第19話 先輩の正体
冬休み中は事故や非行に走らないように、という校長の話が終わり、終業式は幕を閉じた。その後のロングホームルームで成績表が渡り、すぐに解散となる。
今年の終業式は土日の調整のせいで少し早く、十二月二十一日に行われた。鞄を持って帰ろうとしていると、名前を呼ばれて顔を上げる。
「何ですか、先生?」
教壇で私を呼んだ金井先生の元へと小走りに寄る。申し訳なさそうに眉を下げながら、教壇上に置かれていた分厚い青いファイルを持ち上げるのを見て、これは何か頼まれ事をされるのだろうと思った。
予想通り金井先生は、配達を頼まれてくれませんか? と弱々しい声で言った。
「配達ってどこに?」
「美術部の先生に頼まれていたやつなんですが、急に呼び出されて渡せなくなりまして。すみませんが届けてくれませんか? 美術室に適当に置いておいてくれればいいですから」
駄目ですか? と苦笑しながら念を押される。嫌な気持ちが表情に表れないように注意しながら、私は薄くはにかんで分かりましたと頷く。
美術部といえば昴先輩の所属している部活だったな、と脳裏で考えて。
昴先輩とはクリスマスツリーを飾り付けて以来、あまり話していない。テストで忙しかったときはまだしも、それが終わってからもだ。廊下で擦れ違うことや話しかけられることはあれど、私の方からすぐに話を切り上げて別れることが多い。
それは勿論、私が彼を避けているということからで、何故なら前に見たあの本のせいだった。
やっぱり、本当に知らなかっただけかもしれない。
だけど、知っていたのだとしたら?
「ここだよね」
旧校舎三階。そこにある美術室の標識を確認してから扉を叩く、返事はない。手をかけ引いてみると簡単に扉が開く。鍵がかかっていなかった。
失礼します、と言いながら室内に入る。粘土や絵具やのりの匂いが満ちる部屋には誰もいなかった。ちょっとだけほっとする。教室の隅で埃を被ったイーゼルに、ぐちゃぐちゃと適当に置かれた四角い椅子、辺りにたくさんあるキャンバスは生徒の作品だろう。
絵具や何やらで汚れた机。その中でもあまり汚れていないスペースにそっとファイルを置いた。これで頼まれ事は終了。さ、私も帰ろうか。
「でも、美術室に入ったの、初めてだなぁ」
部屋から出ようとした足を止め、感慨深く美術室を見渡す。中学のときは美術の授業もあったが、高校に入ってからはそんなのなかったし。高校の美術室はこれが初めてだ。
何気なく足をふらつかせて色々なキャンバスを眺める。青い絵の具で描かれたリンゴ、男女のワルツ、ふっくらとした優しそうな聖母、アニメ風の絵、棒人間や猫を落書きして遊んでいるものも。木炭で書かれた絵の傍に、誰かがおやつにでも持ってきていたのか、食パンが転がっていた。
それが目に留まったのは偶然だったのだろうか。美術室の奥、窓から差し込む日の影になっている場所に扉があった。古い扉だ。その上に張られた、『美術準備室』というプレート。
特に考えもせず私はそっちに足を進めた。覗いてはいけないだろうという気はあったが、何となく、ここまで来たら覗いてみたかった。それにどうせ鍵はかかっているのだろうし。
「あれ?」
予想に反し、鍵はかかっていなかった。かけ忘れていたのか普段から解放されているのか。首を傾げながら、私はその先にと進んだ。美術室よりも更に濃厚な絵具の臭いが鼻を突く。咳き込みそうになるのをぐっと堪え、教室の四分の一程しかないだろう狭い部屋を見た。
窓には黒いカーテンが引かれ、隙間からしか光が差し込まない。電気も付いていないせいで、まるで夜かと思うほどに暗く、寒かった。それでも辛うじて見えるのは、棚に積まれて更に部屋を圧迫する段ボールや椅子、そこに並ぶ石膏像、机に散乱したシャーペンやハサミ。
ただでさえ狭い部屋の残り僅かなスペースを埋めるもの、それはたくさんのキャンバスだった。一箇所に固められたイーゼルに乗るキャンバスに黒い大きな布がかけられ、絵は一つも見えない。誰にも見られたくないように。
むしろ気になる。これはあれだ、押すなと言われると押してしまうのと一緒。カリギュラ効果だっけ。
