第154話 この街の敵
獣の雄叫びのような叫びは、私の心臓を握り潰した。
血が飛ぶ。壁を赤く彩った液体は、ぬらりと光って、生々しく垂れていく。
床の欠片が弾け、至る所に穴を開けていく。跳弾した銃弾が柱にめり込む。硝煙の臭いに肺が咽そうになる。
右から、左から、前から、後ろから。あらゆるところから聞こえてくる銃声。唸りを上げて飛ぶ銃弾は、窓を撃ち、砕けたガラス片と共に夜空へと弾けていく。
雄叫びが聞こえた。
ザリザリとした不安に胸を握り締める。竦む足を必死に奮い立たせ、私は叫ぶ。
「東雲さん!」
私の声は嵐のような銃声に掻き消された。ただ見開いた目を、前に向ける。
視線の先には東雲さんが立っていた。彼は深緑色のコートを真っ赤に染めて、壮絶な憤怒の表情で銃を握っていた。険しく食いしばった歯の隙間から、狼みたいな唸り声を上げて。
ギラギラと氷の刃のような目をする今の彼に。私の存在など、これっぽっちも見えていないのだろう。
「っ…………冴園さん!」
東雲さんが睨む先。そこには冴園さんの姿がある。けれど今の彼は、いつもの彼とは違う。
乱れた前髪の間から、ぞっとするような恐ろしい目が覗いている。理性と獣性の混じった瞳は、冷たい怒りを内に宿し、見る者の背筋を凍らせる。
喉を震わせて彼は笑っていた。相対する東雲さんの姿を見つめて。だがその声に優しさなんて感じない。どこまでも深く、ぐたぐたになるまで煮詰めた憎悪の感情のみを受け取ることのできる笑い声だった。
響く二人の声は、人間のものとは思えなかった。怒りと、悲しみと、絶望の入り混じった感情的な声は、人間のものというよりも、獣の声のような、そんなものだった。
二人は銃を撃ち合っていた。感情的に撃った弾はお互いの体を抉り、生命を奪おうとしていく。だが撃たれれば撃たれるほどに二人の動きは狂暴になっていった。肉が千切れ、あたりに血を飛び散らせているのに、二人の吠える声はより恐ろしいものへと変貌していく。
「何で美輝を殺したんだ! 答えろっ、佑!」
声が弓矢のように空気を裂く。慟哭に似た叫び声は、痛切に思いを訴える。けれどその叫びを受けた冴園さんは、その顔を怒りに歪め、東雲さん以上の怒号を放つ。
「お前のせいだろうが! 俺だってあの人のことを愛していた! それなのに……お前が、お前がいたから! お前が!」
肺の奥に絡み着いていく硝煙と血の臭い。地獄のような有様になっていく部屋の中で、東雲さんと冴園さんはお互いへと剥き出しの敵意をぶつけていた。
「絶対に許すものか! 殺してやる! お前を殺してやる!」
「やってみろよ! 俺よりずっと、弱いくせに!」
冴園さんの撃った弾が東雲さんの額の皮膚を切る。ごぷりと流れた血が、見開いた東雲さんの目を覆う。それでも東雲さんはまっすぐに冴園さんを睨み付け、吠えながら彼に飛びかかった。
東雲さんの銃の弾が切れる。何度引き金を引いてもその銃から弾は出ない。仕事中あれほど気にしている弾数さえ今の彼の頭では考えられないらしい。
東雲さんは銃を投げ捨てた。勢いを付けて冴園さんの顔を殴る。激しい衝撃に冴園さんの体が窓に叩き付けられた。彼は歯を食いしばって、落とした銃を拾うこともせず、東雲さんを殴り返す。
服も皮膚も破けて、拳に血が滲んでいく。乱れた髪からおぞましい瞳を覗かせて、互いに怒鳴り、傷付け合う。獰猛な獣の争いを見ているようだった。
「もうやめてください!」
これ以上見ていられなかった。あんなに優しい二人が、あんなに仲の良かった二人が、決別し争う姿を見ていることに堪えられなかった。
二人を止めようと駆け出した。けれど、目の前に姿を現したあーちゃんを見て、咄嗟に足を止め、後ろに跳ねた。振るわれたナイフが私の髪を引っ掻く。
「止めないで!」
「止めないでよ」
同じ言葉が重なった。あーちゃんはナイフで私に襲いかかる。鋭い切っ先を寸前のところで避け、構えたナイフで反撃する。けれどあーちゃんはひらりと私の攻撃を躱して楽しそうに笑っていた。
彼らのところに近付けない。焦燥する私の顔色を窺って、あーちゃんは馬鹿にしたように笑みを深くした。
