第158話 さよなら、オオカミさん
冷めた血だまりにぽつ、ぽつ、と涙が落ちていく。目も眩むほどに鮮やかだった赤色は、酸素に触れて、暗く変色していった。
どれだけ時間が過ぎたろう。半ば呆然としてその場に座り込んでいた私達を我に返したのは、携帯の着信音だった。
ふっと顔を上げて、携帯を取り出す。真理亜さんからの着信であることを知った私は、腕で乱暴に涙を拭い、頬を叩いて、それから携帯を耳に当てた。
「真理亜さん」
『無事だったのね! ああ……良かった』
大きな安堵の溜息が電話口から聞こえてくる。そちらは、と辛うじて声を絞り出せば、多少興奮したような早口が返ってきた。
『大丈夫。皆生きてるわ。何とか凌ぐことができた。だけどもう、ボロボロ。オウムから連絡があった。オオカミとネコが親玉を倒したって。本当? やったの?」
「はい。殺しました」
『そう! 良かった! 今救援に向かうわ。早くここを出ましょう』
「……仁科さんとネズミくんが、最上階の一つ手前に。重傷者がいます。敵です。その人達を、すぐ病院に連れていってください」
『敵? …………分かったわ。すぐに向かう。じゃあ、あなた達は屋上にでも出てこれる? あざみを寄こすから』
「はい」
『……………………和子?』
不思議そうな真理亜さんの声がする。はい、ともう一度声をかければ、彼女は言った。
『泣いているの?』
私はもう何も答えられなくなった。携帯を耳から少し離し、ぐっと唇を噛んで、嗚咽を噛み殺す。それでも鋭い真理亜さんには私が泣いていることが分かったようで、彼女は不安気に何かを話しかけてきた。
私の手から携帯が抜き取られる。私は携帯を耳に当てる東雲さんの顔を見上げた。彼は私のように嗚咽を零すことはしていなかった。けれど、その目からは、音もなく静かに、涙が流れ続けている。
「人魚」
『…………東雲。和子が泣いているけれど。あなた何かした?』
「何も。白ウサギ達の救援を急げ。手遅れになる前に」
『それは、勿論。……ねえ東雲』
「無事に終わった。第十区の開放は免れた。統括者が死んだことで、第十区の混沌は一時的に深まるだろうが、他区に犯罪者が流れることはなくなるはずだ」
『東雲? 東雲?』
「終わったんだ。終わったんだよ、人魚」
『ねえ……大丈夫?』
東雲さんは小さく笑った。電話をしている彼の声が次第に震え、涙が混じっていくのを、隣で私は聞いていた。
真理亜さんの声から棘が抜けている。純粋な心配の声を投げかける真理亜さんに、東雲さんは短い言葉を告げた。
「人魚」
『何』
「ありがとう」
真理亜さんからは、何か言いたげな沈黙が返ってきた。結局彼女は何を言うこともなく、急ぐわ、と一言だけ残して電話を切った。
東雲さんは立ち上がる。流れる涙をゴシゴシと袖で拭って、彼はしゃがむ私に手を差し伸べた。
「行こう」
私はふっと視線を横に滑らせた。血の海にうつ伏せで倒れるあーちゃんの姿を、しずかに目を瞑る冴園さんの姿を見た。
それから東雲さんの顔を見る。べったりと血に濡れた、優しい笑顔を見つめる。
彼の大きな手に、私の小さな手を重ねた。
空にはまだ星があった。
真っ黒だった空は、群青色へと変わっている。明けへ近付いた空の色だ。青白い薄雲が星の間を泳ぎ、ゆっくりと形を変えていく。
私達は屋上の淵に立って下を見下ろした。第十区の街並みを一望する。
高いビルの群、道路を行き交う多数の車、煌めく明かりの海。高層ビルの屋上からでは、街の喧騒は聞こえない。けれど今もどこかで、喧嘩が起こり、暴動が起こり、誰かが泣いたり怒鳴ったりしているのだろう。
だってここは犯罪都市なのだから。
「…………これから、この街はどうなると思う」
不意に東雲さんが言った。私は彼の顔を見ずに答える。
「今まで通りです」
「第十区に重度の犯罪者を閉じ込め、他の区の安全は辛うじて保たれる、明星市のままか」
