思いました。期待通り美しく彼女は成長し、この店を引いてくれた。彼女には感謝してもしきれません」

「そんな彼女を、どうして?」


 思わず疑問を尋ねると、途端にオミツさんの顔に影が差した。


「……先程も申し上げました通り、この店にはヤクザや借金取りといった業界のお客様が多い。お酒の入った彼らが口外すれば命取りとなるような情報を、遊女にポロリと零してしまうことがたまにあるのです。勿論酔いが冷めれば酷く慌てて、今までには咄嗟に遊女を殺してしまう方もおりました。そういうことはこの店では少なくありません。従業員の間では、そのような秘密を知ってしまったときには決して他の者に言ってはならないと徹底されていきました。

 秘密を知ってしまうのは主に遊女です。お酒と、一夜を共にした男性は、口がどうしても緩くなってしまうものなのでしょうね。人気がある遊女であればあるほど秘密を知ってしまう危険が高くなります。人気があれば、様々な人から指名が入るのですから。

 特に日雅奈は一番酷く、何度も殺されそうになっては、私達が必死に相手のお客様を説得しました。彼女が殺されてしまえば大きな損害になりますから。――最初に遊女が殺されたときから、私はこの店を完全に外界と封鎖することに決めました。それまでも店の雰囲気を壊さぬよう隔離していた部分もありましたが、完全にです。この店と、第七区……いえ、平成の世の中を完全に隔離したのです。

 全てはお客様の秘密を守るため、この店を守るため、娘を守るため。外出自体が禁止されているわけではありませんが、その際には監視を付けることにしました。逃げ出され、抱えていた秘密をバラされたら終わりです。昔の遊郭のように足抜けを、逃亡を禁止するために」


 一気に喋って喉が疲れたのか、オミツさんは軽く咳き込む。その表情にも恐らく溜め込んでいた話を吐露することによる疲労が浮かんでいたが、語りを止めることはなかった。


「日雅奈の様子がおかしいことに気付いたのはつい最近のことです。他の従業員は変わりないと言っているけれど、最近のあの子はどこかぼんやりしている。きっと、足抜けしようとしているに違いありません。……あの子が逃げ出したら終わりです。だから、日雅奈を殺してほしいのです」

「そんな根拠もないのに……もし逃亡を考えていなかったら、どうするんですか」

「逃げ出したらもう後がない!」


 オミツさんの張り詰めた声が響く。迫力のある怒り顔にぐっと喉が詰まった。彼女は感情を押し殺すように声を詰めて続けた。


「あの子が抱えている秘密が一つでも漏れたら、もうこの店も私も終わりなのです。彼女が殺されれば大きな損害になると言いましたが、彼女が秘密をバラしたときの被害とは比べ物にならない。不安の芽は早いうちに摘むべきなのです。

 ああ、どうか、お願いします。日雅奈が逃げ出す前に殺してください。今晩中に……できる限り早いうちに……」


 でないと私も、娘も……。そう言うオミツさんの声には、嗚咽が混じっていた。

 それ以上私は何も言えなくて、彼女の泣く様子を胸を痛めて見下ろす。それまで黙っていた東雲さんが深い溜息の後に言った。


「俺達は、依頼をされたら殺すまで。依頼主(あんた)がそういうのだったら、今晩中に必ず殺す。どんな理由があろうとな」


 東雲さんの声に迷いはなかった。あくまで仕事としてここに来ているのだから当然とはいえ、一切の情がない構えは尊敬するし少し悲しくも思う。

 情を持つ私の方が、殺し屋としては駄目なのだろう。真理亜さんにも言われたように。…………だけどやっぱり、彼のようになりたいかと聞かれれば、すぐには答えられない。



「それで、どこで殺せばいい」

「あ……ああ、ああ、そうですね。そのために、この部屋に来ていただいたのです」


 ご覧ください、と言ってオミツさんが二つの穴を覗くよう促してくる。私と東雲さんが一つずつ顔を近づけて覗き込んだ。穴の向こうの景色が見える。

 赤い壁と障子が見えた。不思議な模様が描かれた襖に、ぼんやりとしたオレンジ色の光を照らす灯り、端に畳まれた布団が置いてある。誰かの寝室のようだった。


「この穴は部屋の掛け軸と繋がっております。こちらの部屋が暗いので向こう側には気付かれません」

「向こうの部屋って……誰の部屋なんですか?」

「日雅奈の寝室です」


 顔を離してオミツさんを見る。光が私の顔で遮られているせいで、その表情は読み取れなかった。


「向こうの部屋は昔から、その時期一番の花魁専用の部屋として使用されてきました。日雅奈も例に漏れずそのように。もうすぐ彼女は仕事を終えて戻ってくるでしょう。そのとき、ここから様子を窺って出てくだされば良いかと」


 ここから向こうに出れますので、とオミツさんは僅かに穴の下部を押す。ほんの少しだけ動いたのを見ると、よく分からないがここもまた隠し扉のようなものがあるのだろう。


「この空間は花魁を観察するために作られた部屋。ここの存在を知っているのは従業員の中でも私だけなのです」


 一通りの説明を聞いてから少し考えて、東雲さんがオミツさんに問う。


「それで、あんたはここにいるのか?」

「え?」

「俺達が仕事をする様子を、間近で見るのか?」

「……………………いえ、ご遠慮します」


 声を段々と落としていくオミツさんの顔色は見なくても分かった。彼女はしばし何かを言いたげに身を動かしていたけれど、ぐっと言葉を飲み込んだよう、再度私達に「よろしくお願いします」と言葉を残してから立ち去ろうとする彼女を呼び止めるよう、私は軽い調子で尋ねた。


「その耳って……借金取りに切られでもしたんですか?」

「え?」


 オミツさんが訝しげに耳に手を当てた。切込みの入ったように見える耳たぶに触れ、ああ、と納得したように苦笑する。


「いえ、よく覚えていませんが、どうも生まれつきのもののようで」

「そうなんですか」


 それからオミツさんは深く頭を下げて扉から出ていく。僅かに光が漏れ、そしてすぐ消える。


「何であんなこと聞いたんだ?」

「いえ、なんとなく気になったから」

「そうか」


 それから私と東雲さんはお互いに無言で穴を覗いていた。汗ばむ手をそっと着物の裾で拭き、袖越しにナイフに触れる。耳の痛くなる静寂の中、高鳴る心臓の音さえ響いていきそうだった。この空間は暖房が届かないせいかとても寒い。吐く息が白く凍りそうな程なのに、額に汗が滲んだ。ターゲットを待つこの時間が、一番静かで、一番怖い。その恐怖が、十分経ち、二十分が経ち、三十分が経った。


「――――来たぞ」


 東雲さんの囁き声に身を張り詰めたとき、穴から見える部屋の障子が音もなく開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