第161話 星空のオオカミとネコ
「――――この馬鹿!」
剣のように鋭い怒声が私を貫いた。
手を誰かに掴まれる。熱く汗ばんだ肌の温度が、私の冷たくなった手を焼いた。落下しかけていた体はガクリと空中で止まり、宙に浮いた足が風に揺れた。
屋上に誰かがいる。その人の顔を見て、私は大きく目を見開いた。
どうして。
私が望む人じゃない。
そこにいるのは、私が大好きな人達の、誰でもない。
私を救う理由など、誰よりも、一番持っていないはずの人。
私は小さく唇を震わせて、その人の名を呼んだ。
「一条さん」
風が、彼女の細い金糸を揺らす。必死の形相で私を見下ろす一条さんは、私の声に、一層手に力を込めた。
ああ、一条さん。どうしてあなたが。
あなたはいつも、私の邪魔をするんだね。
「何してるの!」
一条さんの罵声が空気を劈く。キンキンと甲高い声で私を怒鳴りながら、彼女は必死に私を引き上げようとしていた。
屋上には申し訳程度の縁があるばかりで、柵などない。縁の小さなとっかかりにかけられた彼女の指は激しく震え、今にも外れてしまいそうだ。
「…………離して。落ちちゃうよ」
「だったら早く上がりなさいよ!」
彼女の手を湿らせる汗が、私の手を滑らせる。ずるりと抜けそうになる手の平を慌てて一条さんが掴む。早く、ともう一度彼女は言った。それでも私は動かない。
「あなた、落ちる気っ?」
「そうだよ」
彼女が息を呑む気配が伝わって、私は思わず溜息を吐いた。
「見れば分かるでしょう。死ぬ気なの、私」
いくら彼女が私を助けようとしても無駄だ。だって私は、最初から死のうとしていたのだから。
彼女の顔がみるみるうちに歪んでいく。困惑は、次第に怒りへと変わり、真っ赤になった顔から唾を飛ばして彼女は怒鳴った。
「…………助けるんじゃなかった!」
甲高い声は、まるで悲鳴のように聞こえた。
「頭おかしいんじゃないの!? 急に叫んで、走り出してさ! あなたに気付かなければ良かった! ああ、もう……からかってやろうって思うんじゃなかった、追いかけてみるんじゃなかった! 急にビルに入って、そのまま……あなた…………クソ、クソッ! 馬鹿! 私の目の前で、死のうとしないでよっ!」
ああ、彼女は私の叫びが聞こえていたのか、と思った。
一条さんは私服姿だ。きっと今夜も、街で男を探していたのだろう。あれだけの雑踏だ。狂ったように叫ぶ私の姿を、知った人間が見かけることもきっとあった。
私をからかおうと思って。ちょっとイタズラしようとして、彼女は私の後を追った。
まさか飛び降りるだなんて思っていなかっただろうに。
「見捨てれば良かったのに」
「目の前で……! あなたが死んだらっ、私が、疑われるでしょうが……!」
それもそうか。一条さんは偶然私の近くにいただけだ。けれど、警察は私の死をただの自殺で片付けるだろうか。元いじめっ子と元いじめられっ子。私と彼女が近くにいたことを、偶然で片付けるのは、難しい。
可哀想に、と私は薄く笑った。些細な好奇心が一条さんに無駄な労力を強いている。彼女が私を助ける義理も動機もないのに。
ギシギシと体は風に揺れる。頼りない足元に冷たい空気が絡みつき、身が震える。
高い建物じゃない。それでも、下に見える地面は遥か遠い。私はその地面に叩き付けられることを望んでいた。一刻も早くこの身を空に投げ出してしまいたかった。
死ななければ。早く、東雲さんのところに。行かないと。
「…………もう許してよ」
私は言った。一条さんが目を見開いた。
「いつも邪魔してくるね、一条さんは。私が生きたかったときに、あなたは私に死ねって言った。今、私が死にたいときに、あなたは自殺の邪魔をする」
汗ばんだ手が爪を私の手に食い込ませる。ぶるぶると震える体は、重さに耐えているのか、怒りに堪えているのか、分からない。
彼女の手の熱さが腹立たしい。握られる手の痛みが腹立たしい。私を助けようとしないで。私を一番嫌いなはずの、あなたが。
「…………どうして? そんなに私のことが嫌いなの? 嫌い。嫌い。私だって、一条さんのこと、大っ嫌い。うんざりだよ。もう私に関わってこないで。私の邪魔をしないで。ねえ、手を離してよ」
彼女だけじゃない。私だって一条さんのことが嫌いだった。この人がいなければと、何度思ったことだろう。彼女のせいで幾度と絶望を味わった。
彼女がいなければ、私はもっと幸せになることができたのに。
最後まで邪魔をするの?
