第157話 親友
幸せになりたかった。ただそれだけだった。
乾いた唇は冷たい息を零す。冬の温度をまとった吐息は、夏の空気に溶け込んでいく。
目の前に煌めく鮮血に、何故だか俺は笑みを浮かべていた。腹の奥底から湧き上がる途方もない感情が、視界一面を晴れ空のような光に満たしていた。それはあまりにも神々しい光で、これまでの人生で一番と言っていいほどに、美しい光景。
ああ、死ぬのだ、俺は。
倒れる体の僅かな感覚が、鋭利に脳に弾けていく。指先を這う風の冷たさが、靡く髪が頬を撫でる柔らかさが、重力に従って落ちていく背の心もとなさが。
一瞬の間に様々な思いが体を駆け巡った。一秒にも満たない時間が、永遠のときを刻んでいるように思えた。
皆を救いたかった。この街を救いたかった。仲間を集め、この街を変えるために何年間も動いてきた。
己の肉体の造形が他よりもほんの少しずれていたがために、迫害され、絶望して肉体を切り刻み、周囲と己が望む姿を手に入れようとした美しい人間がいる。痛みを知らず、恐怖を感じず、漠然としたままにこの闇に落ちてしまった、最後まで地獄を理解できなかった哀れな少年がいる。老いを知らず、長い時の中で微睡み続け、緩やかに心を狂わせていった一人がいる。過剰な愛をぶつけられ、愛されず、愛されすぎて、おもちゃにされた少女がいる。感情が爆発するままに暴れ、湧き上がる衝動を誰にも止められることのないまま育った奴がいる。この街の闇を愛し、この街の闇に自ら飛び込んできた、変わり者の女がいる。
皆、明星市という地獄の中で生きてきた奴らばかりだった。理由は様々だけれど、皆、俺の考えに付いてきてくれた仲間だった。
最後まで付いてきてくれた女は、床の上に倒れ、動かなかった。俯くその体の下から広がっていく黒い色の液体が、跳ねた彼女の髪を濡らしていく。
彼らは俺についてきて良かったと思ってくれていただろうか。
ごめんな、と思う。
大好きな年下の女の子が、俺を見つめていた。
くるりとした丸い目。大きな瞳からぽろぽろと零れる大粒の涙は、小さな顎を伝って、次から次へ床に落ちていく。悲しみにくしゃくしゃに歪んだ顔があんまりにも愛らしくて、そんな肌のあちこちに刻まれた傷があんまりにも痛ましくて。うんと腕を伸ばしてその体を抱きしめてやりたかった。
大好きな幼馴染の男が、俺を見つめていた。
穏やかな顔だった。凪いだ夜明けの海のような、静かな眼差しがまっすぐに俺を見つめていた。
肌の下。その薄皮一枚の下に、どれほどの強い感情が暴れているのだろうか。静かな眼差しの底に、深い悲しみの海が閉じ込められていることが、俺には分かった。背を叩いて笑って、励ましてやりたかった。
ごめんな。皆。ごめんなさい。
後悔をしている。悲しみに襲われている。だけど安堵している。ようやく終わるのだ。全て、これまでの悩みも苦しみも、全てが終わるのだ。だけど、寂しい。ああ。嫌だ。俺がしていたことは全て無意味だったのだろうか。教えてくれ。嫌だよ。死にたくない。終わりたくない。まだ、生きていたい。寂しいよ。いいや、終わらなければ。もういいのだ。
救われたかった。
救ってほしかった。
「佑くん」
声が聞こえて、俺は目を見張った。
風が柔く頬を包む。透ける光が、黄金色に煌めく。それはまるで頬を撫でられているようで、金色の髪が目の前に靡いているようで。
幻覚だと、幻聴だと分かっている。けれども目の前に浮かぶ彼女の微笑みは確かに俺の目に見えていた。
思わず伸ばした手を細い手が握る。澄んだ微笑みが近付いて、彼女の唇が俺の唇に触れる。空気に触れるような、優しい温かさに、胸の奥がぐぅっと熱くなった。彼女の澄んだ微笑みは、俺のしたことの全てを許してくれていた。
「みきぃ」
彼女の細い体に縋り付く。シャツに指でしわを作り、熱い彼女の体温に額を埋める。白いシャツに涙の跡が付いて、薄い灰色になった。
ずっと我慢していた。何年間も溜め込んだ涙を、目の前の幻覚に吐き出した。
