第160話 ひとりぼっちの猫
「東雲さん」
私の声は小さく、雑踏に消えていく。
街のうるさい明かりが目を焼く。カラフルな街明かりが行き交う人々の顔を鮮やかに照らし出す。私はその顔一つ一つを必死に目で追った。けれど。探している人物の顔は、見つからない。
夜の通りは喧騒に満ちている。聞こえるのは、笑い声と、誰かが喧嘩している怒鳴り声。誰かが蹴飛ばしたゴミ箱からゴミが散乱している。その上を私の足が踏みつける。靴底に張り付いたガムのベタベタとした感触は、汚れた地面を踏んでいるうちに、気にならなくなった。
突然顔に影がかかる。視線の先に、深緑色のコートが現れる。勢い良く顔を上げた私は、けれどすぐに、膨らみかけた気持ちを萎ませた。
「お姉さんどうしたの、一人? ホストどう?」
ホストクラブのキャッチが差し出すティッシュから目を逸らし、私はまたふらふらと歩き出す。興味あったら来てよ、と声を上げる彼が着ている深緑色のコートは、よく見れば、あの人のものとは似ても似つかなかった。
ホストクラブの間を、キャバクラの間を、パチンコ店の間を、酔っ払いの間を、ただ歩く。歩き続ける。もう何時間歩いているのか分からない。明星市中を何時間も延々と歩いている。
行くあてがあるわけじゃなかった。ただ人を探していた。
「東雲さん」
掠れた声で何度も彼の名を呼ぶ。返事はいまだ、帰ってこない。
ねえ。どこにいるの。
明星市の夜を、私は今まで知らなかった。
朝起きて、学校に行き、帰ったら眠る。私はずっと昼の時間を生きていた。だけど殺し屋になってこの街の夜を過ごすようになった。明星市の夜は物凄くうるさくて、怖くて、寂しくて。けれどとても美しい時間だ。
暗がりの路地裏に眠る死体。情報屋で遅くまで話し合いをする殺し屋達。煙草と硝煙の香り。東雲さんと共に見上げた満天の星空。
全てが私にとっては新鮮だった。二年間で数多のことを学んだ。濃密な時間だった。
苦しく辛かったけど。人生の中できっとこれ以上はないと思うほどに、幸せな時間だった。
だけどそれは全て、彼が隣にいたからこそ、得られた幸福だった。
「東雲さん。どこ。どこですか。おねがい、へんじして。東雲さん」
声が上手く出てこない。何度も呼んでいたからだろうか。ふわふわとまるで幼児みたいに舌足らずな声が、親を呼ぶ迷子のような声で、必死に東雲さんを探す。
早朝、衝動的に家を飛び出してから、今までずっと探し続けている。一緒に買い物をしたスーパー、よく通った路地、彼が煙草を吸っていた喫煙所。足が棒のようだった。それでも構わず、私は歩き続ける。
東雲さん、東雲さん、と彼の名前を呼び続けた。
彼はどこにもいなかった。
探しても。探しても。東雲さんの姿は、どこにも見つけられなかった。
『――――ニュースをお伝えします。本日午後8時。第六区の住宅で強盗殺人事件が起こりました』
信号が赤になった。横断歩道の前で立ち止まった私は顔を上げ、ニュースを流す大型ビジョンを見上げる。ニュースキャスターが淡々とした声音で今日の明星市を読み上げていた。
『住居に住んでいた、夫と見られる四十歳の男性が一人死亡、妻である女性が意識不明の重体ということです。警察によると、逃走している犯人はいまだ刃物を持っている可能性があるとみられ、近隣の住民に注意を呼びかけています。次のニュースです。第一区の駅前で、トラックが公園に突っ込む事件があり、運転手は薬物を摂取していたとの…………』
パ、パ、とニュースは続き、薬物乱用事件や誘拐事件を報道して終わる。広告が入り、男性が子供を抱き上げて笑っている、生命保険のCMが流れる。
信号待ちをしている人々は手持無沙汰にその大型ビジョンを見上げていた。街の事件を乾いた目で見つめ、欠伸をする。他人事のように無反応だ。
信号が青に変わる。人々が横断歩道を渡る。けれど私は前に進むことができず、その場に立ち止まっていた。後ろから人にぶつかられる。舌打ちをされる。それでも足が震え、とうとうその場に蹲ってしまう。
気分が悪かった。吐きそうだった。口元に手を当て、顔を真っ青にしてぶるぶると震える。見開いた私の目は、明星市の街を行き交う人々を見つめていた。
