第150話 逃避行
いくら問題を解いても分からないことがある。
一桁から三桁までの数字が問題集の上にバラバラに散りばめられていた。俺は無心でそれを解いていく。解答欄は上から順に少しずつ埋まっていく。一問目が終わり、二問目、三問目……。
ふと、手が黒鉛で真っ黒に汚れていることに気が付いた。メモ用紙として使っていた白い紙はいつの間にか白色の方が少なくなっている。
どれほど難しく見える問題だって解き方さえ分かっていれば簡単に答えは出てくる。複雑に絡まった式だって、答えはたった一つの数字に変わる。
それなのに。数学の問題も科学の問題もすぐ答えを導き出せるのに。
今の俺がどうすればいいのか、その答えはいくら考えても出てこなかった。
ベッドに寝転ぶ。行き詰まって知恵熱が出そうだ。壁にかけたブレザーに目をやりながら、額に手を当て溜息を吐く。
美輝の母親が亡くなったのは七月の始めだった。
彼女の母親は嫌な人であったらしい。癇癪持ちで、我儘で、横暴で。厭味ったらしく、人を傷付けることをなんとも思わない人であったらしい。
美輝の入学直前に頭をやって倒れて、それからずっと病院にいた。脳の腫瘍のせいで最後にはすっかりボケたようになり、娘のことを、とっくに亡くなった自分の母親だと思って接していたらしい。父親が離婚して出ていった家で一人、美輝は遠方のおばの援助を受けてくらしていたらしい。
らしい、ばかりだ。何も知らなかった。
店長に聞いた。美輝を誘拐する理由は、彼女の母親が原因だということを。
昔彼女の母とトラブルを起こして恨みを持つ人間は大勢いるらしい。そのうちの一人が母親への復讐を望んでいた。しかしようやく母親の居所を掴んだときには病で病院に。それも復讐の準備をする間にとうとう亡くなってしまった。それでも怒りが治まらない依頼人はうちに依頼をかけてきた。母親が亡くなっているのなら、娘でも構わない。とにかく誘拐して寄こしてくれ。なんて。
美輝の母親がどんなに酷い人だったのか俺は知らない。けれど依頼人の怒り具合からして、相当に酷いことをしてきたのだろうということは察することができた。依頼人の元に美輝を渡せばどうなるのかなんて、想像もしたくない。
どこからか入り込んできた蚊がぷぅんと部屋を飛んでいる。耳障りな音が壁に止まったところをパチンと叩いてみたが、小さな虫は指の隙間を掻い潜ってまた部屋を飛んだ。
美輝の母親が酷い人であったことを、色んな人に恨みを買われていたことを、母親のことで美輝が苦労していたことを。少しだけならば俺も知っていた。だが、全てを知ったのは、三人の中で俺が一番最後だった。
俺も知ったのは偶然だった、と咲は言った。もしも彼が美輝の事情を知ったのが本当に偶然なのだとしても、ああそうなんだ、と素直に納得することが俺にはできない。
彼女がそれを俺に教えてくれなかったことが、酷く胸を締め付けるのだ。
一つも教えてくれなかったんだなあなたは。
俺はそんなこと知らなかったよ。
君は優しい笑顔の下に全部を隠して、俺には何も教えてくれなかったんだな。
なんにも。
「……………………」
雨が窓ガラスをタンタンと叩いて、涙みたいに流れていく。昼頃から降り続いている雨は明日の朝まで続くだろうとネットの天気予報が告げていた。
枕に頭を埋めて雨音を聞く。色んなことを考えすぎて、一周回って頭の中は空っぽだった。いっそこのまま眠ってしまおうかとも思う。
佑、ごはんよ。と呼ぶ母さんの声がしてすぐに目を開けた。まるで夢の世界に逃避しようとした俺を神様が叱っているかのように思えて、苦笑した。
ご飯だってば、ともう一度俺を呼ぶ母の声に、はぁいと大きく返事を返した。
階下に向かうといい匂いがした。既に父さんと母さんは食卓に着いていた。テーブル上に並んだ白い皿に、こっくりとしたミルク色のクリームシチューが盛られている。
「夏にシチュー?」
「ルーが安かったの」
「もっとさっぱりしたのが良かったな。冷やし中華とかちらし寿司とか」
「今あなたが食べたいもの言ってるだけでしょ。ほら、座って」
文句を言いながらも、ふわりと柔らかい湯気が顔にかかると腹の虫が鳴いた。
くたくたに煮込まれた野菜が美味かった。高校生の食欲に素直になって二皿目のシチューにパクついた。
「何してたの、勉強?」
「うん、受験勉強。…………大丈夫だって、目標点は超えてるよ」
俺の顔色を窺う母さんに言えば、ほっと安堵の色が浮かんだ。
「良かった。この調子なら、どこにでも行けるわね」