「どうして死にたいの」
一条さんが言った。感情を押し殺して問う彼女の声は、静かだった。
「生きている意味がなくなったから」
私は彼女の顔を見つめて答えた。
「私がどんなに頑張って生きたって、もう…………あの人は、いないの。私はあの人のために、あの人がいたから、これまで生きてこられたのに。……傍にいかなきゃ。だって、私がずっと守るって、言った。私が言ったんだから…………」
声が震える。喉が熱くなる。自分の情けなさを言葉にすると、髪を掻き毟って絶叫したくなった。
私は東雲さんに言った。あなたに降りかかる悪意を私が払いのけると。ずっと隣にいる、あなたを守る、と。
何が。何が、何が、何が。一つも叶えてあげられなかった。守ることなど、隣にいることなど、できなかった。
情けない女だ。豪語したくせに、簡単にその手を離してしまった。ああ……時間が巻き戻ればいいのに。あのとき東雲さんの手を離さなければ良かった。彼の言葉を無視して、私が炎に飛び込めばよかった。
私の命なんてどうでもいい。東雲さんを救うことができなかった私など、存在している価値もない。
「――――ふっ」
吐息のような声が聞こえ、思考が中断される。私は思わず一条さんの顔を凝視した。
顔中に浮かんだ汗が彼女の化粧を洗い流す。ドロドロに崩れた顔は、苦痛の中に、僅かな嘲笑を滲ませていた。
白く濁っていた頭の中が、一気に膨らみ、破裂する。
「何がおかしいの!」
鋭い叫びを彼女に突き刺した。ビリビリと震える空気に、けれど一条さんは怯えない。笑顔を引っ込め、怒気を孕んだ顔を、私に向ける。
「どこまでも馬鹿だと思ってたけど……救いようのない大馬鹿ね、あなた」
頭から血が噴き出すような気がした。視界が真っ赤に染まり、怒りに体中が震える。何かを怒鳴ったような気がするけれど、自分が何を怒鳴ったのかも理解できなかった。
一条さんはそんな私を馬鹿にして笑った。私の顔にゴミを押し付けてきたときと同じ、酷く楽しそうな顔で。いじめっ子の顔で。
私の一番嫌いな女は、笑いながら言った。
「あなた、一人で生きられないのね」
胸の奥がカッと熱くなった。
灼熱に燃える炎を喉に滑らせたようだった。
「『あの人』って誰なのよ」
一条さんは黙りこくる私を蔑む。彼女の艶やかなまつ毛を汗が濡らし、まるで涙の粒のように煌めいた。
「誰か死んだの? 家族? それとも恋人? あなた、そんないい人いたんだ。知らないけど。……うん、そうよ、知らないわよ。あなたにとって特別な人がいたって、その人が死んだって、私には何一つ分からない」
「…………何が言いたいの!」
「『関係ない』の!」
突風が吹いた。私の体が一条さんの手からずるりと抜け落ちる。サッと顔を青ざめた彼女は息を呑んで腕を振り回す。辛うじて、私の袖を細い指が掴んだ。けれど代わりに、一条さんの体は大きく屋上から乗り出してしまう。
バランスを崩せば二人とも落ちてしまう。にっちもさっちもいかなくなった状態で、顔を青くした一条さんは、それでも叫んだ。
「誰が死んだって、あなたには関係ないでしょ!」
私は唇を震わせた。くしゃりと歪んだ顔で一条さんを見て、疑問を顔に浮かばせた。
「弱い女。いつまでも甘えてばかりのお子ちゃま。皆に愛してもらわないと生きていけないのね。頭を撫でてもらって、よしよしいい子ねって、そうされないと泣いちゃうのね」
「ち、違う…………っ」
「何が違う。秋月の人生は秋月だけのものでしょう。そこにどれだけ素敵な人が現れたって、あなたにとって最高の人が現れたって、その人があなたの人生を操作するわけじゃない。その人が死のうとあなたが死ぬ理由にはならない。その人が生きる意味だったと言うのなら、新しい生きる意味を見つければいいじゃない!」
ギシギシと揺れる手に、一条さんの爪が食い込んだ。滑らかに色を塗られた爪は鋭く伸び、皮膚から赤い血が滲んだ。痺れるほどに痛かった。