間違っていたのだろうか。
明星市を救うために戦っていたつもりだった。なのに、結果はどうだ。これが私達の守りたかった明星市なのだろうか。
命を懸けてまで戦ったって何も変わらない。明星市では今日も、あちこちで犯罪が起こっている。先程通りがかった居酒屋には、泥酔した客の乱闘騒ぎで、救急車がやってきていた。その前に見かけた書店は、多発する万引きによって、閉店に追い込まれていた。今もどこからか怒声が聞こえる。サイレンが聞こえる。
間違っていた。私はきっと、間違えてしまった。
私が守りたかった未来は、こんなものじゃない。
「…………冴園さん」
彼の言う通りにすればよかった。この街を本当に救うためには、きっと一度、全てを崩壊させないと駄目だったのだろう。だってもうこの街は終わっている。今更足掻いたって、きっと無駄だった。
冴園さんに協力すればよかった。ああ、どうして私は、彼を拒絶してしまったのだろう。冴園さんはあんなに私に優しくしてくれたのに。私が戦おうとしなければ、きっと冴園さんは、今も生きていたはずなのに。
会いたい。会いたいよ。冴園さん。会いたいよぉ。
ずっと優しくしてくれた。その優しさは嘘じゃなかった。最初から最後まで、彼は優しい大人だった。大好きだった。そんな彼を、私達が、私が、殺した。
また頭を撫でてほしい。よく頑張ったねって、抱きしめてほしい。彼の手の温かさを、もう私は、忘れかけてしまっている。
――――あ、いたいた。
そんな声が聞こえて、私は声の方向に目を向けた。広場の一角にいた男性の元に女性が駆けていく。お待たせ。お疲れ様。そんな声をかけて、二人は軽いキスをして、それじゃあ行こうかと手を繋ぐ。何気ないデートの一風景だった。よく見かける光景だった。その二人の姿が、東雲さんと私の姿に重なった。
私は呆然と去っていくその二人の背中を見つめていた。二人は幸せそうだった。その手は、ぎゅうっと握られていた。
「大丈夫ですか?」
誰かが私に声をかける。肩に手を置かれた。だけど私は勢い良くその手を払いのけ、その場から駆け出した。
絶叫する。突然悲鳴を上げた私を、周囲の人が驚きと不審に満ちた目で凝視する。私は叫び、全力でその場から逃げ出した。傍から見れば気狂い以外の何者でもない。実際、もう私は気が狂ってしまったのかもしれない。それならそれでいい。いや、その方がいい。もう狂いたかった。現実を受け入れることが、思考することが、たまらなく恐ろしい。
走って、走って、走って。小さな段差に躓いて、私は顔から地面に倒れた。強く打ち付けた額が痛い。ぐうぅ、と呻き声を上げ、拳を握って震えた。
心臓が悲鳴を上げ、疲労を抱えた足が震える。いつの間にか人気の少ない路地に来ていた。ゴミが散乱した路地は生臭い臭いが漂って、倒れた拍子に、服や体に黒い粘ついた汚れがべとべととくっ付いていた。
額から血が滲む。生ぬるい血が肌を伝う。乱暴に拳で血を拭って、私は路地に倒れ込んだまま、顔を上にあげた。視界に夜空が飛び込んでくる。零れんばかりの星がキラキラと輝いている。
受け入れたくないのに。理解したくないのに。どうしたって、頭は勝手に思考を巡らせる。仁科さんの言葉が頭から離れない。あの夜の光景がどうしても忘れられない。
今と同じ美しい星空。オレンジ色に焼ける屋上。地獄のように舞い上がる煙炎。肌を焼く灼熱の温度。血の臭い。別れを告げる東雲さんの優しい笑顔。朝焼けの中で囁かれた、仁科さんの言葉。
もうとっくに気がついていたでしょう。どこを探したって、東雲さんは見つからない。
東雲は死んだ。
東雲さんは、もういない。
「っ――――ああああああぁあぁっ!」
私の絶叫は、長く、鋭く、明星市の夜を貫いた。宵を切り裂く刃物のような悲鳴は、けれど星空には到底届かない。
何度も拳で地面を叩く。皮膚が破け、血が噴き出しても、私は拳を止めなかった。髪をぐしゃぐしゃに搔き乱して、地面に突っ伏して、絶叫する。
泣きたかった。泣けなかった。こんなにも心はズタズタに引き裂かれ荒れ狂っているのに、涙は一滴も出なかった。
東雲さんは死んだ。死んだんだ! 私を置いて、一人で行ってしまったんだ!
