第151話 彼女の気持ち
「美輝。美輝、起きろよ。美輝」
倒れる美輝の体を揺すっても、彼女は目を開けない。彼女の血で俺の手の平も真っ赤に染まっていく。青ざめた顔で俺は何度も彼女に呼びかけた。
どうする。こんなときは、何をすればいいんだっけ。あ、そっか、救急車だ。治さないと。助けないと。美輝、血だらけだから。
「何番だっけ? 救急車。携帯。電話しないと。救急車」
落ち着かないと。冷静にならないと。携帯を取り出そうとして、手が滑って地面に落としてしまう。慌てて拾って、電話を開こうとしてメールを開く。冷静にならないと。
血と汗で指が滑り、違う番号ばかり押してしまう。
「きゅ、救急車。早く……あ、あぁ…………なん、何番、番号…………」
頭の中は段々白くなっていき、手の震えが酷くなっていく。また携帯を落としてしまった。拾おうとするも、酷く震える指先は携帯を掴むことすら上手くできなくなっていた。
「どうしよ。美輝。ねえ、どうしよぉ…………」
俺は美輝に縋り付いて、みっともない声で泣いた。こうして縋れば美輝が助けてくれるんじゃないかなんて本気で思っていた。震えて真っ白な俺の指先よりも、美輝の肌の色の方が、ずっとずっと白くなっていることに、気付かないフリをしていた。
「――――おい!」
突然大声が響いた。ひ、と息を呑み、恐怖に心臓が潰される。歯を鳴らしながら振り返った俺は、すぐそこに立っている男を見た。
バイト先の男だった。さっきも会った、あの男だ。
俺は近付いてくる彼から目を離さなかった。彼は大股にこちらに歩み寄り、俺と、俺が抱えている美輝を見て顔色を変えた。
「やったのか。お前、やったのかっ!」
「あっ、ひ、ひぃっ……、ひっ」
ガクガクと体を震わせて、俺は男を見上げた。必死で指の震えを押さえて携帯を男に差し出す。
「きゅ、救急車。呼んで。くださっ」
「……………………」
「美輝、死んじゃ、助けて。死んじゃう。助けて、美輝っ、助けてくださいっ、ひ、ぅ」
「……………………もう駄目だ」
「おねがっ、します。死んじゃう。やだっ、血、いっぱい、このままじゃ……」
「意味がない」
しゃがみ込んだ男は美輝の瞼をそっと下した。キラキラと光る星が見えなくなる。
呆然と男を見て助けを乞い続ける俺に、彼は静かな声で言い聞かせた。
「もう死んでる」
頭が、全力でぶん殴られたかのように痛くなった。意味もなく何度も首を横に振る。次々溢れる涙が視界をぼやけさせ、空気が詰まったみたいに閉じてしまった喉は、酸素を上手く取り込めず、ひぃひぃと情けない声で鳴いていた。
「ひっ、あっ、ひぃっ、ひっ、ひ」
「落ち着け。深呼吸しろ。焦るな、余計に悪化する」
「ひっ、ひぃ、ひっ。ひっ、うううぅぅっ…………!」
「ゆっくり息を吐き出すんだ。大丈夫だから、ゆっくり…………おいっ!」
銃を拾い上げてその銃口を自分の口に突っ込んだ。引き金にかけた指を思いっきり引こうとする。けれど男が素早く俺を殴った。銃は弾き飛ばされ、飛び出した銃弾は耳鳴りを残してどこかへと飛んでいった。
泣きじゃくりながら銃が飛んでいった方向へ手を伸ばした。ぬるり、と手が濡れたものに触れる。恐る恐る見た先に、美輝の体があった。血に塗れた彼女の体が。
まだ仄かにぬくもりは残っているのに。さっきまで確かに感じていた命の気配は、もう、どこにもない。
「ひっ…………」
ぐらりと世界が回って、俺の体は地面にぶつかった。おい、と遠くの方から男の声がする。けれど唇は重たく、返事をするために開くことさえできなかった。
回る視界の中に星空が見えた。けれどどうしてだろう。さっきまであんなにも美しかった星空は、何故か、その輝きを失って、ただただ暗い闇にしか見えなかった。
そうして俺の意識はぷっつりと途切れた。
「――――……ああ、ああ、いいとも。あんたの頼みだ」
どこからか、ジャズの音楽と、誰かの声が聞こえる。
「悪いな。頼む、じいさん」
「……それにしてもまさか、もう一度あんたの顔を拝む日が来るとはなぁ」
「二度とここに来るつもりはなかった。今回が本当に最後だ。……頼むよ」
「ああ、いいとも。ああ」
のんびりとした声は、沈んでいた俺の意識を引くように手繰り寄せる。夢と現の狭間で揺蕩っていた意識が浮上する。そっと瞼を開けた俺の目の前に、若い男の顔があった。
おっ、とそいつは声を出す。立ち上がり、パタパタと足音を立てて駆けていく。
「じいちゃん! 起きたよ!」
「当真、客前だ」
