第15話 蜘蛛の少女(後編)
「無駄にすばしっこい男ね! 緊縛プレイは嫌いなの?」
「どこで覚えるんだそんな言葉!」
二人の接戦が続く。東雲さんの銃の腕は凄まじい。だが、それを弾かれれば意味がない。彼女の糸もまた、東雲さんの俊敏な動きに躱される。
と、不意に東雲さんが銃の引き金から指を離し、何気ない世間話でも語るような口調で彼女に話しかけた。
「お前はどうして動物を殺していた?」
「はぁ?」
あんたまで? と言いながら、彼女はうんざりした視線を東雲さんに注ぐ。それから糸を使って地面に着地し、腰に手を当ててハッと息を吐く。
「ただのストレス発散よ」
「ストレス? 何の」
「……そこまであんたに言う必要が?」
風が吹き、彼女の長髪が舞い上がる。その肩が怒っていた。
東雲さんは臆する様子もなく、むしろ馬鹿にしたような目で彼女を見下ろし、堂々と告げた。
「お前みたいな子供の悩みなんて、どうせ大したことないんだろう? テストで赤点でも取ったのか? 友達と喧嘩でもしたのか? 親に叱られたのか? そんな小さなことぐらいで何匹も動物を殺すなんて、そんな資格が自分にあるとでも思っているのか」
東雲さんはどこか薄ら笑いを浮かべていた。その台詞が彼女を挑発するものだと分かったし、彼女自身もそれを理解しているはずだった。
だけどそれでも、彼女の纏う空気が一変したのが、痛いほどに伝わってきた。
東雲さんと向き合っている彼女の顔は見えない。だが、直後に轟いた激しい怒声が、その顔が酷く歪んでいるであろうことを語る。
「あんたが言うな!!」
小さな体から溢れ出す灼熱の怒り。爪を立てるように開かれた両手に血管が浮かび、辺りを巡る糸がギシギシと張り詰める音がした。
東雲さんが黙って見つめる前で、彼女は感情を吐き出すように吠え続けた。
「オオカミ! あんただって、人を何人も何十人も殺してきたんじゃない! そんな資格、あたしにも、あんたにも、元からないわよ! そのくせにあたしだけが悪いみたいな言い方は何!? あたしがどんな思いで犬や猫を殺してきたか、殺し屋になったのか、知らないでしょう!? あたしの悩みの大小を、あんたの基準で考えるな! こっちの気持ちなんてこれっぽちも知らないくせに、無責任な口効くな! うざいんだよ!!」
癖のある長髪が風に吹かれ、ザワリと膨らむ。荒い息を繰り返して上下する肩が震えていた。彼女の向いに立つ東雲さんは、そんな彼女の剣幕に脅えも怒りもせず立っていた。無言で、じっと、彼女の方向を見つめていた。
こっちを見つめていた。
「……………………」
私は彼女に気付かれないよう、その背後に忍び寄っていた。両手を背中に回し、息を殺してじりじりと近づく。
彼女を倒すにはまず、邪魔な糸を無効化する必要がある。無数の糸を自在に操るにはかなりの集中力が必要だとさっきも思ったが……言い換えれば、彼女の集中力を乱せば、糸が解けるかもしれない。
私の役目は殺すことじゃない、東雲さんのフォローだ。ただ彼女の集中力を崩してしまえばいい。そうすれば後は東雲さんがやってくれる。東雲さんが……あの子を……。
一瞬胸に浮かんだ不安を飲み込む。今は、別の考えに気を取られている暇などない。背後から彼女に襲いかかればいいだけだ。
集中を乱すには? 彼女は怒っている。この上、更に別の感情を引き起こせればいい。焦り、悲しみ、不安、驚き……。やっぱり驚かすのが一番だ。
とにかく絶対にあの子に気が付かれないように近づかなければいけない。だからこそ東雲さんはこうして彼女を挑発し、自分へと意識を集中させてくれている。彼女が背後を振り向かないように。
ゆっくりと、ゆっくりと音を立てずに歩く。たった数メートルの距離が異様に長く感じたが、残るはもう少し。あと少しで飛びかかることができ――――……。
「――――気付いてるわよ」
「っ!?」
ぐるりと首を回した彼女と目が合った。東雲さんも私も、大きく目を見開く。
音は立ててない、気配も消した、張られた糸も全て避けた。それなのに、何で……!
