第24話 死ぬってなぁに
大晦日の午後七時。私と東雲さんは家でのんびりすることもなく、第八区の夜道を駆けていた。目的地である仁科さんのマンションに着き、ちょうど十階に行ってしまったエレベーターを見て階段を駆け上る。そうして仁科さんの部屋の前に行き、扉を何度も叩いた。
「ネズミくん!? ネズミくん、私だよ! 開けて!」
「おねえちゃん!」
扉が開き、転がるように飛び出したネズミくんが私に抱き付いてくる。小さな肩が強張ってぶるぶると震えている。玄関先で抱き合う私達の傍を通り過ぎ室内に入った東雲さんが、仁科さんの名を呼ぶ声がした。
「でんち、でんち。もってきた?」
「うん、うん。大丈夫……大丈夫だから、ね?」
でんち、でんちとしきりに繰り返すネズミくんを抱き上げ、私も室内に上がり込む。そうして着いた先の部屋、ベッドの上に仁科さんが丸まっていた。白いシーツを真っ赤に染め上げて。
東雲さんが何度も彼の名を呼び、舌打ちをする。仁科さんは目を閉じて何も言わない。元より肌に血色がないせいで、青ざめている今の状態が危険なのかそうでないのかよく分からなくなってくる。仁科さんの左腕、白いシャツの長袖をじわじわと赤黒く血が染めていった。
それを見てネズミくんが私の首に強くしがみつく。震えるその背をぽんぽんと叩きながら、私も茫然と目の前の光景を見つめていた。
どうしてこんなことになっているのか。それは、今から三十分程前まで遡る。
大晦日と言えば大掃除。言うに及ばず東雲さんの家にやって来た私は、そこで彼の家の大掃除を手伝うことになった。勿論ちゃんと自分の家は掃除済み。朝から晩までずっと掃除しっぱなしでようやくそれが終わったのがつい一時間前くらい。……考えてみれば私の家の方が広いはずなのに、どうして東雲さん家の掃除の方が時間がかかったのか……明日もう一回家の掃除をするべきかな。
ソファーで二人、ぐったりとしていたところ突然電話がかかってきた。東雲さんの黒い携帯。それを彼が手に取って、仁科からかと呟いて耳に当てる。しかし通話し始めた途端、その顔が怪訝そうに顰められた。
「どうかしました?」
尋ねると、東雲さんは無言で携帯をスピーカーモードにする。そこから聞こえてきたのはたどたどしく幼い声、ネズミくんだった。どうも酷く狼狽えていて、東雲さんの声が聞こえてくることに驚いているようだった。クリスマスにネズミくんと別れるとき東雲さんが緊急用だと自分の携帯にかける方法を教えていたけれど、実際にかけたことも、ましてや電話というものを弄ること自体初めてだったみたいだ。
落ち着かせ、何があったのかと東雲さんが尋ねる。ネズミくんはどもりながらもこう言った。
仁科さんが真っ赤で動かないと。
その三十分後、私達はここに来て、この惨状を目撃していた。
「マスター、うごかないの、でんちがきれたの」
東雲さんが仁科さんをホスピスに連れて行ってしばらく。私とネズミくんはソファーの上で互いに肩を寄せ合いながら、ぽつぽつと会話をしていた。
ネズミくんは仁科さんのことをマスターと呼ぶ。それは数日前からのことで、テレビに影響されたのか、急にそう呼ぶようになった。でも確かに彼にとって、仁科さんはマスターみたいなものかもしれない。
仁科さんの倒れていたシーツは一部が血でべったりと染まっていた。洗おうかと思ったが恐らくどうやってもシミになるだろうし、新しいのを買った方が無難だ。せめてもとシーツを剥いで丸め、隅の方に寄せておく。独特の鉄臭さが鼻に突いた。
そのとき手に何か冷たいものが触れた。丸まったシーツの中に何かが紛れている。何だろうかと一度丸めたそれを解き……