「ごめーん!」
水を持っていってやりなさい、という言葉に男はまた大きな返事を返してどこかへ行った。
ここはどこだ。
オレンジ色の照明が生ぬるく部屋の内装を照らす。静かなジャズが流れる暗い部屋は一見バーのような雰囲気だった。しっとりと空間に馴染むダークブラウンの木家具。壁には棚がずらりと並んでいたが、そこに酒瓶はなく、オフィスのように書類が収められている。部屋の奥にはカウンターがあった。そこに、この店の店主らしき老人が一人と、バイト先の同僚である男が向かい合って座っている。
「ほら、飲めよ」
目の前にグラスが差し出された。当真と呼ばれた、先程の若い男が立っている。
俺と少ししか歳は変わらないだろう。大学生くらいに見えた。明るいオレンジ色に染めた髪は彼を軟派な印象に見せて、シックなこの空間とは不釣り合いだった。
グラスに口を付けて水を飲む。冷たい温度が火照った喉を冷やしていく。その温度に、ぼやけていた意識がハッキリしていく。
「人殺したんだって?」
俺は彼を見た。キラキラと輝く笑顔がこちらを見ている。純粋な疑問の答えを待つ、あどけない期待の光が向けられていた。
ザァ、と波のような音がした。自分の血の気が引く音だとすぐには分からなかった。
男は俺の様子に何の反応も示さない。俺の顔が蒼白になっていることは明らかだというのに、気にした様もなく、身を乗り出して笑う。
「初めてだったんだろ? どうだった? どんな気持ちだった? 倫理学の試験近いんだよ。俺、倫理は少し苦手でさ。必修だからやべえの。問題に殺人とか自殺とかの部分も出るから、参考になるかなって」
グラスが指から滑り落ちる。おっと、と当真は空中でグラスをキャッチした。良く磨かれたガラスに頭を押さえて唸る俺の姿がいくつも映っていた。
喉が腫れたように苦しかった。息ができない。体中の体温が一気に上昇し、灼熱に炙られているかのような苦痛が襲いかかってきた。意識が明瞭になっていくほど、その苦しみは膨れていった。
「なあ、どうだった?」
「わああぁっ!」
肩に触れた彼の手を払いのける。そのままソファーの上で体を丸め、駄々をこねる子供みたいにダンダンと床を蹴った。
「当真、当真。こっちにこい」
「なんだよじいちゃん…………いってぇ!」
当真が老人に頭を殴られた。それを横目に、俺はひぃひぃと情けない声を上げて泣いた。顔中が涙や鼻水でぐしゃぐしゃだった。室温は熱くも寒くもないはずなのに、噴き出す汗が衣服をびっしょりと濡らしていた。
思い出した。俺は、美輝を、俺は。
「冴園」
仕事仲間の男がしゃがんで俺を見ていた。目尻の深いしわが今はよりしわくちゃになって、その目は悲しそうな揺らぎで俺を見つめている。
全身が酷く熱くて、それなのに頭の中は酷く冷たくて、喉が詰まって言葉なんてちっとも上手く出やしない。だけど俺は必死に彼に縋り付いて、拙い言葉を吐き出した。
「お、れっ、おれ、は。ちがっ、ころ、す、つもりなんてっ。ひぃっ。に、にげよ、と、して。みき、だって、て、おれ、は、だ、って。ひっ……、あ、ん、な、つもり。なんでっ、なんでっ…………、ひぃ、ひっ、あ、ぁっ」
過呼吸になりかけた俺の背を男はずっと擦っていた。泣くばかりで何も言えなくなった俺に、男は静かに話し始めた。
「明星市で人を殺した人間が何をすると思う。自首か、隠蔽だ。死体の隠蔽を仕事としている奴らなんてこの街にはいくらでもいる。ここは情報屋だ。業者との仲介もしてくれる。あの死体の掃除を依頼した。大丈夫だ、バレることはない」
「……………………」
「俺も昔、よく世話になっていた」
涙に濡れた目を上げて男を見た。彼は優しい笑顔で俺を見ていた。だがその目の奥に、確かな光を見て、俺はぞくぞくと背中に震えが走るのを感じた。恐怖だった。本能的な恐怖を、俺は目の前の男に感じていた。
ただの仕事仲間であるはずだった。ただのおっさんであるはずだった。仲間の仕事をよく手伝ってくれる、気のいい、よく冗談を言う、普通にどこにでもいるような男であるはずだった。
何故俺が銃を持っていることに気が付いたのだろう。何故こんな場所のことを知っているのだろう。何故、昔世話になっていただなんて言うのだろう。何故。いや、決まっている。
「俺は人を殺していた」
彼は人を殺したことがある人間なのだ。
壁に染み付いた煙草の香りが俺の肺を侵していく。瞬きも忘れて見開いた目で男をまじまじと見つめた。男の声は空気の冷たさを絡み取ったように、低く、重かった。
