第152話 お前がいてくれて良かった
二度とここに来ることはないと思っていた。
情報屋。俺が美輝を殺したとき、ホラ吹き男に連れてこられたあの場所に、今夜、俺は再び訪れている。
オレンジ色の照明が俺の肌をじんわりと照らす。握り締めた拳には汗が滲んでいて、いくら堪えようとしても、全身の震えは押さえられなかった。
あのときはソファーに座っていたけれど、今の俺はカウンターに着き、テーブルを挟んで店主と向かい合っていた。
「それで、依頼は死体の隠蔽でお間違えは?」
「ない。隠してくれ。死体も、咲が人を殺したという事実も」
あのときの老人は既に姿がなく、オレンジ色の髪が目立つ若者がカウンターに立っていた。
バーのような店内。しかし店内の壁や床、目を凝らせばいたるところに、煤けた痕や弾痕らしきものがある。それがこの店が普通の店じゃないことを、平凡に暮らしている人間ならば決して関わってはいけない店だということを表していた。
「今は俺が跡を継いでる。じいちゃんは引退したよ。腰痛のために湯治に行くって言ってたから、今頃温泉でのんびりしてるんじゃないかなぁ」
俺の視線に気が付いた若者はそう言ってケラケラと笑った。生憎今の俺は、ちっとも笑顔を浮かべることなんてできない。硬い面持ちで彼を睨んだ。
「そう怖い顔をするなよ。安心しな、依頼は完璧にこなす。血の一滴すら残さない」
それにしても奇妙な縁だなぁと若者は肩を揺らした。
「一年前にあんたが女を殺した。それが巡り巡って、あんたのご友人が人を殺す原因に繋がった。繋がってるよ。ぐるぐるって」
「……………………」
「殺人の原因の大半は情によるものだ。怒りとか、悲しみとか、そういうものが原因で皆、人を殺すのさ。人の感情は繋がっている。誰かの喜びが、誰かの怒りに繋がっている。逆もある」
「…………訳が分からないことを言うのはやめてくれ。それで大丈夫なんだな? 咲が人を殺したという事実は、消えるんだな?」
「俺は死体と証拠を消すまでさ。罪までは消せない」
若者はカウンターに身を乗り出して微笑んだ。そんなに泣くなよ、と彼はさっきからずっと涙を零し続ける俺に言った。
「一年前、あのおっさんも言ってたよな? 一度人を殺したらもう終わりなんだよ、って。あのときからもう戻れないよ。あんたも。……ようこそ情報屋『お喋りオウム』へ。店主の如月当真が、あなたのご依頼をお聞きします」
如月のオレンジ色の髪が、サラリと肩に流れた。
寝耳に水、藪から棒、青天の霹靂。今の状況はそんな言葉で表せるだろうかなんて、そんなことを考えていた。
ちょっと転んで血が出ただけでも慌てる咲。俺が喧嘩をしたと聞けば真っ青な顔をしていた咲。虫だってビクビクしながら逃がしている彼が、人を、人間を殺した? なんだよそれ。エイプリルフールはとっくに終わっているだろうに。
暴力と無縁の世界に咲は立っている。そんな彼がまさか。冗談だって、嘘だって、死体の傍に蹲る彼を見つけるまで心の底から信じていた。
「さえぞの」
俺に気が付いた彼は呆然と名を呼んだ。紙のように顔を真っ白にして体を震わせる姿は、蒸し暑い夏の夜に、まるで幽霊のように見えていた。
両手は真っ赤に染まっている。ぷぅんと鉄の臭いが風に乗って、生臭く俺の鼻を突いた。
咲の傍には一人の男が横たわっている。胸にべったりと広がった血の量が、男はもう手遅れであることを証明していた。
「……………………」
お互いに何も言えなかった。俺は乾いた笑いを吐き出し、崩れ落ちる。汗で濡れた肌にチクチクと草が刺さる。何度も首を振って、目の前の死体を視界から消そうとした。けれど何度やってもどうしたって死体は消えやしなかった。当たり前だ。現実なのだから。