「クモって名前、忘れたの?」
彼女が両手を掲げて微笑んだ。その手から伸びる糸は、ぐるぐると電柱や木に巻き付いているはず。警戒してたんだ、触れてるはずは……。
血の気が引くような悪寒が走り、ふと足元を見下ろした。薄汚れたスニーカーが踏んでいるのはアスファルトの地面。
その地面に糸が張られていた。
「まさか…………」
暗いアスファルトの地面に溶け込むように張られた糸。それは私の歩いてきた場所、東雲さんの足元、至る所にあった。糸、糸、糸糸糸糸――おびただしい両の糸が集う中央に彼女が佇んでいた。
罠を仕掛け、獲物をじっと待つ蜘蛛のように。
糸の振動から獲物の位置を把握する、蜘蛛のように。
引っかかった!
「逃げろ!」
「遅い!」
彼女が笑いながら飛びかかってくる。その手に握ったナイフが、私の命を刈り取ろうと、真っ直ぐ顔面に定められる。
小さな手が私の肩を掴む。逃げられなくなった私は、咄嗟に背中へ回していた右手を前へ突き出した。
ぐちゅっ、という生々しい肉を貫く音が、冷たい夜に響き渡った。
「――――何で?」
ナイフが赤く染まっていく。ボタ、ボタボタッと赤黒い血が滴る。ゆっくりと彼女がナイフを引くと、皮膚が抉れ、中身の肉片が少し零れた。
何でよ、とまた彼女が呟いた。今度は少し、声を張り詰めて。
私は静かに目を伏せ、言葉を零す。
「ごめんね……わんちゃん」
刃先にぶら下がる、犬の死骸、その首だけが。ぶらぶらと返事もなく揺れて、地面に滑り落ちた。
「うぐっ!?」
彼女の隙を突いて、その胸部に蹴りを叩き込む。肋骨を直に叩いたような手応え。小柄な体は簡単に飛ばされ、私達の間には距離ができる。だがすぐに彼女は顔を上げ、吠えるように私に突進してきた。
今度は左手を前に回す。そっちに握っていたのは犬の胴体。思いっ切り彼女に向かって投げ飛ばした。
「舐めるんじゃないわよ!」
彼女が手で犬の胴体を払う。それまでたった一秒にも満たない時間だったが、その間に私は彼女に向かって一歩踏み出していた。眼前に向かって両手を突き出し、素早く、そして全力で叩き合わせる。
パンッ! と空気が爆発するような音。
要するに猫騙しだ。
「っ!?」
大きく激しくは鳴らなかったが、目の前で手を叩いたことで彼女が一瞬だけ怯む。その一瞬で十分だった。
右拳を握り締め、腰を捻りながら突き上げて彼女の顎を打つ。流石に気絶はしなかったようだが、頭が大きく揺れ、ふらりと体がよろける。辺りに張り巡った糸が小刻みに振動し、シュルシュルと解けていった。
動けない彼女の肘を掴み、地面へうつ伏せに押し倒す。そのまま両手を地面にべたりと押し付け、背中を私の膝で押さえ付け、立ち上がれないようにした。意識がハッキリとしたところで逃げ出す術はもうない。体も動かなければ糸も出せないようにしたのだから。
「……――クソッ」
悪態を付く彼女の上で息を吐いた。何度か体を動かし、逃げられないことを悟ったのか、意外にもあっさりと抵抗がなくなった。
悔しそうに歯噛みしながら彼女が私を睨み上げる。それからふっと表情を泣きそうに歪め、俯き、か細い声で呟く。
「なんであたしばっかり……」
思わずえ? と尋ねるも、彼女は答えず、ただ自分に呟き続けていた。
観念したのか諦めたのか。どうしてかは分からないが、感情を吐露するように、ポツリポツリと言葉が溢れていく。
「パパもママも友達も先生も……皆、あたしのことなんて見てくれない。誰もあたしを分かってくれない。……苦しかっただけなのに、それを発散する方法が少し違っただけなのに、どうしてこうなるの。あたしが、何をしたっていうの……」
苦しい、と嗚咽交じりの言葉が聞こえた。顔を地面に押し付け、ぶるぶると肩を震わせる彼女を見下ろして、私は何もできなくなった。
