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第159話 死にたがり

 目が覚めた。


「……………………」


 重い瞼をこじ開けて周囲を見る。ぼんやりとした視界が景色を捕えるよりも先に、鼻に、ツンとするほど濃い消毒液のにおいが香った。


 私はベッドに横たわっていた。腕や足にぐるぐると巻かれた包帯がキツク肌を締めている。枕元に置かれた点滴はポタ、ポタ、と一定の速度で、雨粒のような雫を私の体に送っていた。

 病院の大部屋だ。私の他にもいくつかのベッドが並び、そこに皆が横たわっていた。

 あざみちゃんと太陽くん、それからネズミくんが、向かい側のベッドで眠っている。すやすやと寝息を立てる彼らの体には大量の包帯とガーゼが痛々しく巻かれていた。

 他の人の姿は見当たらない。他の部屋にいるのだろうか。


 体を起こしただけで全身が痛んだ。傷が病衣に擦れ、固まりかけていた血がじゅわっと滲み出す。

 ひやりとした床の冷たさが足の裏に伝わる。体は鉛のように重く、立ち上がることさえ精一杯だった。ガクガクと震える足を奮い立たせゆっくりと歩きだす。歩みは亀のように遅く、一歩足を床に着けるたび、ズキンと体の傷が唸り声を上げた。


 ベッドには東雲さんの姿がなかった。

 探しに行かないと。





 夜が明けようとしている。


 白み始めた空にもう星は見えない。庭に生まれた薄露は、しっとりと私の肌を湿らせる。

 朝露に濡れた草がチクリと裸足を刺す。冷たい空気を吸って、吐き出して、私はただ庭を歩き続けた。

 点滴は歩いているうちにいつの間にか外れてしまった。包帯が捲れ、開いた傷口から血が滲む。白い包帯を赤茶色に濡らした血は、皮膚を伝って、ぽたりと草に垂れた。


「どこへ行くのっ」


 背後から誰かの声がした。振り返らず歩き続ける。けれどザクザクと草を踏みしめるその足音はすぐに近付いて、強く肩を引かれた。

 息を切らした真理亜さんが私の顔を覗き込む。彼女は険しい目で私を睨んだ。髪は乱れ、その表情も疲れ切っている。


「探しに行かないと」


 魂の抜けた声だと我ながら思う。私の掠れた弱々しい声は、真理亜さんの表情に影を作った。

 真理亜さんは悲しそうな目をした。けれどすぐ、また歩き出そうとした私の腕を掴む。彼女は大きく首を振って、冷たい声を張った。


「探しに行かなくていいの。寝ていなさい。あなたが一番怪我が酷かったんだから。休みなさい」

「でも。行かないと。連れてこないと」

「…………必要ないの」

「探しに行かないと」

「必要ないのよ!」


 彼女の怒鳴り声は針のように鋭かった。けれどその針は私の体をするりとすり抜けて消えてしまう。私は返事をせず、彼女から顔を反らした。

 行かなければならないのだ。だってあの人は、今もきっと一人でいる。寂しいだろう。早く、迎えに行ってあげなくちゃ。その手を取って、帰ろうって、言わなくちゃ。

 真理亜さんの手を振り解いて歩き出す。背後から、真理亜さんの息を呑む音が聞こえた。その音はすぐ、震える嗚咽に変わる。


「和子。お願い、分かって。行かないで。探しに行く必要なんてないのよ。探せないのよ…………」


 風が冷たく喉に触れた。キィンと鋭い音が頭の奥で鳴り響く。寒かった。肌がひんやりと冷えていた。夏だというのに。

 チクチクと草は足を刺す。指の間を冷たい風が流れていく。足元がふわりと心もとなく浮いている。何だか全てに感覚がなかった。全てがおぼろげで、曖昧だった。

 朝が来る。日が昇り、青白い世界を明るく照らす。長く暗かった夜の闇が薄れ、宝石のような煌めきが濡れた草花を光らせる。


「和子」


 腕を掴まれた。真理亜さんだと思った。だけど声は低かった。

 強く腕を引かれ、強制的に振り向かされた。私の目は背後の仁科さんを捉える。

 乱れた白髪がパサパサと風に揺れていた。虚ろな泥濘の眼差しが私を真正面から見つめる。髪の隙間から覗く彼の左目は白目も黒目も真っ黒で、もはや視力なんて残っていないように思われた。