「俺は殺し屋だった。この明星市で、何十年と働いたよ。大勢殺した。彼らの顔もほとんど覚えていない。老人も、子供も、赤ん坊だって殺したさ。夢にまで血が香りやがる。ぷぅんと鉄の臭いがして、目を覚ますんだ。染み付いちまってるんだな。もう取れやしない。一生。俺が死ぬまで」
冷たい声は俺の耳に流れ込んでくる。だけど意味を飲み込むまで、時間がかかった。
「今はもう引退した身だ。バイトでその日暮らしの生活をしている。だけど、忘れやしないさ。殺し屋として何十人と殺した日々のことは」
淡々と告げられる話は現実味がなかった。冗談だよ、と言われればすぐに納得するだろう。けれど彼は一向に冗談だよと笑ってはくれなかった。仕事先ではよく冗談を言って皆をからかっているのに。今回に限って、彼は何も言ってくれない。
「嘘。嘘だ、冗談」
「嘘じゃない」
俺は身を乗り出した。バランスを崩しソファーから落ちそうになった俺を、咄嗟に男が支える。その腕に縋り付き、俺は彼を見上げた。
彼の目には力強い感情があった。鋭い刃のような視線だった。背中を駆け上がるぶるぶるとした感情が興奮なのか恐怖なのかも分からないまま、俺は胸の内から込み上げる激情を言葉にして吐き出した。
「殺してくれ!」
叫びは空間に響いた。俺は泣きながら、必死に男に懇願した。喉がガラガラと痛むくらいの大声で、全力で男に叫んだ。
「殺してくれ! お願いします! 俺を殺してください! 死にたいんです、もう嫌だ! 許してください! お願いします、お願いします、殺して!」
死にたかった。美輝を殺した瞬間の、何もかも終わったんだという絶望がいつまでたってもちっとも消えなかった。もう全て終わりなんだ。俺の人生も、何もかも。
生きていたくなかった。死にたかった。だからこの人が本当に殺し屋なのだとすれば、簡単に俺を殺してくれるだろうと思った。
嫌だ。もう全部嫌だ。終わりにしてくれ。
「それはできないんだ」
だけど彼はそう言って首を振った。俺は愕然として、男の肩を揺さぶった。けれど男はびくともしなかった。
「なんで…………どうして!」
「もう人は殺さないと決めた」
「っ、殺し屋なんだろ!?」
「過去の話だ。今は、ただの年を取ったじいさんだよ」
拳を握って男の顔を殴った。避けようと思えば避けられたはずなのに、彼は避けなかった。震える拳にはちっとも力は入っていない。それでも俺は何度も男を殴った。頬が赤くなっても、鼻血が出ても、男は一切抵抗しなかった。
「殺してくれよっ! お願いだよ、なあ、お願いしますっ!」
「無理だ」
「なんでっ…………なあ、なんで。なんでぇ……」
「…………ごめんな」
「殺して。殺してよ。俺を…………殺して……殺してよおぉ…………」
ずるずると床に崩れ落ちて、俺はまた泣き喚いた。男は黙って俺の肩に手を置いていた。低い声が俺の鼓膜を震わせる。
「これだけは、言っておかないといけない。酷なことだが、大事なことだ」
「……………………」
「一度人を殺したらもう終わりなんだ」
彼の言葉に俺は慟哭した。格好良い言葉だなぁ、俺も使おう、なんて孫の笑い声が聞こえた。老人は、黙って俺達を見ていた。
後にも先にも、俺はこのときほど、生まれてきたことを後悔した瞬間はなかった。
美輝が失踪したと、週明けの学校で聞いた。
「お前達二人は特に星空と仲が良かっただろう。彼女のこと、何か知らないか?」
職員室に呼び出された俺と咲は、担任から美輝のことを質問された。
休みの間、美輝は行方不明になったらしい。おばが何度彼女に連絡をかけても出ず、自宅にも母が入院していた病院にもおらず、今日も登校はしていない。
隣の咲はその顔に不安と困惑を浮かべていた。何度も首を傾げて、何かの間違いじゃないですか、と聞いている。俺は黙って床を見下ろしていた。何も言えなかった。何も。
殺し屋。情報屋。掃除の依頼。
あれは夢じゃなかったのだと、改めて叩き付けられた気分だった。
「新幹線を乗り間違えたとか、携帯の充電が切れたとか、きっとそういうのですよ」
咲と担任が話す内容が胸を刺す。美輝が今頃どうなっているかを知っているのは、この中で俺一人だけだった。
「やっぱり事件に巻き込まれているのかもしれない」
心臓がバクバクと跳ねる。事件に巻き込まれているのかも、という担任の言葉に噛み付きそうだった。巻き込まれている、なんて段階じゃない。もうとっくに美輝は…………。