俺は薄く笑って何も言わなかった。
食卓は匙の音と、何気ない会話の声と、テレビの音に満ちている。今日は授業でこんなことがあったんだ、昼休みにクラスメートと購買に行ったらおまけしてくれたんだ、なんて軽い声で言って笑って、普通の食卓を囲んでいた。
夕飯を終えて部屋に戻ろうとすると父さんが俺を呼び止めた。リビングのソファーでくつろぐ父さんの傍へ近付くと、隣に座るよう指示される。
「何?」
「最近どうだ、学校」
「普通。テストもまあ悪くはないんじゃないかって思うけど」
「じゃなくて、友達とか、そういうのだよ。東雲くんとは上手くやってるのか?」
「咲? うんうん、めーっちゃ仲いいって。超親友って感じ」
「そうか。大学は、一緒のところに?」
リビングのテレビはつけっぱなしになっている。お笑い番組が流れ、ひっきりなしに笑い声が聞こえてくるが、父さんはそちらに顔を向けつつもその目は画面を見ていなかった。
サァサァと降る雨の音が窓から聞こえる。さっきよりも強くなっているような気がした。
「一緒のとこじゃないよ」
ほんまかいな。お前、アホちゃうか。なんて笑いがテレビから聞こえてくる。俺はテレビに顔を向けてあはは、と笑っていた。父さんは考え込むように視線を下に下げているから、俺の視線がテレビ画面を見ていないことには気付いていないだろう。
「咲就職希望にしたんだって。だからどっちにせよ一緒じゃないよ、寂しいなぁ。でも、たまに遊べたらいいなって」
「お前は進学を希望してるのか?」
「うん。そもそも大学進めって父さん達が言ったんじゃん」
「…………ごめんな、佑」
あはは、とテレビに合わせて笑い声を上げた。何が? と呑気に尋ねる。父さんから見えない位置に置いた手で、強くソファーを握り締めた。
「お前に少し我儘を押し付けてしまったのかもしれない」
「何が? 父さん、変なの」
「俺も母さんも、お前の気持ちをもう少し考えるべきだった。昔の、あのときのことがお前の傷になっているんだとしたら……謝るべきなのは俺達だった。もしもあのときのことを忘れられていないんだとすれば……お前は……」
「……………………」
「母さんにはまだ言っていない話がある。まだ噂段階だしな。実は、来年あたりに転勤になるかもしれないんだ。関西の方に。もしかしたら、お前もそっちに行くことになるかもしれない。住む場所が変われば目指す道だって変わるかもしれないぞ」
「父さん」
「今更だというのは分かっている。だけど……お前はもっと好きにしていいんだぞ。何の道を選んだっていいんだから」
「あのときって? なんのことだよ、父さん」
父さんがようやく俺を見た。もう一度説明しようとする父さんに笑顔を向けて、まっすぐに伝える。
「何の話だか全然分かんない」
父さんは俺の顔を見て、しばし黙った。それから薄く微笑んで、そうか、とだけ言って黙る。
お風呂湧いたけどどっち入る? と母さんが洗面所から呼びかけてきた。立ち上がった俺の背に父さんが言う。
「ありがとな」
「……………………」
「ん?」
「んーん、何も言ってないよ」
ニコニコ笑って父さんに背を向ける。誰からも見えなくなっても、笑顔を消しはしなかった。
俺は笑顔が得意なのだ。
今更遅すぎるよ、なんて呟いた言葉は笑顔の下に飲み込んだ。
ザァ、と雨は降り続く。
高校三年生の悩みなんていくらでもある。多感な時期の子供にも大人にもなれない人間の悩みなんて尽きることはないんだ。
だけど好きな子を誘拐してこい、って命令されたときの悩みなんて、そんなもの誰が持っているだろう。
誘拐されたその子が無事では済まないことなんて分かっているのに。警察に言うわけでも、命令を無視することも、何故かできなくて。できないままに、ただタイムリミットだけが迫ってくる。
「……………………」
ベッドに倒れ伏していた。時刻は夜の十一時。起きて何かをしようという気も起きなければ、眠気が襲ってくることもない。ただ時間が過ぎていくのを待つだけだ。焦燥感ばかりが募る。それでも体は動かない。
美輝は一度おばさんの元に行くらしい。今後の話し合いのためだ。明日の夜に発つらしい。どこから仕入れたのか、店長も既にその情報を知っていた。一人で出歩く夜。決行するにはちょうどいいだろうとも言っていた。
つまり、決行日は恐らく明日の夜。
奇しくも明日は七夕で。美輝の誕生日だった。
「……………………」
携帯を開いて咲にメールを送る。今何してる? と投げた問いに、少しして返事が来た。
読書。
何読んでるの?