「……ネズミくん。仁科さんが動かなくなってるの、いつ気が付いた?」
「ひるねのとき。おきたらね、ぐでーってしてた。ちがいっぱい」
「血って、どこから出てたか覚えてる?」
「んっとねぇ」
ネズミくんはコテンと首を傾げ、サングラス越しに目をパチパチと瞬きさせる。小さな指で左手を、正確にはその手首を差し、パチパチと開閉する。
「ここから」
そう、と静かにネズミくんに頷き、私はシーツの中から見つけ出したそれをじっと観察した。
刃の伸びたカッターナイフ。刃の先端に付着した、乾きかけの赤茶色い血。
ただいま、という声がして、私とネズミくんは飛び上がるように玄関へと駆ける。玄関先に、疲れた顔の東雲さんと眠そうに目を擦る仁科さんがいた。
仁科さんは何事もなかったかのように私達へのんびりと手を振った。ふらふらとした足取りのまま部屋に戻り、ベッドに腰掛けて左の袖を捲る。手首から肘にかけて白い包帯で覆われていた。と、彼は痒そうに左手をもぞもぞとさせて、伸びた爪で遠慮なく包帯の上から傷口を掻いた。慌てて手を掴むと、今にも折れそうな骨ばった感触にゾッとした。
「な、何やって……! 傷が開いちゃうでしょ!」
「だってぇ、痒いし」
案の定そこからじゅくり、と血が滲んでくる。紫がかった赤い血がゆっくりと範囲を広げていった。とても痛そうで思わず眉を顰めるも、本人は痛がる素振りなど一切見せていない。
「何でこんなことしたんですか」
「どんなこと?」
「リストカットですよ!」
リストカット。シーツから見つけた血が付いたカッターも、恐らくはそれに使われたのだろう。
私も何度か試そうとしたことがあった。一条さん達にいじめられて辛くて、キッチンの包丁を手首にあてがわせてみた。だけど結局怖くて、ためらい傷を付けることさえできなくて、失敗した。あんなに怖いことなのに仁科さんはそれをしたんだ。
彼はキョトンと目を瞬かせ、心底不思議そうに首を傾げた。
「そんな怒ることかな、これ」
「きゃっ」
突然、彼は腕に巻かれた包帯を解いた。手慣れたようにすぐに解けた包帯の下からリストカットの痕が露わになる。手首から肘までにびっしりとおびただしく引かれた赤茶色の線。もう消えることはないだろう茶色くなった線もあれば、まだじゅくじゅくと膿んでいるものもある。じわじわと血を垂らしているものが最新の傷だろう。
仁科さんはほら、と手首を私に見せつけるように近付ける。喉から悲鳴を上げて顔を仰け反らせ、嫌悪感に涙を浮かべた。
「やっ、やっ、見せないでくださいそんなの!」
「あはは」
「やだあぁ!」
のんきに笑う彼と対象に、必死になって私は彼の手を拒絶する。腕に幾重にも引かれた傷が気持ち悪い。仁科さんの細い腕が何だか死神のそれのようにも思えてきて、恐ろしかった。
「おい、その辺にしておけ」
東雲さんが仁科さんの腕を掴んで動きを止める。私は逃げるように東雲さんの背中にしがみ付いた。包帯をぐるぐると巻き直す彼と、あははと笑う仁科さんを交互に見て肩を縮める。
仁科さんが包帯を巻かれながら私に顔を向ける。僅かに身を乗り出すようにすれば、薄い皮膚の下の鎖骨が浮いた。
「おれは、いつ死んでもいいの」
ぽつりとその口から呟いた言葉は、さっきの私の問いに対する返答だった。
どうして自分を傷付けるようなことをするのか。その答え。
「楽に生きたかった。一日中どこにもいかないで何もしないで、ずっとシーツに包まって寝ていたいの。でもそれってお金がなきゃ難しいでしょ? 東雲も『自分から動かなきゃ、楽もできないぞ』って言う」だから、と彼は淡々と続ける。「殺し屋になった。凄く面倒だったけど、ちょっと働くだけでたっぷりお金が貰えるんだよ、凄くない? 数年間仕事しただけでもう一生分のお金は貰ったよ。後はおれ、何もしなくていいの」
