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第2話 特異体質

 わたしが生まれ育ったこの明星市は恐ろしく治安が悪い。万引き、盗難、賭博、詐欺、横領、強盗、強姦、傷害、殺人。数多くの犯罪が毎日のように行われる、言ってしまえば犯罪都市だ。

 第一区から第十区までに分離されており、数字が大きくなるほど治安は悪い。そのため、わたしは約十六年間も第四区に住んでいるけれど、第五区以上の地域に行ったことはない。出歩いて数分で死ぬことはないだろうけれど、それでも物騒な場所にはあまり近寄りたくない。わたしは平穏に暮らしたい。……それを言うなら明星市を出ていくべきなのだろうけど、あいにくこの市は物価が安く、普通に暮らす分には便利なのだ。愛着もある。

 それに、特に観光名所も何もないこの市だけれど、たった一つだけわたしが好きなものがあった。


「…………寒い」


 いつの間にか寝てしまっていたようだ。ひんやりとした肌寒さに目を覚まし、ソファーから身を起こした。十月も半ばに入ると残暑など遠い過去になる。春の陽気に恋い焦がれる日々が、これから数ヶ月も続くだろう。

 雨の音が止んでいた。壁にかかる時計を見れば、既に夜の「九時!?」嘘でしょう、そんなに寝てただなんて。疲れてたのかなわたし。

 恐る恐る見下ろした制服は、無情にもクッキリとしわが付いてしまっていた。明日までにどうにかできるかなぁ。

 重い溜息を付いたわたしは腰を上げベランダへと向かう。窓を開けると、ふわりとした柔らかく冷たい風が髪を震わせた。一瞬閉じかけた瞼を擦って開くと、わたしの視界一面にそれが飛び込んでくる。

 とっぷりと深い藍色の夜空。そして、そこから溢れんばかりに輝く星。

 思わず息を呑むような星空がそこに広がっていた。


「はあーあ」


 感嘆の溜息のような、呆気に取られた言葉のような音がわたしの口から零れる。あれほどの豪雨だったというのに夜空には雲一つなく、端から端まで全ての輝く星を眺めることができた。

 もしも、空に星を製造する工場のようなものがあったとしたら、そこに星々を溜めておく大きな大きなタンクがあったとしたら。きっと誰かがそれを誤ってぶちまけてしまったんだろう。どんどんと流れる星は暗い夜空を埋め尽くす。雨の代わりに星が降ってこないことが不思議なことだ。傘の上に落ちてきた星は、酸っぱいのだろうか、甘いのだろうか。

 なんてそんなファンタジーみたいなことを考えて、わたしは笑った。

 明星市の唯一の名物。それこそがこの星空だ。晴れている夜ならばどんなときだって見ることのできる、満天の星。市の名前の由来にもなったと言われている、この星空がわたしは大好きだった。

 学校や家で嫌なことがあっても、この星空を見れば心がすぅっと洗い流される。明日も自分なりに頑張ってみようと思うことができる。冬になってもこの星空を見るためにベランダに出ることが多かった。十一階から見上げる空は随分と近くに感じられ、それもまた特別な感じがして好きだった。

 どちらかと言えば夜よりも朝の方が好きではあるけれど。日が昇るか昇らないかの間の、澄んだ淡い朝の空。だけどこの星空も好き。

 空を見上げることはわたしの数少ない楽しみの一つだ。






「はい、それじゃー適当に二人組作ってー。体操するぞー」


 四時間目の体育の時間。先生の威勢のいい言葉に、わたしは自分の表情が強張るのを感じた。

 周りがざわざわと慌ただしく騒ぎ出す。体育館の床を擦るキュッキュという音はしばらく鳴りやまない。誰だって取り残されるのが嫌なんだ。最後の一人という惨めな立場になるのが嫌なんだ。……わたしだって嫌だけど。

 男子と組むのはできない。だって、女子の目が怖いし、なにより仲がいい男子なんて一人もいない。女子は女子ですぐに固まるし、中には堂々と三人組を作る子達もいた。いつも集うメンバーで結成されていく二人組の中に「わたしも入れて!」と交じることなんてできやしない。確実に断られるだろうから。

 そうこう考えるうちに足音が静かになった。俯いていた顔を上げると、既にわたし以外、一人で立つ者はいなかった。


「全員できたか? お、なんだ秋月一人か? ……そこの三人組! 一人、秋月と組んでくれよ!」


 悪気はないんだろうけど、その先生の言葉に激しい怒りを覚えた。何故って先生が指を差した三人組は一条さん達のグループだったのだから。

 一条さんと恋路さんと瀬戸川さん。三人は顔を見合わせ、恋路さんが露骨に顔を歪めた。一条さんは先生に苦笑いを浮かべ、「えっとぉ……」と曖昧に視線を泳がせる。「なんだぁ? 喧嘩でもしてるのか。別にいいじゃないか、組んでやれよ!」「えーでもー、それはなんていうかぁ」周りの潜ませるような笑い声が羞恥心を煽る。ハッキリと断りも受け入れもせず、話を長引かせることが、一番わたしに辛いのだと彼女は分かっているんだ。