咲の目は俺を捉えているようで捉えていない。呆然と空を見つめるその瞳があまりにも怖くて、俺は強く肩を掴んだ。ビクリと一度肩を震わせた後、咲は堰を切ったように泣き出した。
「ああああっ! わぁ、あ、あああっ!」
住宅街から離れた高台。人気はないものの声が響いてはまずかった。咄嗟に咲の顔を自分の肩に引き寄せる。熱い涙で濡れていくシャツに、心臓を締め上げられるような苦しみを感じた。
泣き虫だった彼の涙を見たのはこれまでに何度もあった。けれど成長するにつれて、彼が人前で涙を流すことは減った。それに、これほどまでに絶望した咲の涙を見るのは、初めてのことだった。
必死で彼の背を擦り、大丈夫だから、大丈夫だから、と繰り返し言い聞かせた。その言葉にはなんの力もない。何一つ大丈夫なわけがないのだから。
「こっ、殺したんだっ、殺してしまった……! 俺は、人を、殺したんだ!」
涙交じりに咲は吠える。人を殺したんだと言うたびに、咲は涙を流して唸った。
抱きしめた彼の背中は小さかった。こんなにも弱った咲の姿を見るのは初めてだった。俺が守ってやらなくちゃ。今の咲を、俺が。
「大丈夫だ、何とかするから……! お前は何も心配しなくていいから! 俺が何とかするから!」
どうして咲はこの人を殺してしまったのか。どうしてこんなことになってしまったのか。分からない。
本当は親友であるならば、自首を勧めるべきだったのかもしれない。一緒に警察に付き添ってやるべきだったのかもしれない。だけれども俺にはどうしてもできなかった。
震える咲の肩越しに死体を見る。心臓が痛いほどドクドクと脈打っているのは、緊張もあるし、不安もあるし、恐怖もあるし。そして、死体の顔を見たからでもあった。
死んでいたのは、高校時代にバイトをしていたあの荷運び屋の、店長だった。
根元始。俺がバイトとして勤めていた店の店長で、俺が美輝を殺すきっかけとなった人で、咲が殺した人間の名前だ。
繋がってるよ、とあの情報屋は言っていた。その通りだ。全て繋がっている。
最初は俺だった。俺が美輝を殺したことが始まりだった。咲が勤めた薬局の店長と根本は違法薬物の売買で繋がっていた。咲はその取引に無理矢理関わらせられ、そこで、根本から美輝の死を聞いた。失踪したと思っていた恋人の死に、冷静でいられるはずはないのだ。激高した咲は衝動的に根元を殺害した。そんな偶然。そんな繋がり。
なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。笑ってしまう。原因、きっかけ、何が問題で、何がどうしてこうなったのか。明確なものはないのだろう。それでも。それでも強いていうのならば、元凶は俺なのだ。俺が美輝を殺したことで全てが壊れてしまったのだ。
俺はどうして美輝を殺したんだろう。
ぼんやりとした不安や寂しさに耐えきれずに、殺してしまったんだったっけ。
そんな曖昧な理由で、俺は、咲は、二度と戻れない領域まで転がり落ちてしまったのか。
はは、笑える。
人が毎日のように殺されるこの明星市で、殺人という罪の重さは、人々の間で麻痺していた。
だけど自分がその立場になってみてようやく分かる。人殺しって、こんなにも重いことなんだな。
自分の部屋。ベッドに寝転び無言で窓を眺めていた。とっぷりと深い闇が世界を覆っている。何かをしなければならないような焦燥感と、何もしたくないという堕落がせめぎ合っていた。