この子は……。
酷く切ない思いが心臓を締め付ける。拘束する彼女の体がとても小さく見えて、
「……………………」
私は思わず、拘束を解いて彼女から離れた。
「おいっ」
「え……?」
背後から聞こえた東雲さんの叱咤する声。けれど私は振り返らず、ゆっくりと上半身を起こした彼女の目の前にしゃがみ、視線を合わせた。
彼女は急に解かれた拘束に困惑しているようだった。不安が入り混じった怪訝な顔を私に向け、策でもあるのかと窺っている。頬に手を触れようとすると、大きく手で払われた。微笑みながら話しかける。
「危害は加えないから安心して」
「できるわけないでしょ……」
そりゃそうだよね、と苦笑する。彼女は愛想笑いも浮かべず、私の挙動をじっと観察している。いつナイフや銃が飛び出してくるのかと恐れているようだった。
少し考え、ナイフを取り出す。顕著に筋肉を強張らせて警戒した彼女が糸で反撃する前に、ナイフを遠くに放った。これには流石に彼女が目を丸くする。
「はっ? ……あ、あんた、何して……!?」
「傷付けないって言ってるじゃない。安心した?」
唖然とする彼女の両手を、包み込むように握った。ハッとした彼女が手と私を交互に見る。
私よりもほんの少し小さな、可愛い手。だけど所々に糸をきつく縛った跡や、それで切れてしまった傷がある。それが何だか悲しくて、そっと握りしめたその手をコツンと額にくっ付ける。
「可愛い手をしてるのに、こんなことをするのは何というか勿体ないよ。あなただって素敵な女の子なのに」
「…………ああ、だから、こんなことはやめろって? さっき言ったじゃん、ストレス発散のためにやってるんだって。今会ったばかりのあんたに、ましてや敵のあんたに言われて止めると思ってるの?」
「思ってないよ。でもさ」
ふにゃりとした笑みが顔に広がる。その笑みを彼女に向けると、手がどこかぎこちなく強張った。
「とりあえずそのストレスを私にぶつけてみたらどうかな。殺すより前に、何でもいいから怒鳴って、泣き喚いてみるの。それでどうしても駄目だったらそのときは……だけど、ちょっとは気持ちも落ち着くんじゃない? 上手いアドバイスなんてできないけど黙って話を聞くのだけはできるよ、私」
彼女はポカンと口を開けて私を見つめていた。それからふっと肩の力を抜き、泣きそうな顔で笑う。
「馬鹿じゃないの? あんた」
「そ、そんなに馬鹿かなぁ?」
「馬鹿も馬鹿、大馬鹿よ。何で敵なのにそんなこと言うの、どうしてあたしに殺されそうになってそんな風に笑えるの。殺し屋同士なのよ? 殺さなかったら自分が殺されるのよ?」
「だって……だって、あなた、私と似てるんだもの」
似てる? と尋ね返された言葉に力強く頷く。そして言った。
「誰かに助けてもらいたかったんでしょ? 苦しかったよね、悲しかったよね……もう大丈夫。私が助けてあげる」
力づけるように手を強く握り、笑った。それだけで彼女の表情が完全に崩れる。求めていたものを見つけたような、希望と救いに満ちた光を瞳に湛えた。
蜘蛛の糸のように脆い救い。だけど彼女はきっと、そんな頼りないものにさえ今まで縋ってこれなかったんだ。
その気持ちは苦しくなるほど、理解できた。
この子はきっと、同じなんだ。
少し前の私と、とてもよく似ている。
「ネコ」
「あ、東雲さん」
背後からかかった声に振り向くと、すぐそこに東雲さんが立っていた。私は立ち上がり、微笑みながら言う。
「もうこの子は大丈夫ですよ。私、この子を家に送り届けてきますから、先に帰ってて――」
「ちょっとどいてろ」
東雲さんの大きな手で肩を掴まれ、ぐっと横にどけられる。離れ際に首を掠めたその手の温度は酷く冷たかった。ネコ、と呼ばれたことが頭に引っかかる。もう仕事は終わったんじゃないの?