「あなたが行ってもあの喧嘩は止まらないわ。ねえ、邪魔しないで。わたしと遊んでちょうだいよ」
あーちゃんが私の胸を蹴り上げる。よろめく私の体を押し倒し、彼女は私の上に馬乗りになる。見開いた目に、キラキラと光を受けて煌めく、凶器の切っ先が見えた。
「ああぁっ!」
咄嗟に突き出した手の平にナイフが貫通する。雷に打たれたような痛みに、体がビクンと大きく跳ねた。
手の平が燃えるように熱い。ぶるぶると震えて力が入らない私の手を、あーちゃんがナイフごとゆっくりと押してくる。切っ先は私の目と鼻の先まで迫ってきた。
溢れる血が腕を伝って、私の顔にボタボタと落ちてくる。舌先に滲んだ鉄の味が酷く恐ろしくて、私は痛みと恐怖に涙を流していた。
「どうして止めようとするの?」
あーちゃんがナイフの柄をもてあそぶと、手に鋭い痛みが走る。悲鳴を上げて苦しむ私を哀れんだ瞳が見下ろしていた。
「あなたもわたしと同じじゃないの?」
「…………?」
「頭のおかしいことがしたいんでしょ。許されないことをしたいんでしょ。好きに生きて、好きに暴れたいんじゃないの? だから、あなたはネコとして、人を傷付けているんじゃないの?」
「…………違う!」
「嘘つき」
吠えた私の唇を摘まんで、あーちゃんは笑った。冷たい声がキィンと耳の奥に染みる。
「この世界でのわたしの名前、チェシャ猫って言うのよ。可愛いでしょ。明星市っていう不思議の国の住民の名前」
「チェシャ…………」
「あなたはわたしと同じよ。誤魔化したって無駄。あなたも、不思議の国に迷い込んだ、頭のおかしい人間なんだもの。ねえ。アリスみたい。穴の底に真っ逆さまに落ちた気分はどう? あなたはこの世界が、楽しくて楽しくて、仕方ないんじゃないの?」
次々と流れる血が私の顔を濡らしていく。口端に垂れた血が舌に絡み、じんわりとした鉄の味を広げていった。
「人間は、他人を傷付けてはいけないの。殴ってはいけないし、蹴っても怒鳴ってもいけないの。おててを繋いで、仲良くしないと駄目なの。わたしの家族は、そう言っていた。知ってた? 普通の人はナイフで誰かを刺すことも、銃で撃つこともないんだって。血をみることもほとんどないんだって。でもわたしもあなたも、武器を持って、人を傷付けて生きている」
「……………………」
「どうして、自分が普通の女の子だって思ってるの? 自分がいい子だって思ってるの? 偽善な言葉ばっかり並べて目を逸らさないでよ。あなたはもうとっくに、頭がいかれた化け物なんだから」
「……………………」
「人殺しの仲間になって、人殺しの友達を作って、人殺しの男を好きになって。そんな人達に囲まれて幸せそうに笑ってるあなたが、一番狂ってる。自分が唯一穢れていない人間だとでも思ってる? 気持ち悪い。あなたが一番、おかしいの。壊れてる」
「……………………」
「ネコ。あなたが一番、この世界に相応しい。わたしとお友達になりましょ?」
私は何も言わず、無言であーちゃんの腹を蹴っ飛ばした。薄い体は簡単に私から引き剥がされる。どこにそんな力が残っていたのだろうかと自分でも思うくらいに、強い力だった。
咳き込むあーちゃんの前に立ち上がる。手の平から抜き取ったナイフの刃を、彼女に突き付けた。どぷどぷ鼓動のタイミングと共に流れる血がナイフを濡らし、あーちゃんの上に落ちていく。私を見上げたあーちゃんの頬が赤い点々で色付いていく。
「そんなのとっくに知ってるよ」
私がとっくに普通でないことくらいずっと前から気が付いている。
腕を振ればナイフの血が飛ぶ。ビタビタと床に落ちた血が、私とあーちゃんの間に線を作った。
灰色のパーカーはぐっしょりと血で重たい。刃物で裂かれ、繊維が解れた箇所から肌が露出している。滑らかな皮膚は引き裂かれ、捲れ、淡いピンク色を見せていた。痣だらけの足は所々が真っ赤に腫れ上がって熱を持っている。汗が傷口に触れるたび痺れるような痛みに悲鳴を上げたくなった。絶え間なく全身を襲う苦痛は、地獄の拷問を受けていると思うほどに凄絶だ。
痛い、苦しい、辛い。