咲を見る。視線に気が付いた咲が、一瞬こちらを見た。不安そうに揺れた目だった。俺はそれが、どうしようもなく悲しくなって、胸がズキンと激しく痛む音を聞いた。
「もしかしたらもう、戻ってこな」
「違う!」
耐えきれず、担任の台詞を聞き終わる前に全力で机を殴った。咲がビクリと怯えて俺を見る。騒がしかった職員室は水を打ったように静まり返り、全員の視線が俺に集中しているのを感じた。
違う、ともう一度叫んだ。ビリビリと空気が震える。尖った怒声は誰に己自身に向けたものだと、俺だけが知っていた。
「美輝が行方不明だなんて、そんなはずがない……いなくなるはずがないんだ!」
「お、おい。どうしたんだよ冴園。落ち着けって」
咲が肩を掴む。けれど俺は目を向けることもなく、叫び続けた。
「違う、違うんだ! あいつが、いなくなるなんて、戻ってこないわけがっ!」
「……佑!」
ぐっと力強く肩を引かれる。焦った表情を浮かべる咲と顔を見合わせた。油断していた。彼の目にはきっと、情けなく歪んだ俺の顔が映っていたことだろう。
俺の顔を見た咲は、そのまま俺の手を取って駆け出した。先生の声も無視して俺達は職員室を飛び出す。咲に引かれて廊下を走る。
白いシャツを着た背中が何故だか大きく見えた。手を引く力は驚くほどに強かった。いつも前を行くのは俺だったのに。いつの間に、咲はこんなに大きくなったんだろう、なんてぼんやりと思う。
もしかしたら俺が小さくなってしまったのだろうか、なんて。
誰もいない階段の踊り場は、朝の日差しが差し込んでいた。咲の黒髪が光の中にキラキラと光る。だけどその表情には影が差し、何があったんだよ、と尋ねる声にも不安があった。
言ってしまえればきっと楽だろう。けれど言えなかった。特に咲には、言えるわけがなかった。咲の顔をまっすぐに見れなくて、俺は彼から目を逸らした。
「挨拶に行くだけだって言ってただろ。だって美輝、言ってたじゃないか。俺達を置いてどこにも行かないって……。なぁ、言ってただろ……」
挨拶に行くだけ。二人を置いてどこにも行かないよ。彼女はそう言っていた、ああ、確かにそう言っていた。
心のどこかで、今にもひょっこり戻ってくるんじゃないかって願っていた。ただいま、二人とも。なんて笑顔で言ってくれるんじゃないかって思っていた。
現実から逃避している。自分がしでかしたことの重さに耐えきれなくて、願望ばかりを口にしている。誰よりも分かっていた。美輝が二度と戻ってくることはないと、分かっていた。
咲の前なのに耐えきれなかった。目頭が熱くなり、ボロボロと涙が零れる。咲がギョッとしたのが分かる。必死で我慢しようとしても止めることはできず、俺は情けない姿をさらしてしまっていた。
「先生の勘違いだろ。きっと。連絡が上手くいってなかっただけだって。ほら、待ち合わせ場所を間違えたとか、携帯が切れたとかさ……大丈夫だ。すぐ、戻ってくるよ」
咲はそう言って俺の肩を擦った。優しい微笑みが、俺を慰めようとしている。
本当は彼だって不安だろうに。恋人が行方不明なのだ。どこへ行ったのか分からなくなっているのだ。それなのに、俺のことを慰めてくれる。
全て俺のせいなのに。
「そうだよな。戻ってくるよな、美輝は」
「ああ、戻ってくるよ」
滑稽な会話だということを知っているのは俺だけだ。
彼女が死んでいることを知っているのは俺だけだ。
彼女を殺したのは俺なのだから。
死にたいな、と。俺は咲に微笑みながら考えた。
「あぁ!? 手前、ふざけてんのか!」
店長に殴られて、俺は段ボールの山に背中からぶつかった。ドサドサと重い荷物が体に降ってくる。痛みに呻く間もなく店長に胸倉を掴まれて乱暴に体を揺すられる。
カチカチと点滅する蛍光灯が俺を嘲笑っていた。壁にへばり付いた汚れを眺めていると、拳で頬を殴られる。
「誘拐しろって言ったんだ、殺せだなんて一言も言ってねえぞ! 弾までパクりやがってよ。使えねえクソガキだなお前は!」
「な、なあ、もうそのへんにしてやれよ。死んじまうよっ!」
店長を止めようとした男は、うるせえ、と頭を叩かれ怯えた様子で下がっていく。俺を見る目に深い同情が刻まれていた。その視線をただぼんやりと見つめて、俺は激しく咳き込む。
美輝と俺が逃げ出そうとしたことは店長にすぐ知られてしまった。彼女を殺したことも、当然。俺の顔は既にボコボコに腫れていて、吐き出した唾は赤い色が混じっていた。
