第156話 最終決戦
噴き出した血が空中に弾ける。
酸素をいっぱいに含んだ鮮やかな赤色は光に艶めいて、綺麗だな、とぼんやり思う。
既に体中は傷だらけで、嗅ぎすぎて麻痺していた鼻を、新鮮な鉄の臭いがツンと衝く。
キラキラと輝く血の向こうに東雲さんの姿が透けていた。彼が目を見開いて、口を開いて、何かを言うのが、微睡みのように緩やかに進む時間の中で、ぼうっと見えた。
「 」
彼が呼んだ名前がどちらのものか。
私には、聞こえなかった。
「――――ぐうぅっ!」
「…………っ」
冴園さんと私の呻き声が重なった。苦痛に満ちた声に続いて、びちゃりと血が床を濡らす。
咄嗟に心臓を避けた、鎖骨の下付近にナイフが深々と突き刺さっていた。私の肌とナイフの間には冴園さんの手が置かれている。ごぷりと溢れた血は彼の白い手を濡らし、赤色に染めていった。
東雲さんとあーちゃんの目が驚愕に見開かれている。私の奇行に驚き、動くことのできない二人を尻目に、私は強く地面を蹴って後ろに体を傾けた。冴園さんがバランスを崩す。ダン、と彼の背が壁にぶつかった。
「は…………は、ひゅ……………………」
もはや痛みさえ感じない。ただ朧げな鈍痛が全身を包んでいるだけだ。それが決して良くない傾向だと知っている。けれど今、痛みはただ邪魔だった。これでいい。痛みなど感じなくいい。
ナイフの柄を掴んで更に奥へと刃を突き立てる。私の肉を、冴園さんの手を、刃が更に削っていく。冴園さんが苦痛に声を上げた。焦りを滲ませた目が私を見下ろす。けれど彼が伸ばした手は、私の腕でも喉でもなく、ナイフの刃を掴んだ。これ以上の進行を止めるために。
「やめろ!」
「……………………はは」
思わず笑ってしまった。焦る冴園さんの視線は、ただ私の胸に注がれている。どろりどろりと血を流し続ける、刃の付き立ったその場所へと。
「やっぱ、り。まだ、迷ってるんだ」
そう言った瞬間。冴園さんの表情が明らかに強張った。
ズルリとナイフが抜ける。私は冴園さんの手首を両手で掴んで、もう一度自分の元へと引き寄せた。今度は私の脇腹を貫いて、冴園さんの腹部へと刃が突き刺さる。
冴園さんが苦悶の表情を浮かべる。けれど彼は同時に怒りに顔を歪め、私を怒鳴りつけた。
「な……に、してる!」
彼はナイフを引き抜こうとした。けれど私は全力を振り絞ってナイフを突き立て続ける。冴園さんの傷口よりも、私の体から溢れる血の方が多かった。
おかしくなって私は笑った。喉奥に込み上げた血が笑い声と共に床に吐き出される。びしゃりと床を濡らす血を見て、冴園さんはその顔を蒼白にした。自分の血じゃないのに。私の血なのに。
「手を離して、くれ、和子ちゃん」
「……………………」
「離せって」
「嫌だ…………」
「離せ!」
「離さない!」
ほら、と私は声を張る。呆然とする東雲さんとあーちゃんにもハッキリと聞こえるように、力を振り絞った大声を張り上げる。
「まだ……まだ、迷ってるんじゃ、ないですか! 冴園さん、私を殺すの、躊躇ってるんじゃないですか!」
それが事実だ。
冴園さんは、私を刺すことを一瞬だけ躊躇した。切っ先に迷いがあることを、いくら隠そうとしたって無駄だった。
だって私がさっき冴園さんを刺そうとしたときと、まったく同じ震えを感じたから。
窓外に見える第十区のビルには、もうすぐ朝だというのに、まだ明かりが灯されている。その明かり一つ一つに人がいる。何百以上とある明かりの中に、人が生活しているのだ。
