第23話 自覚した恋心
どうしようか、と視線を周囲に泳がせながら思う。通りを歩く人々は私に感心を持たずに通り過ぎ、時折数人がこちらを見るものの、結局すぐに通り過ぎていく。
長い間外に立っているせいで足が寒くなってきた。せっかくたまには足を伸ばしてみようと第二区に来て、オシャレをしようと思って新しいニットワンピースを着てきたのに、これだったらズボンの方が良かったかもしれない、タイツだけだと寒い。
どうしよう、ともう一度思いながら視線を前へ戻した。
「――――普段なら二万円もする化粧セットなのですが、アンケートにお答えいただいた方には特別に初回限定無料キャンペーン中なんですよ! 体験コーナーがあちらのビルの一階にございますのでぜひいかがでしょうか。二十日から二十七日までのキャンペーンでして、今日が最終日となっております、この機会にぜひ!」
「はあ…………」
私の目の前に立っている一人のお姉さんは、人の良さそうな笑みを浮かべながらそんなことを説明してくれる……かれこれ十五分もずっと。
お姉さんは私とそう歳も変わらないように見えるのにとても可愛い顔をしていた。素材も勿論いいんだろうが、彼女が言っている化粧品を使っているのか、唇もぷるぷるで肌も綺麗、まつ毛は長いしほっぺはふんわりと赤みを帯びて、とにかく凄く可愛い。羨ましかった。
最初はただのアンケートだと言われていたが、書き終わった直後に説明の嵐。鈍い私でもキャッチセールスだと分かったけれどもう手遅れだった。壁に追い詰められるように迫ってこられ、私は逃げ道をなくして途方に暮れていた。
「皆さん誤解されるんですが怪しいものじゃないんですよ。他のお客様も大勢いらしてますし、賑やかに皆さんでお話するのもいいでしょう? 初めての化粧講座なんかもありますよ!」
「いや、ほんと、その……興味ないので……すみません」
ここはハッキリと拒絶して逃げるべきだ。けれどぺこぺこ頭を下げて歩き去ろうとした私に、それでも彼女はずいっと前方の道を塞いできた。
「今、好きな人はいませんか!?」
「えっ」
図星を付かれた驚きが零れる。彼女はしめたとばかりに一瞬目を光らせ、私の手を握って畳みかけてくる。
「好きな人の前では綺麗でいたいでしょう!? 若いうちはすっぴんでも可愛いですが、お化粧をすればもっと女の子っぽくなれるんです! もしも片思いとかなら、可愛くなったあなたにきっと振り向いてくれますし! 絶対に!」
熱弁する彼女に気圧される。そうしながらも、どこか心が揺れてしまうのを実感していた。
……私化粧とかしたことないものな。でもすっぴんでも可愛いとか肌が綺麗とかそういうわけじゃないし。まだ高校生のうちで化粧は早いと思っていたけど、一条さんとかはもうしてるし、最近は小学生だってしてるし。それにお母さんに教わることはできそうにないから、確かに一度くらい誰かに教えてもらいたいとは思っていたし……。
私の手を握る彼女の手。長く伸びた指は細く、爪にはネイルが施されている。パステルカラーのピンク色。凄く可愛い。
――――……東雲さんは、私が可愛くなったら、なんて言ってくれるかなぁ。
「じゃ、じゃあ、ちょっとだけなら……」
「そうですかっ! それでは、早速行きましょう!」
パッと顔を輝かせた彼女が私の手を握ったまま歩き出そうとする。と、不意に私の肩が後ろから掴まれた。
「わっ!」
進みかけた足が空を切り、慌ててその場に立ち止まる。前を進むお姉さんも振り返り、私も後ろを振り返った。一人の見知った女性がそこにいた。
「ちょっといいかしら、何をしているの?」
「真理亜さん!」
そこに立っていた真理亜さんに目を丸くする。彼女は私にこっそりを目配せをし、それからにこやかな笑顔でお姉さんに話しかけた。
「この子に何か用だった? これから私と会う約束をしていたのよ」
「お知り合いですか? ならちょうど良かった、今化粧品のキャンペーン中でして――」
「悪いけど間に合ってるの」
ズバッと言い切って真理亜さんは私の肩を抱く。そのまま踵を返し去ろうとした私達をお姉さんは慌てて止めた。せっかく掴んだカモを逃がすのが惜しいのだろう。