「ええ」
「どこもかしこも犯罪だらけの酷い街のままか」
「ええ」
ふ、と彼が吐息のように笑い声を零した。煙草の紫煙のように苦く薄い声で、彼は呟いた。
「…………俺はこれからどうすればいい?」
私は彼に目を向けた。
東雲さんの体は、まるで細い木の枝みたいに見えた。
頼りなく、強い風が吹けば、今にもぽっきりと折れてしまいそうだ。弱く青ざめたその肌は生気が失われている。
暗澹とした虚ろな目だった。最初にあったときも、これまでも。今までに見たことがないくらい寂しい目だった。
風が吹く。彼の深緑のコートがはためく。濃い血の香りに鼻が痺れそうだった。
「第十区に来る前に私が言ったことを覚えていますか?」
「……………………」
「この仕事が終わったら私は殺し屋をやめる。オオカミさん。あなたも、殺し屋をやめてください、って」
第十区の敵を倒すことが殺し屋ネコとしての最後の仕事になる。そして殺し屋オオカミも、この世界から足を洗う。私は出立前にそう言った。
「東雲さん、料理が得意じゃないですか。カフェの店員さんとか向いてると思いますよ。お金はあるんだから、小さなカフェでもやってみませんか。美味しい料理やコーヒーを淹れましょう。きっと素敵ですよ。私もお手伝いします」
無意識に自分の手を彼の手にすり寄せた。東雲さんの手はぴくりと震えて、じっと下ろされたままだった。
「料理もっと教えてくれませんか。カレイの煮付け今度お父さん達に作ってあげたいんです。家庭科のテストもあるし。そうそう、前の授業で先生に褒められたんですよ。一年生のときは酷いものだったのに、今は本当に上手くなったわねぇ、って」
子供っぽく無邪気に甘えた声で彼に話し続ける。明るい私の声が、暗い屋上を突き抜けていく。
「ねえ東雲さん。私、もうすぐ受験なんです。勉強手伝ってください。この間冴園さんに教えてもらって解いた問題、まだ答え合わせしてなかったから。帰ったら丸付けしてください。あと、大学選びも。いくつか候補は決めたんですけど、最終的にどこを狙うかっていうのが、難しくて…………」
指先で、彼の手の甲をなぞった。包み込むように自分の手を重ね、そっと彼の体に頭を寄せる。東雲さんが小さく息を吸って、私を見た。
枯れ枝のような体を私が支えてやろうと思った。彼がもし倒れてしまいそうになったら、私がその腕を引き寄せてやろうと思った。
「これから先もいっぱいあります。全部、あなたとやっていきたい。人を殺した罪があなたを苦しめても、あなたが悲しみ傷付いても。私はずっとあなたの隣にいる。あなたに降りかかる悪意を、私が払い続ける」
「……………………」
「私があなたを守ると言ったでしょう」
「……………………」
「あなたとずっと、一緒にいたいの」
力強く告げた言葉に、東雲さんは悲し気な顔をした。不安がる目が、どうして、と私に告げている。私は静かに微笑んだ。
理由なんて決まっている。
あなたが私を救ってくれたから。
「ねえ東雲さん」
トン、と彼の肩を頭で小突く。私はいたずらっぽく笑った。
「あなた、いい捨て猫を拾ったんじゃないですか?」
冗談を言ってみた。東雲さんは目を丸くしてから、ふっと、声を上げて笑った。一度目を瞑って、もう一度開いた彼の目には、優しい光が灯っていた。
諦めと、悲しみと、後悔と。それら全てを飲み込んだ東雲さんは、ただ優しく笑った。笑って、私にそっと体を寄せた。喉の奥から零れるように吐き出した彼の吐息は、ふわりと、溶けて消える。
「俺にはもう、お前しかいないなぁ」
東雲さんは言った。その言葉は、菊さんや、美輝さんや、冴園さんを思って言ったことだろう。だけど彼は今の言葉を冗談みたいに言ったのか、真剣な意味で言ったのか、咄嗟に判断が付かず、私はドキリと心臓を鳴らした。