咲が人を殺してから数日がたっていた。あの後俺は、昔一度だけ足を踏み入れた情報屋に再び来訪し、死体の隠蔽を依頼した。翌日現場に戻ったとき、根本の死体は既に消えていた。ニュースにも流れない。全てはなかったことになったのだ。俺と咲の罪の意識を除いて。
金を、払わなければならなかった。死体の隠蔽に対する依頼金を。思っていたよりも高額だったけれど、なんとか工面することはできそうだった。これまでのバイト代や、両親に頼み込んだ仕送りなどで。
電話が鳴った。飛び起きて画面を見て、咲からの着信であることにほっとして電話に出た。
「もしもし、咲ちゃん? どうしたの」
『冴園…………』
電話の向こうで咲が、申し訳なさそうな声で、俺を呼ぶ。
「まだ上手く眠れないのか? 今から、そっちに行こうか」
人を殺して以来、咲は上手く眠れていないようだった。眠ろうとしても時間がかかったり、悪夢を見て飛び起きる。菊さんが亡くなったときも上手く眠れていなかったっけ、と思う。今回は、そのとき以上に睡眠を取れていないようだけど。
『少し声が聞きたくて』
咲の言葉に俺は笑った。決して馬鹿にしているわけではなく、逆に、安心させようと思っての笑いだった。
彼の声は弱々しくて、俺が見捨てれば、今にも消えてしまいそうな声だったから。
少し話そうか、と俺は他愛もない話を咲に振った。
「――――で、特集見たらさぁ、ハワイ旅行行きたくなっちゃったんだよ。海が最高に綺麗でさ。透き通った青色がどこまでも広がって……夕方になると、夕日がまるで宝石みたいに、海いっぱいに輝くんだ。天国ってきっとあんな綺麗な所だぜ」
「うん…………うん。いいなぁ。海、行きたいなぁ」
「行こうぜ。今、夏だし。泳ぎに行こう。ハワイは無理でも、近くなら行けるだろ、なぁ」
俺はべらべらと話を捲し立てながらベッドから起き上がる。部屋を出て、玄関へと向かった。
隠しているつもりか? 咲。お前、声が震えているぞ。
「夏っぽいことしよう。祭行こうぜ。プールとか、海とか。俺の大学の奴らとバーベキューしない? そいつらも絶対、咲ちゃんのこと気に入るって。皆で肉焼いて食おう。それとも登山でもしてみる?」
電話を切られることが怖くて、話が途切れないようにと必死に舌を回した。
怖い。この電話が終わったら、咲が消えてしまうんじゃないかって、いなくなってしまうんじゃないかって、怖い。
咲の家に歩を進める。声だけで笑って、顔は引き締めて、汗の滲む拳を握った。
夏のぬるい空気が肌の上で震える。ジージーとどこからか聞こえる虫の声が鼓膜を削り、鳥肌を立たせた。両耳がカッカと熱くて、喉の奥は冷たかった。
体中が警戒を発している。電話から聞こえてくる幼馴染の声に強烈な不安を抱いている。
妙なことは考えないでくれ。頼むから電話を切らないでくれ。
『…………ありがとう、おかげで楽になった』
必死に願うのに、無常にも咲は通話を終わらせようとしている。足を速めた。ここから咲の家まであと何分かかる。
「それは良かった。眠れなかったら、また電話しろよ」
そう。お前が悩んでいるのなら、いつでも付き合ってやるから。何度だって家に行ってやるから。待て。待ってくれ。待てって、おい。
切るな。頼むから、切るな。
『…………冴園』
「ん?」
『ごめん』
プツンと通話が切れた。その瞬間、俺は全力で走り出した。
「咲っ!」
大声で彼の名を呼んで、誰もいない夜の道を猛ダッシュで駆け抜ける。
虫も殺せない優しい幼馴染。彼がやってしまった人殺し。夜中の電話。震える声と、何かを決意したような、ごめんという謝罪。