でもそんなのどうでもいい。
「私達は壊れてる。殺し屋も、殺人鬼もどっちも一緒だよ。あーちゃんも冴園さんも狂ってる。そうだね、同じだね、頭がいかれてるってところは私達もあなた達も同じだ。……だけど一緒にはなれない。どれほど考え方や目的が同じでも、私達はあなた達と手を繋げない」
殺し屋も殺人鬼も明星市を救うことが目的だ。けれど、私達は冴園さん達のように、割り切った考えを持つことは決してできない。この街を救うために、大勢の人間を見捨てることはできない。
「私達はこの街の皆が大好きなの。だから、皆が死ぬのを目の前で眺めているだけなんてできない」
彼らがこの街の大勢を殺そうとしているのならば。それを止めなければいけない。
あーちゃんにナイフを振り下ろす。彼女は自分の手を突き出して、手の平で刃を受け止めた。私と同じ手の平から血が溢れる。けれど彼女は苦痛の色を浮かべず、大声で笑った。
「この街のため? それがこの街を崩壊させることだって分かってるくせに! 今まで通りに静観していたってこの街は変わらない。これからも多くの人間が死んでいくって分かってるくせに。今変わらないと滅びるのよ明星市は。わたし達を止めようとするあなた達こそが、この街にとっての悪なのに! 明星市にとっての敵は、あなた達なのに!」
彼女の笑い声はこの部屋に鋭く反響した。冴園さんが応えたように笑う。東雲さんが、苦しそうに唸る。
私はこの階に来るまで、今夜私達がここに来たのは、明星市を守るためだと思っていた。
だけど。この戦いに善悪を付けるのだとすれば。きっと、悪は私達の方だった。
明星市を本当に守りたいのなら。きっと冴園さん達の言う通り、この街を一気に変えようとしないと、意味がないのかもしれない。
それでも私は。
前髪を掴めば、固まった血がパラパラと落ちた。茶色く染まった髪の隙間からあーちゃんを睨み付ける。
私が壊れたのだとすれば、それは殺し屋になると決めた瞬間からだ。髪の色を黒から茶に変えたときから、私はもう後戻りできないほどに壊れたのだ。
最初っからぶっ壊れている明星市を、壊れた人達が治そうとして、それを壊れた人間が止めようとしている。
この物語は最初から最後までまともじゃない。
誰かが倒れる音が聞こえて、私はハッとした。
東雲さんが倒れている。彼は苦しそうに喘ぎ、目の前に立つ冴園さんを力ない目で睨み上げていた。咳き込んだ口からこぷりと血が溢れる。ボロボロになった体で必死に立ち上がろうとしているけれど、最早立つだけの気力もないのか、震える体は床に崩れたままだった。
冴園さんも血だらけの顔で東雲さんを見下ろしている。ふらふらと体をふらつかせ、肩で息をしながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。咲、と掠れた声で、彼は東雲さんを嘲笑う。
「昔、お前よく絡まれただろ。そのとき助けてやったのが俺だって、忘れた?」
「佑…………ぐっ、うぅ」
冴園さんはよろめきながら足元に落ちていた自分の銃を拾った。銃口が東雲さんの頭に至近距離で向けられる。
赤い血が彼の青髪を濡らして、不思議な色合いに乱していた。冷ややかな温度の炎が彼の瞳の奥で揺れている。高い鼻をスンと鳴らして、冴園さんは微笑んだ。それがあんまりにも美しく、今まで見てきた中で一番温かな笑顔だったから、私は思わず息を呑む。
「俺は皆の人気者になりたかったわけじゃない。ただ、誰かにとっての唯一の存在でありたかっただけなんだ」
絹のように滑らかな声で彼は話す。彼の声には、まるで頭を撫でてくれているかのような、優しい心地良さがあった。
「だけどその夢は叶わなかった。親にとっても、クラスの皆にとっても、菊さんにとっても。美輝にとっても。お前にとっても」
「……………………」
「最後まで俺は誰の一番にもなれなかったんだよ」
冴園さんはくしゃりと笑った。私は彼が泣くのかと思った。けれど彼は涙を流さず、ただただ悲しい顔で美しく笑うばかりだった。