もう会えない。声も聞けない。笑顔も見れない。触れることも、隣にいることも、何もかも……。
私が生きてこられたのは東雲さんがいたからだ。人生に絶望していた私を、東雲さんが救いあげてくれたのだ。彼は私にとっての神様みたいな存在だった。
神様は死んだ。東雲さんは死んだ。
私を救ってくれる人はもうどこにもいない。
絶望は、あのときよりも、もっと酷い。全てに絶望し命を投げ出そうとしていたあの夜よりも、ずっと酷い。一度与えられた希望が、今になってまた捨てられてしまった。ならば最初から与えないでほしかった。こんなに辛い思いをするくらいならば、最初から救わないでほしかった。
東雲さんは誤解している。確かに、今の私の周りには、あのときよりも大勢の人がいる。だけど違う。その人達が傍にいる幸福と、あなたが傍にいる幸福は、まったく違う幸福なのだから。
愛してる。愛してるんです、東雲さん。子供の恋だと笑わないで。私はあなたを心から愛している。あなたと共に死にたかった。あなたが私の全てだった。女の恋だ。一人の女の人生をかけた、最初で最後の恋だった。
叶わなくても良かったんだ。あなたが私を受け入れてくれなくても、他の人を好きでも、良かったんだ。傍にいてさえくれば。
ううん、違う。
ただ、生きてさえ、いてくれれば。
それだけで。
何度も、何度も、枯れた声で叫んだ。傷付いた喉から血が出ても、痛みなんて感じなかった。衝動に駆られるまま私はまた駆け出した。
周囲には打ち捨てられた廃ビルがいくつも建っている。浮浪者や不良の多い明星市では、そういった建物のほとんどは鍵が壊されている。飛び込んで、埃と割れたガラスを踏んでいく。階段を駆け上がり、屋上の扉を開け放った。
満天の星空が私を迎えてくれる。煌めく星の光がキラキラと私を包んで、優しく撫でてくれる。壊れそうになるくらいの悲しみがぐちゃぐちゃと私の心を搔き乱す。けれど、私は自然と、笑みを浮かべていた。
初めて東雲さんと会った日と同じだ。あのとき、私は屋上から飛び降りようとしていたんだっけ。
最初は怖かったし、苦しかった。だけど東雲さんが生きることの楽しさを教えてくれた。
楽しかったよ、この二年間。幸せだった。心の底から。だからもういいんだ。
最初に戻るだけなんだから。東雲さんと出会わなくても、結局、こうなっていたことに変わりはないんだから。きっと私は長い夢を見ていたんだ。死ぬ前の長い夢。お父さんとお母さんが私を見てくれるようになって、友達ができて、好きな人ができて、生きることが楽しくなって。そんな、とっても幸せな夢を、見ていたんだ。
ああ、本当に、幸せだった。
屋上の縁に足をかける。飛び越えることに、躊躇いはなかった。
体が空中に投げ出される。体が空に浮く感覚に、何故かほっとした。
ひとりぼっちで飛んだ私の微笑みは、きっと誰にも見られることはない。
星空に生きたオオカミとネコの話は、ここでおしまい。
さようなら。