俺の顔に泥を塗りやがって、と店長は怒りを露わにして俺に暴力を振るい続けた。いい加減、意識が朦朧としてきた。酷い眩暈だ。頭の奥がガンガンと痛い。口内の唾を飲み込んで、そこに広がる血の味を感じ、俺は深く息を吐いた。
店長の拳が振り上げられる。避ける気なんてなかった。もうどうでもいい、好きにしてくれ、そう思って俺は目を閉じた。
「ギャ!」
「根本店長」
店長の悲鳴に目を開ける。彼の背後に、あの男が立っていた。
彼は店長の腕を捻り上げていた。痛みに呻く店長は、必死に男から腕を引き抜こうと喚く。
「何してんだジジイ! ぶっ飛ばされてえのか!」
ヤニが絡んだ怒声を吐く店長を、男はじぃっと見下ろした。カチカチと点滅する照明は男の顔を照らしては暗く影を落として、彼の顔色をよく分からなくしていた。
怒気を孕んでいた店長の声から段々力が抜けていく。おい、何とか言えよ。そう言葉を促すも男はしばらく黙ったままだった。周りの仲間達が、妙な威圧感に圧されて尻込みをした。俺もふらりと一歩下がって、足をもたつかせて段ボールの山に座り込む。
とうとう耐えきれなくなったのか店長が男に掴みかかった。その瞬間だ。店長の体がくるりと宙を舞って、俺の隣に落ちてくる。ぎゃあ、と悲鳴を上げて彼は背中を酷く打ち付けた。段ボールが崩れ、俺の足元にまで落ちてくる。
「俺も、こいつも、今日で辞めさせてもらいますわ」
腕を引かれて立ち上がった。よろよろと足を震わせながらも振り返った俺に、いまだ倒れる店長はポカンと呆けた顔をしていたが、すぐに怒気で顔を真っ赤にして、勝手にしろ、と怒鳴った。
「行くぞ」
「え…………」
彼は俺の返事も聞かずに歩き出した。店を出て少し歩いたところでようやく腕を離される。一度だけ俺を見てそのまま立ち去ろうとした彼を思わず呼び止めた。
「あのっ!」
「何だ」
「俺はっ、これから……どうすれば」
「お前はどうしたいんだ」
答えは考えても出てこなかった。これからどうしたいか、なんて少しも案が浮かばない。
正直に言うならば、死にたかった。全てを終わらせたかった。
けれど馬鹿正直にそう答えることを、きっとこの人は許さないだろうと思った。だから何も言えなくて、俺はただ頭を真っ白にして俯くことしかできなかったのだ。
立ち止まっていた彼が俺から目を離す気配を感じる。何かを。何かを言わなければ。でないと、俺は、何も分からないまま立ち止まってしまう。何かを。俺がどうしたいか。
「あっ、謝りたい。美輝に謝りたい」
切羽詰まった末に出た台詞はあまりにも馬鹿らしかった。美輝に謝りたい。確かに、そう思っていることは事実だ。けれどそれは、彼女を殺してしまった本人が言う台詞ではない。
男はもう一度俺を見た。深く深く息を吐く。彼の仕草一つにも酷く怯えてしまい、俺は落ち着きのない様子で視線を泳がせていた。
電柱に集る羽虫の影が、俺の足元で揺らいでいた。その視界に、男の爪先が現れる。
「なら謝りに行くぞ」
彼女の死体がどこにあるのかを、俺も男も知らなかった。とうに掃除された美輝の遺体はどこへ行ってしまったのだろう。灰になったのか、肉体を持ったまま土に埋められたのか、それとも別の方法で消えてしまったのか。
願うことならば、景色のいい場所で眠っていてほしいと思っていた。星が綺麗に見える丘の上、とか。
美輝の墓があるわけでもない。謝るという行為が何を示すのかは分からない。俺達は、彼女が住んでいた家にやってきていた。
いたって普通のアパートだ。オートロックもない、部屋数も少ない、外壁が少し汚れたアパート。来る前に寄った情報屋で彼女の住所を知ったという男は、彼女の部屋の鍵を開ける。てっきり鍵開けでも行うのかと思ったが、何故か彼は既に鍵を持っていた。恐らくその鍵も、彼女の住所を調べる間に作らせたのだろうと思う。
鍵は難なく開いた。女子高生が行方不明になったのだ。警察が調べているのではないかと思ったが、少なくともまだそういった様子はなかった。周囲を警戒しながら俺達は部屋に入る。
ベッドにタンスにテレビ、普通に家具が並んでいる、人の住む部屋。おばのところに行こうとしていたからだろう。部屋は綺麗に掃除されていて、ゴミなど一つも落ちていない。
1Kの部屋。ここで美輝は生活していたんだ。母が入院してから、一人で。ここで生活する美輝の姿を想像して、俺は首を振る。棚に並ぶ本に目をやる俺に、男が話しかけてきた。
「何を探しに来たんだ?」
「…………やっぱりバレてますか」
「当り前だ。謝罪って言いながら、女の部屋を家探しするやつがあるか」