もしかしたらコンクールに出す予定のものなのかも。完成するまで誰にも見せたくないってやつ。でも私は美術部員じゃないし、今は誰もいないし、ちょっとだけなら…………。
好奇心が罪悪感を勝り、私はそっとキャンバスにかかった布に手をかけ、そっと捲る。
二つの眼球が私を見つめた。
「ひっ!?」
心臓を握られるような恐怖が全身を襲い、咄嗟に手を退けた。はらりと布が床に落ち、絵の全貌が露わになる。キャンバスに描かれた二つの眼球。薄く血管が張られた、濁った黒い目が、ゴロリと転がってこっちを見ている、そんな絵。
視線をその絵から逸らし、ゆっくりと他の絵を見る。
体を真っ赤に染めた赤ん坊が、雄叫びを上げ母親の腹を引き裂いて這いずり出す絵。脂肪の塊と見紛うほどに肥えた男が縄で逆さに吊られ、周囲を囲む痩せた牛達が男を解体しようとしている絵。首吊り飛び降り服薬焼身練炭、様々な自殺を試す人の笑顔が描かれた絵。爛れた肌を鏡に映して絶叫する女性の絵。
ぐっと喉の奥で不快感が悲鳴を上げた。『好奇心は猫を殺す』ということわざが脳裏に浮かぶ。首を振り、青ざめた顔に手を当て、深呼吸をする。けれど絵具の臭いばかりが鼻に付き、むしろ気分は悪くなる一方だった。
何、何だこれ、何なんだよこの絵は。
気持ち悪い。
「何してるの?」
背後から聞こえた声に心臓が凍り付いた。青ざめた顔で振り返ると、扉の前に、細く笑みを浮かべる昴先輩が立っていた。
彼は茫然とする私の傍に歩み寄り、床に落ちた布を取りながら言う。
「勝手にこの部屋に入っちゃ駄目だよ。埃っぽいでしょ」
布を机に放り、目を悪くするから、と言いながらカーテンと窓を開ける。上の階から恐らく合唱部だろう、翼をください、が聞こえてきた。
静かに雪が降っていた。灰色の空には青色一つない。風が窓から吹き、頬を冷たく撫でていった。
不意に一羽のカラスが羽ばたきながら近くの電線に止まる。黒い目玉がこっちを見ていた。
「ほら、肩にゴミが」
昴先輩が私の肩に手を伸ばす。パシンと音を立てて、私の手がその手を払った。
払いのけられた手をぼんやりと見つめ、それから私に細めた目を戻し、彼はコテンと首を傾げた。
「和子ちゃん?」
私の目が怯えていることに気が付いたのだろう。彼は安心させるように微笑んで絵を見つめ、
「確かにちょっと気味の悪い絵かもしれないけど……絵なんだから。自分の思考を表現することに、批判を浴びせちゃ駄目だよ」
手で身振りを表しながら彼が一歩私に近寄る。じり、と私の足は一歩後ろに下がる。乾いた唇を舐め、一言私は告げた。
さっきから心の内側で燻っている不安を、半ば否定されることを望みながら。
「昴先輩ですか?」
「何が?」
「この絵。昴先輩が描いたんですか?」
彼はただ微笑んでいた。白い吐息が数回空気に溶け、風が私の髪を揺らす。
ふと、昴先輩が微笑みを深くした。
「そうだよ」
答えに一度、目を瞑った。
深く息を吸って、目を開ける。
目の前の彼を、もう前のようには見れないかもしれないと思いながら言った。
「花壇に動物を埋葬していたのは、本当に、可哀想だと思ったからなんですか?」
キョトンと目を丸くして、何を言っているのかと言いたげにこっちを見てくる目。その目を見つめながら私は尋ねる。
「死んだ動物をわざわざ学校まで持ってきて、花壇の下に埋葬するのって面倒でしょう? それに死んでる動物は一匹や二匹じゃない。可哀想だからって理由一つじゃ割に合いません。……それと、私にプレゼントしてくれたジギタリス」
「あれがどうかした?」
「毒があるって、何で教えてくれなかったんですか」
花百科でジギタリスの項目を見たとき知ったこと。それは、あの花は猛毒を含んでいるということだった。
取り扱う際には十分に注意しなければならない、下手に扱えば死んでしまう可能性もある。そんな花を昴先輩は何の説明もなく私に渡してきた。
あのとき彼が手袋をしていたのは寒さのせいだけでなく、毒があることを知っていたからなのか。
プレゼントされた一輪の花を、もしもすぐ捨てずに下手に触っていたらどうなっていたのだろう。
「店で買ったものだから毒性は薄いと思ったんだよ」
「だからって一言くらい言うべきじゃないんですか」
