第22話 薄汚れた白ウサギ
濡れたシャツの端と端をピンと引っ張って水気を飛ばす。鼻歌まじりにハンガーにかけ、ベランダにかかる物干し竿に干す。洗濯籠の中身が全部なくなったのを見ながら空を見上げた。薄い雲がゆっくりと流れているだけで、太陽の日差しが降り注ぐ暖かい日だった。
東雲さんの家によく泊まるようになって、自然と私も家事を手伝うようになった。不器用ながらも色々と教えてもらい、それなりに様になってきた。洗剤は入れ忘れないようになったし、食器の洗い残しもなくなったし、掃除も手際良く。あとは料理くらいか。
「おねえちゃん、なんのおうたうたってるの?」
部屋の中から少年がそう尋ねてきた。念のためあまり日に当たらないようにと、ベランダには出てこれないのだ。次第に外界の刺激には慣れてきたといえどまだまだ紫外線や日光には気を付けなければ。
洗濯籠を部屋に戻しながら微笑み、その質問に答える。
「クリスマスの歌。ねえ、何かサンタさんに欲しい物とかある?」
私達が彼を保護して四日。今日は子供達の喜ぶクリスマスイブだ。生憎雪が降る気配はないからホワイトクリスマスは無理そうだけれど、楽しい日であることに変わりない。
少年はうーんと上半身ごと傾けて悩んだ顔を作る。サンタさん、サンタさん、と何度か同じ単語を呟いた。
「サンタさんってえほんでみたやつ? あかいふくきたおじさん? ほしいものなら、なんでもくれる?」
「そうそう、そのサンタさん。何でもプレゼントしてくれるよ、できる限りはだけどね」
意外と好奇心旺盛な少年は、東雲さんが買ってきた絵本をこの数日間読み耽っていた。飲み込みも予想外に早く一度教えたことはすぐに覚える。勿論、難しい計算ができたり天才的な頭脳を持っているわけじゃない。常識がズレていたり言動は幼稚なところばかりだ。でも誰だって、生まれてから八年間も暮らしていた場所から、まるで異世界のような場所に突然連れて来られたりしたら戸惑うだろう。それと同じことだ。ただ、道端に落ちていたゴミを口に入れたり、外でおしっこを漏らしてしまったり、興味津々に道路に飛び出したりしたときは流石に参った。
教えれば何でも理解した。車、鳥、猫、犬、男性、女性、スーパー、お菓子。テレビにも興味があったのか、「はこがうごく!」なんて典型的な反応を見せて叫んでいた。教育番組やアニメから、そして散歩から、毎日の診察で会う薄命先生や看護師さんから、私や東雲さんから。きっと脳が混乱するほど大量の情報を、彼は戸惑うことなく素直に受け入れた。乾き切ったスポンジに水を染み込ませるごとく、たっぷりの情報をその脳味噌に詰め込む。今ではすでにひらがなが半分は書けるまでに成長した。たった数日でこの学習能力は驚きだ。もしもこの子が普通に外で生活していたら、今頃はどんな子になっていたのかと考えると少し面白く、ちょっと切なくなる。
サンタクロースもそんな風に覚えたうちの一つ。ちょうどいま彼が足元に置いている絵本がクリスマスの絵本だった。
「そうだねー……どうしようかしら……」
うむむ、と唸りながら考え込み、パッと顔を輝かせて笑う。
「ママをつれてきてほしい!」
「あ……ごめんね、サンタさんそれはちょっと無理かもしれない」
「えー。じゃあ、でんちでいいよ。ママのとこにはぼくがじぶんでいくから」
「あはは…………」
とりあえず何かおもちゃでも買っておこう、この年頃の子はどんな物が好きなんだろうか。これから出かける途中のお店で買ってしまおう。少年が東雲さんの家にいるのは今日で最後なのだから。