「……秋月さん。良かったら、私と組もうか?」

「えっ? 小夜?」


 そのとき、瀬戸川さんが身を乗り出してわたしに手を差し伸ばしてきた。一条さんと恋路さんは一瞬驚いた顔をして、それから小声で何かを囁いた。きっと、瀬戸川さんの行動を咎めているのだろう。

 けれど瀬戸川さんは二人に軽く微笑み、手で謝罪のポーズを取ってからわたしへと駆け寄って来た。先生が満足気に頷き、体操の指示を出し始める。


「じゃあ始めようか秋月さん」

「せ……瀬戸川さん、いいの?」

「何が?」

「だって…………」


 わたしがいまだ不服そうな一条さん達を一瞥すると、瀬戸川さんは静かに微笑んで「いいの」と言った。「昨日のパンのお詫びってことで」なんて優しく微笑む瀬戸川さんに、わたしは目にふるりと水分が滲みかけたのを感じた。

 瀬戸川さんは一条さんの幼馴染だという。それなのに、彼女は一条さんと同じようにわたしをいじめてくるようなことはなかった。他のクラスメート達のように、わたしのいじめを黙認するということも、あまりなかった。

 もしも一条さんがいなければ、この子とは友達になれたのかもしれない。

 恐る恐る握った瀬戸川さんの手は少し冷たくて、少し心地良かった。




 小さな悲鳴が聞こえたのは、授業が始まって二十五分ほどが過ぎたときだった。床を打ち付ける激しい音、ざわめく女子の声、すすり泣く声。どこからかバレーボールが点々と跳ね、わたしの目の前を転がって行った。

 体育館の端の方で、女子の一人が座り込んで目を擦っていた。周りの女子達の言葉を聞く限り、どうやらボールが顔面に当たってしまったらしい。


「おい、誰か保健係、保健室に連れて行ってやれ」


 先生の声に、瀬戸川さんが迷うように身を乗り出した。そういえば彼女が保健係だったとそのときに気が付く。彼女は怪我をした子とわたしを交互に見つめ、戸惑っているようだった。


「いいよ、行ってあげて。痛そうだったもの」

「秋月さん……」

「わたしは大丈夫だから。ほら早く」


 彼女の背を押して急かす。と、ごめんねと一言謝ってから瀬戸川さんは駆け出した。怪我をした子のもとにしゃがみ込み、落ち着かせるように背を擦りながら体育館を出て行く。

 そのとき誰かが「先生は行かないんですか?」と言った。保健係だけで十分だろうと先生は言ったものの、「結構派手にぶつけましたよ」という言葉に背を押されたように体育館の戸を押し開けた。


「残りは何をしてればいいですか?」

「ドッジボールでもしていてくれ」


 そう言い残して先生がいなくなる。体育館に残ったのは一年二組の生徒だけ。途端、歓声のような声があちこちで上がり、騒がしくなる。そこでわたしは先生を出ていかせたのも、自分達で好きに動きたいからかと分かった。

 思い思いの行動に移る生徒達。ある人は鬼ごっこを始め、ある人は外へ出ていき、ある人は檀上に上がり寝転がる。そんな中で先生に言われた通り、ドッジボールを始めようとする人達もいた。

 隅の方で座っていよう、と思って移動しかけると、不意に腕を掴まれて引っ張られる。


「暇なら秋月もやろうぜ、ドッジボール!」

「え、えっ!?」

「体育はまあまあ得意なんだろ?」

「そうだけど、でも、わたしドッジボール嫌いで」

「いいじゃん、好きになるかもしれないし!」


 てっきり一条さんか誰かだと思っていたら、それはクラスでもお調子者の立ち位置で知られる男子だった。半ば強引にコートの中へ引きずり込まれると、そこにいた人達が笑顔を曇らせた。その中には一条さんと恋路さんの顔も見える。


「おい、なんで秋月も誘ってんだよ?」

「え? いや、人数も多い方が楽しいと思って」

「だからってそいつ…………ああそっか、前のドッジの時間、お前休んでたもんな」


 男子の一人がお調子者の男子を咎める。そう、わたしがドッジボールを嫌いなのはとある事情のせいだった。

 今まで体育でドッジボールをやったのは一回だけ。その一回で、わたしは最後まで残ることができた。味方には喜ばれたけれど、敵からは二度とこいつを入れるまい、といった視線を投げかけられたのだ。