東雲さんが私の指に自分の指を絡めた。その手で愛おしむように私の頬に触れるものだから、きっと私の両の頬は、桃色に色付いてしまっていることだろう。
「戻ったら俺に言いたいことがあると言っていたな」
「い、今その話題を出します?」
苦し気にキュウ、と鳴る胸を思わず押さえた。心臓の鼓動は耳にまで聞こえてくる。まつ毛をパチパチと瞬かせて彼を見れば、彼は笑って、まつ毛を濡らす涙の粒を拭っていった。
「ネコ」
風が吹く。夏の生温い風が冷たく感じるほどに、私の肌は火照っていた。一粒の汗が背を舐める。無意識に指に力を込めれば、彼の指はより深く私の手を握り、包み込んだ。
東雲さんはまっすぐに私の目を見つめた。僅かに濡れた、官能的な美しさを孕んだ深い色の瞳は、私の心臓を握って離さない。
「俺がお前を拾ったのは気まぐれだったんだ」
私は頷く。まっすぐに彼の目を見つめ返した。
「最初は、お前を口封じに殺すつもりだった。いざとなったらお前が死んでもどうでもいいと思っていた。だけどお前は、俺を変えてくれた。お前は俺に色んなものを思い出させてくれた。人を大切に思う気持ちを、一人でいることの寂しさを、誰かを守りたいと思う気持ちを」
最初に会った頃。東雲さんは、乾燥した人間だった。
当時は彼のことをよく知らなかったし、殺し屋という人間がただ怖くて、何も見ていなかった。けれど今にしてみれば、あのときの東雲さんは、今の彼と、随分別人のように思える。
オオカミは無感情に人を殺していた。いいや、あのときのオオカミは、本当に心が死んでいた。悲しみや後悔を押し殺さなければ、彼は生きていけなかったから。
だけど共に過ごすうちに彼は少しずつ変わっていった。
怒ったり、笑ったりするようになって。少しずつ、彼の優しいところは目に見えるようになっていって。
枯れかけていた木が復活していくみたいに。感情という水を吸って、乾燥していたその身を湿らせて、潤っていく。青々とした葉が茂っていく。
オオカミは、東雲さんは、冷たい獣だと皆が思っていた。
けれどそれは全くの誤解だ。
彼は誰よりも感情豊かで、誰よりも優しい人間だったのだから。
彼は私に、殺し屋ネコという居場所を与えてくれた。
私はオオカミを、東雲咲という、一人の人間にすることができたのだろうか。
「お前が傍にいてくれてよかった」
私は頷いた。
何度も頷いた。
潤んだ彼の瞳が眩しかった。静かに囁かれる言葉よりも、彼の瞳はより雄弁に、その心を映し出している。
胸が苦しかった。彼に告げられる言葉の一つ一つが、あまりにも幸福だった。私も彼に伝えたい。私だってあなたが傍にいて良かったのだと、出会えたことが本当に幸せなのだと。
東雲さんは息を吸う。覚悟を決めた顔が、私を見つめる。
彼は言った。
「俺は、お前が――――」
強い風と振動が、屋上を揺らした。
「――――きゃははははは!」
強い衝撃が襲いかかる。私達の頭上を、強烈な熱風に乗せた笑い声が通り過ぎた。
熱が私の鼻先をチリリと焼いた。爆発、という言葉が頭に浮かぶ。困惑と焦燥に思考を占拠されながらも、私は顔を上げて笑い声の方向、屋上の入口へと目をやった。
「東雲さん!」
熱風に目を焼かれながらも、私は目を見開いた。何か、誰かが、屋上の扉の前に立っている。
炭だ。それはもはや、全身が黒焦げで、人の形を成していなかった。その塊の節々から伸びたものが腕や足だと認識することで、ようやくそれが人間であると分かる程度の存在。
それが、ゆるりとこちらに腕を伸ばす。焼けただれた腕に張り付いているのが衣服だと気が付く。ほとんど布同然となったそれは、ローブのような…………。
東雲さんが銃を撃った。バツンと嫌な音がして、黒焦げの塊の片足に穴が開いた。その穴を亀裂としたように両の足がボロボロと崩れる。もはや生きているわけがない。それなのに、それは、なおもゆらゆらと体を揺らしていた。
