第153話 終わりのはじまり
「――――それから。あなたはどうしたの?」
と、少女は言った。
「頑張った。頑張ったよ、たくさんね。そうして俺はこの街の頂点に立った」
「なぁにそれ。急に曖昧ね」
「そうだね。さぁ、右足を出して。こっちにも包帯を巻くから」
少女の白い足を恭しく取って包帯を巻いた。赤く滲んだ血がじわりと白色を侵食する。しかし彼女は痛がる素振りを見せず、僅かな興味に笑みを浮かべ、俺の話に耳を傾けていた。
床に膝を突けば、上等な絨毯は柔らかく俺の膝を撫でる。部屋に漂うディフューザーの甘い香りが少女のコクのある黒髪に絡み着く。照明は自動的に程よい明るさで部屋を照らし、穏やかな夜の時を演出していた。
少女は部屋を見渡し、それから俺をちろりと見た。軽やかに瞬くまつ毛の下の、猫のような丸い目で。
「素敵な部屋ね。こんな高そうな部屋を買えたのも、あなたがたくさん頑張ったからってこと?」
「まあ、そうなるのかな。値段にそれほどこだわりがあるわけじゃないけれど」
「お医者様や弁護士でもないとこんなところ住めないわよ。隣の部屋の人は、どんなお仕事をしてるのかしら」
「フロアは全部俺が所有しているから、隣に人はいないよ」
うわ、と少女は興奮とも呆れともつかない声を出して、首を振った。
彼女はソファーから下りて窓へと向かう。ガラスに手を突き、眼下の光景に目を細める。タワーマンションの最上階から見えるここの景色は随分と見事なものだ。地上からは首が痛くなるほど見上げなければならないビルだって、ここからは簡単に見下ろすことができる。眩く光る建物の明かりが下に見え、上を見れば満天の星空の光が見える。美しい光に圧倒される景色だ。
「綺麗な街ね」
彼女が振り返る。夜の明かりに照らされて、その頬が白く輝いていた。妖艶と無邪気を混じり合わせた、酷く魅力的な笑顔で、彼女は言った。
「それで。あなたが今は、この明星市のラスボスってわけ」
俺は彼女の言葉に頷きも否定も返さず、ただちょっとだけ微笑んだ。
俺がこの街を変えると決めてから数年。俺はこの第十区の管理者となっていた。
何をした、何を努力した。そう聞かれてもハッキリとした答えは出せない。ただ頑張ったのだ。それはもう、色んなことを、頑張ったのだ。地獄を見るほどに。
人を支配するということは難しくもあり簡単でもある。幸いにして俺には人脈があった。人との関係を築くのも得意だった。それは表の社会だろうと裏の社会だろうと変わらない。
元々持っていた人脈を駆使して情報や道具を集めた。それから協力者を得て力を付けていった。多くの仕事に手を出し、この世界で生きる術を学んでいった。
思い出したくもないことを何度もした。今でもそのときのことを考えるだけで吐き気がして、叫びたくなる。そんなことを何度も何度も、何度も。そうして大人になって、どんどん第十区での名を上げていって。冴園佑、という人間の立場を確立させていったのだ。
大学を中退した。両親は俺のことを酷く怒ったが、同時に心配もしていた。けれどそれを機に俺は両親との関わりを減らした。今でもたまに連絡は取っている。だが最後まで二人に俺がしている本当のことを話すことは、きっとない。
友人達とは関わりを持ち続けている。けれどそれは利用という立場があっての関わりだった。彼らの交友関係や職業、情報を目当てにして俺は彼らに接触している。昔のように純粋に友達として遊ぶことはもうない。
そんな俺の変化にほとんどの友人は気が付かない。だがごくまれに、「お前なんか変わったよな」と言ってくる奴もいる。最後にそう言ってきた奴は、先週、第九区の川で溺死しているのが見つかった。
唯一今でも、純粋な友達として接しているのは、咲一人だった。
