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第18話 一週間の疑惑

 火曜日の朝、私の上履きが真っ白になっていた。


「……………………」


 昨日から降り始めた初雪は深夜まで止まず、交通が悪くなるほどには積もっていた。その積もった雪が私の上履きにぎゅうぎゅうと押し詰められていた。

 冷たかっただろうな、なんて現実逃避じみた感想が浮かぶ。溶け始めている雪は靴から染み出し、下駄箱の中に小さな水たまりを作っていた。当然、ぐっしょりと濡れた上履きを履くわけにもいかず、雑巾を掴むように靴を手から垂れ下げ、大きく溜息を吐いた。

 一条さんか、恋路さんかなと思った。けれど靴箱を見る限り二人はまだ学校に来ていないようで、とすると誰がやったのだろう、と疑問が浮かぶ。クラスの男子がいたずらでやったのかな。


「おはよう、和子ちゃん」

「あ、おはようございます、先輩」


 玄関から入ってきた昴先輩と目が合って、頭を下げる。隠すべきかと逡巡する隙も与えず、彼は目敏く私の持つ上履きを見て苦笑した。


「ありゃりゃ……酷いことする人がいたもんだね」

「職員室でスリッパでも借りますよ」

「だったら僕も行くよ」


 自分の下駄箱から上履きに履き替え、それじゃ行こうかと微笑み廊下に立つ先輩。靴を履き替えるため玄関に敷かれたカーペットから一歩廊下に足を踏み出すと、靴下越しにハッキリと伝わる冷たさにうひぃと情けない声が出た。ペタペタと音を立てて廊下を歩いていると、目立つのか、擦れ違う生徒達の目がこっちを見ている気がした。

 昴先輩と軽い世間話をしながら歩いていると、前の方から一人の女子生徒が歩いてくる。二年生くらいのその人はこっちに気が付き、昴先輩を見てそれから私を見て、一瞬眉間にしわを寄せた。


「?」


 見間違いかと思うほどすぐその表情は消えた。彼女は昴先輩に柔らかく表情を崩し、手を上げておはようと笑った。彼もまた挨拶を返し、擦れ違う。

 それから彼女は昴先輩の少し後ろを歩いていた私の傍に近寄り、私にだけ聞こえるか聞こえないかの微かな小声を吐いた。


「調子のんじゃねえよ、ブス」


 呼吸が詰まる。大きく目を見開き、思わずその場に立ち止まった。

 足音が聞こえないことに気付いたのか、昴先輩が振り向き、どうしたの? と首を傾げてくる。そのときすでに二年の彼女は廊下を曲がって見えなくなっていた。


「……何でもないですっ」


 笑顔を浮かべながらも、その口端が引きつっていることは自分でも理解していた。怪訝そうな目をする昴先輩の背を押し、早く行きましょうと促すと、不思議そうにしつつもそれ以上は何も言ってこなかった。そんな彼の背に隠した私の顔は、泣きそうに歪んでいた。

 流石に、初対面の人から悪口を言われるのは堪える。私が何かしたのだろうか? 知らない間に、もしかしたら前に、でも何を……? 思い出せない。

 早くスリッパを借りて、教室でテスト勉強をしなくちゃ。そう思ってみたところで、モヤモヤとした不安が払拭されることはなかった。





 水曜日、東雲さんの家で勉強を教えてもらう。ちょうど来ていた冴園さんにも。


「ここはね、これを左に移項して……」

「えっと、じゃあこう……?」

「移項したら記号が変わるから……」


 教科書とノートを両手に何度も計算をやり直す。書いては消し、書いては消し。

 私はどちらかというと文系で、東雲さんも文系、冴園さんは理系らしい。私と二人の間にある大きな違いは、そんなこと関係なく勉強ができるかどうかだった。話を聞く限り二人は高校までが同じで、テストでは常にそれなりの成績を収めていたらしい。私も頭はそんなに悪い方ではないが、二人よりは大分下なのだろう。東雲さんは厳しく的確に、冴園さんは優しく丁寧に教えてくれる。

 ようやく解き終わった計算式を冴園さんに見せた。じっと考えるようにそれを見つめる冴園さんの顔をドキドキしながら見る。間違ってたらどうしよう、と緊張していたものの、不意に彼はその顔を綻ばせて笑った。


「よくできました、正解!」

「やたっ!」


 手を合わせて喜んでいると、東雲さんが間髪入れずに「次は英語だ」と告げてくる。途端に私の顔は強張り、心中におぼろげな焦燥が浮かんだ。それに気づいた彼が怪訝な顔を浮かべるので、慌てて苦笑しながら言う。


