最終話 暗い夜が明けるとき
朝が来るのが嫌だった。
「……………………」
私は目を開けた。
部屋は暗い。黄緑色のカーテンを引けば穏やかな光が部屋に満ちた。時計の針は午前六時半を指している。
私はベッドから起き上がって、壁にかかっていた制服に手を伸ばした。
黒いブレザー、深緑色のリボン。道仏高校指定の制服。
三年間毎日のように身に着けていた服は、もう目を閉じてだって着替えられる。制服はくたびれていた。長い間着ていたからという理由だけじゃない。よく見ればあちこちに付いている、傷や汚れ。何度クリーニングに出したって消えなかったそれは、一条さんや、恋路さんや、他の子達に付けられたものばかりだ。
虐げられている子だという証明のようで、ずっと見るのが嫌だった。けれど今はむしろ、懐かしい、とさえ思っている。そんな自分がおかしくなって、思わず笑った。
鏡に映る私もくすくすと笑っていた。その笑顔は、お日様みたいに、温かくて穏やかだ。
髪は少し伸びた。鎖骨で揺れる毛先を指先に絡ませる。艶のある茶色い髪は、跳ねても、傷んでもいない。せっかく最後なのだから、ちょっと可愛くアレンジしようかな。でもこのままでもいいかも。なんて鏡の前で悩んでみる。
「…………よし」
朝が来るのが嫌だった。
それは、昔の話だ。
「行ってきます」
秋月和子、十八歳。
私は今日、道仏高校を卒業する。
窓から吹いた風がカーテンをなびかせた。柔らかな風の香りは、春の訪れを感じさせた。
教壇に立つ金井先生が最後のホームルームを行っている。いつもは騒がしい教室も今日は静かで、その特別な空気が、ああもうすぐ終わりなのだと皆に知らせていた。
卒業式はつつがなく終わった。最後のホームルームももうすぐ終わる。
「――――これで、最後の挨拶とさせていただきます。皆さんどうかお元気で。立派な大人になってくださいね」
金井先生はそう言って微笑んだ。彼らしい気弱な笑顔で、けれどまっすぐに教室の皆を見渡して。
すすり泣きが聞こえる。学友との別れを惜しむ涙は、静かな教室に響いた。ジンと胸が熱くなる。つられて私も泣いてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
「ご卒業おめでとうございます」
今日で、私の三年間は終わりを告げる。
ホームルームが終わったからといってすぐに帰る人は少なかった。皆卒業アルバムを手に、クラスメートや他のクラスの友達や先生にメッセージを残してもらおうとする。
「先生、メッセージ書いてくれませんか?」
金井先生の周りにいた人だかりを通って私は先生にアルバムを渡す。
普段何かと蔑ろにされることも多い金井先生だけれど、彼だって三年間を共に過ごした私達の担任だ。最後なのだからと生徒達に囲まれてメッセージをねだられていた先生は、戸惑いつつも、嬉しそうにはにかんでいた。
私のアルバムを開いた金井先生がほっと息を吐く。不思議に思って首を傾げていると、先生は柔らかい微笑みを湛えて私をまっすぐに見つめた。
「お友達がたくさんできたんですね」
「あ、誰からも書かれてないって思ってたんですか?」
白かったページは何人もの人の言葉に満ちていた。何人もの子が、私のアルバムにメッセージを書いてくれた。
文化祭や体育祭で一度話しただけの子も書いてくれた。初めて話した子もいた。気が付けば私のアルバムはたくさんの人の言葉で埋まっていた。
最初、私はクラスから浮いていた。
だけど少しは、このクラスの一員だって、受け入れてもらえたのかな。
カラフルな文字の中、空いた隙間を探して金井先生のペンが文字を書き込んでいく。
インクがページを擦る音が聞こえる。じっと書き込まれていく文字を見つめ、パタパタと足を振った。
「秋月さんは卒業したら、保健室の先生を目指すんでしたよね」
「はい。先生になって、子供達の色んな悩みを解決していけたらいいなって。なれるか分からないですけど」
私の受験勉強は秋から始まった。もう間に合わないかと思ったけれど、あざみちゃんや太陽くんと死ぬ気で勉強したおかげか、なんとか目指していた大学に滑り込みで受かることができた。
漠然とした形で思い描いていた保健室の先生になるという夢。進む大学は、資格が取れるだけじゃなく、専門のコースもある。勿論希望した学部はそれだ。
「あなたなら大丈夫。きっとなれますよ」
「本当に?」
「秋月さんは優しくてとても強い人ですから」
渡されたアルバムを胸に抱える。私はふと顔を上げて、金井先生を見つめた。
先生、と彼を呼ぶ。はい、と優しい声と笑顔が私を見下ろした。
「私ずっと学校に来るのが嫌でした」
「それでも三年間よく頑張りましたね」
「でも今は、学校を出るのが寂しいです」