「秋月。あなたは最初からそう。結局、他人をあてにしないと駄目な奴だった。金に困っているわけでも、大病を患っているわけでも、何でもなかった。不自由なく物を買って、食べ物を食べて、誰からもお金を借りず高校に通うことだってできて、何の心配もなく大学を選ぶこともできた。あなたは十分生きることができた! 勝手に悩みを作ったのはあなた自身でしょう。いじめ? 親の愛? この世界にそんなちっぽけな悩みを抱えて生きている人間がどれほどいると思ってるのよ」
一条さんは大きく肩で息をする。言葉を発するたび少ない体力が奪われていく。それでも一条さんの言葉が途切れることはない。彼女の声は決して大きいものじゃなかったけれど、その言葉は強かった。
「勝手に悩んで、勝手に追い詰められてっ。どうして他人に左右されるの? どうして自分一人になったら立ち止まってしまうの? あなたは誰かに寄生しなければ生きていけないの?」
ハサミでバチンバチンと無理矢理頭の中を切り裂かれていくようだ。
一条さんの強い言葉が、私の頭の中を暴れまわる。彼女の言葉はいつもそうだ。私の全てを否定して私をめちゃくちゃにしていく。それがずっと嫌いだった、嫌だった。
「あなた、一人で生きられないのね!」
一条さんはもう一度同じ言葉を叫んだ。
一人では生きられない。
言い訳を探していた。
自分はこんなに不幸なのだと、自分自身に伝えようとしていた。
いじめられているから、両親から愛されないから。そんな理由で全てに絶望していた。
けれど結局、一条さんの言う通りだ。当時の私には計り知れないほどの絶望だった理由も、今思えば、随分ちっぽけなものだった。
生きることなんてやろうと思えばできたのに。苦しくても辛くても、ただ生きることだけなら、できたのに。それでも自殺を選んだのは私が弱かったから。
生きながらえたところでまたも絶望して自殺を計っている。私は変わることなんてできなかった。私は弱いままだった。
だって寂しい。
一人で生きることは、死んでしまいたくなるくらいに、寂しい。
「…………嫌」
「え?」
「嫌…………嫌だよ。辛いよ。だって、一人は寂しいよ。怖いよ。助けて。お願い。助けて」
私は一条さんの腕に縋り付いた。暗闇の中に差し伸べられた彼女の腕が、地獄に垂れた蜘蛛の糸みたいに見えた。それが私を拒絶する人間の腕だと知っていても、縋らずにはいられなかった。
私は弱いから。一人じゃ生きていけないから。
誰でもいいから。誰かに救ってほしかった。
「助けてよ……一条さん…………!」
私は大嫌いな人に向かって助けを求めた。
もう一人は嫌だと。
一条さんはぐんわりと顔を歪めた。一際大きな声で叫ぶ。
「――――そんなの自分で何とかしなさいよ!」
何度目かの風が吹いた。
今度こそ、一条さんは耐えられなかった。
あっ。
軽い声と共に、呆気なく一条さんの指が縁から外れる。私の体も、一条さんの体も、ゆっくりと屋上から離れていく。
一条さんの真っ赤だった顔が一瞬で青ざめていくのを、やけに緩やかに動く視界の中で見た。
蕩けるような安堵感が私の胸を満たしていた。一瞬前まで感じていた不安や怒りはもうない。一条さんの指が外れた瞬間、落ちると確信した瞬間、心の奥底から歓喜が沸き上がった。
もう辛いと感じなくていいんだ。悲しむことなんて何もない。
これでようやく全てが終わるんだ。
指先を掠めていく風が心地良い。今までよく頑張ったねと、私の手の平を撫でていく。
鳥になった気分だった。自由に空を泳いでいるようだった。全ての苦しみを開放した私の胸が、感動に打ち震えている。
もう終わり。全部終わり。
もういい。何に悩む必要もない。考える必要はない。
私はもう、生きていなくてもいいんだ。
星明かりにサラサラと私の髪が照らされる。オレンジ色に透き通る茶色い髪が豊かに揺れる。視界いっぱいに光の雫が広がっていた。死ぬ間際の幻想なのだろうか。眩しい光の雨はとても綺麗で、心が感動に震えた。
光の中に一条さんの金糸が舞う。私のすぐ目の前を落ちている一条さんは、ぼうっと呆けたように夜空を見上げていた。長いまつ毛が光を通して、キラキラと星のように輝いている。
私と一条さんの体はゆっくりと空を舞う。きっと一秒にも満たない時間の中の夢だった。
微睡むように目を閉じて、私は深い眠りへと落ちていく。
今、会いに行きますからね。
――――あなたは殺し屋さん、なんですか?