ベランダから部屋の中に戻ると少年が私の腰に抱き付いて頬擦りしてくる。にへへ、と顔を緩ませて笑う。
「おねえちゃんいいにおいする。あまくてーふわふわしてーあったかいのー。おひさまのにおい!」
「柔軟剤の匂いかなー、いい匂いだよね、これ」
お日様の匂いどころか日光もろくに浴びたことがないはずだけどテレビか何かで聞いたんだろうか。そう言われて悪い気はせず、しゃがんで彼の頭を撫でた。髪の隙間からふわりとシャンプーの匂いが香る。いい匂いだね、と同じ言葉を返すと頬を手で覆いながら照れた。
「おねえちゃんがおひさまなら」
「ん?」
「おにいちゃんは、よるのにおいなの!」
「へぇ……それってどんな匂い?」
「よくわかんない!」
そっかー、とまた頭を撫でて微笑む。意味は分からないけど、なんとなく気持ちは分かる。
玄関から物音がした。噂をすれば何とやら、ちょっと出かけていた東雲さんが帰って来たらしい。私達はパタパタと廊下を小走りで走り、彼を出迎える。
「おかえりなさい」
「おかえりー!」
「……ただいま」
私達の顔を見ながらそう言って、東雲さんは靴を脱がずに玄関に立ったまま「そろそろ行くぞ」と告げた。少し待ってもらうように言って急いで部屋から荷物と少年の上着を取ってくる。寒くないように厚手の上着とマフラー、手袋をはめて、日差しを遮る帽子を深く被せる。サングラスが固定されているかしっかりと確かめ、少年の衣類やおもちゃが詰まった鞄を肩に下げた。
それじゃ行こっか、と少年の小さな手を握る。うん、と頷いて少年は家の中に空いた方の手を振った。
「バイバイ」
今日から少年は東雲さんの家を出て、今後世話になる人の家に行く。
ネズミくん、と少年の名を呼んだ。なぁに? と振り返るサングラス越しの青い瞳に微笑みながら、解けかけていたマフラーを巻き直す。
「寒くない?」
「へいき」
「そっか」
――――ここ数日の間に殺し屋には『ドブネズミ』という仲間が増えた。説明するまでもなく少年のことだ。名付けたのは東雲さんで、名付け理由は出会ったときの汚い見た目からというあまりに不憫なもの、その上本名も分からないせいでドブネズミが少年の呼び名となってしまった。可哀想すぎるからせめてドブは取ってネズミと呼ぶことにはしているけれど、それも素敵とは言えない。
ネズミくんにあの後話を聞いてみたところ、その今までの生活は東雲さんの推理したもので大体合っているようだった。――人を一人殺してしまった。それは今更どれだけ足掻こうがどうしようもない事実。戸籍のないネズミくんに一旦の所属する場所を与えようとした結果が殺し屋の仲間になることだった。勿論今度彼に直接依頼が運ばれることはきっとないだろうが、とりあえずといった感じだ。
ネズミくんは保護者もおらず、まだ幼い。更に彼を施設や里親に預けるのは簡単なことじゃなかった。いくら飲み込みが早いとはいえまだまだ常識外れな部分が多いネズミくんだ。普通の子供達の輪に放り込んですぐに馴染めるとは思えない。それこそあからさまな嫌がらせを受けたり疎外されたりするんじゃないかと思うとそんなことはできなかった。
常識を覚える期間……つまりは誰かの元で普通の子と同じように育てられることが必要だった。だが東雲さんの家にいつまでも置いてはおけない、彼だって優しいといえどお人好しまではいかないのだ。だからネズミくんを育ててくれる人、ネズミくんの事情を受け入れてくれて、かつ人を一人育てられるくらいお金があって、かつ彼から目を離さないようにほとんど家にいる人が必要だと。