それから導き出した想像は一つしかなかった。
死なないでくれ、咲。
咲の家はもぬけの殻だった。畜生、と叫んで俺は夜の明星市を走り回る。商店街を通り、歓楽街を走り回る。道行く人々の奇異の視線など気にもならなかった。
闇雲に探していても時間が過ぎていくばかりだと分かっている。俺は車道に飛び出して、ちょうど発進しようとしていたタクシーを止めた。汗だくの俺に運転手は不審な表情を浮かべたものの、目的地を告げると無言で走り出した。
第七区の風俗街。今宵も街には生々しい男女の性の匂いが漂っている。その中を一人、必死の形相で駆け抜けていく俺は、彼らの輪から大きく外れていた。
狭い路地に落ちていたゴミを踏んづける。ケチャップの入った容器が潰れ、ズボンの裾が汚れた。肩に蜘蛛の巣が引っかかる。汗まみれの頬に埃がべたりとくっ付いた。
『お喋りオウム』と書かれた看板が光っている。扉を開けることに躊躇いはなかった。ノブに手をかけ、捻り、俺はこっちの世界から裏の世界へと勢い良く飛び込んだ。
「人を探してるんだっ!」
キィ、と扉が俺の叫びを笑うように鳴いた。
ジャズの流れる静かな店内に俺の荒い呼吸が虚しく流れる。カウンターに座る如月は突然飛び込んできた俺に驚く様子もなく、ようこそ、と呑気に手を振った。
「人をっ、探してる。東雲……幼馴染の……あ、あいつ、あいつだ。この前、殺人の隠蔽を頼んだ……急に連絡が付かなくなって。あいつ、死ぬ気かもしれなくてっ」
急く思考は鈍い舌に絡みつくばかりで、喉の奥から上手く言葉を発することができなかった。
それでも情報屋である男は俺の意図をハッキリと理解した様子で、薄く笑む。
「彼の居場所なら知っているよ」
「本当か!」
「今、仕事を任せているところだ」
換気扇がごぅんと回った。その音が一周する間、俺は間抜けな顔でその場に突っ立っていた。
「……………………は?」
「だから。今、仕事を任せているところだって」
「は。いや…………何」
曖昧に笑った俺に、如月は微笑んだ。徐々に俺の笑顔は崩れて強張っていく。流れていた汗が急速に冷えていって、肌に不快感をまとわりつかせた。
思考が固まっていく。焦燥感が消えていく。代わりに、不安が沸き上がる。
「死体の隠蔽。支払いがまだだったろう。その金を稼いでもらうために、君の幼馴染くんには今、働いてもらっている」
「仕事って」
「人を殺すお仕事さ」
カウンターに飾られていたガラス製の飾りが落ちて、割れた。破片が俺の靴底でパキリと砕ける。カウンター越しに如月の胸倉を掴んだ俺は、腹の底から膨れ上がった怒りを爆発させた。
「ふざけんなよ!」
怒声はマグマのように煮え滾っていた。後から後から湧き上がる激情を、怒鳴り声にして吐き出す。
「あいつに何をさせてるんだよ! 金は払うって言っただろ! ふざっけんなよ、お前……ふざけんなよ!」
「金のやり取りは長引くほど面倒になる。情報屋として、すぐにでも支払いをしていただきたかったものでね」
「なら俺に言えばいいだろ!? わざわざ咲に人殺しなんかさせるな! あいつにやらせるくらいだったら、俺がやる!」
「けれど殺しの技術は幼馴染くんの方が上だ」
胸倉を掴む手を振り解いて、如月は俺の胸を突き飛ばした。冷ややかな笑顔で俺を睨む。俺とそう歳の変わらない男が話す言葉は、やけに重かった。
「胸に一発。彼が人生で初めて殺した男は、その一発で死んだ。見事なもんだよ。怒りで衝動的に撃ったにしては、あまりにも綺麗な撃ち方だったからな。衝動的に殺したなんて嘘で、本当は最初から狙っていたんじゃないかって思うくらいに」