国語が苦手なお前には分からないやつ。
俺のこと馬鹿にしてます?
『銀河鉄道の夜』ってタイトル。宮沢賢治って知ってるか? そういうお前は何してるんだよ。
馬鹿にしてるな。俺はねー、超暇だからゴロゴロしてる。
暇なら寝ろよ。
なんか眠れなくてさ。
何かあったのか?
「……………………」
あのさ、実は。
「……………………無理だろ」
途中まで入力していた文字を消し、代わりに打ち込んだ文章を送信する。夕飯食いすぎで苦しくて。すぐに返された、馬鹿、という返事に笑った。
一人で部屋にこもって考えていてもどうにもならないけれど、友人とメールをしてみたところでいい考えが思い浮かぶわけでもなかった。
部屋は静かだ。父さんと母さんはもう寝たのか、階下から物音も聞こえない。窓を閉め切っているから部屋は暑苦しかった。けれど立ち上がって窓を開ける気力はない。涼し気な色の空色のカーテンさえ、今はただ重苦しく部屋を闇に閉ざす物体にしか見えなかった。
その静かな空間に携帯の着信音はよく響いた。肩を跳ねて、弾かれたように起き上がった。咲と表示が浮かんでいる。こんな時間にあいつからかけてくるなんて珍しい、と俺はすぐに携帯を耳に当てた。
『ちょっとカーテン開けてみろ』
出た途端伝えられた言葉に首を捻りながらもそもそとベッドから降りた。シャッとカーテンを引けば、窓の下、電柱の下に立っている咲と目が合った。ぎゃっ、と驚けば携帯から俺の声が伝わったらしく、笑い声が携帯から聞こえた。
「遊びに行こう」
適当な服と靴で外に出た俺に咲は言った。放課後に公園行こう、なんて言うときのノリの声で、真っ暗な夜の道を指差す。こんな時間にそんな台詞、あまりにも彼らしくなかった。何だか可笑しくなって、声が響かないよう笑いを押し殺しながら、俺は何度も頷いた。
遊びに行くなんて言ったところで目的地があるわけでもない。ゲームセンターもコンビニも素通りして、俺達はただ夜の散歩をしていた。
それなりに歩いて、休憩のためにと公園に行った。自動販売機で買ったブラックコーヒーをブランコに座って飲む。隣で喉を鳴らして飲む咲を見て、俺も缶に口を付けた。冷たく苦い液体が一気に喉に流れ込んでくる。あまりの苦さに顔を顰め、うぇ、と舌を出した。
「ブラック苦手なくせに何で買ったんだよ」
「や、飲めるし。毎日飲んでるし」
ゴクゴクと飲んでは顔を顰める俺の横で、咲は呆れた顔をしながらブラックコーヒーを飲んでいた。
ブラックは飲めないわけじゃないけれど、砂糖が入っている方がずっと好きだった。だけど咲がブラックコーヒーを美味そうに飲むのが凄く大人に見えて、何故だか妙な焦燥感が湧いたのだ。
甘くないものが好きだから大人。そんなわけがないことは、分かっているつもりだけれど。
夜の公園は昼間と違って誰もいない。電柱に照らされる遊具は少し寂しそうに見えた。誰も回っていないグローブジャングルや、錆びだらけの滑り台、軋んだ音がするシーソー。
通学路の近くにあるこの公園は昔俺達もよく遊んだ場所だ。通りがかりに目にはしていたけれど、遊具に座るのは随分と久しぶりだった。あの頃よりぐんと背が伸びた俺達にとって、あれほど広大に見えていた公園はミニチュアのように小さく見えるようになってしまった。
「それで? 本題は何だよ。何か話があるんだろ」
「話がある……ってほどじゃない」
「じゃあ、俺と夜のお散歩がしたかっただけ?」
「違う。その…………お前、なんか落ち込んでる気がしたから」
それでだよ、とワザとらしくぶっきらぼうな声で咲は言った。俺は黙ってコーヒーをもう一口飲んだ。
はは、と笑ってブランコを揺らす。内心の動揺を悟られないように。そんなに分かりやすかっただろうか。
「そうなの。めっちゃ落ち込んでる」
「なんか……親とか先生とかから言われたのか?」