夜の世界にもこんなに大勢の人が生きている。自分の考えのままに過ごし、それぞれの道を歩み生きている。
「この街に、悪人なんていないんですよ、冴園、さん」
この世界に来てからたくさんの人と会った。そして知った。
この街に悪人はいない。私から悪人に見える人も、その人自身の正義を志して生きている。他者にとっても自分にとっても悪人であるという人は、誰もいない。
「明星市の人間は、一人一人、それぞれの正義を抱いて、生きてる。どれが一番正しいのか、皆のためになるのかなんて、分からない。私も、あなたも。……あなたの正義は、間違いじゃない。だけど、他の数多の正義を握り潰してまで、実行するのは、早すぎる」
言葉はたどたどしい。喉に絡み着く血が、息を吐き出すことさえ邪魔をする。唇を開くたびぼたぼたと赤黒い血が垂れて、顎を濡らす。
冴園さんが私の名を叫んだ。その声に含まれている感情は、怒りではなく、不安だ。私が血を吐き出すたびに冴園さんは私を心配する。彼は私を殺そうとしているのに。
「私も東雲さんも、まだ決断が、できていない。まだ迷っている。冴園さんだって、迷っているのでしょう? 本当に自分は正しいのかって、不安なのでしょう?」
「違う…………俺は、決めたんだ! これ以上の犠牲を出さないためにはこうするしかないって!」
「だったら……あーちゃんの言う通り、私達のことをすぐに殺していたはず。あなたが、説得に時間をかけたのは、余裕なんかじゃない。揺らいでいたから。動揺しているから」
冴園さんは唇を強く噛んだ。言葉を失った彼の反応は、私の仮定を肯定している。
ナイフを強く握り締めた。冴園さんの手を、強く握り返した。
「私達は迷っている。選択肢はあまりにも多すぎる。だけど、決めなきゃ。自分にとって最も強い正義を、一つ。冴園さん。私は、私の正義を選ぶ。最終的にこの決断が、未来の明星市の破滅に繋がるのだとしても……それでも、今大勢の人間が死ぬのを、黙って見ていられないですよ。だから、冴園、さん」
「……………………っ」
「私はあなたを倒す」
生暖かい血が私の腹部に伝い落ちてくる。ナイフの刃をとろりと濡らした血が、私と冴園さんの手を濡らす。
冴園さん、と私は微笑んだ。いつもみたいに。冴園さんの顔が大きく歪む。悔しそうな、怒っているような、悲しそうな目。
彼はきっと、誰かに助けてほしかったんだろう。
「私があなたを止めてあげるから」
冴園さんの腕を抱きしめて私は微笑んだ。鈍い銀色を赤く染めた刃が、私の体を貫こうとする。私の体ごと、彼を刺そうとした。
冴園さんは迷って苦しんでいる。その苦しみを取ってあげたかった。私が救ってあげたかったのだ。
全身の痛みはとうに消えている。代わりに体は、ただただ熱かった。胸の奥側が、メラメラと燃えていた。
指先に衝撃が弾けた。バチンと音がして、私の手が跳ねる。落ちたナイフが床を跳ねて転がった。
ほぼ同時に強い銃声が胸を打つ。ハッと目を見開いて顔を上げた私を、東雲さんの声が叩いた。
「――――ネコッ!」
「……………………東雲さん」
その東雲さんの姿を見た瞬間、私は咄嗟に、初めて会ったときの彼を思い出した。
冷静さと激情を混合させた獰猛な表情。鋭い眼光が獣のように光っている。まっすぐこちらを睨んでいるだけなのに漂う、強烈な威圧。心の底から畏怖の感情が沸き上がる彼の姿。
恐ろしい。だけど、同時に胸に熱い何かが込み上げて、私を満たしていく。
彼は銃を構えていた。冴園さんが落とした銃だった。さっきまで銃を持つことなどできないほどに震えていたその腕は、今、少しも震えることなくまっすぐに伸びていた。