揺れた体から何かが零れ落ちる。焦げたキノコだ。それが爆弾だということを私と東雲さんは知っていた。
キノコが爆発する。火の玉が膨れ、爆発音が轟いた。
「はははっ! あはっ、きゃははははっ!」
甲高い笑い声は止まらない。ぞっと顔を青ざめた東雲さんが、連続で銃を撃つ。ドン、ドン、と重い音を立てて、黒焦げの人間の頭が吹っ飛んだ。
体が崩れる。ボロボロと破片になって床に落ち、肉片と血の水溜まりを作る。
その向こうにあーちゃんがいた。
狂気に目を爛々と光らせたあーちゃんが立っていた。
「ねえぇー! 待ってよ、まだ、遊び足りないんだってばぁ!」
顔中体中。あーちゃんの全ては真っ赤に染まっていた。真っ赤な顔の中で、歯だけが白く、嫌らしい笑みを浮かべている。
彼女の腹からはダクダクと血が流れていた。私が付けた傷だ。重症なのに。動くことさえ本当ならばできないほどの怪我なのに。
彼女は手にへばり付いたキノコさんの欠片を投げ捨てて、彼のローブから抜き取った爆弾を両手いっぱいに抱え、放り投げた。空中に大量のキノコが舞う。それは数秒もたたずにぶくりと膨れ、光と熱を爆発させた。
「ネコッ!」
東雲さんの呼びかけに答えるように、繋いだ手に力を込める。彼の手も強く私の手を握り返してきた。
彼は銃を撃とうとする。けれど爆風と煙に阻まれ、狙いは上手く定められない。
もうもうと立ち込める煙と爆炎の中で、あーちゃんは何度も大声で笑った。澄んで濁った声は夜空を遠く突き抜ける。邪気と無邪気の両極を得た、純粋な悪意の満ちた顔で、彼女は楽しそうに笑んでいた。
「ちょっと、何よこれ!」
背後から別の声が聞こえて私達は振り向いた。屋上の縁にあざみちゃんが立ち、険しい顔でこちらを見つめている。彼女は私達と、爆弾を抱えて笑うあーちゃんに鋭い目を向けた。
「早くこっちに!」
「逃げるなあぁ!」
私と東雲さんは縁に駆け出した。背後からあーちゃんの駆けてくる足音が聞こえる。背中の皮膚を、おぞましい恐怖が牙で削る。
突然、隣を走っていた東雲さんが足を止めた。
振り返る。東雲さんは私達を守るように背を向け、銃をあーちゃんに撃つ。煙の隙間を掻い潜って飛んだ弾丸が、あーちゃんの足を掠め、その体を転ばせる。
東雲さんはそのまま、あーちゃんへと一歩近付こうとする。不安を抱く私の後ろで、あざみちゃんが叫んだ。
「オオカミ! 早く!」
「……………………」
「オオカミッ!」
東雲さんは振り返らない。あーちゃんはすぐに立ち上がり、絶叫しながら爆弾を投げた。空中に飛んだ爆弾を東雲さんは撃つ。軌道を変えたそれは離れた位置で爆発したが、それでも爆風は私達の体を熱く焼いた。
爆風に東雲さんのコートがぶわりとはためく。彼は振り返らないまま言った。
「クモ。ネコを頼んだ」
あざみちゃんがビクリと肩を震わせる。私は目を見開いて、東雲さん? と彼の名を呼んだ。
彼は振り返らない。
一気に込み上げた衝動に駆られ、私は踵を返し東雲さんへと駆け寄った。勢いを付けてその背に抱き着いても、彼は振り返らなかった。
「東雲さん! 何をしてるんですか。逃げましょう! 早く!」
「…………足止めが必要だ」
冷静な声で彼は言った。私の焦りを宥めるような、静かな声だった。
「爆発に巻き込まれながらでは全員逃げられない。あの様子だ。殺さない限り、動き続けるだろう。誰かがあいつを殺すしかない。足止めをしている間に、残りの二人が逃げろ」
「だ……だったら、私がやる! 私があーちゃんを足止めするから、その間に東雲さんとあざみちゃんが!」
足元にキノコが転がってきた。私が息を呑むのと、東雲さんが撃った弾がそれを弾くのは同時だった。床を転がっていったキノコは一秒後に爆発した。爆風が私達の髪を乱暴に乱す。
怯える私の頭を東雲さんがくしゃりと撫でた。彼は私に顔を向けないまま、薄く笑う。