凄いでしょ、とまるで褒めて褒めてと言わんばかりに仁科さんが顔を緩める。掠れた声がふわふわと私達の間を通り抜けてすっと消える。
『だから殺し屋になった』? 些細な理由でこの人は簡単に人殺しができるのか? あまりに言葉に重みがない。軽いどころか風船みたいに浮いている。
「でも何だか飽きちゃった」
ぽやぽやぽわぽわ、仁科さんの言葉は掴み所のないまま空気に溶けるように抜けていく。心の内側から不安と、どこへ行くとも知れぬ暗い気分を煽られる。
ふと傍に立つネズミくんに視線を向ける。この話を聞いて彼は大丈夫だろうかと思ったから。けれどネズミくんはただキョトンと目を丸くして、ぼんやりと仁科さんを見つめているだけだった。その反応がどこか変に感じていると、仁科さんの台詞が続く。
「ぼんやりするのも飽きちゃった。元々人生に夢とか目標とか、そういうのないし。何もする気がおきないし。そろそろ何もないのが疲れてきたから、終わりにしようかなって」
「そ、そんな簡単に死にたいと思うんですか? 他に理由はないんですか?」
「ないよ?」
さも当然のように呟く仁科さんに思わず唇を噛んだ。東雲さんの背から横に出て、思ったことを口にする。
「そんなちっぽけな理由で死にたいって思うくらいなら、生きてみたらいいじゃないですか! 生きてれば楽しいこともあるじゃないですか、簡単に死にたいって思うよりだったら、生きて色々なことを経験してみれば……」
「何で楽しかったら生きていなくちゃいけないの?」
ポツリと純粋な疑問を浮かべるように彼は言った。予想外の返答に言葉を返せず、ぐっと息を詰まらせる。彼はそんな私に首を傾げ、本当に分からないと言いたげな顔をする。
「楽しいことがあるから生きるの? 何で? 死にたいって、そんなに悪いことなの? どうして悪いの?」
「それは……か、悲しむ人が、いるから…………」
「悲しむ人がいたとして、どうして自分の人生なのに他人の気持ちを考えなきゃいけないの? おれ全然分かんない。何で皆して、『生きよう』『死んだら駄目』『生きる価値を見つけよう』とか言ってくるの? 死にたいって思ってる人を怒るの?」
「…………だ、だって」
「皆考えすぎじゃない? 生きるのにも死ぬのにもそんな大層な理由なんてないでしょ、ただ生まれたから死ぬまで生きてるだけじゃん。当たり障りのない素敵な言葉とかを並べて、勝手に自分で『生きる』ってことに理由付けてるだけじゃん。誰が、生きるのにも死ぬのにも理由が必要、なんて言ったの。そんなに重く考えることじゃないでしょ人生って。それを言ったらこの世の森羅万象に理由付けなきゃ駄目でしょ。死ぬってそんなに止められるようなことじゃないよ」
仁科さんの思考回路に全く口出しができない。ただ屁理屈を述べているような、適確なような、やっぱり適当なような……ああ、もう駄目、さっぱり分からない。
頭を振ってこんがらがってきた考えを揉み解そうとする。けれどその絡まりが解ける前に、更にそれをぐちゃぐちゃにする一言が投げ込まれた。
「しぬってなぁに?」
私と東雲さんが同時に横を見る。そこに立っていたネズミくんはキョトンとした顔のまま、仁科さんをじっと見つめていた。
「しぬ? しぬって、なに? すごいの?」
無邪気な声でネズミくんがはしゃぐ。その様子は人生で初めてテレビを見たときにそっくりで、単純にその言葉の意味を知りたがっていることは見て取れた。
だけど今ここでその好奇心を発生されるのは困る。何とか話を逸らそうと口を開きかけたとき、それよりも前に仁科さんが答えてしまう。