そんな条件の人がいるのだろうか? なんて思っていたものの、全ての条件に当てはまる人が東雲さんの知り合いに一人いるらしい。その人も殺し屋の仲間だという。
「『白ウサギ』でしたっけ、その人の名前」
電車に乗り込み、ネズミくんを中央に挟んで両隣に私と東雲さんが座る。幸運にも今日は電車が空いてあまり人がいない。身を乗り出すようにして尋ねると、頷きが帰ってきた。
「どうして『白』が付くんだろ。何だか不思議の国のアリスとか思い出しますね」
独り言のように呟いて考える。白ウサギなんて可愛い名前なんだから、やっぱり凄く可愛い女の子ってイメージがあるな。真っ白いツインテールのリボンを付けた女の子。
「案外腕の立つ奴だ。俺も昔、危ないときに一度助けてもらったことがある」
「オオカミさんが? じゃあ、かなり強いんだ、その人」
「さあな……。まあ、恩はある」
そのうち電車は第八区に着き、私達は駅に降りる。それから駅前を少し歩いてホスピスの前を通り過ぎた。ホスピスに行くんじゃないのかな、と思いつつも東雲さんの後をついて行く、陽気に鼻歌を歌いながら歩くネズミくんの手を引き連れて。
十分程歩いてとあるマンションの前で止まる。まあまあの高さがある灰色の壁のマンションだった。入口の所に黒い字で『メランコリア』と書かれている。中に入ると狭いエントランスの先にエレベーターがあった。乗り込み、十階まであるうちの五階を東雲さんが押す。ゴウンと音がして、キツイ振動と重力が体に圧しかかる。楽しげに踊るネズミくんの横でよろめきつつ私は口を開いた。
「まさかこのマンションが目的地なんです?」
「そうだ」
「えっと、でもここ第八区ですよ?」
「ああ、そうだな」
五階に着く。左右にいくつかの扉が並ぶ中通路。カーペットも敷かれておらず無機質なコンクリートが剥き出しになった廊下を東雲さんがスタスタと歩いていく。
廊下はしんと静まり返り、寂しさを覚えるくらいだ。もしやどこの部屋にも誰もいないのかもしれない。私達の靴音だけが冷たい壁に反響する。
「東雲さん東雲さん」
「何だ?」
「あの、第一区とかじゃないんですか? あそこ緑とか多くて、子供も住みやすいし」
「そんなこと言っても仕方ないだろう。頼む奴がここに住んでるんだから」
「で、でも第八区って…………」
「ネズミの検査のためにもホスピスに近い方が便利だろう」
「それは」
そうですけど、と言う直前に通り過ぎたばかりの扉が開く音がした。同時に背中から轟音が押し寄せる。
「うひっ!?」
「わー!?」
私とネズミくんが反射的に耳を塞ぐ。指の隙間からさえ聞こえてくる爆音は、鼓膜にキンキンと響いた。部屋から髪を巻いた女の人が出てきた。その顔は怒りに歪み、彼女は煙草を吹かしながら部屋に向かって何やら怒鳴っている。
「あんたいいかげんにしなさいよ! 散々勝手なことばっか言わないで!」
「手前だって同じだろうが! 散々別の男を連れ込んでよぉ!!」
部屋から聞こえる爆音は何かの音楽だということに気が付いた。ドンドンと肺に響く重低音のリズムと激しいラップ。音が大きすぎて、耳が痛い。女性が勢い良く扉を閉めると廊下はまた静寂に包まれた。彼女は不機嫌な顔で私達と擦れ違う。
防音が効いてるんだ、と東雲さんが言った。
「だから隣の部屋で乱闘があっても気付かないさ」
「何それ……」
自然と手に力が入ってしまったのか、手を繋ぐネズミくんが不思議そうに私を見上げてくる。微笑を返しつつも不安が顔に表れたのだろう、僅かに不安げに顔を俯かせてしまった。