 彼の手は信じられないくらいに熱かった。私の体が冷えているからだと、そのときに初めて気が付いた。


「仁科さん。私、行かないと」

「どこに」

「東雲さんを探しに行かないと」

「東雲は死んだ」


 彼の、枯れ木のように乾燥した白肌から、乾いた血がパラリと落ちた。

 空虚な景色の中で。仁科さんの声だけが明確な輪郭を持って、私の心を突き刺した。

 探しに行かないと、と私はもう一度言った。言葉になったのかも分からないほどに弱い声だった。


「東雲は」


 仁科さんはぼそりと言う。


「爆発に巻き込まれた。助けには行けなかった」


 仁科さんの声は固く、冷たく、地面に落ちていく。一言一言を理解するのには時間がかかった。


「帰ってこれたのはおれ達だけだ」


 爽やかな風が草木を揺らす。日に神々しく照らされだした病院の庭は、生き生きとその命の源を茂らせる。

 けれど、私の視界からは、次第に色と光が失われていくような気がした。胸のあたりから何か大切なものが流れていく。心臓が溶けていくようだった。どろりどろりと体が腐り落ち、この世界から溶けて消えてしまいそうだった。

 そうであったなら良かったのに。


「東雲は死んだ」


 仁科さんがもう一度言った。彼にしては、大きく、ハッキリとした声だった。真理亜さんの嗚咽が大きくなる。

 真理亜さんも仁科さんも、そして私も、体中ボロボロだった。私達が怪我をしてまで戦ったことは現実なのだ。冴園さんが死んだことも、東雲さんが私に別れを告げたことも、夢じゃない。


 私は何も言わず、無言でその場に立ち尽くした。

 私達を温かな日が照らす。薄雲を白く照らして差し込む光が、美しい世界を生み出す。

 涙なんて出なかった。眼球も心も、乾ききっていた。



 朝が来る。長い長い夜が明ける。

 眩しく美しい光が私の目を焼いた。けれど、私の視界は、暗いままだった。





 私の夜はいつまでも明けてくれない。











「――――爆発の威力は甚大だった。建物の約三割が完全焼失。建物内にいた人数の二割が遺体となって発見された。行方不明者も大勢。火元の屋上は床が崩壊し、今も瓦礫状態で放置されてるよ。生存者の確認は不可能。遺体の確認も不可能。オオカミも、爆発を引き起こしたチェシャ猫も、消息は不明だ」


 静かにキーボードを叩く音だけが聞こえる。薄暗い店内の中、仄かな暖色の明かりが、如月さんの白い頬を照らしていた。


「希望を捨ててはいけないよ、ネコ。日本には数十年行方不明だった人間が生きていた事例だってあるんだ。君のお師匠様が生きている可能性だってある。死体が見つからない限りね。……まあどちらにせよ、この界隈からオオカミという名は消えることになるだろう。残念だ。あいつは、いい金になったんだけど」


 私は何も答えず、淡々と告げられる彼の言葉を聞いていた。

 膝に置いた手にはぐるぐると包帯が巻かれている。手だけではない。足にも、服の下にも、顔にも。私の体には至る所に包帯が巻かれていた。

 昨日散々痛めつけられた体は、まだ傷が癒えていない。滲んだ血で茶褐色に変色した包帯をぼうっと見つめて、私はカウンターに座っていた。

 第十区から帰ってきて、数日後の夜だった。


「さて、今回の報酬は支払っておいた。殺し屋としての君への最後の支払いだ」


 ニコニコと愛想の良い笑顔が私に向けられる。

 情報屋お喋りオウムの店主、オウムこと如月当真。帰ってきたら、真っ先に彼のことを殴ってやろうと思っていた。私達の情報を勝手に敵に流していたことへの文句として。

 だけど。今の私は何の気力もなく、無言で彼の話を聞くことしかできなかった。


「今までお疲れ様。これからは元通り普通の高校生として、平和に生きるといいよ」


 如月さんは笑った。この日を最後に、私は彼に会っていない。



 それから、数ヵ月がたった。


 東雲さんは、まだ戻ってこない。











「和子」


 部屋に入ってきたお母さんが窓を開ける。ひやりとした冷たい風が、ベッドに横たわる私の頬を撫でた。秋の匂いがする。

 カーテンを開けたというのに部屋の明るさはほとんど変わらなかった。厚い黒雲が空を覆い、世界を味気ない灰色に染めている。私は空から目を背けるように、乾燥した指先で毛布を引っ張り、顔を埋めた。