「……………………はい」
「先生がいてくれたから。きっと担任が金井先生じゃなかったら、私は今日ここにいなかったかもしれない」
先生は無言で私を見つめていた。
私のいじめを、先生は何とか解決しようと頑張ってくれていた。私が両親との仲に悩んでいるとき、先生は二人を怒って、私を守ろうとしてくれた。きっと先生がいなければ、お父さんとお母さんは離婚していただろう。私も学校を辞めてしまっていたかもしれない。
「先生が担任で良かった」
「はい」
頼りないと思っていた担任の先生は。誰よりも生徒を思ってくれている、素晴らしい先生だった。
「私、金井先生みたいな先生になりたいなぁ」
金井先生はぐっと息を呑んで、ご卒業おめでとうございます、と声を震わせた。
秋月さんが先生泣かせてるぅ、と誰かが笑う。慌てて首を振れば、また笑い声は大きくなった。
そんな私達を見て金井先生は、嬉しそうに笑っていた。
教室に残る人も少なくなってきた。自分の席に座って、職員室に向かった早海さんと部室に向かった鈴木さんを待つ。
この机に座るのも最後かと思うと感慨深いものが込み上げた。カッターの傷跡も落書きを消した跡も見るのは最後。指で深い傷を撫でながら、君もよく頑張ったねぇ、と心の中で褒めた。
「あ、き、づ、きっ!」
「わあっ」
突然背中に恋路さんがのしかかってきた。机にべちゃりと顔を突っ伏す私の頭を、彼女は手で叩く。
「あやのまだ書いてないよね! 帰っちゃだめ!」
「え……私が書いていいの?」
「クラス全員のもらうって決めてるんだからー!」
恋路さんは邪気のない笑顔を浮かべた。本当に他意はないようだった。
鼻先に押し付けられたアルバムを開く。カラフルなペンでメッセージを書いて、絵も描いていいよという恋路さんに応えて小さな猫の絵も付ける。後ろから覗き込んでいた恋路さんは、可愛い可愛いと嬉しそうに跳ねた。
「この猫ちゃん可愛い! あやが作るバッグのデザインにしていい?」
「デザイン?」
「専門に行くの。お洋服とかバッグとか作るとこ」
「恋路さん、そういうの好きだったんだ」
「可愛いものを作りたいの」
このスカートも自分で作ったんだよ、と指定外の赤いスカートをはためかせて恋路さんは跳ねる。凄いねと私は素直に感嘆の声を漏らした。
恋路さんのそんな話を聞くのは初めてだった。胸を張って恋路さんは目を輝かせる。未来の夢に満ちた、綺麗な目だった。
小夜も書いてもらえば、と恋路さんは振り向いた。教室の隅で私達の会話を見守っていた瀬戸川さんが、虚を突かれたように目を丸くした。
「書いていい?」
私がペンを持って微笑めば、彼女は微笑んで自分のアルバムを持ってくる。彼女のものにメッセージを書いている間に、私のアルバムには瀬戸川さんと恋路さんのメッセージが書かれていた。
「もっと大きく書こうよ小夜。ペンもこっちのピンクのやつが可愛いよ」
「綾は大きく書きすぎなんだってば。あー、もう、はみ出してる」
「いいじゃん。インパクトあるでしょ」
二人の会話に頬が緩む。瀬戸川さんと恋路さん。この二人が私のアルバムにメッセージを書く光景が見られるなんて思ってもいなかった。
私は特に彼女達と色々あったのだから。瀬戸川さんと、恋路さんと、それから…………。
急にバチンと激しい音が聞こえ、背中に痛みが走った。
「むぐっ」
「やだ、ごめんねぇ? 秋月和子ちゃん」
嫌みったらしく呼ばれたフルネーム。顔を見るまでもなくそれが誰かは分かっていた。だから私はその人の名を呼んでから振り返る。
「何かな一条さ…………ん?」
目の前に飛び込んできたのはアルバムが一冊。その向こう側にいる一条さんは、唇を尖らせて、何だか不機嫌そうな顔をしていた。
思わずアルバムを受け取って、丸くした目を一条さんに向ける。彼女の鋭い目が、じっと私を見つめ返す。
「小夜と綾のには書いといて、私のには書いてくれないの?」
息を呑んだ。手に持った彼女のアルバムをそっと開く。既にページには白い部分がほとんど残っていなかった。どこもかしこも文字だらけで、メッセージを書けるような場所はまるで残っていなかった。ただ一つ。ページの片隅を覗いて。
ページの片隅にたった一人分の空白が残っていた。まるで誰かに書いてもらうのを待っていたように、その空白は、あまりにも不自然に残されていた。
私は一条さんを見る。彼女は不愛想にペンを持ち、瀬戸川さん達が書き終わった私のアルバムを開いた。
「いいの?」
「早く書きなさいよ」
「…………うん」
一条さんのことが嫌いだった。
いじめっ子といじめられっ子。私と一条さんの関係は、ただそれだけだった。
友達ではない。仲良しではない。だけど高校でできた友達よりも、一条さんの存在は、きっと私の心に強く残るだろう。