「咲はそんなことしない! 咲は、人を殺したくて殺したわけじゃない!」
「ああ。だから試したかった。彼に人殺しのセンスがあるかどうかを。今夜の仕事は勿論依頼金の支払いのためだが、それだけじゃない。彼の腕前を見たいのさ。彼も快く引き受けてくれたよ」
足からすぅっと力が抜け、俺は倒れ込むように椅子に腰かけた。唖然と如月を見る。目まぐるしく変わる俺の表情と対照的に、彼の表情は変わらなかった。
「あんたも色んなバイトを経験したなら分かるだろう。今はどの仕事だって人手不足だ。裏の社会だってそれは同じこと。依頼されて人を殺す……まあつまりは殺し屋だな。そこも、人手が足りてないんだよ。次々死んでいくから」
彼はどうだ、と如月は言った。
「今夜、彼が仕事を達成したとしよう。そうなれば彼には殺し屋の素質があるってことになる。こっちの仕事を手伝ってもらうことになるよ。無事、再就職先が決まるってわけだ。めでたいことだな」
「何が……めでたいんだよ…………」
「どうせこれまでやってた仕事だって続けられないだろ? 給料だって、そこよりは随分と厚遇なはずだ。なにより、大切な親友くんが自殺するよりは良かったんじゃないのか?」
カウンターの上で拳を握る。そうだ、俺は最初、咲が自殺をしてしまうんじゃないかと思ってここに来た。だがいざ来てみたらどうだ。咲は今、新たな殺人を強制されている。
死んでほしくなかった。だけどこんなの、咲にとっては、死ぬ以上に辛いことのはずだ。
奥に置かれた電話が鳴った。如月は俺から視線を離さないまま受話器を取った。一言二言話した彼は静かに受話器を置いて、俺に向かって笑顔を浮かべた。
「おめでとう。君の幼馴染くんは、見込みがあるよ」
その言葉は、咲が無事に生きていることの証明でもあり。
咲が、これから地獄へ叩き落されることの証明であった。
「っ……………………」
髪を搔き乱して項垂れる俺の肩を如月が撫でた。慰める、という意味合いではないのだろうと、カウンターを涙で濡らしながら思っていた。
一度人を殺したらもう終わり。何度も聞いた言葉を思い出して、俺はずっと泣いた。
咲が人を殺したことも、俺が美輝を殺したことも。夢だったら良かったのになぁ。
「俺は人を殺している」
向かい合って座る咲に、俺はそう告げられた。
窓を閉め切った部屋は蒸し暑く、けれど俺と咲の間の空気は、鳥肌が立つくらいに冷たい。
コップに注がれたお茶の氷が溶けていく、カランという音が、静かな部屋に目立った。
「人を、殺しているんだ」
咲はもう一度言った。俺は何も答えず、まっすぐに彼の目を見つめた。彼もまた、まっすぐに俺を見つめ返す。その瞳に光はない。目の下のクマは色濃く、彼の相貌に冷たい印象を与えていた。
「殺し屋として生きている。毎晩のように、人を殺している。一昨日も殺した。定年間近の男だ。部下から相当恨まれていたらしい。正面から撃った。誰もいないビルに連れ込んで撃った。彼には家族がいた。奥さんと、娘さんだ。中学三年生の」
テーブルの上に置かれているのは、お茶の入ったコップと、一丁の銃だ。照明の光を受けて、僅かに血の付着した黒色が、ぬらりと生々しく光っていた。
俺は突然咲の家に呼ばれて、殺人の告白をされている。驚くことも嘆くこともせず、黙って咲の顔を見ていた。咲はそんな俺に何の反応も示さず、淡々とした声で自身の罪を告白する。