俺がこの街を変えようとしたきっかけになった咲。彼には、素直な気持ちで接することができる。彼もまた、俺にだけは素直な顔を向けてくれる。それが息苦しい毎日の中で、唯一、ちゃんと呼吸ができるときだった。
殺し屋になった幼馴染と、悪に手を染めてしまった俺と。俺達はお互いといるときだけが、安心できる。
それしかなかった。もう、それだけだった。
「寂しそう」
不意に少女が言った。俺は彼女を見た。
「寂しそうね、あなた」
「…………そう見える?」
「ええ。とても」
「…………可哀想?」
「さぁ?」
俺は笑って、彼女の体を見つめた。あちこちに巻かれた包帯と赤く腫れた頬が痛々しい。
今夜、第十区の路地で女の子を拾った。十代中頃の若い子だ。厄介な連中に文句を付けられ暴行を受けていた彼女を助けてやった。住居として使っているマンションへと連れてきて、手当てを施している。
手当ての最中、俺はこれまでの人生を彼女に話した。なんてことはない、気まぐれだ。誰にも話したことのなかった俺のこれまでの人生を、初対面である彼女に話してやった。
そういう気分だったのだ。今日は、いつもより星が綺麗だから。なんてそんな感じで。理由なんて特にない。
彼女は俺の話を黙って聞いていてくれた。時折面倒そうに自分の髪をもてあそびながらも、僅かな好奇心を散らした瞳は、最後まで俺を見つめていた。
これまでの生き方。そして、俺がこの第十区の管理者になったこと。それを最後まで聞いて、彼女は、ふぅん、とたった一つの溜息を吐いただけだった。
「手当ては終わり。今日は疲れただろ、ゆっくりお休みよ。そこのベッドを使っていいから」
「泊めてくれるの? あなたが寝てる間、金目の物を奪っていくかもしれないけど?」
「女の子を外に追い出すなんて、そんな真似はできないよ」
「へえ。優しいわね」
「明日になったら家まで送ってあげる」
遠慮なくベッドに飛び乗った彼女が、枕に沈めた顔から、嫌な視線を俺に向ける。露骨な不快感をその顔に表した彼女は苦々しい声で俺に言った。
「まさか。家に帰す? 冗談じゃない! 何のために、わたしが第十区まで来たと思ってるの?」
「何のため?」
「遊ぶため!」
パフ、と彼女の拳が叩き付けられた枕が深く沈む。子供っぽく唇を尖らせる少女に、俺は微笑んだ。
第十区には、家出をしてきた少年少女もよく訪れる。若い子が多い。何故ならば、彼らは自分の人生をより豊かにしようと願っているからだ。平凡な日常を逃れ、激しい刺激を欲している。第十区の刺激的な日常にあこがれを抱き、自らの意思でこの場所に訪れる。しかし大半は数日とたたず命を落とす。臓器を失う。四肢を失う。この街の刺激は、彼らには強すぎる。
彼女は枕に顎を埋めた。反抗的な目で俺を睨み上げる。
鋭い眼光は星屑のようにきらめいていた。意志の強い瞳で、彼女は空を見つめる。白い肌を黒曜色の髪が流れる。背中で遊ぶ毛先は、コシのある艶を放ち少しだけ跳ねていた。
目の前の彼女もただの家出少女だと思っていた。けれど第十区の洗礼を受けてなお、その瞳の輝きは保たれている。
「君を襲おうとしていた男達。あいつらは、君を捕えて売り飛ばす気だったんだ。体を売る商売だよ。ただの店じゃない。特殊な嗜好を持った客専用の店だ。そうなれば君は五体満足でいられなかったはずだ。言ってる意味、分かるかい?」
「わたしを幼稚園児と勘違いしてない? 分かってるわよ。それにどうせなら、一回どんな店か見てみたかった。捕まってもすぐ逃げ出せばいいだけの話でしょ」
「そう簡単に逃げ出せるようなところじゃない。現にさっきも、危ないところだったろう」
「あれは少し油断してただけ。警戒すれば、大丈夫」
俺は静かに息を吐いてソファーに背を埋めた。若い子特有の、無謀さ、というやつか。それとも。