――――ああ。
初めて彼と会ったときのことを思い出した。
最初は、人殺しなんて理解できないことをやっている彼のことが、怖くて仕方がなかったっけ。
――――お前に居場所を与えてやる。
――――殺し屋にならないか?
彼に殺し屋に誘われたときのことを思い出した。
自分で自分が何を考えているか分からなかった。ずっと悩んで、それでも結局彼についていってしまったんだ。
――――東雲。
――――苗字、ですよね? 下の名前は?
――――……咲。
――――偽名ですか? 可愛い名前。
――――…………本名だ。
彼の名前を知ったときのことを思い出した。
ようやく彼の名前を知って、少し嬉しかった。初めて東雲さんって、彼の名前を呼んだ。
――――気を抜くな、ネコ!
――――謝るときは、まず最初に謝罪の言葉を述べるべきだ。……次はないぞ。
――――安心しろ。俺がいる。お前はもう一人じゃない。
――――和子。誕生日おめでとう。
楽しかったな。
――――お前を生かしてみたかった。でも、もういい。十分だ。ネコはもう、いらない。
――――これ以上お前を求めていたら、いつかお前が先に死んでしまう。だからもういい、もういいから……お願いだからもう、関わらないでくれ!
嬉しかったな。
――――よく頑張ってくれたな。
――――俺達なら大丈夫だ。行くぞ、ネコ。
――――なんでお前がここにいるんだよ、冴園!
――――無理だ。できない。俺には殺せない。冴園を殺せないよ、ネコ…………!
ずっと一緒にいたな。
――――俺にはもう、お前しかいないなぁ。
――――お前が傍にいてくれてよかった。
――――俺は、お前が。
幸せだったなぁ。
東雲さん。
東雲さん。
今、会いに行くから。
もう一度あなたに会いたい。
それだけなの。
「和子」
東雲さんの声が聞こえた気がして、私は目を開けた。
零れるような星空が見えた。一条さんの顔が見えた。東雲さんの姿はどこにもなかった。
私と一条さんの目が合った。
彼女は、呆けていた顔を歪めて、ぐしゃぐしゃの声で叫んだ。
「死にたくない!」
お前が今よりも強くなったら。お前が大人になったら。俺はきっと、お前の元に帰るから。だから、強くなれ、もっともっと強くなれ。
大好きだよ。和子。
「――――――――っ!」
咄嗟に、私は一条さんの腕を掴んだ。
夢から覚めた体は一気に重力に引っ張られる。耳を裂くような強烈な風が、体を下へ押し潰す。
建物の壁に爪を立てた。溝すらない壁に爪がガリガリと凄まじい音を立てる。窓枠に指が引っかかり、一瞬だけ落下が止まる。けれどすぐに指は外れ、また落下が始まる。
爪が剥がれる。骨が砕けた音がして指が曲がる。意識が飛びそうなほどの激痛に、体中が震えた。
私と一条さんは叫んだ。一条さんは泣きながら私に抱き着いた。その熱い背を、決して離さぬように、強く抱き締めた。
何度も指が窓枠を掠める。そのたびに、指先に力を込めた。指が弾かれる。爪が歪み、皮膚ごと剥がれる。無理な方向に力を入れた指が折れる。
それでも、何度でも、私は腕を伸ばした。燃えるような痛みに目を見開いて、獣のように吠えた。
「あ゛あ゛あぁあぁっ!」
指が最後の窓枠に引っかかる。私は無理矢理ねじ込むように、腕を振り回した。
たった一瞬、私達の落下が止まる。腕中に巡る血が爆発したような音を立てて、骨が砕けた音がした。目の前が真っ白になる。腕が外れ、また落下する。
けれど地面はもう目の前だった。
背中が地面に叩き付けられた。バチンと脳味噌を直接ぶん殴られるほどの衝撃に、声にならぬ悲鳴を上げる。
隣で一条さんも同じように身悶えていた。だけど、体中を巡る凄まじい痛みは、段々と引いていく。
「……………………ゲホッ!」