こんな危ない所にこの子を預けてもいいのかな。今から会う人はこんな所に住んでる人なんだよね、だったら結構強い人なのかな、ネズミくんを守ってくれるかな。
五五二号室の前で東雲さんが足を止めた。扉の傍にあるチャイムを押してしばらく待てど、誰も出てこない。小さく舌打ちをしてもう一度、もう一度、更にもう一度。
留守なんじゃないかと言おうとしたとき、それを否定するようにようやく扉が開いた。そこから億劫そうに一人の男の人が姿を見せる。
「仁科」
「……………………」
仁科、と呼ばれたその男性は東雲さんに返事をせず、ぼんやりとした顔で彼を見ていた。変わった人だ、と思った。
肩甲骨まで伸びた長髪は鈍くくすんだ灰に近い白い色。前髪も長く、特に左側に至っては左目を完全に覆い隠している。唯一覗く右目さえ、どんよりと濁って生気が感じられない。
彼はだぶだぶの白いパーカーの袖から骨ばった指先だけを出した右手で左手首をそっと擦りながら玄関にもたれかかる。微笑みともなんとも言えないふにゃりとした表情を浮かべる様子は、とても眠たげだった。微睡むような目が私とネズミくんを見下ろす。慌てて小さくも会釈を返した。
「…………入って」
気だるげで少し高めの声が空気を震わせる。東雲さんに続き私も部屋に上がり込んだ。廊下に薄く積もっている埃をペタペタと踏みながら、靴下が汚れちゃうなと何となく思った。
前を歩く二人の背中。仁科さんは東雲さんよりも背が低い。けれど、パーカー越しにも貧弱なのが分かる、痩せぎすの体のせいでひょろ長い体系に見えた。
部屋は狭くも広くもない普通の1Kの構造をしていた。けれど廊下にあったガスコンロはろくに使った形跡が見れず、ほとんど新品同然だった、埃が積もっていなければ。部屋の家具が中々大きいことは東雲さんと同じだが、あっちの部屋に黒やダークブラウンの家具が多いのに対してこっちは白で統一されていた。
シーツや毛布がぐしゃぐしゃになったベッドに仁科さんが腰掛け、私達はソファーに座る。東雲さんが私達に顔を向けて話を切り出した。
「和子、ネズミ。こいつは仁科浩介」それから続けて「こいつが『白ウサギ』だ」
「えっ?」
白ウサギ? 白ウサギって……
「今日会う予定の?」
「それ以外に誰がいる」
「いえ……」
恐る恐る仁科さんの顔色を窺う。よく言えばのんびりと、悪く言えばぼけーっとした顔のこの人が白ウサギ? 殺し屋? 到底そうは見えない。腕が立つどころか真っ先に死んでしまいそうな脆い雰囲気の人なんだけど。それにどこが白ウサギなんだろう? 髪の色? 可愛いだなんてイメージはこれっぽっちもなかった。
そんな私の心境を読んだのか、仁科さんはふにゃっと口だけで笑った。しかしそれはどこかぎこちなく、不気味な笑みにしか見えなかったけれど。
「でも今は永久休職中」
「そうなんですか?」
尋ねると彼はこくんと首を落とすように頷いた。抜けたようにふわふわした声と、さり気無い仕草がとても子供っぽく見える。
そう言えば何歳なんだろう。二十は超えているだろうが、どことなく幼い雰囲気からすればまだ前半だろうか。後で聞いてみようか。
「お金はいっぱい貰ったし。だからもう十分。きっと普通に過ごしてればなくならないから、もう死ぬまで仕事はしないの」
「へぇ……いいですね、のんびりした生活」
そっか、確かにこの人は条件にぴったりだ。殺し屋だからネズミくんの事情を受け入れられるし、お金もたっぷりあるみたいだし、ずっと家で自由にできる。
「うん。一日中ずっと寝てても平気なの。誰も怒んないから」
「俺が怒るわ」
東雲さんが仁科さんの頭を小突く。いてっ、と小さく声を出して仁科さんははにかんだ。