顎に手を当てて彼女を見る。綺麗な子だ。白く滑らかな肌に、鋭利な瞳が刃のように光る。ツンと立った鼻は高く。頬は形良く、くっきりとした美しい輪郭をしていた。しかし鼻先と眉間に寄ったシワが、彼女の幼さを引き出している。女としての色気を振りまきつつ、幼い甘さが抜け切れていない、そんな少女だった。
美は時に良い商品になる。明星市では特に。第十区では、殊更。
けれどそれ以上に、強い意志は強力な武器となる。
「ご家族が心配しているだろう」
「なんで分かるの? うちの親のこと、知らないくせに」
「けれど娘の捜索願を出すくらいには大切に思っているんだろう。なぁ? 加賀美ありささん」
その名を呼んだ途端、パッと彼女は弾かれたように身を起こした。緊張に強張った眼差しで俺を睨む。けれどすぐに深い溜息を吐いて、ずるずるとまた枕に顎を埋めた。
第一区に住む十六歳、加賀美ありさ。先月末から行方知れず。家族が捜索願を出している。警察は事件に巻き込まれた可能性もあるとみて、調査を進めている。
そんな内容のニュースをこの間見た覚えがあった。一瞬だけ映った顔写真は、友達と笑顔ではしゃぐ、黒髪の女の子。俺はその顔を思い出しながら、目の前で俺を睨む、まったく同じ顔の少女に微笑んだ。
「形だけの捜索願に決まってる。わたしは絶対、あんな所戻らない」
「そんなに嫌なの?」
「…………連絡する気?」
空気がひりついた。警戒を孕んだ彼女の眼差しが俺の体をザクリと射貫く。俺は傍に置いた携帯を一瞥して、いいや、と首を振った。
彼女は警戒を崩さないながらも表情を和らげた。そして一変、おかしそうな笑みを浮かべ、演技がかった調子の声で俺に言う。
「あなたがお話ししてくれたもの。わたしもお話ししてあげる。わたしのお家の面白い話」
「へぇ、興味深い。どれ」
「昔々あるところに、あーちゃんという可愛い女の子が住んでいました」
そんな言葉から話し始めた彼女は、枕を抱えてごろりとベッドに仰向けになった。瞳が空を見つめる。カラリとした軽やかな声が物語を語る。それは先程俺が昔話を話していたときの声と、とてもよく似ていた。
「あーちゃんは好奇心旺盛な元気な女の子でした。いつも面白いものや楽しいことを探して、あちこちで遊んでいたのです。
けれど家族は、そんなあーちゃんを叱りました。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、あーちゃん、危ないことをして遊んではいけないよ。お友達と仲良く、いいことをして遊ぼうね。そうしないと優しい大人になれないよ。
あーちゃんは何にも分かりませんでした。何故皆が面白い遊びもせず、退屈のままに過ごしているのか、分かりませんでした。成長しても、あーちゃんは面白おかしく愉快に過ごしていました。そんな彼女を家族はずっと叱りました。あーちゃんは家族のことがいつしか嫌いになってしまいました。
あーちゃんは好奇心が旺盛なだけです。あーちゃんは学びたかっただけです。この世の中に面白いことってどれくらいあるんだろう、と。危ないお薬も、車の運転も、喧嘩も、盗みも、何だって。面白いのかなって、どんな感じなのかなって、知りたかったのです」
白いシーツの上に、彼女の黒髪が波を打つ。彼女のまつ毛が揺らめいて、仄かな記憶の欠片を少しずつ捉えては、舌に絡ませていた。
ソファーの生地がふくよかに俺の背を受け止めていた。ぽつりぽつりと生まれる思考を、笑みの仮面の下で整理する。そうしながら、無言で彼女の話を聞く。
「あるとき、怪我をして帰ってきたあーちゃんにお兄ちゃんが言いました。お前はもう少し落ち着きを持ちなさい。悪いことはしちゃ駄目なんだよ、父さんも母さんもお前を心配しているよ、と。お兄ちゃんは真面目な人でした。学校では、生徒会長を務めていたこともあるそうです。お父さんお母さんが大好きな、まっすぐで優しい人の見本でした。