「ごめんなさい、英語の教科書学校に忘れてきちゃって……。国語にしません?」


 コツリ、と軽く頭を小突かれる。次は忘れるなよ、と言う彼に、はぁいと間延びした返事をする。

 不審がられていなければいいと思った。


 今朝学校に行ったとき、机に置きっぱなしだった英語の教科書。その表紙に書かれた『学校に来るな』という赤い文字と、べったりとのりが張られて開かないページ。それを見たときに愕然としたのを覚えている。

 殺し屋になって私の態度が変わり始めてきたからだろうか、一条さん達からからかわれることは減り、今ではほとんど話しかけられることもなくなってきた。このままいじめがなくなるだろうと確信して嬉しく思っていた。

 それなのにこれだ。

 一条さんがこれをやったとは思えなかった。彼女なら恐らく、教科書を見て茫然とする私の傍に来て「バッカじゃないの!」と一言(あざけ)るぐらいのことはするはずだ。なのに今日の彼女は私を馬鹿にするどころか視線さえ向けてはこなかった。彼女の取り巻きである恋路さんも、勿論瀬戸川さんだって単独でこんなことをするとは思えない。

 とすると考えられるのはクラスメートの誰かだ。私が何かをしでかしたのかもしれないが、恐らく理由は私がクラスで一番浮いているから、それだけ。

 ストレスが溜まっていたのか、それとも本当に私に恨みがあったのか。それは分からないが、テスト週間に教科書を使えなくする陰湿さには呆れる。当然ショックだけれど、同じくらい怒りが湧いてくる。


「さあ! 早くこっちの勉強を始めましょう!」


 こんなイタズラで成績が落ちでもしたら、それこそ相手の思う壺だ。だったら逆にいつも以上の点数を取って悔しがらせてやる。誰だか知らないけど、見てろよ。

 急にやる気を出した私を冴園さんと東雲さんは不思議そうに首を傾げてから、同時に肩を竦めた。





 木曜日、学校が終わってすぐ図書館に向かう。

 テストは午前中に終わるので午後いっぱいを勉強に使える。たまには図書館で勉強も悪くない。第四区にも小さな図書館はあるが、たまに不良がいるとうるさくて勉強どころじゃない。わざわざ遠くの第一区に足を運んだのは、そっちの方が大きく落ち着いた図書館だからだ。

 外の凍てつくような冷気は館内に足を踏み入れた途端消え、適度に効いた暖房が、寒さで強張っていた顔の筋肉を解してくれる。学習スペースがある二階に上がり、席を取ってノートと教科書を広げる。

 残りは明日の二教科だけなのでじっくりと勉強できる。乱暴にのりを剥がし、ベロベロになった英語の教科書を傍らに、黙々とノートに単語を書き込んでいく。テストが終わったらまずは新しい教科書を買おうと誓いながら。


 夕方になり、固まっていた首と腰の筋肉を解して小さな声で唸る。そろそろ頭も疲れてきたし、残りは家に帰ってからにしよう。

 机の上を片付けてから鞄を持って一階に下りる。せっかくだから少し本でも読んでいこうかなと思い、辺りをうろつき始めた矢先、ふと見知った顔を見つけて思わず声を上げた。


「あざみちゃんっ」

「…………ああ」


 そこにいたあざみちゃんがこっちに気付き、少し戸惑ったように目を泳がせた。

 彼女と会うのはあの日、彼女の家に行ったとき以来。『友達』になったとはいえ、普通の友達のように、純粋に交流することは難しいみたいだ。

 そんな微妙な距離感を縮めるべく、近寄って頬を綻ばせ、小声で話しかけた。


「奇遇だね! 今日は本でも借りにきたの? 何読んでるの? 『芥川龍之介短編集』? 何か難しそうなの読んでるねぇ」

「図書館でしょ、静かにしてよ。今日は予習に使う本を借りにきただけだから」


 ほら、とあざみちゃんは肩に下げた鞄から一冊の本を取り出す。その表紙を見て私は首を傾げた。それはどう見ても、私がこの前習ったばかりのものだったからだ。


「あざみちゃん、中一だったよね? これって高校生の問題じゃないの?」

「予習だって言ったでしょ。確かにまだ難しいけど、ちょっとは解けるわよ」

「えぇ? 凄いっ!」


 少しとはいえ中学生が高校生レベルの問題を解くのは凄いと思う。最近学校をサボりがちで授業を追うのが精一杯の私と比べて、あざみちゃんはしっかり学校に通いつつ殺し屋の仕事も行っているんだ、尊敬する。