「ねえ、おなかすいた」
ネズミくんが家に来て初めて声を出した。彼なりに緊張していたのか、私の腕をぎゅっと握って離さない。お腹の虫が唸るのを聞いて時計を見れば、十二時ちょうどの時刻だった。ネズミくんの腹時計は正確だ。東雲さんが廊下に出て冷蔵庫を開け、すぐ戻ってくる。手に二つのリンゴを持っていた。呆れたように仁科さんに溜息を吐く。
「冷蔵庫にこれしかないってどういうことだよ」
「水と薬もある」
「肉や野菜や魚とかは?」
「食欲ないもん」
リンゴを頭にぶつけられた仁科さんがいてっと声を上げた。額を擦りながらベッドの上に転がったリンゴを拾い、シャリシャリと齧り始める。ネズミくんがそれをじっと見て東雲さんから残ったリンゴを貰い、同じように齧り付く。おいしい! と目を輝かせる様子を見れば、どうもかなり気に入ったようだった。
「ベッドで食うな、行儀の悪い」
お母さんみたいなことを言って、それから買い物に行ってくると東雲さんが言い残して部屋を出ていく。
部屋に残された私達。仁科さんがリンゴの汁で汚れた口元をべろりと舐め、私に言う。
「君は?」
「秋月和子です。ネコって名前の殺し屋で、東雲さんのパートナーをやってて。聞いてませんか?」
「……前にその子の説明されたとき、軽く言われた気がする」目を伏せて「あんま覚えてないけど」
ぼくネズミー! と慣れてきたネズミくんが元気良く手を上げてはしゃいだ。仁科さんは私の顔を真正面からじーっと見つめ、ぼんやりとした声で言った。
「東雲にも妹いたんだ」
「やだな、妹じゃないですよ。苗字違うでしょ」
「じゃあ恋人?」
「こっ!?」
素っ頓狂な声が零れ、慌てて首を振って否定する。
「や、やだ、何言ってるんですかー! 東雲さんと私、そんなんじゃないですから!」
「そうなの?」
「そうですよっ!」
急に変なこと言わないでくださいよ、と言いながら私は自分の髪を掻く。暖房が効きすぎているんだろうか、少し暑い、肌が僅かに汗ばむ。
「恋人だなんてそんな……ないない。急にそんな……あ、あう、あるわけっ、変なの……」
お、おかしいな、喉がつっかえて上手く言葉が出てこない。言い訳しようとすればするほどボロボロの嘘みたいな言葉しか出てこな……いや待ってよ、何、言い訳って。それじゃまるで……。
「おねえちゃんどうしたの?」
「ひ、ぇ? ……何が?」
「おかおまっか。タコさんみたい」
嘘、と呟きながら自分の頬に触れる。赤くなっているのかどうかはさっぱり分からないものの大分熱を持っていた。はふ、と熱い吐息を零して視線を惑わせる。乾いた唇を舐め、唾を飲み込んだ。詰まった言葉は口から出てこない。
ネズミくんがそんな私の様子を見てニンマリと口角を上げる。うひひ、と不思議な笑い声を立てながら、
「おねえちゃん、おにいちゃんのこと、すきなんだー!」
「へぇっ!? ちっちがっ! ただ、突然そんなこと言われて驚いただけで……」
「でもえほんで、すきって、かおが、あかくなることだって」
「も、もおぉ…………」
なんで変なことばっかり覚えてくるんだ。手の平で熱くなった頬を拭い、熱を冷まそうとしていると、不意にネズミくんが立ち上がって私の目の前に来る。大きな目が私の目を覗き込む。
大きなくりくりとした目に見られると、何だかやましいことはないはずだけれど目を逸らしたいような、そんな衝動に駆られる。この目を前に嘘は付きづらい気がした。
「おねえちゃん。あのね、テレビでみたんだよ。うそはいけないんだって」
「嘘って…………」