だからあーちゃんはその晩、お兄ちゃんと、兄妹でしてはいけないことをしてしまいました」
少女はなんとも無垢な顔で笑った。妖艶を内に潜めた清楚な笑みは、きっとその晩兄へ向けた顔と同じなのだろう、と俺は思った。
「真面目なお兄ちゃんがいけないことをしてしまったらどうなるのか気になったのです。それから、説教されたのがちょっとムカついたから。
だけど何にも変わりませんでした。お兄ちゃんはわたしとのことはまるで悪夢を見ていただけだとでもいうように、ちょっとそわそわするくらいで、あとは何にも変わらなかったのです。お父さんとお母さんもちっとも息子と娘のことに気が付きませんでした。鈍い人達。
お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも。何をしたって、何にも変わらない。そのことにあーちゃんはようやく気が付きました。あーちゃんは酷く焦りました。このままここにいたって、ちっとも面白くならないとようやく気が付きました。
だからあーちゃんはおうちを出ていきました。もっと楽しいところに行きたかったのです。あーちゃんはこの街で一番たくさんのものがある場所を知っていました。危ない所だというのも知っていました。だから、そこに行こうと思いました。そこには自分の家族みたいな人は一人もいないと思ったから。わたしと同じような人がたくさんいるって思ったから」
パチンと彼女は手を叩く。話はそれでおしまいだった。
「…………なるほどねぇ」
彼女があの路地にいた理由をハッキリと理解した。
彼女は確かに明星市の人間で、そして、第十区に相応しい人間だ。
顔に影がかかって、彼女は視線を上げた。ベッドに腰かけて自分を覗き込む俺を見て、小さくその鼻を引くつかせる。
「この話を聞いても送り届ける? 絶対に嫌。わたしはここで過ごしたいの」
「だったら、俺と手を組まないかい」
彼女の顔に怪訝が浮かぶ。視線が、耳が、俺に向く。
「先も話したな。俺は今、この第十区の支配者だ。正直に言えば、俺にはまだ力が足りない。完全にこの街を支配するにはまだしばらくかかるだろう。時間と人手が必要だ。君の力を借りたい」
「……………………」
「君のような人間が必要なんだ。俺がこの街を完全に手中に収めるには」
彼女はじぃっと俺を見つめていたが、頬の空気をぷはっと噴き出して、嫌らしく笑った。
「嫌。誰かに命令されるの好きじゃないの。わたしに飼い猫になれって言ってるの?」
「いいや。野良猫のままでいいよ。俺の協力をしてくれるのであれば」
「そんなの、首輪の付いた野良猫みたいなものでしょ」
彼女が俺の額を指で弾いた。俺は苦笑して額を擦る。多分、ちょっとだけ赤くなっていることだろう。
彼女の目から好奇心の光は消えていた。ただ退屈がそこにあった。長いまつ毛が微睡みを帯びたように伏せられ、彼女の視線が枕に向かう。
細い手首を掴んだ。鬱陶しそうな目で、彼女は俺を見た。
「そうか。なら君の興味を引く言葉で誘ってみようかな」
「お好きにどうぞ。どうせなら、ロマンチックな言葉にしてよね。チョコレートみたいに甘ったるく」
「明星市をぶっ壊したくない?」
彼女のまつ毛が驚きに震えた。予想外の言葉に対する反応。俺の言葉に潜んだ甘い官能の響きを、彼女は確かに感じ取っていた。何を言う気かと、彼女の表情が語っている。
俺と彼女の間に距離はない。探る色を含めた視線が絡み着く。言葉は重厚に、濃厚に、お転婆な少女を闇へと誘う。
「俺達がずっと生きてきたこの街をさ、全部全部ぶっ壊して、まっさらにしてしまおうよ。大勢の人間をぶっ壊そう。殴るとか、刺すとか、そんな小さいものじゃない。全部だ。最初っから、何一つなかったみたいに、この街の全てを崩壊させてしまいたくはないかい?」