彼は彼女の前に立つ。大きな体の影が明かりを遮り、彼女がふっと顔を上げ、表情を凍らせた。
私が何かを思うその前に。
彼のブーツの爪先が、彼女の腹部を抉るように蹴り付けられた。
「ぎっ!」
「っ!?」
小さな体がサッカーボールのように地面を転がる。電柱に叩き付けられた彼女は激しく咳き込みながら腹部を押さえた。東雲さんがそこへ近付き、今度は顔面を踏み潰す。
「ごっ、ぷ……ぁっ!」
地面を転げまわる彼女の口から零れる荒い呼吸が、いつしか赤い血に変わっていた。彼女は必死に抵抗しようと手を動かす。だがその隙さえも与えず、東雲さんの暴力が雨のように降り注ぐ。結局両手で顔を庇うのが精一杯のようだ。
「や」
後頭部を掴み地面に叩き付ける。額から強打したかもしれない。その口からは呻くような声しか漏れなかった。
「やめ」
鼻から、口から、ドロリとした血が溢れた。既に意識が朦朧としている彼女を東雲さんが更に踏み付けると、呻き声すら出さす、四肢がぐったりと脱力する。
意識を手放した彼女を地面に放り投げ、東雲さんが腰から銃を取り出した。その照準を彼女に定める。
「やめてぇっ!」
震えていた足を引きずるように動かし、倒れる彼女の前へ飛び込んだ。
「……邪魔だ」
「駄目! 何で、何でこんなことするの!? 酷い!」
「酷い? 何が? 容赦がないのはお前の訓練と同じだろう」
千切れそうな勢いで首を横に振る。確かに容赦がないのは訓練のときもそうだ……けど、これは違う、全く違う。あれは訓練だけど、これはただの暴力だ。
だってこれはあまりにも一方的すぎる。一切抵抗できない相手をいたぶるのは、ただの酷虐、拷問でしかない。
「この子はもう何もしてこないはずです! 殺さなくてもいいでしょう!?」
「クモも言ってたじゃないか。殺し屋同士なんだ、殺さなかったら自分が殺されるんだぞ? 俺達を殺さない保証はどこにもない」
「でも、でもっ……!」
東雲さんの目が冷たくなる。いい加減にしろ、と低く静かな声で言われ、身を竦ませた。
「綺麗事だけで生きていける奴は運がいい奴だけだ。運のない奴が綺麗事を実行したところで、自分が死ぬだけだろ」
「そ、そんなの知らない!」
「死にたくないなら見捨てることも必要なんだ」
「やだ、嫌だ、絶対に殺させないから!」
「ネコ!」
「やめてっ!」
東雲さんが伸ばした手を反射的に払いのける。ハッと我に返ったときにはすでに遅く、東雲さんは目を丸くして私を見つめていた。
そして、諦めたように表情を変える。けれどそこに優しさは一片も含まれておらず、まるで、私自身を見捨てたような冷徹さのみが満ちていた。
「っ」
息を呑む、血の気が引く。思わず伸ばした手の先がぶるぶると痙攣するように震えていた。
「あ……しの、東雲、さ…………」
「もういい」
頭をガツンと殴られたようなショックが走った。血の気が引き、ドッドッと心臓が喘ぐ。震える手で腕の中の彼女を抱き締めると、砂と血が手に粘り付いた。
東雲さんはそれ以上何も言わなかった。私に背を向け、去っていく。その背にかけるべき言葉が思いつくはずもなく、彼の背中は夜の中に溶けて消えた。
数分間は茫然とへたり込んでいたのかもしれない。彼女が体を震わせたことに我に返り、慌ててその体を背負う。冬の夜は冷え込む。ここにずっといたら、この子だって風邪を引く。
体の芯まで貫くような寒さに身が震えた。鼻が詰まっているのも、視界がやけに滲むのも、喉が熱いのも、全部寒さのせいだろう。
「帰らなくちゃ」
誰に言うでもなく呟いて、私は暗い夜道をゆっくりと歩き出した。