たった少しの間に咲は変わっていた。その表情から笑顔はすっかり消えている。深く刻まれたクマは痛々しいくらいで、血の気が引いたような顔色は、不安と恐怖を呼び起こす。その中で一際目立っているのが彼の瞳だった。元から鋭かった目付きは、更に壮絶な威圧感を放っている。氷のナイフみたいに鋭く、肌を裂くような視線は、見慣れているはずの俺でさえ、恐ろしいと思った。
今の咲は恐ろしかった。
「殺し屋なんだ。俺は」
ぽそりと言って、咲はそこでようやく笑った。けれどその笑顔が一番恐ろしくて、俺は思わず膝を握り締めた。
咲は殺し屋になった。それを俺は、今日初めて彼の口から告げられた。目の前に座るのはただの幼馴染ではない。人を殺している、殺し屋の男だ。
「咲」
ピクリと彼の肩が動く。一瞬だけ顔を強張らせた咲が、何だ、と不愛想に言った。
「最近、眠れてる?」
「…………は?」
「眠れないんだろ。そんなに眠そうな目しちゃってさ。もー、体壊すぞ。そんなんじゃあ」
想定外の言葉に咲は戸惑った顔をする。そんな彼の手を引いて立ち上がり、無理矢理にベッドの方へと引っ張った。おい、と不服に声を上げつつも、咲は俺の手に引かれるままだ。
咲が殺し屋として生きていくことを決心した。そのことは、情報屋から聞いて知っていた。
幼馴染として、親友として、俺にはすべきことがあったのだろうか。咲は俺にしてほしいことがあったのだろうか。警察に一緒に行ってほしかったのかもしれない。自分のことを殺してほしかったのかもしれない。
だけど俺はそんな大きな責任から目を逸らした。今の俺が一番気になっていたのは、彼の目尻にある深いクマだった。
咲は心が弱いから。すぐに眠れなくなってしまう。菊さんが亡くなったときも、美輝がいなくなったときも、彼は上手く眠れていなかった。今もきっと。長い間、上手く眠れていないに違いない。
「ほら詰めて詰めて。わー、やっぱせまっ。でっかいベッド買おうぜ」
「何でお前まで……馬鹿じゃないのか…………」
ベッドに無理矢理咲を押し込めて、俺も隣にダイブする。大柄な男二人が飛び乗ったベッドは悲鳴を上げて、その音に俺はわざとらしいくらいに大声で笑った。
「あっつ、せっま。ふふ、真夏に男二人で、馬鹿みたいだなぁ」
「っ、佑。誤魔化すな。俺は、人殺しを……っ」
「咲」
電気を消せば、窓から差し込む月明りが咲の頬を青白く照らす。今夜は満月だ。月光に光る咲の黒髪をくしゃりと撫で、その背を優しく叩く。
「大丈夫」
だいじょうぶ。
だいじょうぶ。
「……………………」
「よしよし。大丈夫だよ、咲」
「……………………ふぅっ」
咲の顔がぐしゃりと歪む。潤んだ目から大粒の涙が零れ、ようやく、見知った幼馴染の顔がそこに現れた。
殺し屋でもない、大人でもない。泣き虫な親友の、ぐしゃぐしゃの泣き顔だ。
「ううぅっ、佑、ゆぅ……! うわああぁ、ああぁん、あああっ」
咲は子供みたいに声を上げて泣いた。俺の服に縋り付いて、涙でシャツを濡らしていく。
真夏に大の男が二人並んでいるのは、暑苦しくてしょうがなかった。汗だくになりながら震える咲の体を抱きしめる。何度も耳に反響する悲痛な泣き声に、胸がズキズキと痛んだ。
「やだよぉ、やめたいよ、こんなこと。なんで殺しちゃったんだ。なんで。戻りたいよ。昔に戻って、ずっと三人でいたいよ。ばあちゃん。なんで死んじゃったの。寂しいよ。怒ってくれよ、今の俺を。いやだよ。もうやだよぉ」
俺達の傍から皆いなくなった。菊さんも、美輝も。大切な人はどんどん消えていく。残った俺達は、ずぶずぶと泥濘に沈んでいく。起き上がれない。岸には戻れない。