上品な誘いから一転下品な誘いへと変転した俺の言葉に、彼女は興味を引かれた様子だった。落差がある分、言葉はより濃密に彼女の心に沁み込んでいく。想定通りだった。
「君を押さえつけてきたものは何だ。この世の常識か? そんなもの唾を吐きかけてやれ。その常識ごと全てを殺せ。日常を好まない君が、そんなくだらないものに悩む必要なんてない」
「……………………」
「君は若い。柔らかな君の脳味噌は、多大な知識を取り込むことができる。君には学ぶ権利がある。勉学だけの話じゃない。金の使い方、遊び方、人の壊し方、薬の吸い方、人の殺し方。この世には何だって学ぶことがある。国語算数理科社会、それだけで満足か? いいや。いいや。君は、もっと学びたいのだろう。自分の人生を豊かにする勉強がしたいのだろう。だから、俺が教えてあげる。人生をより刺激的に過ごすやり方を」
「…………変な大人」
少女は笑った。俺の顔を自分の元に引き寄せて、唇に噛み付いた。生き物のように動く舌が俺の唇をこじ開ける。ぬるりと生温かな温度が口内で溶ける。
抵抗はしなかった。やめろと言って彼女を優しく突き放すことも、優しくその体を抱き寄せることもしなかった。満足した様子で唇を離した彼女が、変な大人、ともう一度俺を見て言った。
「ねえ。一つだけ聞かせて」
「何だい?」
「わたしが断ったらどうするつもりなの?」
「君を殺すつもり」
ベッドの隙間に転がしていた銃を抜く。抜いたときには既にその銃口は彼女に向けられ、安全装置は外されていた。
「君にはつい色々話しすぎてしまった。もし、友達に俺の話をしてごらん。とても恥ずかしいじゃないか」
気まぐれで彼女に俺の人生を語った。けれど、気まぐれに無事帰そうという気はなかった。もし彼女が俺の誘いに乗らなければ、明日の朝ご両親の元へ送ってあげようと思っていた。遺灰として。
彼女は向けられた銃口にごくりと唾を飲んだ。じわりと汗がその頬に滲む。けれど星の煌めきに似た好奇心の輝きは、失せることなく、彼女の瞳に散らばっていた。
彼女は逃げなかった。彼女は笑っていた。
「この街を支配して、それからどうするの?」
「変えるんだよ。全てを。この街が、平和な街になるように」
「…………救うために、支配するの?」
「ああ。この街を救うために、この街を壊すのさ」
「面白い人ねあなた」
「皮肉?」
「うん」
俺と彼女は顔を見合わせて笑った。笑いながら彼女は俺に抱き着いてきた。ベッドに倒れた俺の頬に、彼女はキスをする。子供みたいなキスだった。気分が高揚して思わずしてしまった、というような、子供のキスだった。
「いいわよ。うん、楽しそうじゃない。付き合ってあげる」
キラキラと彼女は目を輝かせて窓の外を見た。その目に映っているものは何だろうと思う。この街の夜景なのか。それとも、そこに映る、自分自身の姿なのか。
第十区を好む人間は頭がいかれている。常識から外れた快楽を好み、己の欲望に従って、ただまっすぐに突き進んでいく。それがどれほど危険で、痛くて、最悪なものだとしても。
いかれた奴らを使って、俺はこの明星市を、正しい世界へと変えたかった。
「そうとくれば、早速明日、君のことを皆に紹介してあげよう」
「他にもお友達がいるの? どんな人達?」
「皆いかれている。元男の美女、痛覚を知らない少年、六十年前から姿の変わらない奴、気狂い共の人形として育った女の子、暴力を支柱にして生きてる暴れん坊の女、とか」
「変な人達ばっかりね」
「面白いだろう?」
「とっても」
ああ、と彼女は高揚に溜息を吐いた。うっとりと熱を帯びた吐息が俺の耳にかかる。
夢を膨らませる人間は美しい。未来への熱に火照った頬と、艶めいた瞳が、息を呑むほどの輝きを放っている。俺には二度とできない顔を彼女は浮かべていた。