代わりに、東雲さんがその顔を歪ませる。怒りの色が消え、どうしようもなく悲しそうな顔で冴園さんを見る。子供みたいな顔の幼馴染を見て冴園さんがその目を細めた。
「咲。俺の気持ちはお前にも分からなかったんだなぁ」
「……………………」
「誰にも分かってもらえなかった。こんなことになっても、最後まで」
「何で、言ってくれなかった」
「言えば美輝と俺を祝福してくれた?」
冴園さんの笑顔に、東雲さんは息を詰まらせたように表情を強張らせた。
今でも東雲さんは美輝さんに囚われている。夢に、幻覚に見ては、今だに苦しんでいる。彼は美輝さんを愛しているのだ。そんな彼が美輝さんのことを諦められるわけがない。
東雲さんが床を拳で叩きつけた。鋭い動きで、袖からナイフを取り出す。切っ先は冴園さんに向けられているものの、急所までは程遠い。それでも東雲さんはぶるぶる腕を震わせて冴園さんにナイフを突き付けていた。
「やれよ」
冴園さんが東雲さんの胸倉を掴み、強引に立ち上がらせた。その拍子に東雲さんの持つナイフが冴園さんの喉に薄い線を引く。たったそれだけで、東雲さんはビクリと脅えた。
冴園さんの銃が、東雲さんのナイフが、お互いの急所を狙っている。穏やかな顔の冴園さんの前で、青ざめた顔をした東雲さんは、ガチガチと歯を鳴らしながら手を震わせていた。
「殺してやるって言ってただろ」
「ふっ、う……ぐ…………」
「やれよ。殺せよ、オオカミなんだろ。殺し屋なんだろ」
「あ……あ、あ…………あぁ……」
やれよ、と冴園さんが吠えた。煮え切らない幼馴染を叱咤するように、彼は、吠えた。
「俺を殺せよ、咲!」
東雲さんが目を見開いた。初めて人を殺す人間みたいな、恐怖に歪んだ顔をして、東雲さんは目の前の敵に向かってナイフを振り上げた。
「うわあああっ!」
泣き声に酷似した激しい絶叫が響いた。
私は思わず目を瞑ってしまった。心が、目の前の光景に堪えられなかった。
すぐに目を開けた。ぼろぼろと勝手に涙が溢れ、視界が滲む。ぼやける視界の先に、俯く二人の姿が映る。
冴園さんの喉にナイフの先端が光っていた。肌からじわじわと血が滲んでいる。少量だった。命を失うには、あまりに少量の血だった。
ナイフの柄を握る東雲さんの手が激しく震える。とうとうその手は離れ、滑り落ちたナイフが床に転がった。
「嫌だ…………」
東雲さんは震える手で自分の顔を覆う。血の気が引いて真っ白になった肌が、彼の悲壮感を強く示していた。
「佑…………」
東雲さんは冴園さんの名前を呼ぶ。冴園さんはそれに答えず、無言で、東雲さんを見つめて立っていた。
冴園さんの指が引き金にかかる。
冴園さんは、悲しそうな顔を浮かべた。
「――――っあああああああ!」
私は絶叫しながら駆け出した。血走らせた目で、冴園さんを睨む。
あーちゃんが私を止めようと前に躍り出る。俊敏に突出してきたナイフが私の首を狙っていた。
私はまっすぐそのナイフに向かっていった。ザクリと激しい痛みが走り、彼女のナイフが首の皮膚を切り裂く。けれど同時に、私の突き出したナイフがあーちゃんの腹部に深々と突き刺さった。
「っ…………!」
あーちゃんの顔が苦痛に崩れる。力任せにナイフを引き抜けば、彼女の傷口から飛び出した血が私の顔にまで飛んでくる。
私はあーちゃんの体を突き飛ばす。彼女の体が転がるのも、冴園さんが僅かに見開いた目を私に向けるのも、スロー再生みたいにゆっくり見えた。
既に絶叫は言葉にさえならなかった。言語化できない狂った叫びを放ち、私は冴園さんに襲いかかる。
避ける余裕がなかったのか。それとも、あえて避けなかったのか。冴園さんは、まっすぐに私を見たまま、動かなかった。
もしも私達のしていることが無駄なのだとしても。もしも私達のしていることがこの街の闇を深めることになるのだとしても。
それでも私は。目の前の人達を一人でも多く助けたい。だから、今夜、ここに来た。
それに。
それにね。
東雲さん。私はあなたと一緒に帰りたい。
ただそれだけ。
「――――――――!」
咆哮が自身の鼓膜を激しく震わせる。
血だらけのナイフは、まっすぐに、冴園さんへ向けて振り下ろされた。