「生きることの反対」
「いきるってなぁに?」
「呼吸すること、心臓が動くこと」
「こきゅー? しんぞー?」
面倒だなぁ、とぼやいてから彼は思い付いたように手を叩く。
そして言ってしまった。爆弾の一言を。
「死ぬって、今のお前のママのことだよ」
仁科さんっ、と咎めたときには既に遅く。ネズミくんは口をポカンと開けっ放しにし、疑問をぶちまけた。
「ママ? ママ、でんちきれてるよ。でんちがきれてるの、しぬって、そういうの?」
「違うよ。お前のママはもう死んでるの。死ぬって、電池を入れても動かないの」
「うごかない?」
「そう。もう二度と動かない、二度と喋らない、二度と笑わない」
「……ママが?」
「もう二度と会えない」
死ぬってそういうことなの。トドメを刺すように、仁科さんがキッパリと言い切った。
最初のうちはポカンと口を開け放していたネズミくんだったが、次第に変化が表れる。サングラスの下の目を大きく見開かせ、鼻孔が膨らみ、口がへの字に曲がる。白い肌にどんどんと赤みが差していく。
「あえないの? なんで? だってママいってたよ、こわれたらでんちいれればうごくって、いってたよ? うそ、マスター、うそついてる」
「嘘じゃないよ」
「うそつき! ちがう、ちがうでしょ! そんなのうそだろ!!」
ネズミくんがわっと喚いて仁科さんに近づく。その薄い胸板を遠慮のない力で叩き、何度も彼の言葉を否定した。
「なんでうそつくの!? マスターはバカ! バカ、アホ! ママはしんでないもん! でんちがあればいいんだもん! またあえるって、まただっこしてあげるって、うごかなくなるまえにいってたもん!! うそつき、うそつき、うそつき!!」
仁科さんは何も答えなかった。ただわんわんと喚くネズミくんを疎ましげに見下ろすだけだった。
と、仁科さんが僅かに揺らめいたとき、彼の額に拳が当たった。その衝撃で、ハラリと前髪が揺らめく。そこから隠されていた左目が露わになった。
ビクリとネズミくんの肩が顕著に跳ねる。後ろから見ている私もまた、息を呑んだ。
仁科さんの左目は真っ赤に染まっていた。充血だとか、そんなものではないことは明らかだった。ドロドロと粘ついた血を注ぎ込んだような赤色。本来白目の部分であるはずのそこにはまだ鮮やかな赤色が、黒目の部分は酸化したようなどす黒い赤。それは人間の目としてはあまりにも異常で、奇妙で、気持ちの悪いものだった。
ネズミくんの口が大きく開き、はく、と音にならぬ呼吸音を繰り返す。澄んだ青色の目にその赤い目はどう映るのか。サングラス越しであるとはいえ、その赤色が異常なものだとはすぐに分かるようだ。
「嘘じゃないよ」
赤い目がぎょろりとネズミくんを見据える。
「お前のママは死んだんだよ」
ドロリとした言葉が、残酷な現実を幼い心に突き付ける。
ネズミくんの拳が力なく垂れ下がる。小さな肩がゆっくりと上下し、大きく震えた。
「うそ、だ、もん。ママは、ぼくの……ぼくのママだもん…………」
うそだもん、と何度も同じ言葉を繰り返して。その言葉は次第に呂律がおかしくなっていき、啜り泣きに変わり、最終的には慟哭へと変わる。
大粒の涙をボロボロと流し、全身を激しく震わせながら悲痛な声で泣きじゃくる。見ているこっちが悲しくなるようなその姿。けれど、仁科さんは勿論東雲さんも、私でさえも、泣き続けるその小さな背に、下手な慰めの言葉をかけることはなかった。
涙の粒が服に伝い、じわりと滲みていく。
包帯から血が滲み、じわりと赤く染まっていく。