羨ましかった。
「わくわくしてきちゃう。まるで、不思議の国に迷い込んだみたいね。何もかもが新鮮で、ドキドキする」
「不思議の国ねぇ。なら、君のことはアリスとでも呼んであげようか?」
「いやよ。だって、目を覚ましたくないじゃない」
不思議の国。この第十区をそんな風に表現するのが面白くて、俺は微笑んだ。
確かにここは不思議の国か。常識では考えられないような出来事ばかりが起こって、奇妙な人間ばかりが暮らしている。
だけどこの街で生きていけるのは、きっとこの子のように、この世界から目覚めたくないと思っているような人間だけなのだ。
なあ咲ちゃん。俺達、一体いつになれば、この世界から目を覚ますことができるのかな。
…………なぁんて。
「だったら俺が、この世界で君に相応しい名前を付けてあげる」
「名前? どんな?」
「不思議の国の住民の名前。そうだな、君の新しい名前は――――」
「――――……チェシャ猫。準備はどう?」
「バッチリ」
チェシャ猫と呼ばれた少女は、屋上の縁からぷらぷら足を投げ出して答えた。
夏の温かな風がそよぎ、俺達の髪を揺らしていく。体は暑いはずだけれど、胸のうちは冷えていて、なんだか少し、寒かった。
ニヤニヤと笑う少女は下を見つめている。高層階のタワーの最下層、入り口付近に目をやって、陽気に声を弾ませている。
「そろそろかしら。そろそろね。もうすぐ、ここにやってくるのよね」
「ああ。さっきトカゲから連絡があった。もうじき、来るはずだ」
「トカゲは今どうしてるの?」
「死んだよ。連絡しても、出ない」
そっか、と少女は言って何事もなかったかのようにまた下を見てニヤニヤと笑っていた。
俺はその隣に立って上を見る。付近の建物はこの建物より低く、上空に障害物は何もない。都会の中で、こんなにも広い空を見上げることができるのは、ここだけだ。
満天の星空が俺を見下ろしている。零れ落ちそうなくらいの美しい輝きが、無機質に、けれど感動的に、視界いっぱいに広がっている。
細く吐いた息が空気に消えた。無意味に胸を押さえ、俺は隣の少女に声をかける。
「チェシャ猫」
「なぁに」
「どうしてこうなったんだろうな」
「あなたがこうしたんでしょ?」
思わず隣に視線を下すと、彼女は真顔で俺を見上げていた。一瞬の冷たい表情は、すぐに消えて、彼女の怪しい笑みがまた俺を見る。
俺は笑った。嬉しいとも楽しいとも悲しいとも思わずに、ただ笑った。
「…………もうじき相手はここにやってくるだろう。誘導は上手くいっている。殺し屋達を少人数に分け、各階で足止めをする。人員も配置済みだ。最上階への誘導は二人」
「オオカミとネコ。その二人だけを連れてくればいいんでしょ?」
「そうだ」
長い計画だった。詳細な計画を進めてから、約二年。計画の発案自体からは、約十年。
長かった。とても、長い計画だったよ。十年間ずっと、俺は、この日のために生きてきたんだ。
「ねえ」
「何だい」
「これでいいの?」
今度は俺が隣を見下ろす番だった。彼女が、まっすぐに俺を見つめている。だけどその顔は笑っていた。
彼女はどうして俺が今日という日を迎えることになったのか、その経緯を知っていた。今日まで俺の傍について協力してくれた。理由がただ、彼女の好奇心によるもので、俺の意思など、ちっとも関係なくとも。
さっきの質問と逆だった。俺はさっき自分が吐いた弱音を思い返しながら、微笑んだ。
「俺がこうしたんだよ」
風が吹き、髪をサラサラと撫でていく。
この街の星は美しい。毎日、俺達のことを見守ってくれている。星が美しい街、明星市。
俺はこの街が大好きだった。
「さあ、この街を救おうか」
これは俺が、オオカミとネコの敵になるまでの物語。
この街を救おうとした、一人の人間の物語だ。