「無料なんです! 一度のお試しだけでもいいので、話を聞くだけでも! 上手い化粧の仕方を教えてくれますよ!」
「あなたは」
真理亜さんがそう言って顔だけで彼女に振り返る。艶のある唇でゆるく弧を描き、伏せ目がちな目に光が灯る。
「私にその技術がないと思う?」
宣戦布告にも捉えられる自信に満ち溢れた言葉。私が言えば嘲笑しか返ってこないだろう言葉も、真理亜さんが言えば文句も出なかった。
透明感ある綺麗な白い肌、整った眉毛に、長いまつ毛と目を強調する黒のアイシャドー、鮮やかな赤色のリップが更に真理亜さんの美麗を際立たせている。
お姉さんはしばらく真理亜さんの目を見据え、あー、と困ったように声を漏らす。それから笑顔で私に向き直る。
「……それじゃあ、また気が向いたらいらしてくださいね」
では、と手を振ってお姉さんが離れていく。そして近くにいた別の女の子に声をかけ始めた。
ふう、と息を付く真理亜さんに向かって私は頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして」そう言ってから真理亜さんは怒ったように眉を顰めた。「それよりあなた、ついて行こうとしてたでしょ? 駄目よキャッチセールスなんかに引っかかっちゃ」
「で、でもちょっと興味もあって……」
「興味って化粧に? まだ高校生でしょ。若いうちは化粧なんてしなくていいのよ、十分肌も綺麗なんだから」
「でもやっぱり綺麗になりたいですし」
髪の毛先を弄って足を擦り合わせる。真理亜さんの全身をちらちらと眺めてみた。黒のスキニーと紫のシャツで合わせたシンプルな服装、けれど、凄く格好良くて凄く綺麗。
自分の服装を見下ろし、どこか服に着せられている感の漂うそれを気恥ずかしく思い、裾を握りしめてもじもじとした声で呟く。
「可愛くもなりたい……ですし…………」
真理亜さんは怪訝そうな顔をしていたが、何かに気付いたようにぱちくりと目を瞬かせる。その目に好奇心の色が浮かんだ。彼女は楽しそうに笑顔を浮かべ、手を合わせる。
「ねえ和子、今日は何か予定でもある?」
「何もないです。ただ今日もぶらぶらしてただけですから」
それじゃあ、と真理亜さんが声を弾ませて私の手を握った。今日は私に付き合ってくれる? そんな彼女の言葉に、私はよく分からないながらも頷いた。
「み、短すぎないですか? 私には似合わないですよ……」
「そんなことない、とても可愛いわ」
羞恥に頬を赤らめながら、試着室の鏡に向かって自分の姿を映してみる。さり気無いフリルの付いた淡いピンク色のスカート、可愛いけれど丈は私の太ももまでしかなく、心もとない。
ロングの方がお好み? と真理亜さんが空色のロングスカートを手渡してくれる。お礼を言ってそれを受け取り、カーテンを閉めて一度静かに息を付いた。足元に山のように積まれた衣服(本当は二着以上の持ち込みは駄目なんだけど)を見て、苦笑した。
かれこれ数時間、私は真理亜さん専門の着せ替え人形と化していた。あの後彼女に連れられて様々なアパレルショップを巡らせられたのだ。目に入った店に飛び込んで目に入った服を手に取り、店員さんに遠慮なく尋ねてはどんどんと服を持ってこさせて私に着せて……。可愛い服もシンプルな服も柔らかい服も格好良い服もセクシーな服もふりふりした服も、普段着るようなものから一度も袖を通したことのないようなジャンルまで。商店街の方のフリーマーケットで五百円くらいの服を買ったかと思えば、その次には高級感溢れる敷居の高そうな店で一万五千円の服を買ったりする、正直色々と凄い。
真理亜さんはオシャレな人だから、服選びとかそういうものがとても楽しいのだろう。私を引き連れて店々を巡る彼女の表情は、そこまで露骨ではないにしろ、楽しそうに弾んでいた。
頭上にあった太陽がゆっくりと低くなり、街が淡いオレンジ色に包まれる頃。私と真理亜さんは駅までの道のりを並んで歩いていた。両手にずっしりと重いいくつもの買い物袋に息を吐く。
「疲れた?」