「っ、っ…………、ぅっ…………」
「……………………生き、て……る?」
震えた声で一条さんが呟いた。
「うそ……生きて…………本当に……? …………あき、秋月。秋月」
探るように地面を這った彼女の手が、私の肩に触れる。小さく息を呑んだ彼女は、強く私の体を揺さぶった。折れた片腕が凄まじく痛む。呻きながら、文句を言うために横を見た。
一条さんの顔が目の前にある。呆然と丸くなった目が、私を見つめた。
「秋月」
「うん」
「生きてる?」
「生きてるよ」
それは私自身に向けて言った言葉かもしれない。
一条さんの目がとろりと潤む。厚い涙の膜が膨らみ、星に溶けた瞳が、琥珀色に震えた。
「生きてるよぉ…………!」
彼女はギュウと目を瞑って泣く。大粒の涙がほたほたと流れていく。私は何も言葉を返せなかった。ただ、肩で大きく息をする。呼吸をするたびに腕も背中もズキズキと痛んだ。脈打つ心臓がうるさかった。
水みたいに薄い色の息が一条さんの唇から零れる。彼女は何度も噛み締めるように、また言った。
「ねえ秋月。私、生きてる」
ぱちりと彼女の目が開く。瞬く光に満ちた彼女の瞳が、涙を流しながら、私を見つめた。
長い沈黙があった。一条さんの肩が震える。しばらくして、彼女は可笑しそうに息を吐き出した。
なんだぁ、と一条さんは言った。呆れたような声で言った。
「あなた、強いじゃないの」
――――ああ。そういう意味だったのか。
「…………そうだよ」
一条さんがふっと目を張った。きっと私は、今まで誰にも見せたことのない顔を、彼女に見せている。
死のうとしていたのに死に抗った。その理由は、自分が生きたいと思ったからじゃない。
目の前の命を救いたいと思ったから。
殺し屋は人の命を救ってきた。
矛盾している。だけど確かに私達は、人を殺すことで、他の命を救っていた。
私達がいなければ救えなかった人がいる。
殺し屋は命を奪い、そして命を救うために、戦っていた。
東雲さんもそうだった。
「私は強いの」
東雲さん。あなたは最後に私に言った。
お前が大人になったら、強くなったら、きっとお前の元に帰るから。
その言葉の本当の意味に、私はようやく気が付いたよ。
「強い、から」
一条さんの手を強く握る。傷だらけの手から滲んだ血が熱かった。彼女の手が熱かった。
「私……………………一人でも、生きていけるんだよ」
大人になること、強くなること。それはきっと、私が一人でも大丈夫になること。
東雲さんは私にこう言ったんだ。前に進め、お前はもう一人で大丈夫だって。
最初から、戻ってくる気なんてなかったんだ。
「一人でも大丈夫なんだよ…………」
東雲さん。あなたがいない未来なんて、私にとっては地獄と同じだ。永遠に明けない夜を彷徨うことと同じだ。
あなたに会いたい。たった一目でいいから、またあなたの姿を見たい。
だけどあなたは怒るのでしょう。怒られるのは嫌だから。笑っていてほしいから。
あなたが進めというのなら、私は前に進むから。転んで、躓いて、ちょっと振り返ることもあるかもしれないけれど。
それでも、振り返った先にあなたの姿が見えなくても、私は足を止めたりしないから。
だからいつかゴールに辿り着いたら。そのときは、優しく笑って、頭を撫でてほしいな。
東雲さん。あなたは拾った子猫を、最後まで育ててくれたんだね。
「…………あなたはとっても強くなったんだから」
顔をぐしゃぐしゃにして大声で泣く私を、一条さんは咎めることなく、抱きしめた。
優しく背を叩きながら、一条さんは静かな声で言う。
「きっとこれからも、生きていけるよ」
これは、長い長い物語。
星空の街に住む、ふたりぼっちのオオカミとネコが。
ひとりで生きていくための物語だ。