「ご飯、食べる?」

「……………………」

「…………今日は休みで、家にいるから。何かあったら呼びなさい」

「…………うん」


 お母さんは遠慮がちに私の背を叩くように撫でて、部屋を出ていった。人の気配のなくなった部屋で、私はそっと布団から顔を上げる。空気中に舞う埃がほろりと目の前に落ちた。払う気も起きない。何もしたくない。

 指先が冷たかった。体の内側から、全身がしんしんと凍り付いていくような気持ちだった。

 ただ、逃げていた。


 あの日から数ヵ月がたった。

 けれどあの日から、私の時間は止まったままだ。


 殺し屋になってからの約二年間。他人の人生を何人分も凝縮したように濃密だったその期間は、まるで夢だったのではないかと思うほどに、掻き消えてしまった。

 私はすっかり殺し屋になる前のわたしに戻ってしまったようだ。気力は湧かず、何もする気が起きない。いいや、前よりも、もっと悪化している。今の私は部屋の外に出るだけの力も残っていない。毎日微睡んだように呼吸を繰り返し、埃を被った人形のようにベッドに横たわっている。物を食べないから、体はやせ衰えてしまった。病人のようだ。ああ、本当に病人なのかもしれない。


 第十区から帰ってきたボロボロの私を見て、お父さんとお母さんは酷く慌てていた。私が事件に巻き込まれたのだと思ったらしい。事件に巻き込まれたのは事実だ。けれど二人が想像しているものよりも、遥かに酷い事件だったのだけれど。

 学校にも行かずただ眠るだけの生活を送っている私を、二人はずっと心配してくれている。学校側にも事情を話してくれたおかげで、今の私は休学のような扱いになっている。


 推薦、取れないだろうな。でももういっか。大学なんて。

 もう何もないんだ。私には、もう何も残っていない。頑張る意味なんて何もない。


「……………………」


 あれだけ痛かった体は、もう痛くない。

 多少の傷跡は残ったものの、それ以外の傷はすっかり塞がっている。包帯を巻くこともない。

 それだけの時間がたったのだ。


 先週、真理亜さんが来た。

 好きなブランドの新発売なのだと、いい香りのするヘアオイルを塗って、髪を梳かしてくれた。おまけでもらったのだという美容液も肌に塗ってくれた。

 細くなった私の腕を少し寂しそうに撫でていた。彼女は少なくとも一週間に一回のペースで、私の元に訪れては、オススメだと言う美容液を私に塗ってくれる。

 それが、乾いていく私を何とか守ろうとしているように見えて、仕方がない。


 一昨日、太陽くんとあざみちゃんが来た。

 二人は冗談交じりに、勉強がどうの部活がどうのという話をしてきゃあきゃあ言っていた。受験勉強も友人関係も、全てが順調らしかった。

 二人とも笑顔だった。だけど、一方が席を外したときに、悲しそうな顔をして「早く元気になってよ」と同じ言葉を言ってきた。

 ごめんねと言って頭を撫でたとき、悲しそうに少し涙を零した顔は、二人とも一緒だった。


 見舞いに来てくれる皆は同じことを言った。

 東雲は、きっと生きている。まだ死体が見つかっていないのだから。そのうち戻ってきてくれる。大丈夫。希望を持って。きっと彼はあなたの元に戻ってくる。


 だけど。月日がたつごとに、皆、その言葉を言わなくなっている。





「和子、お客様」


 扉の向こうからお母さんが声をかけてきた。玄関の方からきゃいきゃいと子供の声が聞こえる。


「呼んでも大丈夫?」

「うん」


 私はのそりと起き上がり、ベッドに腰かけた。部屋に流れる冷たい空気に背が震える。カーディガンを寝間着の上に羽織り、白い指先に息を吐いた。

 数人分の足音が近付いてくる。ト、ト、と軽い足音を鳴らして、扉の影からパッと二人の子供が顔を覗かせた。


「おねえちゃん!」

「お邪魔、します」


 黒い髪と白い髪がふわりと踊った。いらっしゃい、と声をかけた私の元に、黒い髪の子供が笑顔で飛び込んでくる。力強い体当たりが今の私には少し強すぎて、体がよろめいた。

 白い髪の子供が私の体を支える。その小さな手を取って、私は微笑んだ。白磁のように滑らかな細い手を優しく撫でる。彼女はそっと白いまつ毛を伏せて、赤い瞳で静かに私を見つめていた。