卒業してから彼女に会うことはあるだろうか。もしかしたら、今日が最後の別れになるかもしれなかった。
いじめられていたとき私は、ずっと今日を迎えることを望んでいた。早く卒業したかった。一条さんと別れたかった。もう二度と会いたくないと思った。
だけど。
「一条さん」
「なによ」
「寂しくなるね」
この教室に二度と入らないことが寂しかった。
先生と別れることが寂しかった。
友達と簡単に会えなくなることが寂しかった。
一条さんともう会えないかもしれないことが、寂しかった。
一条さんは本気で言ってるの、と笑った。馬鹿にするような声だ。
「そうね」
彼女は続けてそう言った。私が思わずその顔を見たとき、既に彼女は瀬戸川さん達と話していて、その顔を見ることはできなかった。
ペンを置く。空いた空欄に書いたメッセージは、酷く単純で、短い一つの言葉だけだ。
秋月、と教室の出入り口から声がした。早海さんと鈴木さんが私を呼んでいる。
私は鞄を持って立ち上がった。一条さんとアルバムを交換して、お互いの顔を見る。
「さよなら一条さん」
「さよなら秋月」
まるでただの放課後の挨拶みたいに、私と一条さんはそう言い合って少し笑った。
いじめっ子といじめられっ子の最後はただそれだけだった。一条さんは私に謝ることなんてしなかった。だけどそれで十分すぎた。
ありがとう、という言葉を見て、彼女はなんて思うのかな。
廊下を出てすぐクラスの男子が私を呼び留めた。秋月、と裏返った声で呼ぶ彼の顔は赤い。話があるんだと近付いてくる彼の様子を見て、鈴木さんと早海が顔を見合わせる。キャア、と嬉しそうに二人は笑って、私の背を押した。
目を丸くする私の前に男子が立つ。真剣な眼差しと真っ赤な顔に、これから何を言われるのかを悟った私は顔を赤くした。振り返れば、廊下の陰から鈴木さんと早海さんが私達を見守っていた。
「俺、実は秋月のことが――――」
あっという間に過ぎた三年間。私はその間に、何を学ぶことができただろう。
帰ってきたお父さんとお母さんは食卓に並ぶ料理の数々を見て目を丸くした。
湯気の立つお味噌汁の椀を置き、私は得意げに胸を張る。白いご飯に焼き鮭、ほうれん草の煮びたしと、豆腐とワカメのお味噌汁。食卓にずらりと並んだご飯は全て、私が一人で作ったのだ。
「ほらほら座って。冷める前に食べよ!」
二人の手を引っ張って食卓に着く。いただきます、と言って丁寧に箸を運んだお父さんが珍しく微笑んだ。
「美味い」
「…………ええ、凄く美味しい」
誇らしい気持ちで私もお味噌汁を飲む。しっかりと出汁の効いたお味噌汁が胃に沁みた。我ながら随分上手にできたと褒めたくなる。
ご飯も、魚も、煮びたしも、お味噌汁も。全部全部美味しい。昔の私は自分がこんなにちゃんとした料理を作れるようになるなんて、思ってもみなかった。
「本当いつの間にか料理が上手くなったわね」
「料理の先生がいたから」
だからこんなに上手になったんだよ、と私は言った。
最初は肉じゃがもろくに作れなかった。それがいつの間にか、美味しいと言ってもらえるくらいに成長した。黒焦げのにんじんを食べてくれた先生のことを思い出す。彼は今の私の料理を食べたら、美味しいと言ってくれるだろうか。
「結構人数が多い学校だったな」
「…………もしかして、卒業式来てたの?」
「仕事の合間に、顔を見せた程度よ。校歌くらいしか聞いていないもの」
どうやら二人は仕事の合間に卒業式を見に来ていたらしい。本当に合間というだけあって、たった一瞬だけだったらしいけれど。二人は校歌を歌う私の姿をちゃんと見ていたらしい。
これまでだって。小学校も、中学校も。二人は行事事には一切来てくれなかった。入学式も、参観日も、運動会も。いつも来てくれることを期待していたけれど、毎回顔を探しては、いないことに落ち込んで、いつからか期待しないようにしていた。だけど来てくれたんだ。
じんわりと込み上げる嬉しさに顔を赤くする。誤魔化すようにご飯を口に運んだ。
夕食を終えてソファーに座っていると、お父さんがコーヒーでも淹れるかと聞いてきた。素直に甘えて私は頷く。コーヒーの香ばしい香りと、湯が沸くこぽこぽという音を穏やかな心地で聞いていた。
「お前は、砂糖とミルク多めだったか?」
「うん…………いや。やっぱり何も入れないでいいよ」
お父さんがカップを持ってきて隣に座った。私は真っ黒なコーヒーが揺れるマグカップを見つめ、そっと一口飲み込む。うん、と頷いて唇を舐める私にお父さんが言う。
「苦いだろ」
「でも、飲めるかも」
コーヒーをもう一口飲み込んだ。舌先に強い苦みが広がる。だけど飲めないほどじゃなかった。ずぅっと昔に飲んだときは、あまりの苦さに、一口も飲み込めやしなかったのに。