ふと目を開けるといつの間にか部屋の電気が消えていた。暗い部屋の中でぼんやりとする目を擦りながら上を見ると、時計の短針は六時を指していた。どうやら気付かぬうちに眠ってしまっていたようだ。フローリングの床に直接敷かれた布団から身を起こし、あの後ネズミくんはどうしたのだったかと考えながら辺りを見ると、ベッドに横たわって寝息を立てる仁科さん、そして彼の体にしがみ付くように顔を埋めて動かないネズミくんがいた。
そうだ。いつまでも泣きぐずるあの子を宥めるうちに仁科さんが眠ってしまい、そのうちに私も疲れて眠ってしまったんだったっけ。ネズミくんは東雲さんが見ていてくれたみたいだ。その肝心の東雲さんはソファーに座って腕組みをし、うとうとと船を漕いでいた。私の起きた気配に気付いたように顔を上げ、眠たげな目を擦りながら小さく唸る。やっぱり眠れてはいなかったみたいで、そろそろ冴園さんに私が連絡を取るべきかなと考えた。強情な東雲さんは決して自分から彼を呼ぼうとはしないのだ。
「……明けましておめでとうございます」
「……おめでとう」
とんだ正月だと呟いて、東雲さんは目を細めてベッドを見る。そこで寝息を立てているネズミくんを同情のこもった眼差しで見つめた。
「ネズミくんが起きたら……」私は一瞬躊躇うように言葉を途切らせて、「どうしますか」
あの子は起きた後、どうするのだろう。泣き叫んで暴れるのだろうか、呆気からんとしているのだろうか、それとも。
暗い部屋の中、沈黙が広がる。秒針と寝息の音だけが聞こえる中、東雲さんが息を吐くような細やかな声で、さあなと言った。
「――――もう一度最初から言うぞ? 一日中ベッドに潜ってないで少しでもいいから外に出る、三食しっかりバランスの取れた食事をして野菜も残さない、ネズミのことも忘れるな、カッターで手首を切らない。いいな?」
「手首は包丁だったらオッケー?」
「……訂正。とにかく血を出すな」
朝の九時頃。東雲さんと仁科さんの気の抜けるような会話を、私はぼんやりと聞いていた。叩き起こされた仁科さんはまだ完全に起きていないようで「いつもは昼に起きるのに」とぼやきながら頻りに瞬きを繰り返し、東雲さんの話を聞いていた。
そんな会話に苦笑を零していると、不意に毛布が動き、そこからネズミくんが顔を覗かせた。パチパチと大きな目を瞬かせ、しばしここがどこか分からないといった顔で辺りを見回す。東雲さんが説明を止めた。ネズミくんの顔が段々とハッキリ目覚め、小さく唇を開く。
「…………ママ」
開口一番そんな言葉が転がった。
ベッドの上で茫然と座り込むネズミくんにいてもたってもいられず、思わず歩み寄ってその肩に触れる。小さくなだらかな肩が震えているのは寒いからだろうか。
仁科さんがぼんやりとした顔で、その小さな頭に手を置いた。くしゃくしゃと無遠慮な手付きで撫でると、髪が乱れてまるで貞子のようにネズミくんの顔が隠れる。それを見て、彼は軽い笑い声を上げた。ネズミくんは何とも言えない神妙な顔で、もにゅもにゅと口を動かした。その目が仁科さんを疎ましそうに見上げる。
「変な頭。ね、切らないの? 髪」
疎ましげな視線など知ったこっちゃないと、同じく長髪の仁科さんがネズミくんの長い髪を捩じり始めながら尋ねる。
腰の上辺りまで伸びた黒髪、前髪にいたっては分け目で適当に分けて耳にかけないと前も見えなくなる。だけどこれでも軽く切った方だ。ネズミくんを保護したときは後ろの髪なんて太ももにかかるまでだったし。東雲さんが梳くように切ったのだけど、ネズミくんは長い方が落ち着くと言って長さ自体はあまり変えたがらなかった。それでも切り落とした髪は、ロングヘアーのカツラが一つ作れそうな量だったのだけど。