「馬鹿。この爆発の中を、ナイフ一本で切り抜けられるか? クモも駄目だ。あいつの糸がなければ脱出するのは難しい。ならば足止め役は俺が適任だ。分かるか」
「いや……嫌だ、やだっ、やだぁっ!」
「泣くな。クモの前だろ。……大丈夫。俺は殺し屋、オオカミだ。足止め役はしっかり務めるさ」
「やだあぁっ!」
私は東雲さんの背に抱き着いて、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくった。何度も首を振る。行っては駄目だと駄々をこねる。
彼の背中は熱かった。コートから香る血と煙草の匂いが、私の胸を一層搔き乱す。あーちゃんの笑い声が聞こえるたび東雲さんは銃を撃つ。その振動は、彼を通して私にも伝わる。
「約束した! 生きて大切な人を守るって、冴園さんに言った! いっぱいやりたいことがあるって、全部一緒にやろうって、今言ったばかりなのに! 帰ったら伝えたいことがあるって言ったのに! 東雲さんが今言おうとしていた言葉、まだ聞いてないのに!」
私は。私は気が付いていた。東雲さんもあざみちゃんも、気が付いている。
今ここで足止めをする人間は、きっと、生きては帰れない。
「逃がさない! 遊びましょうよ! 最後まで! ねえ、遊んでよぉ、殺し屋あぁ――――!」
血が絡み着いたザラザラとした絶叫が爆発する。
穏やかな風が血に固まった髪を揺らす。目の前の爆炎からも、狂気的な笑い声からも、全てに目を瞑ってしまいたかった。
涙に濡れた目にオレンジ色の光が映る。機材に燃え移った火が踊る。屋上に徐々に広がる炎が、私達を覆いこもうとしていた。
空に星が満ちている。私達の運命を見守るように、星は静かに輝いている。
「行かないで、東雲さん、私を一人にしないで! 行かないでぇ!」
私は東雲さんに縋り付いて泣き叫んだ。
嫌だ。離したくない。だってこの手を離したら、東雲さんは、遠くに行ってしまう。
東雲さん。お願い、行かないで。一緒にいて。
行かないで。
「和子」
とろけるように優しい声を聞いた。
手がふっと離れる。顔を上げた私は、東雲さんの優しい微笑みをすぐ目の前に見た。
伸びた手が私の背を抱き締める。痛いくらいに強い抱擁だった。
「お前が今よりも強くなったら。お前が大人になったら。俺はきっと、お前の元に帰るから。だから、強くなれ、もっともっと強くなれ」
熱風が眼球を焼こうと私は瞬きをせず、綺麗に泣く東雲さんを見つめていた。大粒の涙が頬を濡らす。自分の涙の熱さと、東雲さんの涙の熱さを、私は同時に感じていた。
東雲さんの背に回した手に強く強く力を込める。私と彼の体が溶けてくっ付いてしまいそうなほどに強く。離したくない。ずっとあなたとこうしていたい。
「お前に出会えてよかった」
噛み締めるように彼は言った。
「大好きだよ、和子」
とてもとても、優しい声だった。
東雲さんが私を突き飛ばす。私の体をあざみちゃんが受け止める。彼女は一瞬泣きそうな顔で東雲さんを見て、すぐに目を逸らして屋上の縁を蹴った。
東雲さんは優しく笑って私を見つめていた。
最初から最後まで、彼は優しい人だった。
体が空中に投げ出される。私達の体が落下する。空が、屋上が、瞬く間に遠ざかる。私は大声で泣き叫びながら必死に腕を伸ばした。届くわけないのに。何度も、何度も、虚空を掴む。
東雲さん。
東雲さん。
掠れた叫びと涙が天へと昇っていく。潤んだ視界の先で、屋上が一瞬、オレンジ色に光った。
次の瞬間。屋上全体を大きな火の玉が包み込み、一際大きな爆発音が轟いた。
凄まじい爆風が私達の体を吹き飛ばす。私の絶叫が空気を引き裂いた。
東雲さん。
明星市にはいつも、満天の星空が広がっている。
誰かが死に、殺される残酷な街で、いつも星は私達を照らしている。
今夜、夜空に輝く星は、泣いてしまうほど美しかった。