「うそをついてたら、じぶんが、うそのひとになるの。こまっちゃう。だから、すなおになるんだって。ごまかさなければ、いいだけなんだって」
「……………………」
「すきなら、すきっ! だけでいいんだよ?」
簡単でしょ? と小首を傾げて微笑んで。私はぼんやりとその無垢な笑顔を見つめ、それからふっと息を漏らした。くしゃりとその頭を撫でる。
「ネズミくんは大人だね」
「でしょ! ぼく、もうおとなだもん!」
自慢げに胸を張る。鼻を膨らませ、目をパチパチと瞬く。そのお腹から音が鳴り、「おなかすいた!」と元気良く叫ぶ。
仁科さんが齧りかけのリンゴを傍らに転がし、ベッドに仰向けに寝転がった。小さく欠伸をして眠たげに眼を擦る。力の抜けた声がふわふわと辺りに浮かぶ。
「おれはまだ子供だけどね」
大人じゃないですか、と笑ってみると、彼は垂れた横髪の隙間から右目をゆるりと細めて笑った。
「成長しても子供なの。おれだけじゃない。東雲だってそう」
「え?」
「あいつは一緒にいて落ち着く。おれと同じにおいがするから」
左手首を右手でそっと握り、仁科さんは深く息を付くように目を閉じる。
「子供なんだよ、皆」
「どういう意味で……え、ちょっと。仁科さん? ね、寝ないでくださいー!」
夜の十一時を大分過ぎた頃。大きなベッドの上で仁科さんとネズミくんは向かい合うように眠っていた。跳ねのけられた布団をそっと二人の肩にかけ、その寝顔を見下ろす。
白い髪と黒い髪。対極な色だけれど、それが不思議と二人には合っているような気がした。これから先のことはこれっぽちも分からないけれど、意外と上手くいくかもしれないな、と根拠もないことを思ってみる。
「……………………」
無意識に足はベランダの方へ向かった。ひたひたと冷たいフローリングを歩き、静かにベランダの窓を開ける。冷たい風が容赦なく顔面に吹き付け、急いでベランダに出て窓を閉める。物音に気付いた東雲さんがこちらを見ていた。
ベランダで煙草を吸う東雲さんの姿はもう随分と見慣れた光景になっていた。息を吸う度、煙草の先で赤く燻る火種も、口から吐かれる紫煙も。臭いが苦手な私にとって煙草に触れるような機会は全くなかったのに、東雲さんと出会ってからはそれすらも日常で見る光景の一つとなった。
壁に立てかけられていた木の椅子を手すりの傍に移動させ、そこに膝立ちになって景色を見つめる。
煌々とカラフルなイルミネーションの光を弾かせるビル。大通りの針葉樹には青白い電燈が飾られ、楽しげな音楽が薄っすらと聞こえてきた。空を見上げれば、そんなイルミネーションに負けず劣らずの星が光っている。星を見ながら隣に立つ東雲さんに言った。
「煙草、控えないと早死にしちゃいますよ」
「別に長生きしようと思ってない」
「またそういうこと言うー」
何度も言ってるのに東雲さんは煙草を減らそうとしない。いつ頃から吸っているのかと尋ねれば、何と高校のときに友達に勧められてからだと言っていた、かれこれ何年も喫煙していればかなりの中毒になってしまうんだろうな……っていうか未成年だったろうに。
ベランダに座りながら、白くなった手の平を擦って息を吐いた。煙草の煙が風に煽られ、ケホッと軽く咳き込んでしまう。
「部屋に戻ってろ、風邪引くぞ」
そんな私に見かねたように東雲さんが言った。私はちょっと考えて、それから首を振る。
「もう少しだけいさせてください」
凍えてしまいそうだけど、煙草が煙たいけど、だけど今はここにいたかった。
東雲さんは「勝手にしろ」と一言呟いてまた黙る。肯定の意だと受け取って、しばし眼下に広がるイブの街に見とれていた。