「…………情けないな。師匠が弟子に叱られるなんて」
東雲さんは自虐的な笑みを浮かべて言った。
「俺は子供だ。いつまでも大人になんかなれちゃいない。気弱で、怖がりで、嫌なことから逃げている」
冴園さんはふっと笑った。彼の下ろした手から、どろりと大量の血が流れている。東雲さんが撃った弾が彼の手を掠めていた。私の手に当たることなく、冴園さんの手と銃だけを狙った弾丸は、寸分の狂いもなく正確にその位置を貫いていた。
傷だらけの顔で彼らは互いを見つめた。友人の前で浮かべる笑顔を浮かべて、小さく笑い声を零す。
「俺の弟子は強いだろ」
「ああ、強いな」
「俺が育てたからな」
その満足気な声に、私はぐっと唇を噛んだ。熱い涙が唇を濡らして落ちていく。
二年間。私は東雲さんに育てられた。彼は色んなことを教えてくれた。仕事の仕方、生活の仕方、恋の仕方、生き方。
私がこんなに強くなれたのは彼がいたからだ。
「今の和子は俺よりもずっと強い」
「代わりに咲は弱くなった?」
「ああ、そうだな。俺は弱くなってしまった。彼女の強さに甘えていた。どんどん衰えている」
だけど、と東雲さんは続ける。
「甘えはもう終わりにしないと。師匠は弟子の目標となるものだ。和子の言う通り、選ばなければ。決めきれないけれど、決断しなければ。情けない姿はもう見せたくない」
「誰に?」
「誰にも。ばあちゃんにも、お前にも」
「美輝にも?」
「美輝にも。和子にも」
東雲さんは銃の引き金に指をかけた。銃口は一直線にこちらを狙っている。
「……なあ佑。人が死ぬのって悲しいよな。俺は人の命を奪うのが苦しかった。お前も分かるだろ。自分の生きている意味が分からなくなってしまうだろ。俺が和子を拾ったのは俺のためだ。多くのものを奪ってきた。だから一つでいい。命を救ってみたいと思った。そうすることで、自分の気持ちが少しでも救われればいいと思っていた」
「その結果、どうなった?」
「見て分かるだろ。想像以上だ。彼女は誰よりも強くなった。和子はもう、ただの死にたがりの少女じゃない。俺の大事な人だ」
前に東雲さんが言ってくれた、私を拾った理由。命を奪う彼が、命を生み出すことができるのかと考えて、命を捨てる寸前だった私を拾った。
彼にとってはただの気まぐれだった。ちょうどいいタイミングで偶然私が死のうとしていたから起こったできごと。けれど私にとっては奇跡だった。私は東雲さんがいたから生きることができた。
数多の命を奪ってきた殺し屋オオカミ。だけど私は、殺し屋の手によって、生かされている。
「和子が大人になったのに、俺達が子供のままだなんて、みっともないな」
「ああ、そうだな。恥ずかしいな」
「大人になろう、俺達」
「…………ああ」
彼は決断する。迷いながら、ただ一つの選択肢を選んで、後悔や苦しみに襲われながらもその答えを口にする。
東雲さんは冴園さんに、子供っぽい顔で笑った。
「お前を止めるのは俺がやる。佑、お前は俺が救ってやる。だって俺達、親友だろ?」
一発の銃声が合図だった。
東雲さんの撃った弾は、私の体を避け、冴園さんの肩を抉る。冴園さんは一瞬呻き、けれどすぐ、楽しそうに笑った。
拘束が緩む。途端、背を突き飛ばされる。振り向いた私は冴園さんが懐に隠し持っていたもう一つの銃を取り出す姿を見た。
「いつまでもごちゃごちゃと!」