「だって聞かれなかったから」
机に手を置きもたれかかり、何事もないかのように肩を竦めて笑う彼に、カッと怒りが込み上げた。ふざけないで、と声を荒げた。
「先輩、初めて会ったときに私に言いましたよね? 私のこと知ってたのは噂に聞いたからだって、学校中で中途半端に高校デビューした子として噂になってるんだって。でも、この間イルミネーションの手伝いをしたとき、生徒会長も、他の女の子達も、私のことを知らなかった! 学校中で噂になってるなら、一人くらい私を知ってる人がいてもいいはずでしょう?」
考えてみればあまりにも馬鹿げた話なんだ。学校の、何百人もいるうちの、たった一人の人間が中途半端に髪を染めたりしたからって学校中で噂になるのはおかしい。人はそれほど他人を見ていない。
あれは昴先輩の嘘だ。
「あなたが私のことを知ってたのはどうして? 一体どこで、私のことを知ったんですか?」
彼は答えない。私は続ける。
「それと、もう一つ私にくれた物がありますよね」
「贈り物?」
「ええ。覚えているでしょう? スノードロップの鉢植え。……本当は知ってたんでしょう、あの花の花言葉」
「言ったじゃないか。『希望』だって」
「違います。それとは別の、あの花を贈り物にしたときの花言葉です」
声が震える。九割の確信と、一割の希望を胸に、それを言葉にするべく唇を開いた。
スノードロップを誰かの贈り物にしたときの花言葉。
それは――――
「『あなたの死を望みます』」
それを言ったのは私ではなく、昴先輩だった。少しだけ悲しそうな笑顔が影で薄暗くなっていた。
心なしか低いその声を聞きながら、私は、一縷の希望がほろほろと崩れていくのを感じていた。
「…………やっぱり知ってたんですね」
諦めたように気落ちする私の声。彼は机を一度撫でるように離れ、こっちに近づいてきた。後ろに下がろうとするも、靴の踵がイーゼルに当たる。昴先輩は静かに、手を背に回し、私とぶつかりそうな距離まで近づいてきた。浮かぶ笑顔が部屋の影にかかり、気味が悪かった。
「どうして僕が君のことを知っていたと思う?」
首を振る。ニコリとした笑顔のまま、答えを告げられた。
「好きだったから」
「は?」
空気が抜けるような間抜けな声を零す。彼はクスクスと声を上げてその表情を変えた。
笑顔は変わらない。けれど、どこか背筋に悪寒を走らせる、黒を含んだ笑顔に。
「…………!」
触れられたわけでもないのに、首を、酷く熱く酷く冷たい不気味な手に掴まれた思いがした。
ねっとりとした顔の彼は、体を強張らせる私の耳元に口を近づけ、吐息と共に声で直接鼓膜を震わせる。
「今年の春、入学式の日のことを覚えてる?」
私はふるふると首を振った。入学式のことなんて覚えていない。数ヶ月前のことだというのに、高校生活に希望を抱いて輝いていた頃のことなど、とうに忘れてしまった。
「体育館もそう広くはないから在校生は式へ出席しなくても良かったんだ。でも僕は手伝いとして参加していてね、ギャラリーからは初々しい新入生の姿がよく見えたよ」
君もね、と先輩は微笑んだ。
「他の子と同じように緊張しててさ、そのくせ楽しそうに目をキラキラさせて、気持ちを弾ませてるのが丸分かりで。分かりやすい子だなぁって思ったんだ」
「……………………」
「それからも何度か君を廊下で見かけるようになった。移動教室で慌てて廊下を走る君とか、クラスメートに話しかけられて嬉しそうに笑う君とか。いつも君は表情がコロコロ変わって、見ていて飽きなかったんだ。なんて素直で面白い子なんだろうって」
「……………………」
「その頃から僕は君が好きになった」
え、と顔を上げる。それだけで? と思わず呟くと、昴先輩は小さく肩を竦めた。
「人を好きになる理由なんて心が少しでも動かされれば十分なんだよ。小さな理由でも大きな理由でも周囲に理解されないような理由でも、その人を好きになることはあるんだよ。最初は嫌いだった人としばらく接するうちに、その人に恋をすることもあるだろう?」
「よ、よく、分かりません」
彼はニッコリと微笑む。残念だ、と小さく呟いてから、声を弾ませて言った。