何分か経ち、賑やかな音楽が一層大きく鳴った。鐘の音も聞こえる。どうやら日付が変わり、クリスマスになったようだ。そのときふと切り出すように東雲さんが言う。
「クリスマスだな」
「ええ……あ、そうだ、ネズミくんにおもちゃ買ったんだ! 枕元に置いてこなくちゃ」
ここに来るまでの間におもちゃ屋に寄ってプレゼントを買った。店員さんに聞いて人気なのを選んでもらったんだけど、気に入ってくれるかな、気に入ってくれると嬉しいな。
早速プレゼントの準備のために椅子から降りようとした私に、東雲さんが制止の声をかける。振り向けば、東雲さんが横目で私を見つめながら、どこから取り出したのか近くに置かれていた袋を放ってきた。慌てて受け止める。リボンでラッピングされた中くらいの袋だった。
開けてみろ、と言われて恐る恐るリボンを解く。袋を逆さまにすると、中身が手の平に滑り落ちた。
「これ…………」
「クリスマスだからな」
それは深緑色のマフラーだった。森林の色。滑らかな手触りで、こうして触れているだけでも温かい。
思わず東雲さんを見上げると、彼は私の反応を窺うように目を細めていた。
「お前の好みが分からなかったから、とりあえず冬でも使える物をな。気に入らなかったなら使わなくても構わない」
「そんなことないですっ!」
飛び出した声は自分でも予想外に大きく、慌てて口を噤んで首を振る。目を丸くする東雲さんを見つめ、マフラーを強く握りしめてはにかんだ。
「嬉しいです。その、本当に。すっごく嬉しい……。ありがとうございます、東雲さん」
東雲さんからのクリスマスプレゼント。にやけてしまいそうになる口元をそれで隠し、ふふっと笑う。本当に本当に、とっても嬉しかった。
マフラーと似た深緑色のコートを羽織っている東雲さんは、喜ぶ私にゆるりと目を細めた。そっと伸びてきた手の平が私の髪を、そっと触れるように撫でていく。その優しい指先がもどかしいと感じた。
「それは良かった」
東雲さんが柔らかく笑う。滅多に見せてくれることのない心からの笑顔。
体中の熱が、全部胸に集まったかのように、胸が酷く熱く痛みを訴えた。
「おい、やっぱり風邪引いたんじゃないのか? 顔が赤いぞ」
東雲さんがそんなことを言う。けれど私はただ首を振るだけでしか返事を返せず、きゅうっと唇を噛んで俯いていた。
体中が熱い。内側からじわじわと焦熱で炙られるように。吐く息さえも熱く、本当に風邪を引いたのではと思うほど、頭までくらくらしてきた。……けれどこれが風邪なんかではないこと、それは左胸に伝わる痛みのおかげで理解した。胸が、心臓が酷く苦しい。ぎゅうっと締め付けられるような感覚と跳ねる音。
こんな気持ちは初めてだった。初めてだったけれど、それがどういうものかは無意識に分かっていた。今まで幾度か頭の中に浮かんでは、自分自身で否定していたその気持ち。だけどもう限界だった。これ以上否定したところでもう意味はない。
ネズミくんだって言ってたじゃない。誤魔化さなければいい、素直になればいい。
ただそれだけなんだから。
東雲さんと二人、ベランダで夜風を浴びながら、空を見上げる。
夜空に瞬く星は、私を見守ってくれるだろうか。
「ありがとうございます」
もう一度お礼を言って微笑みながら、不思議そうな彼の目を見つめる。鋭くて冷たい瞳。誰もが恐れるその眼差し。
最初は私も怖かった。だけど今ならもう怖くない。
オオカミは本当はとても優しいのだと、そう知っているから。
私は、東雲さんのことが好きだ。