「和子」
「なぁに、お父さん」
「大きくなったな」
大きな手が私の頭をくしゃりと撫でた。
目を丸くしてお父さんを見上げる。優しい眼差しが私に注がれていた。お父さんがそんな目で私を見つめたことは、今までの記憶の中に、一度もなかった。
「…………大きくなったよ。私、もう十八だよ?」
「そうか。ついこの間まで、小さい子供だったのにな」
「いつの話なの。来月から大学生なのに」
「そうか」
声が震えそうになるのを、笑い声で誤魔化した。涙が滲んだのを笑顔で誤魔化した。
正面で流れているテレビを見る。明星市内の事件を述べるニュース番組だった。
「お前が教師を目指すなんて思ってもいなかった」
どうしてそれを選んだ? とお父さんは問う。私は静かにテレビを見た。
第六区で起こっていた連続放火事件の犯人が捕まったらしい。まだ中学生の少女は今、警察署にて動機を問われている最中のようだ。次のニュースでは、第二区の小学校でいじめによる自殺未遂があったという。明星市の現状に嘆くアナウンサーの声を聞き、私はソファーに背を深く埋めた。
「友達にね、この街の犯罪を全てなくそうとしていた大人がいるの」
コーヒーを飲む。黒い液体が揺れる。
冴園さんのことだ。
「悪い人、悪いもの、全部排除すればこの街は平和になるって。そう思って頑張っていた人がいるの」
「政治家か? それとも、警察か? そいつは」
私は警察姿の彼を想像して笑った。この街の平和を守るために、犯人を逮捕するおまわりさん。ああ、確かに彼はそんな仕事が向いていたかもしれない。
「私もその人の真似をしてみようって。この街を平和にしたくて」
「教師になってできるっていうのか?」
「うん。私は、少しずつしかできないけれど」
このニュースみたいに、昔の私みたいに。悩みを抱えて苦しんでいる子はたくさんいる。そんな子はいつか必ず壊れてしまうだろう。自分を壊す子もいれば、他人を壊す子もいる。
明星市は物騒な街だと言われている。だけど多分明星市は、壊れてしまいそうな人が、他の場所よりもちょっと多いだけなんじゃないかな。
この街に溢れている犯罪。けれど元をたどれば、その多くは人々の悩みから生まれたものであったりするのだ。
私は保健室の先生になって、壊れてしまいそうな子を救ってあげたい。悩みを聞いて、助けてあげたかった。一人で生きていくことができる人にしてあげたかった。
きっと少しずつしか救えない。だけど一人ずつ、一人ずつ救ってあげて、そんな子を増やしていって。そうすればいずれ明星市で起こるはずだった犯罪が一つずつ消えていくかもしれない。思いが連鎖して、また別の犯罪が消えるかもしれない。
「少しずつ、ゆっくりと、でも確実に。そうやってこの明星市を変えることができたらいいなって思ってるよ」
犯罪都市として有名なこの明星市が。いつか、ただの星が綺麗な街として有名になる未来を。私は見てみたかった。
きっと彼らも、そんな未来を思い描いていた。
東雲さんも冴園さんも、そんな街を見てみたかっただけなんだ。
「いつの間にか、お前は大人になっていたんだな」
しみじみとお父さんが言った。改めたように言われるのが恥ずかしくて、頬を赤くして声を上げる。
「もー。いつまで子供だと思ってるの? 車の免許だって取れるし、結婚だってできる歳なんだから」
今日だって告白されたもんね、と胸を張って自慢をする。するとお父さんは目をぱちくりとさせ、私をじっと見つめた。
「ちゃんと断ったか?」
その言い方が、何だか『お父さん』って感じの言い方だったものだから、私は思わず大きな声で笑った。キッチンにいたお母さんまでもが不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
断ったよ、と私は言った。ずっと心に決めた人がいるから、と付け加えることはなかった。それを言ったら、お父さんはどんな反応をしただろうか。
コーヒーを飲み干した。唇を舐め、空になったマグカップを見つめて笑う。
「やっぱり、まだちょっと苦いや」
コンコンと窓が叩かれた。
夜だ。眠っていた私は、その音に起こされた。何の音だろうと思う。虫にしては音が大きい。鳥にしては妙な音だ。
コンコンとまた音がする。警戒心を膨らませてそっと窓に近付いた。大きく息を吸った私は、意を決してカーテンを開けた。
「よっ」
「キャー!?」
窓の向こうに太陽くんがいた。
飛び上がった私は、大慌てで窓を開け、そこにいた太陽くんの腕を掴む。
「太陽くん!?」
「こっそり来てるんだから大声出さないでよ。あなたの親御さんが起きちゃうでしょうが」