「うーん、って言うよりぃ、将来への不安、みたいな? ぼんやりとした将来への不安?」
「お前は文豪か?」
俺のお気楽な態度を見て肩を落として嘆息する咲は、しかしその顔に僅かな安堵を滲ませていた。
咲がこんなことをしているのは俺のためなのだと察した。
俺が悩んでいると思い、気分転換も兼ねて外に連れ出してくれたのだろう。俺の顔色がさほど悪くないことにほっとしているのが空気で分かる。そんな優しい彼を不安にさせたくなくて、俺は必死に自分の心の内をぶちまけたいのを堪えていた。
実は今やってるバイトが変なところでさ。薬物の配達とか、水商売の斡旋とか、犯罪まがいのこともしてるんだよ。それで明日美輝を誘拐してこいって言われてて。美輝の母親を恨んでる人間のところに渡すんだって。無事じゃすまないよね。なあ、どうすればいいかな。
正直に言えるわけがない。
「…………なぁんでこの街って、こんなに物騒なのかな」
ギィ、とブランコを軋ませた。子供のときは地面に爪先がギリギリで届くくらいの高さだったブランコ。今はむしろ足が余って、砂利を靴底に引きずっている。随分と大きくなったものだ。俺も、咲も。
「他の街だって物騒だろ」
「でも、まだマシだ」
「…………そうだな」
ブランコを思いっきり漕ぐ。鎖が軋み、夜空は近くなっては遠くなる。吹きつける風が目を乾燥させるから何度も瞬きを繰り返した。
「今もどこかで誰かが死んでるんだ」
明星市は物騒な街だ。放火に強盗に暴行に殺人に。ありとあらゆる犯罪が日々溢れている。
少なからず皆、どこか怯えた様子で暮らしている。下手をすればすぐ犯罪に巻き込まれてしまう日々。
もしも他の街で生まれ育っていたならば、俺はもっと上手くやれたのだろうか。こんな悩みを抱えることもなかったのだろうか。美輝がこんな目に遭うこともなかったのだろうか。最初から、何も起こることはなかったのだろうか。
「嫌いだ、こんな街」
思わず悪態を吐いた。
大切な人達が傷付くこんな街なんて、大嫌いだ。
「逃げればいい」
隣から聞こえた言葉にブランコを止めた。ジャリ、と踏みしめた砂利が音を立てる。頬に張り付いた髪をかきあげて隣に顔を向ければ、静かな目をした咲がこちらを向いていた。
「この街が嫌なら逃げたっていいだろ。遠くに行けばいい。この場所のことをすっかり忘れるくらい遠くにさ」
責めてはいない。ただゆっくりと提案の言葉を吐いて、咲はブランコを小さく揺らした。彼は夜空を見る。その目に映っているのはキラキラと瞬く星空のはずだけれど、きっと今彼が思い浮かべている光景は違うものだろう。
「遠くに…………」
「沖縄とかどうだ? 修学旅行のとき行ったろ。海、綺麗だったよな。それかいっそ海外とかさ」
「はは……いいかもな」
「…………お前は閉じこもって悩んでいるより、外に飛び出した方が気分転換になるさ。好きな所に行って、好きなことをしてさ。そっちの方がお前らしいよ」
きぃ、とブランコを揺らして咲は微笑んだ。その笑みを見た瞬間、俺は何故だか無性に泣きたくなった。
大きく仰け反って空を見た。潤む目を輝く星の光で誤魔化して、俺は聞いた。
「咲はもし俺が遠くに行ったら怒る?」
「誰が怒るかよ。それがお前自身のためになることなら、俺は何も言わないよ」
「でもさ…………」
「俺達は親友だろ? 佑」
それ以上俺は何も言えなかった。咲も何も言わず、俺達は二人黙ってブランコをきぃきぃと揺らしていた。
咲はきっと、俺の悩みが進学や家族関係だと思っているのだろう。奇妙な会話の内容も、それに対する咲の言葉も、俺の本当の悩みとは関係あるようで、関係ない。
咲は。もしも俺がこれからしようとしていることを知ったら、止めるだろうか。怒るだろうか。
「咲」
「なんだよ」
「俺達ずっと親友だよな」
「当たり前だろ」
だけど咲ならきっと、最後には笑って俺のことを許してくれるだろうなぁって、そんな甘いことを考えていた。