咲はずっと抱えていた後悔を叫んだ。泣き叫んで、自分の罪から逃げ出そうともがいていた。みっともなく、子供っぽく、ただ目の前の俺に縋り付いていた。痛々しい。悲しい。可哀想で可哀想で、もう、俺は咲に言ってしまいたかった。
いっそ俺達も死んでしまおうか。なんて。
咲の泣き声は段々弱くなっていく。泣き疲れたのだろうか、これまでの疲労が押し寄せたのだろうか。微睡みに濡れたまつ毛を震わせて、彼は深い呼吸を繰り返す。
「咲。大丈夫だよ。安心して眠りな。大丈夫、俺がいる。怖い夢なんてなにも見ないよ」
そう言って背を叩くと、咲はほっとしたように小さな笑みを浮かべた。緩やかにその目を閉じる。目尻を潤ませていた雫が一滴、頬に流れた。
「佑」
「ん?」
「…………お前がいてくれて良かった」
咲はそう言い残して、小さく息を吐いた。すぅ、と寝息が聞こえ始める。胸に縋り付いていた指から力が抜け、シーツにぽそりと落ちた。
俺は動けなかった。目を見開いて、眠る咲をじっと見つめた。
「……………………ぁ」
お前がいてくれて良かった。
「…………っ、あ…………ぁ」
駄目だ。堪えろ。咲が起きるだろ。泣くな。
「っ、っう。あ……ぐ…………」
俺はそうっと自分の口を手で覆って、泣き声を飲み込んだ。鼻の奥がツゥンと熱くなる。視界がぼやけて、涙がボロボロと落ちていく。
お前がいてくれて良かったって、咲は、俺に言った。咲の人生を台無しにした元凶である俺に。
咲の人生をここまで狂わせたのは。俺なのに。
「うっうぅぅ…………ふっ、ふぅっ……!」
ぶるぶると体を震わせて俺は泣いた。声を殺して泣き叫んだ。悲しみは溢れて止まらない。目の前で安心しきった顔で眠る咲を見るほどに、涙が生まれる。
違うんだよ咲。違うんだ。俺がいない方がお前は幸せだったよ。俺が美輝を殺したから。お前は、お前は。
きっと俺達、友達にならない方が幸せだった。
「っ……………………!」
喉の奥で叫んだ。シーツを涙でぐしゃぐしゃに濡らした。
咲、どうか起きないで。今の俺に気が付かないで。だけどどうか、ああ、気付いて。
お前の全てを奪ったのは、お前が一番信頼してくれている、俺なのだと。
起き上がった咲が眠たげに目を擦った。彼はぼうっと窓の外を見て、そこから差し込む陽光に目を細める。
「おはよう咲」
振り返った咲は、フライパンを持った俺を見て笑った。テーブルに並べた皿に目玉焼きを乗せる。トーストでいい? と聞いた俺に頷いて、咲は言った。
「おはよう、冴園」
彼の目の下のクマは、薄くなっていた。
「ああ、最近はよく来るねぇ」
情報屋の扉を開けると、如月はそう言って俺に笑った。
簡単な挨拶を返してカウンターに座る。オレンジ色の髪を揺らして、如月は軽い調子の声で言った。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
「色々と教えてほしいことがあって」
「ふぅん。どういった? また、死体の隠蔽でも頼みに来たのかな」
「明星市の犯罪について。明星市の、裏の社会について、情報をできる限り」
如月の体の揺れが止まる。彼は顔色を変えて、まじまじと俺を見た。静かな視線は、情報屋の視線だ。裏の世界に住む者の視線だ。
俺は怯えない。まっすぐにその目を見つめ返し、真剣な眼差しを向ける。
「どうして?」
「これから必要になるからだ」
俺は視線に力を込めた。如月の表情が変わる。
彼の目に映った俺は怪しい顔をしていた。怪しく恐ろしい男の顔だった。
きっともう、子供のときみたいな無邪気な笑顔は浮かべられない。
「――――この俺が、明星市を変えてやるよ」