俺は苦い顔で男を見た。上手い表情が作れず、曖昧な笑顔にしかならなかった。
謝罪に行くぞと言った男に、ならば美輝の家に行きたいと言ったのは俺だった。男は不審がる様子を見せなかったが、やはり俺の本当の目的に感付いていたのだろう。
美輝に謝りたいことは本当だ。だけどどうやって彼女に謝ればいいのか分からなかった。だから俺は美輝の部屋で、彼女が残したメッセージはないか、探しに来たのだ。
何でも良かった。例えば、プリントの端に書いたメモ書きみたいな文章とか。恋人である咲に手紙を書いてはいないかとか。ありがとうとか、好きだよとか、明日も一緒に帰りたいなとか、何か、何でもいい。彼女の気持ちを書いたものが何か見つかったりはしないかと思っていた。
俺はそれを見つけて、彼女の友達や、咲に渡したかった。彼女が伝え損ねた気持ちを皆に渡して、彼女の気持ちを代弁して。そうして彼女のメッセージを渡すことが、謝罪の一つになるのではないかって…………。
「……………………」
いいや。違う。本当は、何でもいいから見つけたいだけだ。
彼女が家族にでもなく、友達にでもなく、恋人の咲にでもなく。俺に対して、何かメッセージを残していやしないかと、そう考えているだけだ。
本棚の端に挟まっていた大学ノートを手に取った。タイトルが書かれていない青色のそれを開くと、そこにはびっしりと文字が書き連ねられていた。
母親の病気に関するメモのようだった。効果的な治療法や母親の体調の変化について事細かに書かれている。しかしその内容は母親の体調が芳しくない内容ばかりであり、一向に回復に進む様子はなかった。
ノートには所々に美輝自身のコメントが描かれていた。『今日は雨。お母さん、外に勝手に出て泥だらけになっちゃって、大変』『放課後にゼリーを持っていったら喜んでくれたよ』『病院の中庭に猫ちゃん発見。可愛い!』なんて、愛らしいイラストと共に。
「……………………あ」
ペラペラとページを捲っていた俺は、ハッと手を止めた。視線はとある一言に吸い付いていた。彼女のメッセージ。錯乱した母親に怒鳴られたという日のメモの中に、たった一言。
『どうして私が』
ドクリと心臓が震えた。彼女の言葉を、メッセージを、震える指先でゆっくりと辿る。ページが進むごとに、少しずつ。彼女の言葉は増えていった。
『頑張ってるのに』
『お母さん、今日は散歩してくれた。良かった』
『庭にヒマワリが咲いてる。綺麗だなぁ』
『叩かれたところ、痛いよ』『お母さんのバカ』
『私のことを自分の母親だって勘違いしてるみたい。私は美輝だよ、お母さん』
『看護師さんに美輝ちゃんは偉いねぇって褒められちゃった。嬉しいな』
『隣の部屋の方が退院だって。よくお見舞いに来てた子、私と同じ年の子で仲が良かったらから、ちょっぴり寂しい』『私も入学したかったな』『なんで友達と同じ年に学校に行けなかったのかな』『お母さんのせいだ』
『大人だねってよく言われる。大人だねって、何? 落ち着いてる? 私だって、もっと子供でいたかった』『お母さんが子供だから、私が大人にならなくちゃって思ってた。でも、いつ子供に戻ればいいのかな』『私はあなたのお母さんじゃない』
ズキズキ、ズキズキ。胸が痛くて、俺は蹲ってノートを読んだ。震える指先が紙をくしゃりと歪ませる。目は彼女のメッセージを追って、止まらない。
頭の中に笑顔の美輝の姿が浮かんでは消えていく。いつも優しくて、俺達を受け止めてくれて、まるで。そう、まるで、聖母みたいな。そんな表現がとても似合う美輝のことを、思い返していた。
美輝、と震える声で言って、ノートを捲る。メッセージは続く。
『お父さんが残していった煙草を吸ってみた。不味くて美味しくない。煙草って体に悪いんだよね。ずっと吸ってたら、どんどん体に毒が溜まって、死ねるかなぁ』
『お父さんは嫌い。お母さんも嫌い。私のことを考えてくれない二人が嫌い。大っ嫌いよ』
『煙草、慣れてきちゃった。ちょっと美味しいかも。店員さんは私に何も言わない。顔が大人だからかな。それともどうでもいいのかな。私、まだ未成年だよ? 誰も叱ってくれないのね』
『お母さん、私がお見舞いに行っても、お金の話ばっかり』
彼女のメッセージには学校のことも含まれていた。ようやく高校に入学した喜びや、友達とのちょっとした会話なんかが。その中には俺と咲のことも書かれていた。七夕祭に行ったときのこととか。放課後にアイスを食べに行った日のことも書かれている。彼女の言葉はどんどんと時間が進み、今の時間へと近付いてくる。