「ずーっと、あいたかった! げんきにしてた?」

「うん、久しぶりだねぇ。ネズミくんも……ヒツジちゃんも」


 私は目の前の子供二人の頬を撫でて、その体を抱きしめた。きゃあきゃあとネズミくんは高い声で笑う。ヒツジちゃんの体は少し強張っていたけれど、抵抗されることはなかった。


「病人みたいだな」


 荒っぽい声が部屋に投げ込まれる。廊下から姿を見せたのは、ハリネズミさんだった。その後ろから仁科さんも入ってくる。

 ベッドの傍までやってきてドカリと床に胡坐を掻いたハリネズミさんは、無遠慮な視線を私に投げかける。手を伸ばせば互いに触れられる距離だった。彼女が何か武器を持っていれば、私をすぐに殺すこともできる距離だった。


「元気か?」

「はい」

「嘘つきめ」

「ハリネズミさんは、元気でしたか?」

「おかげさまで。ようやく怪我も、治ったよ」


 彼女は折れていたはずの腕を、しっかりと掲げて笑った。

 ハリネズミさんとヒツジちゃんは私達の敵だった。二人を最後に見たのはあの夜。彼女の体中に付いていた傷は、もうすっかり癒えているようだった。

 ヒツジちゃんが不意にハリネズミさんの背後に手を伸ばした。その手に白い箱が包まれている。鼻先に突き出されたそれを、私はぼうっと見つめる。鼻をくすぐったのは、砂糖の甘い匂いだった。

 ネズミくんが目に星を輝かせて箱を開ける。少し焦げた生地の隙間から、甘く艶めく林檎を覗かせたお菓子。たべて、たべて、と嬉しそうに声を弾ませた彼は、フォークでザクザクと一口分を切り取って、私の唇に押し付ける。ボロボロと崩れそうになる生地を慌てて頬張った。

 サクサクとしたバターたっぷりの生地と、甘く煮詰めた林檎の味。最近何も食べていなかった体には、沁みるような甘さだった。


「うん、美味しいよ」

「でしょお。つくったんだよ、ぼくと、ヒツジちゃんで!」


 二人で? とヒツジちゃんを見れば、彼女はぽっと頬を赤らめて視線を逸らす。気恥ずかしそうに指で髪を弄り、小さな唇をツンと尖らせた。


「わたしたちは、混ぜたり、飾ったりしただけ。ハリネズミが手伝ってくれたから、二人だけじゃない」

「ハリネズミねー! おいしいのいっぱいつくってくれるの! ホットケーキでしょ、カレーでしょ。マスターよりずっとじょうず!」


 ハリネズミさんは、フォークで適当に切り分けた大きなアップルパイを一片ネズミくんの口に突っ込んだ。大口を開けてもごもごアップルパイと格闘したネズミくんは、頬を押さえて満面の笑みでその甘さを堪能した。


「……………………」


 何故、彼女達はここにいるのだろう。私達は敵であったはずなのに。そう思って無言で見つめれば、その意図に気が付いたらしいハリネズミさんが、一瞬、獰猛な笑みを浮かべた。


「何でここにいるかって?」


 彼女はアップルパイを一口指で摘まんで食べた。指先の砂糖を舐めながら続ける。


「グループが壊滅して、第十区にいる意味もなくなったんだ。他の区でぶらついたっていいだろうがよ。それに、あんだけボコられて、慰謝料も請求せずにただで帰すと思ったのか。お前らから金をもらいでもしないと、やってられねえよ」

「お金? 払ったじゃん」


 ネズミくんにアップルパイを強制的に食べさせられていた仁科さんが言う。ハリネズミさんは一転その表情を苦いものに変え、言いにくそうに言葉をもごつかせた。


「…………そうだな、もらったな」

「じゃあ帰れば?」

「あんな部屋見て、はいそれじゃ、なんて帰れるかよ!子供がいるってのに。せめて、冷蔵庫に食い物くらい入れろ。手首を切るな。一日中寝てんじゃねえ」

「一緒に暮らしてるんですか?」

「一時的にな。ガキを放っておけないだけだ」


 ネズミくんは、ハリネズミさんが切り分けてくれたアップルパイを美味しそうに食べている。熟した林檎のような赤い頬は、前よりも少しだけふくふくと健康的になっている。その隣でフォークを齧る仁科さんの肌艶も、前よりずっと良くなっていた。