「佑くん。これまでよく頑張ってきたね。偉いよ。とっても苦しんできたんだね。とっても我慢してきたんだね」
そうだよ。俺はずっと苦しんできたんだよ。
美輝、聞いてくれ。俺が味わってきたこの街の絶望を。泥水を舐め、血を流して生きてきた、この人生を。
「もういいんだよ。これ以上、苦しまなくていい」
彼女は泣いていた。俺も泣いていた。悲しいからか、嬉しいからか、分からなかった。ほたほたと流れる涙は、星のように煌めいた。
俺は君にずっと、伝えたいことがあったんだ。
「私はとっくにあなたを許しているよ」
ああやっと。やっと君に会いに行ける。君にこの言葉を伝えることができる。
ごめんなさい。
愛してる。
幸せになりたかった。
ただそれだけだった。
「――――冴園さん」
虚ろな目がゆっくりと瞬いた。光をなくしかけた眼差しが、私を見上げる。
私は彼の傍にしゃがんで、その顔を覗き込んでいた。自分がどんな顔で彼を見ているのか分からない。けれど冴園さんが手を伸ばして私の頬を撫でれば、その指に数滴の涙が付いた。
冷たい指先だった。血の臭いが濃く香る。ぬるい血の温度も、次第に冷めていくだろう。そう考えた途端に喉の奥が震えて、熱い吐息が零れた。
冴園さんの胸にポツンと空いた穴。そこから溢れる彼の温度。彼の命が流れていくのを止める術は、私達には、ない。
「和子、ちゃん」
「冴園さん」
「撃とうとして、ごめんね」
「…………ううん。いいの」
「ごめんね…………」
「…………いいんです。許してますよ、冴園さん」
彼の指は優しく私の涙を拭う。堪えようとしても、涙は止まらなかった。赤くなってしまっただろう私の目尻を何度も彼は撫でる。彼の謝罪に何度も首を振った。怒りなんてなかった。彼が私にしたことなんて、最初から許すつもりだった。
「佑」
隣に来た東雲さんが冴園さんに声をかけた。とても優しい声だった。それなのに、冴園さんは怯えたように一瞬身を固くして、不安げな瞳で東雲さんを見た。
二人の視線が交わされる。冴園さんが口を開き、震える声を吐き出す。
「…………咲、俺は」
「馬鹿だなぁ」
東雲さんは呆れたように言った。冴園さんの懺悔を遮って、気を抜いたように笑う。
「お前本当に馬鹿だよ。学生のときからずっと賢いって思ってたけど、何だよ、俺と同じくらい子供じゃないか」
声は明るく、その顔に浮かんでいるのは無邪気な笑顔。幼さを見せる東雲さんの姿に、私は知れず唇を噛んで押し黙る。込み上げる涙を何度も飲み込んで、彼の隣で、静かに二人の姿を見守った。
「なあ佑。もしもさ、美輝とお前が殺されそうになっていたとしたらさ。俺は必ず美輝を選ぶよ。お前と和子が死にそうになっていたら、絶対に和子を選ぶ」
「…………酷い奴」
「だって。俺がお前を選んだら、お前は怒るだろ? 『俺を見捨てろ。彼女を救え』って」
「……………………」
「お前がそういう奴だって知ってるよ。ずっと一緒にいたんだから」
東雲さんの言葉に、冴園さんが笑った。
彼らはずっと一緒にいた。私が生まれるよりも前から。二十年以上。それほど長い期間を共に過ごしても、お互いを理解しきれたとは言えなかった。些細な擦れ違いが大きく育って、今こうして彼らの別れに繋がっている。
後悔はきっと私が想像しきれないほどに大きい。あのときこうしていれば、もしもああしていれば。悔やんだってしょうがないことを、彼らは今、心の底から嘆いている。
けれど。二人は別れを受け入れているようだった。後悔を飲み込んで、その顔を、穏やかに綻ばせていた。
二人はずっと一緒だったんだ。子供のときから、大人になるまで、ずっと。
「一番なんて色々あるだろ。家族も、友人も、恋人も、あるだろ。俺が美輝や和子を選んだとしても、それがお前を大切に思わない理由にはならないだろ。そんなに誰かの特別になりたかったのか。馬鹿。なんで気が付かないんだよ。俺にとってお前は、佑、お前は……一番の親友だよ。俺にとっての、ヒーローだったんだよ」