ひょっこりと上から逆さまに顔を覗かせたあざみちゃんを見て、私はまた悲鳴を上げた。
屋根の上にいたあざみちゃんと太陽くんは、そのまま窓の縁に足をかけて私を見下ろす。星明かりの逆光の中で二人の顔は暗いのに、目だけがやけにキラキラと輝いていた。
「伝えたいことがあるんだっ。一緒に来てくれよ」
「い、今から? どこに?」
「第七区、お喋りオウム!」
太陽くんは妙に興奮していた。声が大きいわよ、と注意をするあざみちゃんも、その仕草は妙に落ち着きがない。待って待ってと慌てながら着替え、二人に尋ねる。
「もう終電行っちゃったよ? どうやって行くの。タクシー?」
「そんな悠長にしてられない。飛んでいくのよ、あたしの糸で!」
「あざみちゃん、二人も抱えていける?」
「なめないでよね、特訓したもの。今なら三人でも余裕よ」
私の腕に糸が巻かれる。くっと糸に引かれ、私は窓枠に足をかけた。
行くわよ、という合図がして、空いっぱいの星がぐんと視界に広がった。体を包む浮遊感にきゃあ、と楽しい悲鳴を上げる。つられて太陽くんも叫ぶ。うるさい、と怒鳴るあざみちゃんの声が一番空に響いた。
屋根の上を、ビルの壁を蹴って、私達は空を飛ぶ。ぐぅっと体が浮き上がり、空の中に放り投げられた心地になる。眼下に高層ビルの屋根や、道路を走る車の光が広がる。
私は目を見開いて、目の前に映り込む光景に見入っていた。星の明かり、夜の青色、街の光、そしてすぐ近くにいるあざみちゃんと太陽くんの顔。
二人の目は期待に輝いていた。薔薇色に染まった興奮した顔を、私はじっと見つめていた。
ジェットコースターみたいな空の旅を終え、私達は地面に降り立つ。すぐ目の前に建つのはレンガ造りの小さな建物。『お喋りオウム』と書かれた看板を横目に、建物の中に入る。
「お喋りオウムへようこそ」
カウンターに如月さんが座っている。いや、店にいるのは彼だけではなかった。仁科さん、ネズミくん、真理亜さんの姿もあった。皆の視線が私に集中する。
「やあやあしばらくぶりだね和子。元気にしてた? こっちは相変わらず忙しいよ。殺し屋は減ったのに、舞い込んでくる仕事の量は変わらない。浮気調査の対応くらい自分で旦那の首を掻っ切って済ませてほしいもんだ。そういえば道仏高校は今日が卒業式だったそうじゃないか。卒業おめでとう!」
「ありがとうございます。それで、話って…………」
如月さんは笑みを浮かべている。けれどその奥に見える視線は、どこか威圧感さえ感じる真剣みを帯びていた。
何かあったのだろうか。
ごくりと唾を飲み込んだ私に、如月さんが言った。
「東雲らしき人物の目撃情報があった」
私は見開いた目で、如月さんを見つめた。
「――――場所は第九区のコンテナヤード。人身売買の最中、突然第三者の介入による発砲事件が発生。取引をしていた男五人が殺された。売買されかけていたのは一般の中学生と小学生の兄弟だ。その兄弟が、一瞬だけ見たんだとよ。銃を持った男の姿。緑色のコートを着た、黒い髪の男」
指先がジンと熱く痺れていた。震える唇を噛みしめて、私はまっすぐ如月さんを見つめて黙る。熱く蕩けた脳味噌が、ゆっくりと如月さんの言葉を反芻する。
生きている?
東雲さんが、生きている?
振り返った私は、固唾を飲んで見守る皆の姿を見た。呆然と彼らの顔を見る。頭の奥が痺れて、体中が震えていた。張り裂けんばかりに心臓が脈打っていた。
取り入れた情報はそれだけのようだった。如月さんはそれ以上何も口にすることなく、無言で私を見つめている。
私は自分の胸を強く握り締めた。駆け巡る激情に、唇を噛みしめて震えた。
一分以上沈黙していたかもしれない。長い沈黙が流れていた。私の答えを皆が待っていた。
ようやく、私は長く息を吐く。春の風みたいな穏やかな吐息だった。そしてただ一言だけ呟いた。
「そうですか」
私の反応の薄さに、皆の方が驚いていた。
駆け寄ったあざみちゃんが私の肩を揺らす。ぱちくりと丸くなった目が私の顔を覗き込む。
「和子、それだけ?」
「うん」
「も…………もっとこう、ないの? 東雲よ? あなたのオオカミなのよ?」
「人違いかもしれないし。緑のコートを着た人も、黒い髪の男の人も、いっぱいいるよ」
明星市の人口は多い。似た格好の人などごまんといるだろう。東雲さんに背格好が似た人など何人もいる。目撃者だというその兄弟が見た男性が、東雲さんである確率は低い。
「でも、探しに行くでしょ?」
「探しに?」
「あなたずっとあいつのことを探してたじゃない。まさか諦めてないよね。大丈夫よ。一人じゃ無理でも、ここにいる皆で探せばきっと……きっと見つかるんだから!」
私は顔を上げて皆を見た。真剣な表情が私に向けられている。
もしかして、皆が集まっているのは東雲さんを探すためなのだろうか。