「光栄なことに、僕のことが好きな子って学校に多いみたいでさ」
「はあ?」急に何を言い出すのだろうこの人は。
「優しくしてあげれば結構惹かれてくれる。今まで辛い日々を送っていた子なんかは特に。弱っているところに優しくされると、人間弱いんだ」
僅かに目を見開いた私に彼が笑った。
「同じクラスの子からいじめられてたんだよね。でも最近、君が変わり始めてからはそういうこともなくなった。それなのに最近になって、またそういうことが増えた。それも前とは別の子達に」
「何で」
「知ってるよ? 君のことなら何だって。いじめられてたことも、両親が不仲でほとんど家に一人だってことも、髪を切って染めたのが単なるデビューのためだけじゃないことも」
「何で!」
疑惑と怒りと困惑が頭の中で破裂し、思わず近くのキャンバスに拳を叩き付ける。固い音がして、キャンバスがいくつか床に倒れていった。
どうしてそんなことまで知っている。私は彼に、そんなこと話していないはずなのに。
「例えばさ、好きな人がいるとするだろ? その人が別の女子と仲良くしているのを見たら、嫌な気持ちになるだろ? 人によっては憎く思うかもしれない。そうして、その子に嫌がらせをするかもしれない」
「一体、何の話ですか……?」
「僕達最近よく話していたじゃないか。一緒にハンバーガー食べに行って、わざわざ中央の目立つ席でポテトを食べさせてあげたじゃないか。わざわざ同じ学校の女子も多くいたところで、スノードロップをプレゼントしたじゃないか。まるで恋人みたいに」
「っ…………」
「僕が君といる限り、きっと今のいじめは終わらない。前にいじめていたクラスの子達もきっとまた調子に乗り出すよ。それで君が傷付けばいい、辛ければいい、もう何も信じられなくなればいい。そうなったら僕が優しくしてあげるから、僕が君を愛してあげるから。……だから早く、ひとりぼっちになってよ」
彼は左手を前に持って来て、ゆっくりと掲げて私の頬に触れる。撫でられることは心地良いはずなのに、今は悪寒と嫌悪感だけが満ちていた。
「昴先輩」
茫然と、彼の名を呼ぶ。
昴先輩は一瞬悲しそうに顔を歪めて、その唇に柔らかく弧を描いた。
それが、ニタリと大きく裂けた。
「ねぇ、ネコちゃん」
「…………え?」
殺し屋である、私の仕事名を、何も知らないはずの昴先輩が呼んだ。
不意の悪寒に弾かれて、頬を撫でる手と反対の方向に視線を向けてみれば。
彼の握ったハサミの、尖った先端が勢い良く、私の眼球に襲いかかってきた。
激痛が走る。
「ぎあっ!! う、ぅ……!」
熱い血が滲み、ポタポタと床に垂れる。空いた方の手で怪我元を押さえ、熱い呼吸を繰り返して彼を睨み上げた。
先端の部分が僅かに赤く染まったハサミをくるくると回し、感心したような目が私を見下ろす。
「へえ……反射が凄いって本当なんだ」
――咄嗟に手で目を防いでいなければ、どうなっていただろう。真っ直ぐに先端は私の眼球を突こうとしていた。躊躇も躊躇いも一切なく。目を庇った手の甲には、小さくも深い傷跡ができ、血の線を描いていた。
普通の人なら一つ潰せられたのに、と可笑しそうに笑う彼にゾッとする。歯を食いしばり、唸るように聞く。
「何であなたがその名前を知ってるんですか」
「えぇ? 何のことだかさっぱり……」
「恍けるな!!」
答えろ、と鋭い怒声を上げた。けれども彼は私の怒りなどまるで子供の駄々だとでも思っているように、微笑して肩を竦めるだけだった。その行いさえも苛立ちを煽り焦燥を掻き回す。
突然、窓の外から激しい鳴き声が聞こえてきた。顕著に肩を跳ねながらそっちを見ると、さっき電線に止まっていたカラスとやって来た一羽のカラスが、空中で激しい攻防を繰り広げているところだった。
黒い羽根が毟り取られ、ひらひらと地面に落ちていく。鋭いくちばしが相手の顔を狙い、足の爪で体を引っかく。
「カラスは好き?」
ふと、彼がそんなことを言った。意図を掴めなかった私が反応に困るのをみて微笑みながら、両手を広げる。
カラスの鳴き声と、合唱部の歌が、どこか遠くから聞こえる気がする。
「ずる賢くて、人を騙す、残酷な鳥」
彼の目が細くなる。光が瞼に隠れ、どこまでも真っ黒な瞳が私の心を鷲掴む。