 自分の面倒を見てもらおうと仁科さん達の元へ押しかけたハリネズミさんが、逆に面倒を見る立場になったのであろうことは、想像に難くなかった。案外彼女は面倒見がいい人のようだから。

 それにしても、一緒に暮らしているだなんて。予想もしていなかった出来事に少し驚いた。友達ができて良かった、と話をして笑っているネズミくんとヒツジちゃんを見て思う。

 色々なことが、随分と変わったように感じていた。だけどそれは、世間が変わっていっているのか、それとも、私が停滞しているだけなのか。


「今、第十区はどうなっているんですか」

「何も変わらない」


 彼女はあっさりと言った。


「確かに一時は軽い混乱があった。今も、新たな統括者を狙う闘争が起こってるみたいだけどな。だけど犯罪は増えてもいなければ、減ってもいない。お前らが来る前と何一つな」


 ハリネズミさんの瞳に仄かな失望が滲んでいるのが分かった。当然だ。犯罪が増えても減ってもいないということは、今もこの街のどこかで、誰かが被害者になっているということなのだから。

 殺人鬼達がやろうとしていたことはこの街の革命だ。革命さえ起きれば、もしかすると、この街の犯罪を一網打尽にできたかもしれなかった。私達が阻止した。目先の被害数だけを考えて、私達が殺人鬼達の革命を止めた。その結果、この街は今も変わらず、緩やかな死に近付いている。


「おねーちゃん」


 ネズミくんが私の手を引っ張った。なぁに、と顔に笑顔を貼り付ける。上手く笑えたかは分からない。


「こうえん、いこ。おにごっことか、かくれんぼとか、いっしょにしたい」


 私は笑顔のままごめんね、と言った。外に出る気力がなかった。きっとネズミくんが欲しているような遊び相手にはなれないだろう。


「じゃあハンバーグたべにいこうよ。ケーキもおいしいの。おねえちゃんにたべてほしい」

「…………ごめん。最近、お腹あんまり空かないの」

「おうちであそぶ? ぼくのすきなほん、よんであげる。おえかきでもしよっか。ぼく、おねえちゃんのにがおえかいてあげるよ」

「ネズミくん?」


 けれどネズミくんはぐいぐいと私の手を引っ張る。その力は強く、心なしか、その顔は不安に歪んでいた。

 どうしたの、と顔を近付けてその頬を撫でた。途端に彼の大きな目が揺らぎ、厚い涙の膜が空色の瞳を潤ませる。


「心配してた」


 ヒツジちゃんが言った。血を滲ませたような赤い唇が、言葉を探してゆるりと動く。


「お姉ちゃんが元気じゃないから、元気付けてあげるの。って、ずっと言ってた。あなたのこと、他の殺し屋に聞いたんですって。美味しい物を食べれば元気になるかなって、お外で一緒に遊んだら楽しくなるかなって、言ってた」


 無言でネズミくんの体を抱きしめた。艶のある黒髪を撫でる。彼はうぅん、と唸るような泣き声を上げて、ぐずぐずと肩を震わせた。

 こんな幼い子にまで心配をかけてしまうほどに。今の私は、弱くなっている。


「今日来たのは、こいつがお前に会いたいってうるさかったからだ。……今日はもういいだろ。また来る」


 行くぞ、とハリネズミさんが子供二人の手を引いて立ち上がる。彼女は鋭い視線を仁科さんに注ぎ、それから私を見た。


「おいネコ。殺人鬼だとか殺し屋だとか、そういうのはもう、どうでもいいだろ。これからこの街がどうなるのか、知らないさ。私達は私達でこれからも勝手に生きていくだけだ。けどよ」


 去り際の彼女の言葉は、私の心に長く残った。


 お前はこれからどう生きていくんだよ。





 部屋には私と仁科さんだけが残る。酷く静まり返った空間に、仁科さんの緩やかな吐息が吐き出される。

 彼の白く乾燥した手の平をぼうっと見つめた。最初に彼を見たとき、なんて乾燥した人なのだろうと思ったことを思い出す。仁科さんは希薄な人だった。空虚で、生命感が薄くて、薄くて。