冴園さんのまつ毛がふるりと光に震えた。ヒーロー、と繰り返す声は囁くように小さくて、共に零れた吐息は薄い。
「なんだ……ヒーロー、って」
「覚えているか。俺達が友達になった日のこと」
「…………お前泣いてたなぁ。本を取られて」
「ああ。泣いてた。だけどお前が助けてくれた」
「だって、見過ごせ、なかった」
「あのときからお前は俺のヒーローだった」
とく、と冴園さんの胸からまた血が流れる。床に広がった血は、傍にしゃがむ私の膝を濡らしていた。じわりと広がっていく血の水溜まりから目を逸らせない。血の気が失せた白い指を震わせて、冴園さんはゆっくりと細い呼吸を繰り返す。
「佑はずっと俺の手を引っ張ってくれた。俺の前にはいつも佑がいた。それがどれだけ安心したか、救われたか、知ってるか。弱かった俺を強くしてくれたのは、お前なんだよ」
「……………………馬鹿。馬鹿、馬鹿。違うだろ。俺は、そんなに、尊敬されるような人間じゃない、よ。だって、俺は…………」
「お前がどれほど酷いことをしたとしても。俺がお前の友達なのは、何も変わらない。お前が俺を救ってくれた事実だって、なくならない」
「俺、俺は……だって…………」
冴園さんの声が震える。辛うじて繕っていた笑みが崩れ、深い悲しみが顔に刻まれる。血の気の失せた唇がひくりと引き攣った。言葉を続けようとしたその唇から、嗚咽が漏れる。頬の血が、流れた水で洗い流された。
「こんな、つもりじゃ。誰も、殺したく、なかった。救いたかったんだよ。お前や、和子ちゃんを。皆を。な、なのに。俺っ…………、こんな……間違えて、ばかりで。違うんだ。俺は、ただ……たださぁ…………」
「ああ…………」
「し、幸せに、なりたかった。それだけ、だったんだ。それだけで、十分、だったんだよぉ……」
「分かってる……。分かってる…………!」
冴園さんの手が、小さく空を掴む。東雲さんはその手を取って強く握り締めた。激しくその手は震えている。それは東雲さんの体の震えであった。冴園さんの涙で濡れる頬に、新たな水滴がぽたりと垂れた。私はハッとして東雲さんを見る。彼の顔を見て、目を見開いた。
東雲さんの鋭い両目から涙が零れていた。彼の内側に打ち震える感情が大粒の涙となって、幾度も落ちていく。嗚咽を噛み殺そうとしては失敗して、彼の喉からひくひくと小さな泣き声が聞こえてきた。そのたびに肩が震え、涙が落ちる。
東雲さんの涙を、私は初めて見た。
冴園さんは鼻を啜って、東雲さんの涙を見る。泣くなよ、と涙声で言う彼に、お前もだろ、と東雲さんが泣きながら言った。
「お前、大人になっても。泣き虫だなぁ」
「そうだよ。泣き虫のまんまだよ。お前が引っ張ってくれよ。あのときみたいに、俺を助けてくれよ」
「はは。いつまでも、甘える、なよ。……大丈夫。お前はもう、俺がいなくても、大丈夫だ」
「佑…………」
「咲……俺がいなくても、さ。もう、大丈夫だろ? お前はもう、強い男、だろ?」
「…………うん」
「いじめられても、立ち向かえるか? 嫌なことをされたら、怒れるか? 人に優しく、できるか? なあ。俺がいなくても、咲は……ちゃんと…………」
「……………………」
「ちゃんと…………生きて。大切な人を、守れるか?」
東雲さんは大きく一度だけ頷いた。強く噛み締めた唇が震えている。彼の頬から流れる涙を受けて、冴園さんは、嬉しそうに笑った。
例えるならそれは、幼い頃から抱いていた夢が叶った瞬間の、人間の顔だった。
心からの安堵に満ちた冴園さんの笑顔は、とても優しくて。私は胸を押さえ、二人の邪魔をしないように、静かに泣き続けた。
冴園さんの呼吸が徐々に緩やかになっていく。瞼から力が抜けていく。か細い呼気に乗せた小さな声が、遠くに思いを馳せるように紡がれていく。
「美輝に、会ったら、謝らなくちゃ」
「きっと許してくれるよ。だって美輝は、優しいから」