 そんなに頑張っていたら体を壊さないのかなと心配になる。東雲さんのように不眠症というわけでもないが、多忙であまり寝れないんじゃないだろうか。顔色は悪くないけれどそれでも心配だ。


「あんたもせっかく来たんだし、何か借りたら? これとか。それじゃああたし、そろそろ帰るから」

「あ、だったら途中まで一緒に帰ろうよ」


 あざみちゃんが近くから適当に取った本を受け取り、それを借りてから彼女と外に出る。一気に寒くなる温度にあざみちゃんが身震いした。


「コーヒーでも飲む? 奢るよ」

「コーヒーはパス、頭痛くなるから嫌いなの。紅茶がいいわ」


 分かった、と答えて自動販売機にお金を入れる。ガコガコと落ちてきた紅茶とミルクティーを取り、紅茶を彼女に渡す。

 砂糖とミルクたっぷりの甘いミルクティーが、温かく胃に沁みる。ほうっと吐息を吐き、濃い白色を冬の空に溶かした。

 紅茶を飲みながらあざみちゃんがこっちを見る。缶を揺らすと、ちゃぷんと紅茶が揺れる音がした。


「ミルクティーって甘くない?」

「そうかな? 私はこういうミルク系の味大好きだけど。一口飲む?」


 毒は入ってないよ、と笑いながら缶を渡す。あざみちゃんはじっとその飲み口を見つめ、ほんの一口だけ口に含む。

 やっぱり甘い、なんて苦笑して。





 金曜日、ようやくテストが終わった午後。私は一人家にいた。

 一週間の重圧が終わる開放感はやはり大きく、テスト終了後の放課後も学校中が騒がしかった。多くの生徒は友達と最寄りのカラオケに行ったり、街に出かけたり。私も街へ出かけようかと思ったが今日は家でゆっくりしたかった。

 自分の部屋を掃除して、たまにはと両親の部屋も掃除する。洗濯物を洗って干して、昼食がまだだったからフライパンで料理をしようと、帰りにスーパーに寄って買った肉と玉ねぎと人参を炒めて調味料を振る。できあがった料理を皿に盛り付け、テーブルに置き食べ始める。


「料理の本買おうかな」


 初心者用の、と小声で付け足して。焦げかけた肉と玉ねぎ、それから生焼けの人参をボリボリと齧る。

 食べ終わって食器を洗えばもう他にすることもない。テレビを見ようかと思いかけたとことで、昨日図書館で借りた本のことを思い出した。

 早速棚に突っ込んであったそれを取り出し、ベッドに寝転がって表紙を眺める。『花百科』という本だった。説明するまでもなく花の本で、その花の名前や花言葉、咲く時期に育てる際の注意事項、などなど。


「…………ふうん」


 意外と載っている花の種類は多かった。桜や薔薇やチューリップなどの定番物から、見たことはあっても名前を知らなかった花まで色々。へぇ、ホオズキの花言葉って欺瞞、偽り、とかなんだ。

 自分の誕生花も調べられるみたいだ。東雲さんやあざみちゃんの誕生日はいつだったかな、なんて思いながらページを捲っていく。六月六日、六月六日……。お、あった。どれどれ? 紫露草、黄菖蒲きしょうぶ、それにジギタリス。他にもいくつかあるみたいだ。

 興味が湧いて、一つ一つの花の説明を眺める。自分の誕生花が一体どんな花なのかが気になったからだ。紫露草の説明を見て、黄菖蒲を見て、それから、


「え?」


 予想だにしていなかった文が視界に飛び込んでくる。首筋を炙るような不安が這い、思わず息を呑んだ。

 ベッドから起き上がり、勉強机に本を投げ出し、今度は座って読む。そうして何度見直したところで書かれている文章が変わることなどない。

 これは一体どういうことなのか。知らなかったの? いやでも、こんな花だというのなら、買うときに店員さんに一言くらいは言われるはず……。


「っ」


 ギャア、と窓の外から悲鳴のような声が上がり、咄嗟に顔を向ける。ベランダの縁に止まっている一羽のカラスが、ガラス玉のような目に私を映していた。

 カラスの足元、ベランダの下に、鉢植えに咲いたスノードロップがあった。

 少しの間逡巡してから、私は本の目次を開き、そこからサ行の花一覧を探し出す。お目当てのページを見つけて開く。

 そのことに気付いた瞬間、私は何かを悟った気がした。前から僅かに彼に抱いていた不安はそれだったのだ、と。


 スノードロップの花言葉は、

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