 けれど今は、きっと私の方が空虚になっている。

 重い沈黙を破ったのは、仁科さんの言葉だった。


「東雲はきっと死ぬ気だった」


 掠れた呼気が私の唇から零れる。ゆるゆると上げた視線が、仁科さんの瞳とかち合った。

 冷たい風が部屋の中に流れ込む。風に乗せるように、仁科さんの温度のない言葉が、一つずつ私にぶつけられる。


「最初から。第十区に行った理由はきっと、死ぬためだった。この街を守るためだけじゃない、殺し屋だからって理由だけじゃない。殺人鬼の誰かに殺されることを望んでいたんだ。だってあいつは死にたがりだったろう。おれと同じで。昔から」

「…………待ってください」


 指が、仁科さんの服に頼りなく縋り付く。困惑の瞳を向け、仁科さんに説明を求めた。


「死にたがりって。東雲さんが。それは、どういうことですか」

「どういうことって……言葉通り。あいつは死にたがっていたじゃないか」

「いつから」

「だから、昔から。オオカミという名になってからずっとだ」


 濃霧のような、朧げで濃厚な焦燥感が、ジタジタと心を襲う。飲み込んだ唾が乾いた喉を滑り落ちた。

 あく、と仁科さんが欠伸をした。不安に駆られる私の前で、彼はいつも通り手ごたえのない態度で、眠たげに瞬きを繰り返す。


「和子も気が付いていたはずだろう。あいつが、死にたがっていたことを」


 私は知らない。東雲さんが死にたがっていたことなど、何も知らない。

 そうだ。知らなかった。

 知らなかったのだ。


 仁科さんと初めて会ったとき、彼が東雲さんのことを、自分と同じだと言ったことを。

 真理亜さんが早死にしたいから煙草を吸うのかと嫌味を言ったときに、彼は反論しなかったことを。

 将来何がしたい? と冴園さんに聞かれたとき、東雲さんは何も答えなかったことを。


 思い出していた。けれど、東雲さんが死にたがっていたなんて、私は分からなかった。

 仁科さんの手が私の手に触れる。そこでようやく、自分の手が激しく震えていることに気が付いた。違います、と吐いた否定の言葉も大きく震えている。情けない掠れた声で私は仁科さんに訴えた。


「東雲さんは生きたがっていました。一緒に帰りたがっていました。お前がいてくれて良かったって、言ってくれた。私がもっと強くなったら私の元に帰ってきてくれるって。彼は死にたがってなんかいなかった。私と一緒に生きてくれるはずなんです」

「それは、東雲が言ったの」

「そうですよ」

「じゃあ、和子が東雲を変えたんだ」


 指先の震えが止まった。


「君の存在が東雲を変えたんだろう。死にたがりだったオオカミに、生きたいって思わせた。あいつの生きる目的が和子になった。良かったね。好きだったんでしょ、東雲のこと。両思いだ」

「……………………」

「あいつはきっと最後の最後で、ようやく生きたいと思うことができたんだ。おれにはよく分からないけど。まあそれって、幸せってことなんじゃないの。東雲は幸せだったんでしょ、最後は」

「……………………」

「どうしたの」


 溶けかけの氷から滴る水が、胸の内に流れ込んでいくようだ。心臓が内側からパキパキと凍り付いていくような、途方もない、空虚で冷たい絶望が、私を飲み込んでいく。

 東雲さんはずっと死にたいと思っていた。だけど私が彼に生きる希望を与えた。いつ、生きたいと、思ってくれたのだろうか。あの屋上でだろうか。あの屋上でした会話が、彼に、生きたいという意思を与えたのだろうか。

 私の言葉が東雲さんに希望を与えた。彼が私と別れることになる直前に。

 それはあまりにも残酷すぎる現実だった。


「……………………ああ」


 仁科さんが私の顔を見て、溜息を吐いた。

 薄暗い部屋は息苦しさが増していた。冷たい風が私と仁科さんの髪を揺らす。血色の悪い灰色にくすんだ指先が、シーツに投げ出した私の手に触れた。自分の腕はまるで人形のように無機質に見えた。


「お前も同じになってしまったね」


 彼の言葉をぼんやりと聞いて、薄く笑みを浮かべた。

 ほつほつと音がする。パラついた雨が、建物の壁を叩く音がする。窓から入り込んだ数滴の雨粒が冷たく私の手を濡らした。私は窓を閉めない。薄暗かった部屋は更に暗く、夜のように寂しくなった。


 私はこれからどう生きていけばいいのだろう。

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