『咲くんと私は似ている。私も咲くんも、一人ぼっち。寂しいんだね。いいよ、私といてあなたが楽になるなら、いいよ。…………だから私のことも、愛してね』
ページを捲る。
『私は皆に誤解される。大人じゃないよ。私はちっとも大人じゃない。先生も友達も勝手に誤解して、甘えてこないで。嫌いよ。皆、嫌い。私のことを愛してよ』
ページを捲る。
『お母さんが死んだ』
『嫌い。嫌い。大っ嫌い。皆のことが大嫌い。美輝さんなら大丈夫って、美輝ならやれるって、何それ。分かんない。嫌い。私のことを分かってくれようとしない皆が、大嫌い』
『嘘』
『嘘。ごめんなさい。嘘です』
『本当は大好きなの。ちょっと、疲れちゃっただけなの』
『お母さんがいなくなって、ちょっとだけほっとしてる。嫌な女。私って』
『でもいいかな。私、変わったりしても、いいかな。お父さんもお母さんももういないもん。しっかりしなくても、もういいよね』
『幻滅されるかな。咲くんや、冴園くんに』
ページを捲る。紙がぐしゃぐしゃになって、湿っていた。手汗だと思っていたけれど、いつの間にか俺の目からボタボタと涙が垂れていることに気が付いた。
『きっと私は皆のお姉さんで、お母さんだったんだね』
『だけどそれはもう終わりにするね』
『ちょっとだけ。しっかりするのは、お休みにしよう。帰ってきたら、新しい私になるの。ううん。私らしい私になろう』
『ドキドキするなぁ』
『それじゃあ、いってきます』
メッセージはそこで終わっていた。ただいま、という言葉は書かれていなかった。
俺は顔をぐしゃぐしゃにして、声を殺して泣いた。肩を震わせて呻く俺の隣に男が座って、そんな俺を見守っていた。
誤解していたのだと今更気が付いた。俺は美輝のことを、何にも分かっていなかった。心のどこかで、彼女は全てを受け入れてくれるのだと、馬鹿みたいな期待をしていた。
「うううううぅっ…………!」
咲。なあ、俺達は美輝のことを誤解していたんだな。
彼女は、たった一つしか歳の変わらない、ただの女の子だったんだ。
普通の女の子だったんだよ。
人気のない河原で男はライターを点火した。ノートの端に火が付き、瞬く間に燃えていく。端から焦げた炭になっていくノートをしばらく眺めて、指先で摘まんだ部分に火が移りそうになったところで、彼はパッと手を離した。ノートの切れ端は水に沈み、ジュウ、と音を立てた。俺はそれを、草の上に座ってただ眺めていた。
「謝罪は済んだのか?」
「…………これからですよ」
俺の言葉に男は何も言わなかった。彼と会うのはこれが最後になるだろうと、何となく察した。
「これからどうするんですか?」
「これまでと一緒さ。適当に暮らして、適当に生きるよ。お前は?」
ゆるりと首を振る。これから先のことなんて、何も考えていなかった。
そうかぁ、とのんびり伸びをして、男は言った。
「俺はお前に言ったな。一度人を殺したらもう終わりなんだと」
「……………………」
「それでも、一生終わったままでいるわけじゃない。俺が殺し屋を辞めたのは人生をやり直したかったからだ。俺はもう二度と人を殺す前には戻れない。それでも、終わった人生の中で、生きがいを見つけて生きていくことはできる」
「……………………」
「お前の幸せを見つけて生きていけ、坊主」
男は俺の頭を引っ張って、くしゃりと髪を撫でた。乱暴な手の平はじんわりと温かくて、俺の目にはまた涙が浮かぶ。泣くなよ、と言われて恥ずかしさに顔を赤くした。俺はこんなにも涙脆かっただろうか。
「俺も、地獄の中でも幸せを見つけて生きていくさ」
「できるんですか」
「分からん。でも、まあ、地獄にも色々あんだろ。知ってるか? 最近の地獄は、結構発展してるんだ。コンビニもパチンコ屋もあるんだぞ。新聞で読んだ」
俺は男の言葉に思わず笑ってしまった。ちっとも可笑しくないのに。あまりにも、馬鹿らしくて。男はそんな俺の顔を見て、ニヤリと笑った。
「ようやく笑ったな」
そう言われた俺は、自分が久しぶりに笑ったことに気が付いた。肩の力が抜ける。もう全てがどうでも良くて、目尻に涙を浮かべて笑った。
「嘘つきだなあんた。いっつも、冗談ばっかり。ホラ吹きめ」
「お。いいねぇ、ホラ吹き。次に行ったところでは、そう呼んでもらおうかな」
「あんた、名前、なんて言いましたっけ?」
「ホラ吹き男さ」
元殺し屋の男は、そう言って笑った。人を殺したことのある人間とは思えない、晴れやかな笑顔だった。