「いえ…………や、ちょっとだけ」
正直に言ってはにかむ。真理亜さんはでしょうね、と笑って、それからふと思い出したように私の首元に視線を向けた。
「そういえばそのマフラー、買ったばかり? 温かそうね」
言われて首元に手を当てた。そう、今日は東雲さんから貰ったマフラーを巻いていたんだ。温かなそれを口元に当て、微笑みながら頷いた。
「お気に入りなんです。プレゼントしてもらって」
東雲さんからプレゼントされたマフラーは今ではお気に入りだ。貰ってから二日しか経っていないけど、毎日首に巻いている。付けていると、温かくなるというか……何と言うかホッとするから。
ふふっと一人微笑んで気が付けば、真理亜さんがじっとこっちを見つめていた。一人で微笑んでいるのが気味悪く見えたんだろうかとちょっと頬を赤らめると、彼女の眼光が一瞬、鋭く光った。
「誰からプレゼントされたの?」
「えーっとですね」
「好きな人から?」
「はぁっ!?」
唐突な言葉に思わず噴き出した。いきなり何言ってるんだこの人。
「だって和子、あなたの顔凄く幸せそうじゃない。そんなに嬉しいってことはそうなんでしょ? 違うの?」
「え、ちが、違わな……いや」
チラリと横に目を向けると、喫茶店の窓に私の顔が反射していた。予想以上に頬が緩み、へんにゃりとした顔に、一気に顔が赤くなった。
真理亜さんは期待にキラキラと輝いた目で私を覗き込む。女子は恋バナが好きだっていうけど、真理亜さんみたいな大人の女性も例外ではないようだ。
「ね、誰? クラスの子? 先輩、それとも教師? あ、よく行くコンビニのアルバイトくんとか?」
「ちっ、違いますよぉ!」
「じゃあ誰なの?」
「しのっ…………東雲さん、で、す」
どうせはぐらかしたところで結局バレてしまうなら正直に言った方がいい。けれど、実際に言葉にしてしまうと、途端に全身がぽかぽかと温かくなってくる。熱い。
真理亜さんの返ってくるだろう反応が恥ずかしくなって、思わず前髪で顔を隠すように俯いた。
「……………………?」
けれど真理亜さんの返事が聞こえない。おかしいなと顔を上げ、そしてギョッとした。
彼女は、まるで信じられないものを見ているかのように迫力のある形相で私を見下ろしていたのだ。
「真理亜さ――」
「何考えてるの!!」
肩を掴まれ、ビクッと身を竦める。張り詰めた怒鳴り声に周囲を歩く人達の訝しげな目が集った。
私はといえば、急に怒り出した真理亜さんの気持ちが読み取れず、ただ怯えるようにその顔を見上げていた。カッと見開いた目に萎縮してしまう。それでも震える声を振り絞り、何とか尋ねた。
「ど……どうしたんですか、私、何か駄目なこと、しちゃいましたか?」
「駄目に決まってるでしょ! どうして東雲なの? よりによって、あいつなの! あなたの周りにはもっと相応しい人間がいるでしょう!? あいつは、東雲は、私と同じようなころ――」
殺し屋、と言おうとしたのだろうか。そこで真理亜さんはハッとしたように言葉を呑み、困ったように眉根を寄せて深く息を吐く。騒ぐ自分に周囲の人々が注視していたのに、ようやく気が付いたようだった。
「えっと、真理亜さん…………」
私は唾を飲んでから、黙ってしまう真理亜さんにぎこちなく微笑んでみた。
「もしかして東雲さんのことが好きなんで」
「そんなわけないでしょ!?」
「ごめんなさいっ!」
牙を剥いた形相でまた怒鳴る真理亜さん。どうやら照れ隠しでも何でもなく、純粋に東雲さんのことを嫌っているようだった。まあ最初に二人の対面を見たときも、そんな感じだろうとは思っていたけれど。
目に涙をこさえてビクビクと怯える私に、彼女がふっと苦笑した。大きな声出してごめんねと頭を優しく撫でてくれる。
「私が言いたいのはね、ただあなたにはもっと素敵な人がいるって、そういうことなの」
「え、それって……つまり、東雲さん以外の人を探せってそういうことなんですか?」
「ええ」
「…………どうして? どうして、東雲さんを好きになっちゃいけないんですか?」
多少の苛立ちが、顕著に声に表れてしまう。身を乗り出すようにして理由を尋ねた。