たった一つの目撃情報を知った皆が、私を呼んだのか。
私のために、東雲さんのために、協力しようとしているのか。
真理亜さんもあざみちゃんも東雲さんのことを嫌っているはずだった。仁科さんは絶対の用事でもない限り外に出たがらない人なのに。太陽くんもネズミくんもわざわざ東雲さんのことを探す義理はないっていうのに。
「どうする?」
振り返れば、如月さんはいつでも電話をかけられるように受話器に手を置いていた。彼は私の答えを待っている。
私が頷けば、皆はきっと協力してくれる。手分けをして明星市中を走り回ってくれる。皆優しい人だ。何日、何週間、何ヶ月かかったって探してくれることを私は知っている。
ありありと浮かんだ光景に私は微笑んだ。しっかりと如月さんの目を見て、私は答えを告げる。
「もう十分。もう大丈夫です」
「……………………そう」
如月さんはふっと笑って受話器から手をどけた。あざみちゃんが何かを言おうと口を開く。
和子、とそれを遮って仁科さんが私を呼んだ。静まり返る空間に、仁科さんの淡々とした声が流れる。
「本当にいいの?」
「はい」
「気にならない?」
「気になるに決まってますよ」
東雲さんが生きていたら。何度、そんな夢を見ただろう。
彼が死んだことを受け入れている。けれど会いたくないわけじゃない。会って、顔を見て、その声を聞きたいと切望している。あともう一度だけでいいから、和子、と彼に呼ばれたかった。
噂なんて気になるに決まっている。心のどこかでは、今すぐにここを飛び出して、街中を探し回りたいと、そう思っている。
だけど私は彼を探さない。その理由はたった一つだ。
「だってもし本当に東雲さんが生きていたら。探さなくたって、戻ってきてくれるじゃないですか」
東雲さんが生きていたら、彼はいつかきっと私のところに戻ってくる。
おかえりなさいを言っていないし、ただいまも言われていないから。だから必ず、東雲さんは私の元に帰ってくる。
たとえそれが何年何十年先になろうと。私は彼を探さない。悲しいけれど、寂しいけれど、会いたいけれど。自分の何もかもを犠牲にして彼に会おうとはしない。
だって私はもう、一人で大丈夫なんだから。
あざみちゃんが大きく息を吐いて肩を落とした。もお、と頬を膨らませた彼女が力強く私の背を叩く。
「なによ。惚気? こっちが恥ずかしくなる」
「惚気じゃないよ!」
誰かが溜息を吐いた。それを皮切りにどっと皆が溜め込んでいた緊張を吐き出す。その吐息は徐々に微かな笑みに変わり、和やかな笑いが響く。
仁科さんの仄暗い夜の色をした目が、ふっと緩んだ。薄い唇から溜息が零れる。
「…………わざわざ来て、損した。家で寝てればよかった」
「わざわざ来てくれたんですか? ネズミくんに連れてこられたんだ。仁科さんらしい」
「いいや。おれが連れてきた。探しものならおれよりネズミのが得意だ」
「ねてるところ、起こされたんだよ。もー、やんなっちゃうよね」
私は驚いて仁科さん達を見た。眠たげに目を擦るネズミくんと仁科さんの横で、真理亜さんが携帯を手に苦笑した。
「白ウサギに連絡をしたのは私。……驚いたわよ。彼、電話をしてすぐに来たんだから。いつもの面倒くさがりはどうしたのかしら」
真理亜さんはそのまま私の肩に手を置いた。彼女の優しい声が私に尋ねる。
「あなたは本当に東雲のことが好きなのね」
「…………はい」
「東雲もきっと、和子のことを愛しているわ」
私は頬を赤くして、そうだといいな、と呟いた。
今でも、私は恋をしている。優しいオオカミに恋をしている。
これから先、生きている限り私は多くの人に出会うだろう。素敵な人に何度も出会うだろう。それでも彼のことが忘れらないだろうと思う。死ぬまでずっと彼を愛したい。優しくて、格好良くて、ちょっと泣き虫な大人の男に、死ぬまで恋をしていたい。
たった二年。長い人生の中では、瞬き程度の短い時間。されどそれは夢のような時間だった。泣いてしまうくらいの幸福を教えてくれた夢だった。
夢から覚めたって。私を鮮やかに変えてくれたあの人を、忘れることなんてない。
「こんなに大勢集まったのも久しぶりだな。なあ如月、面白い情報とか話してくれよ」
「イヌはここをカフェか何かだと思ってるのか? ……まったく情報屋も、いつからこんなたまり場みたいになっちゃったのか」
私は和やかに話す皆を見た。如月さんの言う通り、ここはなんだかとても落ち着く場所になっていた。
皆と最初に会ったときのことを思い出せば、彼らが随分と優しい顔になっていることに気が付いた。ああ、一体誰が、笑顔で話している彼らが殺し屋なのだと気が付くだろう。