「佑、講義終わりだろ? 居酒屋行かね? ほらあの年確甘いとこの」
「っしゃ! ビール飲みたいビール。ってか今日暑くね? クーラー効いてる? この講義室」
額の汗をシャツで拭い、友人と騒ぎながら階段を下りる。先程まで聞いていた講義の内容はとっくに頭から消え、俺達の話題は居酒屋で飲む酒の話で盛り上がっている。ミンミンゼミがけたたましく鳴いていたが、騒ぐ大学生達の声の方がずっと騒がしかった。
俺は大学一年生になっていた。高校を卒業し、両親が勧めた大学に進学した。適当に興味を引かれる講義を取って、日々勉学に励んでいる。大学は高校よりもずっと楽で、暇だった。
咲とは高校を卒業してから連絡が減ってしまっていた。彼が就職したということもあるだろうし、俺が何となく彼と顔を合わせるのが気まずいから、ということもあるだろう。
大学生になった俺は一人暮らしを始めた。父親の転勤が確定したのだ。母もそれについていくことになり、俺も誘われたものの、拒否した。そのまま家に住み続けるのも良かったが、三人で話し合って家を売り払い、俺は適当なアパートで一人暮らしをしている。両親からはたまに仕送りが送られてくる。転勤先は東北だ。気軽に会いにいける距離ではない。
「冴園達どこ行くの?」
「飲み会。明日休みだし、酒飲みまくんの」
「えー、うちらも行く! あれっしょ? カクテル多いとこ」
「てか冴園髪染めた? めっちゃ青じゃん。どこの美容院?」
「イメチェンしたくてさ。好きな歌手、髪すっげぇ青だったから、真似したんだよ」
「あ、あのカバー曲とか出てるやつ? へぇー」
大学で友達は増えたし、講義も楽しかった。毎日馬鹿なことをやって騒いでいるのは大学生らしいなぁ、なんて自分でも思っている。
髪を奇抜な色に染めたり、ピアスを開けたり、未成年なのに酒を飲んだり。そういうことをやってははしゃいで、浮かれていた。
だけど心の奥底には常に、ちっとも笑えない自分がいた。
「…………あー、駄目。飲みすぎた。吐く、吐く」
深夜一時の居酒屋で、俺はトイレの便器に向かってそう言った。
バカスカ飲む酒の味なんてちっとも分からない。ただ酔うためだけに酒を煽り、馬鹿な話をして爆笑をしているだけの飲み会だった。
学生御用達の居酒屋はいつも大繁盛で、トイレの外からもひっきりなしに笑い声が聞こえてくる。胃の中のものを吐き出しながら、俺はふらふらと壁に背をくっ付けて笑った。
馬鹿みたいだと冷めた心が思う。
酔っぱらって、騒いで。過去のことから、目の前の現実から、俺は必死に逃げていた。
美輝を殺したあのときから何一つ変わっちゃいない。向き合おうとしたことなど少しもない。こんな姿を彼女が見たら、きっと嘆くことだろう。
死にたいとずっと思っている。ぼんやりと生きて、いずれふらっと死んでしまおうとずっと考えている。そのタイミングを掴み損ねて、今ここにいるだけだ。
「美輝ぃ…………」
情けない声で鳴いて、ずびっと鼻を啜った。酔いが回った頭はふわふわとして、上手く思考が働かなかった。汚れたトイレに膝をついて、このままここで眠ってしまおうか、なんて考えて目を閉じようとした。
携帯が鳴る。咲からの着信だった。こんな時間に、珍しい、と俺はぼんやりと携帯を取る。
「もしもぉし。咲ちゃーん?」
『人を殺した』
「……………………は?」
凍り付いた俺の耳に、鼻を啜る音と、歯の根を鳴らす音が聞こえていた。咲の呼吸は酷く引き攣っていて、彼が泣いているということは、見なくてもハッキリと分かった。
『助けて』
それ以上咲は何も言わなかった。俺は呆然と空を見て、そこに舞う埃を眺めていた。
意味が理解できなかった。突然の親友の言葉に、頭が追い付かなかった。人を殺した? は? 何、何で。急に、何。は?
咲は幼馴染だ。昔から彼の姿をよく見てきた。だから、彼が言っていることが本当だと、顔を見なくても分かった。
段々と思考が追い付いてくる。ドッドと脈打つ胸を押さえて、俺は声を震わせた。
「今すぐ行くから」
俺はそう答えた。
吐きそうだった。酔いなんて一気に冷めたのに、胃から競り上がってくる不快感が酷かった。
外から聞こえてくる賑やかな声が遠くに消えていく。耳の奥にキィンと詰まったような耳鳴りを感じて、俺はゆっくりと息を吐いた。見開いた目から溢れた涙が一粒、トイレの床に落ちていった。
明星市では毎日人が死んでいる。
明星市では毎日人が殺されている。
ああ。神様。どうして、俺達が。