ネズミくんは頬を膨らませてそっぽを向く。ぼさぼさの三つ編みが肩から垂れた。仁科さんが手を伸ばして膨らんだほっぺを挟むと、ぷひゅっと空気が零れてネズミくんが仁科さんの手を払う。それを何度か繰り返し、ついに歯を剥き出して噛み付く。
「なんなの! やめてよマスター! じゃま…………うひゃははは!!」
途中から言葉が途切れ、高い笑い声が響く。驚く私と東雲さんの目の前で、仁科さんがネズミくんの体をこしょこしょとくすぐっていた。脇やお腹を骨ばった手がくすぐる度、ネズミくんは悶えるように身を捩じらせて笑う。何してんすか仁科さん。
「うひゃっ、うひははは! やめ、やめ、あははっ! マスタ、きゃはは!」
「うりうり」
「キャーハハハ!! あは、えひっ、あははは!」
しばらくそのくすぐりは続く。仁科さんが目を輝かせて満足気に離れたとき、ネズミくんは息も絶え絶えに全身を震わせて縮こまっていた。そんな様子のその子を覗き込むように仁科さんが言った。
「もう泣いてない?」
「……………………」
「笑うのは楽しい」
仁科さんの言葉に深い意味はない。けれどネズミくんはその言葉を聞いて、僅かに目を丸くした。息を整えてゆっくりと体を起こし、それから私に目を向ける。
「ねえおねえちゃん」
「ん、なぁに?」
「ママがしんだなら、ぼくも、しんだほうがいいの?」
一瞬言葉に詰まる。けれどすぐに、ネズミくんは絶望し切ってそんな台詞を吐いたのではないということに気が付いた。その声色も力の抜けたような顔も、ただ疑問を浮かべているだけなんだ。分からないんだ、本当に。
彼の背を撫でる。こっちを向くその小さな顔に微笑んだ。
質問に答えなきゃいけない。だって私はネズミくんより、お姉さんなのだから。
「仁科さんも言ってたじゃない。死ぬのに理由はないんだよ」
そう切り出して、仁科さんを見つめる。彼もまたぼんやりと私の顔を見つめていた。彼の意図とは違うだろうけど、ここは彼の言葉を借りて答えようと考えた。
「生きるのにも理由はないんだよ。誰かが死んだからって、それを追う必要もないんだよ。ネズミくんは、まだ死ななくてもいいんだよ」
私の答えは満足できるものだったろうか。ネズミくんはぼんやりとしたまま、そうか、と頷いた。そうだよ、と私も頷き返す。彼がベッドから降りる。そのまま向かった先は窓の方。カーテンを開くと、明るくも柔らかな日差しが差し込めた。一年のうち、最初の日の光だ。
じっと太陽をサングラス越しに見つめる彼。あまり日差しの下にいると危ないよ、と私が言いかけたとき、ネズミくんは俯いてサングラスに手をかけた。
「あっ!」
そして止める間もなく、それを外す。直射日光が容赦なく降り注ぎ、その顔を照らした。
ギュウッと固く閉じられた目、拳に力が入り血管が浮く、大きく肩を上下させて深い呼吸を繰り返す。だけど絶叫がその口から迸ることはなく、代わりに溢れたのは長く深い溜息のような吐息。太陽の光にその閉じた眦から一粒の涙が流れ、次第に滂沱として顎を伝って垂れていく。
「…………ネズミくん?」
恐る恐る尋ねた。振り返ったその顔に浮かんでいた僅かな苦痛の色が消え、眉が柔らかく下がる。微笑みを零して。ねえ、と誰にともなくネズミくんは言う。
ゆっくりと開いたその瞳。アクアブルーの澄んだ瞳が光を浴びて煌めいていた。
「おひさまって、あったかくて、きもちいいんだねぇ」
純粋に喜ぶその言葉。まるで今までの人生の分を浴びてしまいたいとばかりに、ネズミくんは目を細めて太陽を見上げる。暗がりで生きてきた彼が、太陽の下で微笑んだ。
日差しを受けて白い肌が透き通るように輝く。日の下で笑う少年に私も微笑みながら、サングラスはもう卒業だね、と呟いた。