殺し合いをし、険悪な仲から始まり、ビジネスだけで繋がり、孤独に生きていた。そんな彼らが今こうして顔を合わせて笑っている。
「まあお前の小遣い程度の情報なら教えてやろうじゃないか。そうだな…………これは俺が女子高生に殴られた話なんだけど。……あ、でも今日卒業したからもう女子高生とは呼べないかな。どう、和子?」
皆が私を凝視した。私は顔を真っ赤にして如月さんをバシバシ叩いた。あれはれっきとした抗議代だ。第十区に乗り込んだ私達を騙し、情報を敵に渡していたことに対する抗議。ちゃんとお金も払った。無理矢理数千円を握らせて、キョトンとする彼の頬を思いっきり殴ったのだ。
「流石殺し屋なだけあって、あれは痛かったなぁ。死んでしまうかと思った」
「す、数ヵ月前の話を蒸し返さないでください!」
「一発で気絶したからな。根に持つさ」
「追加で詫び料払ったじゃないですか!」
他にあるでしょ、と話を逸らす私を笑い、如月さんは楽しそうに情報を話す。真理亜さんが芸能モデルにスカウトされた話、あざみちゃんが進む条天高校と太陽くんが行く定貝高校の裏事情、ネズミくんとヒツジちゃんが中学校に通うことを検討している話、一年先輩が大学で描いた絵が評価されて展覧会に展示される話……。
「なあどうせならお菓子でも食べながらお喋りしようぜ。深夜のお喋り会。情報共有も兼ねてさ!」
「本格的にたまり場にする気だな? お菓子なんて置いてないんだから、買いに行ってきな。ついでにビールもよろしく」
「任された」
「任されるんじゃないわよ。……もう、あんただけじゃ不安。あたしもついていくわ」
「ぼくも、アップルパイ食べたぁい」
「コンビニに売ってるかなぁ。私も行くよ」
大人達がこちらを見て微笑ましそうな顔をしている。本当に皆ただの友達みたいだった。今の私達に殺し屋というビジネスの関係はない。ただ、距離が近くて、何でも話し合えて、笑うことができる、そんな優しい関係だった。
「ぼくもいっぱい話したいことあるの! ヒツジちゃんと、さいきん、おべんきょうしてるの。かんじも書けるように、なってきたんだよ!」
「わあ、凄い。ネズミくん頑張ってるねぇ」
「でしょー? あのね、あのね、きのうも新しいかんじ、おぼえたの。夫婦、ってやつ」
「妙に難しいものを書いたのね。漫画にでも書かれてたの?」
「ハリネズミが紙にかいてたの、教えてもらった。えーっと、こんいんとどけ? 夫婦? になるのにいるんだって。マスターと」
嘘でしょ、と一番声を張り上げたのは如月さんと真理亜さんだった。面倒くさそうな顔をする仁科さんに驚愕の表情で如月さんと真理亜さんが詰め寄っているのが、閉まっていく扉の先に見えた。じゃあいこっか、と嬉々として先を歩くネズミくんに、興奮した私達の質問が浴びせられる。
もーうるさい、とネズミくんは耳を塞いで声を上げた。仁科さんと一緒の仕草だった。その様子が可愛くて私達は思わず笑った。
夜の明星市はまだ明るい。鮮やかで眩い光の中に、キラキラとした笑い声が響く。
あざみちゃんが笑えば彼女の髪がふわふわと揺れる。太陽くんの快活な笑い声が耳に気持ちよく通る。私の手を引くネズミくんの柔らかい手をそっと握り締める。
何気ないこの瞬間が愛おしかった。感じる体温が、聞こえる笑い声が、心を真綿のように優しく包む。
ふと空を見た。澄んだ星が輝く夜空が広大に広がっている。明星市を見守る星の光。それがあまりにも美しくて、何だか涙が出そうになった。
幸せだな。
ただ、そう思っていた。
東雲さん。私、大学に受かったんです。
友達も増えました。今度の休みも皆で映画を見に行く約束をしてるんです。あ、それから、一条さんとも、ちょっとは仲直りできたかもしれません。
殺し屋の皆とも仲良くしています。あざみちゃんと太陽くんも高校に受かったんですよ。真理亜さんはモデルにスカウトされて、そっちの道に進んでみるのも考えているそうです。如月さんは相変わらず忙しそうで、お喋りばっかり。そうそう。仁科さん、ハリネズミさんと結婚するんですって。びっくりでしょ。ネズミくんとヒツジちゃんも中学校から通う予定だそうで。ああ、一年先輩。あの人、大学で賞を取った絵が展覧会に飾られるそうです。まあ、一回くらい見に行ってあげても、いいかな。
頑張って生きています。毎日楽しいし、幸せです。
優しくしてくれてありがとうございます。ネコとして私を育ててくれてありがとうございます。
私はあなたをずっと愛してる。
だけどもう、大丈夫です。
私もあなたも、一人で生きていけるようになったんですよ。
ね、東雲さん。
「私は、変わることができましたよ」
目を覚ました。
カーテンを開けたけど、外はまだ暗かった。目覚ましは朝の五時半を指している。まだ夜は明けてもいない。