怒鳴り声を上げたあーちゃんが、東雲さんの背後からナイフを振るう。東雲さんは避けず、その肩にザクリと銀色の刃が突き立てられる。だけど東雲さんは顔色を変えず、あーちゃんの腕を掴んで投げ飛ばした。
冴園さんの撃った弾は東雲さんの方へ飛ぶ。弾が過ぎた場所に、既に東雲さんの姿はない。彼は獰猛な顔で、冴園さんへと向かっていく。
あーちゃんがそれを止めようともう一度東雲さんに襲いかかった。けれど私の体当たりが彼女の動きを止める。鋭い爪が私の頬を傷付け、服を引き破る。振るった私と彼女のナイフが刃を交差させて激しい金属音を奏でる。
「この街は壊させない。私はこの街の人達を守るんだ!」
「馬鹿なことを!」
あーちゃんが恐ろしい声で笑う。まつ毛が触れるくらいに近付いた彼女の顔は、壮絶な笑みをニタリと浮かべ、私の足を竦ませた。
彼女の黒髪が目の前で靡く。艶やかな黒は、夜を連想させる。何故だか不意に昔のことを思い出した。彼女の髪は、昔の私の髪と、少し似ているからだろうか。
いじめられて、死のうとして、けれど救われて、今こうして命を奪う仕事の手伝いをして。
皮肉にも、血と死に塗れたこの世界に来てから、私はようやく命の温かさを知った。
殺し屋である私は、大勢の命を救いたい。そう願っている。
胸の底から空気を振り絞って絶叫した。あーちゃんへと鋭い一線を振るう。あーちゃんは咄嗟にナイフでそれを受け止めた。けれど、私は力任せにそれを押しやる。彼女の顔色がサッと変わった。驚愕に見開かれた目が私を見つめる。
傷だらけの体にしては異様な力が、ぐらぐらと足元から込み上げてくる。限界を超えた体だからこそ生まれる、獰猛な獣の力。消える寸前の蝋燭の輝きのように、私は今、最後の力を振り絞っている。
「あ゛ああああっ!」
私の髪が照明に輝く。茶色に透ける明るいオレンジと黄色。例えるならばそれは、朝日のような色だと、そう思う。
私の腕が、チェシャ猫のナイフを払いのけた。
全力で振り抜いたナイフは、チェシャ猫の体を、深々と切り付けた。
ぐらりと倒れるあーちゃんの体。空中に飛んだ血のカーテンが薄くなって、床に落ちて、その向こうで戦う冴園さんと東雲さんの姿が見えた。
互いの銃弾が互いの体を貫く。腹に銃弾を受けた東雲さんが、大量の血を吐いてその場に崩れ落ちそうになっている。対して冴園さんはその顔中を血に染めて、苦しそうな目で東雲さんへ銃口を向けた。
床を蹴る。あーちゃんの体から流れる血がベシャリと靴に染みる。血だらけの体で、私は冴園さんに飛び付いた。抱擁するように、彼の動きを一瞬だけ止める。
冴園さんの温かい目が私を見下ろした。泣きながら、私は振り向いて東雲さんを見た。
東雲さんは辛うじて立っている状態だった。震える腕を伸ばして、銃口をこちらに向けている。
東雲さんが冴園さんと目を合わせる。けれど東雲さんはすぐ目を逸らして、私を見て、叫んだ。
「ネコ!」
「オオカミさん!」
東雲さんが引き金を引いた。
私は、殺し屋オオカミに初めて会ったとき、彼に殺されかけた。
だけどこうして今生きているのは、そして殺し屋ネコとして成長したのは、私のちょっとだけ得意なものがあったから。人より少しだけ反射神経が優れているっていう、ただそれだけの体質。
そのせいで死にたいと思うこともあったけれど。そのおかげで、助かったことだって何度もある。
私は東雲さんが引き金を引いた瞬間、考える間もなく、咄嗟にしゃがんだ。彼と初めて会ったときに、やったように。
一発の弾丸はまっすぐに飛ぶ。凄まじい速度の鉛を止めることなど誰もできない。
東雲さんが撃った弾が、冴園さんの胸を貫いた。