彼女は一瞬遠くを見るように目を細め、独り言のようにぼそりと呟いた。
「ちゃんと人は選びなさい。でないと私のようになる」
「え?」
何でもないわ、と呟いて彼女は続ける。
「和子。あなたには普通の生活があるでしょう? 私達とは……裏の人とは違うでしょう?」
「裏? 仕事のこと? 私だって、同じ仕事をしてるじゃないですか!」
「でも直接人を手にかけたことはない」
低く囁かれた言葉に息が詰まる。いくらでも言い様はあるけれど、彼女の表情があまりにも悲しそうになって、何も言い返すことができなかった。
手伝いしかしていないでしょう、と真理亜さんが付け足して。
「そりゃあ、客観的に見ればどっちも大した変わりはない。手伝いだけって言ったって、傷付けていることに違わないものね。でも当事者からしてみれば大きく違うの。殺すか、殺さないか」
「……最初に会ったとき、真理亜さん全く逆のことを言ってませんでしたっけ」
「そうだったかしら?」
彼女はくすりと微笑を含ませておどけてみせる。それから、あのときの言葉は客観的な意見の方、と囁くように吐いた。
「今から言うのは主観的な意見。裏世界から見て思うこと。人を殺したことがある人間から見て思うこと。あなたはこっちには似合わない」
「似合わない?」
「和子はいていい人間じゃない」
冷たく喉を刺されるような気がした。真理亜さんは表情を凍らせる私に気付かないようで、話を続ける。
「あなたはとても優しい子。優しくて優しくて、だけどそれ故に甘すぎる。裏ではそんな子生きていけないわ、考え方や生き方を変えない限りね。でもあなたにそれができる? 私個人として言わせてもらうと、そのままの方が十分素敵なのに。表の世界が似合う子なのに。……だから、普通の表の世界で、普通に生きている人を好きになりなさい。こっちの世界の人間のことは忘れてしまいなさい」
「……………………」
か細い呼吸が喉を震わせる。白くなる思考が、冷たく燃えていく気がした。
気付けば思わず何かを呟いていた。怪訝そうに眉根を寄せる真理亜さんに顔を向けると、彼女はくっと顔を顰めた。
「普通に生きられなかったから来たんじゃないですか」
自分の声が恐ろしく低く冷たかった。沸々と湧き上がる怒りを押し殺したような声で彼女に詰め寄る。
だって、殺し屋という場所からでさえ疎外されてしまったら、どうなる? 今の私の居場所はここしかないのに、ここまでなくしたらどうなる?
日の下で生きられなければ、夜に逃げ込むしか方法はないじゃないか。
「私にはここしかないんです。東雲さんと出会わなければとっくに死んでいたんです」
あの日東雲さんと会わなければ今頃死んでいたはずだった。色んな人達に会うことはなかった、あざみちゃんという友達ができることもなかった、変わることができなかった。だけど今私は生きている。
死にたいと願っていた、けれど生きたくなった。そんな風に変わることができたのは、東雲さんのおかげだと、そう思う。
いくら冷たく暗い居場所でも。私にとってはかけがえのない存在なんだ。
「私からもう何も奪わないで。ここにいたいの、いさせてください。だって……もう、他にないんだから」
真理亜さんの服の裾を掴み、顔を俯かせる。
「…………東雲さんは私に居場所をくれた人。彼の傍にいると安心するんです。優しくて、温かくて、ホッとする。だから好き、大好き」
おはよう、おやすみ、って言い合うこと。温かい手作り料理を誰かと一緒に食べること。テレビを見ながらの他愛ない会話。傍に誰かがいるというぬくもり。
全部単純で何てことはないけれど、その一つ一つを切望していた私には、堪らなく嬉しいことだったんだ。
真理亜さんが私の背を優しく叩く。見上げると、彼女は悲しそうな顔をしながらも微笑んでいた。私も同じように困った顔で笑った。
冷たい風が吹き付ける。人の歩く靴音が、話し声が、近づいてきては遠のいていく。太陽は沈んでいき、空が綺麗な紫色に染まっていく。
夜がやってくる。
私の居場所になった、夜がやってくる。