「ふふっ…………」
何だかんだいってやっぱり気になっているのだろうか。東雲さんが生きているという噂。
二度寝する気は起きなかった。ベッドから起き、私は習慣的に壁にかかっている制服を取ろうとして、もう着なくてもいいのだということを思い出してまた笑った。
クローゼットを開ける。適当に伸ばした手がふと灰色の生地に触れる。ハンガーから取り上げたそれを、私はじっと見つめた。
「……………………」
灰色の猫耳パーカー。それは私が仕事をするときによく着ていた服。
制服と同じく、それもすっかりくたびれていた。ところどころに落ちない汚れも残っている。そのうちのいくつかは、洗っても取れない血の痕だった。
殺し屋をやめてから何となく着なくなっていた。今度大掃除をするときに捨てようかとも思っていた。けれどその服を見ているうちに、私の心に、鮮やかな思い出が蘇ってくる。
初めて殺し屋の仕事をした日のこと。東雲さんと過ごした日々のこと。痛みも、血の臭いも、全てを思い出す、この服。
殺し屋ネコとして過ごした日々を思いながら、私は最後にもう一度だけ、袖を通した。
夜が明けていく。白んでいく空の下を、一人静かに歩いていた。
公園に来るのは久しぶりだった。枯れた噴水に腰かけ、誰もいない公園を見まわす。
嘘じゃないぞ、全部本当の話さ。
今にも隣からそう聞こえてきそうな気がして、私は隣を見た。そこには勿論誰もいない。だけど優しく頭を撫でられた思い出が蘇って、私は微笑む。
保良さんは優しい人だった。泣いている私を慰めて、いつも楽しいホラ話を聞かせてくれた。優しい優しい、元殺し屋のおじさん。
保良さん。まさか私が殺し屋になっただなんて、それこそ嘘だと思わない?
ネコって知ってる? この街の一人の殺し屋の名前だよ。強くて、だけど一人も殺すことができなかった、一人の殺し屋の名前だよ。
殺し屋って、あなたが話していたよりずっと優しい場所だった。聞いて。私、そこで好きな人ができたの。あなたを殺したオオカミだよ。信じられる?
オオカミも、ネコも、あなたの言葉があったから救われた。あなたがいなければ、きっと私達は出会うことも、一緒に生きることもできなかった。
あなたは二人の人間を救ってくれた。
「…………嘘じゃないの」
私はそっと呟いた。目を閉じて、空を見上げる。
「全部、本当の話ですよ」
私が殺し屋になったことも。
そこで殺し屋さんを好きになったことも。
私がそこで体験した夢のような日々も。
全部。本当の話。
私は目を開けた。
ふと、視界の端に。どこかのビルの屋上に、それが見えた。
緑色のコート。
私は飛び起きた。近くのビルの屋上。一瞬、深緑色のコートがはためいたような気がした。
気のせい。夢。見間違い。そんな心の声を押しのけて、私の唇は言葉を吐き出す。
「東雲さん…………」
何故だか、長い間、その名を呼んでいなかったような気持ちがした。
「っ、東雲さん!」
走り出した先に三階建てのビルがある。昔は出版社として使われていた廃ビルだ。埃っぽい階段を上がりながら、ふと既視感を感じた。
私は前にもここに来たことがある。
ああ、そうだ。
一番最初。私が保良さんの死を目撃して、東雲さんと初めて出会った、あのビルだ。
死のうと思っていた。
ボロボロの制服を着て、くすんだ目いっぱいに涙を溜めて、あの日わたしは階段を上っていた。
骨ばった指先に遺書を持ち、何度も嗚咽を零しては、一歩一歩死ぬための場所へ足を進めていた。
ずっといじめられて辛かった。お父さんとお母さんにも見捨てられて、もうどうしていいのか分からなかった。
あの日、わたしの前に未来はなかった。震える手を屋上の扉にかけ、汚れた靴を見下ろしていることしかできなかった。
わたしは死にたかった。
だけど今、私は生きている。
私は屋上の扉に手をかけ、あのときと同じようにじっとしていた。この扉の先に何があるのか考えることもできなかった。
ただ夜明けの空が広がっているのか。それとも、あのときのように誰かが殺される場面に遭遇してしまうのか。
それとも。
「――――大丈夫」
私は胸を張って顔を上げた。
「あなたのことは私が守ってあげるから」
秋月和子。あなたを守れるのは他の誰でもない。私だけ。
これから先、どんな困難があなたを苦しめようとも、私があなたを守ってあげる。平気だよ。私、とっても強いから。
もう大丈夫だよ。
私は扉を開ける。
あのときは、死ぬために。
今は、前に進むために。
明けない夜はどこにもない。
朝の光が真っ白に世界を包む。温かな光を浴びながら、私はまっすぐに前を見つめた。
唇から、震える溜息を吐き出した。目から熱い涙が零れていく。
私は笑って言った。
「おかえりなさい」
「ただいま」