 とりあえずグループ分けをしよう、と誰かが言った。じゃんけんが行われ、男女入り混じった二つのグループが出来上がる。咎めた男子もお調子者の男子も一条さんも敵のグループだけれど、味方のグループに恋路さんの姿があった。

 審判役の女子がコートの真ん中でボールを掲げる。そのボールを高く放り投げたとき、試合は始まった。




「いたっ!」


 一人の女子の方にボールが跳ねる。それが地面に落ちる前に別の女子がそれを掴み、その流れをとぎらせずに相手の一人を狙ってボールを投げる。けれどそれは呆気なく掴まれ、こっちのコートの人達が悲鳴を上げながら固まって逃げ惑う。

 既にこっちの内野は大分減っていた。隙間の多くなった内野にボールは当たりにくいが、同時に狙われやすい。必死に逃げ惑うその中に恋路さんがまだ残っているのは意外だった。

 わたしの足元にボールが飛んでくる。咄嗟に足を上げてそれを避けると、敵の外野がボールを取った。さっきわたしを誘ってくれた男子。彼が大きく振りかぶり、一人の男子をめがけて放とうとする。「あっ!」手が滑ったのか、ボールは狙いを外れて加速しながら見当違いの方向へと飛んできた。

 わたしの顔面に。

 剛速球で。


「あぶっ」


 ない、まで言う時間もなかった。一秒もないだろうその一瞬で、わたしの視界からボールが消えた。

 ぶわりと舞い上がっていた毛先が、風を失い背中に落ちる。膝を丸め、しゃがみ込む体制のわたしの後ろで、壁に叩き付けられたボールが転がる音がした。


「――――……悪いっ! 大丈夫か!?」

「あ…………う、うん。平気……」


 我に返った男子が不安そうに叫ぶ。ゆっくりと立ち上がり、わたしは彼を安心させるように笑顔を浮かべた。

 その途端、今度は膝の裏に痛みが走る。よろけながら振り向くと、ふくれっ面の恋路さんが片足を上げていた。


「あのさ、あやに言うことないの?」

「え?」

「秋月が避けたせいで、あやの顔にボールぶつかるとこだったんだけど! 酷いよ、謝って!」

「え、えぇ……? ……ごめん」


 恋路さんの膨れた両頬はまだしぼまない。居心地の悪い視線がわたしに向けられる。

 ボール取りに行ってくる、と言ってわたしはその場から逃げるように駆け出した。背後から恋路さんの吐き捨てるような声が聞こえる。


「ほんっと、嫌な体質だよね、気持ち悪い」


 反論せずに、体育館端の方まで転がって行ったボールを拾い上げた。靴の痕が付いて薄汚れた表面を撫でると、薄い汚れが指先にくっ付いた。


「…………わたしだって、こんな体質いらないもん」


 誰にも聞こえないよう、ぼそりと呟いた。




 ――――わたしにあるちょっとした特異体質。それは反射神経と瞬発力が人よりも優れているということ。

 別に超能力が使えるわけでも動物と話せるわけでも空を飛ぶことができるわけでもない。冴えない身体能力が鋭いという、たったそれだけ。

 元々治安の悪い明星市で、危ない目に遭ったことはこれまでに何度かあった。マンション前の歩道を歩いているときに上から植木鉢が落ちてきたことや、飲酒運転の車に轢かれそうになったりしたこともある。そういうときにはこの二つの体質はとても便利で、今わたしが生きているのはこの特異体質のお蔭とも言えた。


 だけど高校に入って一条さん達にいじめられるようになって。途端にこの体質が厄介なものになったのだ。

 ゴミを投げられる、ワザとぶつかってくる、足を引っかけられて転ばされる。わたしが上手い具合にそれに引っかかると、彼女達はいかにも楽しそうに笑う。それはとても悔しくて辛いことだったけれど、そんな生活をしばらく続けて気が付いた。耐えればいいのだということに。耐えて我慢して、わたしが素直に従っていれば、辛いいじめの時間はすぐに終わるのだということに。

 だけどそれを邪魔するのがわたしの体質だ。

 ゴミを投げられれば反射的に避ける、ワザとぶつかってくればすぐ体勢を立て直す、足を引っかけようとすれば咄嗟にジャンプして避ける。反射的に、何気なく行われる回避行動が彼女達の神経を逆撫でたのは言うまでもない。ゴミはいつしか中身入りのペットボトルに、ぶつかってくる勢いは軽いものから強く荒々しいものに、足を引っかけずに前を通り過ぎたわたしの背を蹴るまでに。


 だからこんな体質、全然ありがたくない。もしもこんなものがなければずっと昔に死んでいることができたかもしれないのに。

 なんでわたしは今も生きているんだろう。

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