全身から憎悪感が込み上げる。
「改めて初めまして、ネコちゃん」
そうして恭しいお辞儀。芝居がかったワザとらしい口調が、こう告げた。
「僕は『カラス』。君と同じ、殺し屋だ」
周囲から聞こえる歌が、鳴き声が、音が。全てがぐにゃぐにゃと歪んだ酷いノイズのように聞こえる。
しんしんと降る雪にそれらが吸い取られ、最後には何も聞こえなくなった。
「カラスは嫌いです」
必死に絞り出した声はそんな返答をした。答えを聞き、彼はどこか諦めたような笑顔を浮かべる。
「僕と付き合ってよ」
「嫌、です」
「つれないなぁ。クモちゃんとはすぐ友達になってたのに」
思わず目を見開き、信じられないものを見るように彼を見る。ニコニコとした笑顔に恐怖が込み上げた。
「何でも知ってるって言ったじゃない。ああ安心して、ストーカーとかはまだしてないから。オウムの情報屋さんに聞いただけ」
「如月さんが……?」
「どうして驚くの。あの人は情報屋なんだから、お金を払えば教えてくれるのは当たり前だろう。自分の情報が漏れるのが嫌なら、和子ちゃんもお金を払って自分の情報に鍵をかけるといい。ま、それ以上の金額を払われたらどうしようもないだろうけど」
如月さんの顔を思い起こしながら、私は歯を噛みしめた。そうだ、あの人はお金を払えばその分の情報を教えてくれる。だけどそれが私や私の味方だけとは限らない……。
「和子ちゃんはどうやったら僕のことを好きになってくれる? 穏便にアプローチしようと思ってたけど、それじゃ駄目だね。今回みたいに出遅れちゃう。……クモちゃんを傷付けたら和子ちゃんはどうなるかな? ご両親を殺したら? いっそ殺さずに誘拐して、自分の娘がどんなことをしているのか教えながらじわじわ嬲る方がいいのかな。ねえ、どっちが効くと思う? ……やだな、怖い顔。殺されちゃいそう」
ふと、昴先輩がハサミを自分の唇に当てる。その目が一瞬獰猛に輝き、愉悦に細められる。弧を描いた唇から覗いた舌がハサミの先端に付着する私の血を舐めた。
「――オオカミ。君の居場所を壊すことが、一番怖いのかな?」
「っ!」
その言葉を聞き、私の顔にさっと脅えと恐怖が浮かぶ。しまったと思ったときには既に遅く、彼は頬を紅潮させ、心から期待を膨らませる笑顔になった。
「当たりっ? わぁ、やっぱりオオカミか! 聞いた限りだとそんなに仲が良くないみたいだったけど、そうでもないんだね。やっぱり赤ずきんとオオカミは繋がっているものね」
興奮気味に頷く彼と対照的に、私は不安に締め上げられる心臓に苦虫を噛み潰していた。
東雲さんを壊す? やだ、やめろ、やめてくれ。そんなことをされたら、私はまた一人になってしまう。
だってあの人は、今の私にとって、唯一の居場所なのだから。
「この…………っ!」
「あはは」
拳を握り締め、彼に向って振り抜く。怒りで動作が大きくなったせいか、彼はひょいと軽く肩を下げただけでそれを避けた。
「怒った顔じゃなくて、笑顔を見せてよ。……僕が惚れた顔なんだから」
振り抜いた拳が壁に叩き付けられ、じわりと鈍痛が滲む。胸が疼き、冷たい涙が目に溜まる。
優しくしてくれたことが嬉しかったのに。
信頼できる人ができたと思っていたのに。
素敵な先輩ができたと喜んでいたのに。
全部……全部嘘だったんだ。
「一年先輩」
もうこの人のことを名前で呼べる日はもう来ないかもしれない。
私は悲しみに眉を歪めながら、一年先輩を睨んだ。
目の前にいるのはもう頼れる先輩などではなく、敵でしかなかった。
「私はあなたが嫌いです」
「僕は君が好きだよ」
まるで噛み合わない会話。憎悪に満ちる私の前で、微笑みを浮かべる一年先輩がいた。
彼は言うことはもうないと、踵を返して部屋の扉を開けた。姿を消す前に一度顔だけを覗かせ、
「これからどうぞよろしく。……ネコちゃん」
返事をする前に彼はいなくなった。扉がゆっくりと閉まるまで、私は足を動かすことができなかった。
カラスの鳴き声が聞こえた。窓の外を見れば、二羽のカラスが鳴きながら飛び立つところだった。
黒い鳥はそのまま鳴き続け、空の向こうへと消えて見えなくなった。