「それから、好きだって……言うんだ。言えなかったから……はは、美輝、何て答えるかな? 大人になって、お前より、俺の方が好みに……なってたりして」
「どうだろうか。選ぶのは、美輝だからな」
「もう一度、お前の料理、食べたかったな…………」
「…………帰ったら作ってやるよ。好きな物何だって」
「それから…………もう一度、三人で、遊園地……行きたい……」
「ああ……もう一度遊ぼうって、約束したもんな」
「夏だから…………海とか…………プール、も」
「昔、よく泳ぎに行ったよな。夏休みの宿題でさ、五回以上泳ぎに行かなくちゃならなくて……俺達最初の頃は、泳げなくて、浮き輪ばっか使ってた」
「はは…………そうだ。懐かしいなぁ。…………いっぱい、遊んだ……自転車で…………遠くまで行って……………………」
「帰り道に迷って、ばあちゃんに怒られた」
「そう、そう…………怖かった、な……菊さん……………………楽しかっ……なぁ」
「まだ、夏はこれからだろ。いっぱい遊ぼう。自転車に乗って遠くに行こう。海にも行こう。遊園地に行って、観覧車に乗って。ああ、ほら、小学生のとき秘密基地作ろうとしたこともあっただろ。あれ、途中で疲れたからって、それっきりだった。後でまた作ろうって言ったままだ。帰ったら作りに行こう…………」
「……………………うん。つく、ろ」
「帰ったら。祭行くって、言っただろ」
「……………………うん」
「七夕祭。三人で行こうって。お前と、俺と、和子の三人で。花火が見たいって、言ってただろ。今夜だろ。行かなくちゃ。出店も回って。輪投げとか、射撃とか。りんご飴とか……神社の前の階段が、近くで花火が見れるから…………そこで……花火、見て……………………」
涙に濡れた東雲さんの声はそこで途切れた。ぐずぐずと顔を濡らした東雲さんは、冴園さんの顔を見つめて沈黙する。
「咲」
冴園さんが小さな声で言った。東雲さんに向けて震える声で問う。
「俺達…………親友、だよな…………?」
「当たり前だろ」
東雲さんは即座に返答した。ぐしゃぐしゃになった顔で笑って、冴園さんの手を力強く握る。
殺し屋オオカミは、明星市を滅ぼそうとしていた親友に向けて、精一杯の笑顔を浮かべた。
「俺達はずっと親友だ。これからもずっとずっと、お前は、俺の一番の友達だよ」
冴園さんの目から一際大粒の涙が溢れた。絞り出すような声で、冴園さんは言った。
「あり……が……と……………………」
冴園さんはあどけない顔で笑った。
それが最後だった。
ふっと冴園さんの指先から力が抜ける。長く細い呼気を一つだけ吐いて、彼の唇は動かなくなる。薄く開いた目に、あれほどキラキラと輝いていた光はもうない。
冴園さんは死んだ。
明星市を滅ぼそうとしていた殺人鬼のボスは、死んだのだ。
殺し屋の手によって、明星市は守られた。
「……………………ぅ」
東雲さんが声を震わせた。彼は死んだ親友の手を強く強く握って、額を寄せる。
ボタボタと流れる涙が冷たい手を濡らす。押し殺した呻き声は徐々に震え、大きくなっていく。しゃくりあげていた東雲さんは、とうとう堪えきれず、声を上げて泣き出した。
「うわああぁっ……あああ……ああああああ!」
体全体を震わせて泣く彼の姿は、大きな子供のそれだった。私は口を押えて静かに泣く。東雲さんの泣き声だけが部屋中に響き渡る。
「あああああっ! うわあああああぁ!」
感情に任せた慟哭は長い間止まらなかった。
長い間抱えていた悲しみを爆発させたオオカミの遠吠えは、荒々しく、聞いている私の心を引き裂いた。
和子ちゃん。
そう呼んで、私の頭を優しく撫でてくれた、青い髪の優しい大人の姿を思い出す。
冴園さん。あなたがどれだけ酷いことをしてきた人間だとしても。私にとってあなたが、大好きな友達であることに、変わりはないんです。
冴園さん。冴園さん。ずっと、大好き。
暑い夏。七夕の夜。大切な友達は、私たちの前からいなくなった。