白い蛍光灯はテーブルに置かれた美輝の写真を照らしている。仕事終わりの倉庫は、仲間達がいるときと雰囲気がガラリと変わり、冷たく重い空気に支配されていた。張り詰めた空気が喉をひやりと撫でる。
「覚悟はいいな」
「はい」
まっすぐに俺の顔を凝視する店長は、俺の返事に満足そうに頷いた。
「お前には期待してるんだ。この仕事を無事に達成できれば、晴れてお前は一人前だ。上手くやれよ」
「はい」
「流れは頭に入ってるか? どっかの建物に連れ込んで、こいつを飲ませろ。すぐぶっ飛ぶ。後は介抱するフリでもして連れて来い。簡単だ」
写真の隣に置かれたのは小瓶に入った粉末状の薬だった。水に混ぜればすぐに溶ける。多少の苦みがある薬だが、味の付いた飲み物に混ぜればバレることはない。
店長は俺の顔から一切視線を外さなかった。鷹のように鋭い目は、俺の挙動、表情、そこに少しでも拒絶が現れる瞬間を捕えようとしている。悟られたら終わりだ。俺はすまし顔を崩さないよう、必死だった。
「あとこれも一応持っとけ」
ゴトリ。
写真の横に置かれた一丁の銃が重い音を鳴らした。重厚な黒色の銃だ。その光景は妙に映画のワンシーンみたいに現実感がなくて、心は淡々としていた。
手に持ったそれは想像以上にずしりと重い。モデルガンなどではないことは分かっていた。初めて持った銃。人を傷付ける道具。
「警戒されたらこいつで脅せ。なに、大抵は向けただけで黙るさ」
こういう風に、と店長は俺の手から銃を奪って銃口を向けた。咄嗟に反応できず、一拍置いてからギクリと肩を震わせる。一歩下がった足がそこにあった段ボールを蹴飛ばして、隅をへこませた。店長の下卑た笑い声が響く。
上手くやれよ、と肩を叩かれた。軽い力のはずなのに俺の体はよろめいた。はい、と答えた声は酷く震えていて、店長はまたそんな俺を笑った。
決行日当日の夜になった。
美輝が乗る予定の夜行バスの発車時刻、座席、彼女の自宅からバス停までのおおよそのルート。それら全て既に店長に伝えられていた。
一体店長はどこから情報を仕入れているのだろう。美輝本人にしか知りえないだろう情報ばかりだというのに。
俺がやるべきことは、美輝が夜行バスに乗り込む前に彼女に接触し、何とか店長の元まで連れていくこと。
仕事場を出た俺は、ポケットに突っ込んだ薬の瓶を掴み、ぐっと力を入れた。
「本当にやる気か?」
にわかにかけられた声にギクリとした。弾かれたように振り向いた俺は、街灯の下に立つ同僚の男の姿を見た。
何かと俺のことを気にかけてくれる人だ。五十代くらいの、くたびれた男。普段冗談や嘘ばかり言って場を盛り上げるその人は今、妙に静かで鋭い目を俺に投げていた。
周囲に警戒していたはずなのに。全く気配もなかった。いつの間に、と驚きと焦りの感情が背中に汗を滲ませる。
「何の話です」
「とぼけても意味はないぞ」
俺と店長の話を聞いていたのだろうか。これから俺がやろうとしていることを知っている口振りだった。狙いは何だ。通報か、それとも、金の横取りか。
「期待されてるなんて嘘だってお前も分かってるだろ」
「……………………」
「店長がお前に色んな仕事を任せるのはな、お前が一番若いからだ。それ以外の理由なんてない。どうしてそれが理由になるか分かるか? 若い奴は老いた奴より体力があって、その上誤魔化しやすいからだ。お前が下手をやらかして警察署に行ったときには、店長はもう逃げてるさ。トカゲの尻尾だ。お前は騙されているんだよ」
「…………説教ですか?」
「警告だ、坊主」
知らず強く握っていた拳はびっしょりと汗をかいていた。緊張で呼吸は上手くいかず、粘ついた唾を何度も飲み込んだ。
無言で地面を見下ろす俺の顎から、一滴の汗が落ちていく。体中を強張らせて立ち尽くす俺に彼はゆっくりと近付いてくる。真正面から迫ってくる彼の姿に妙な威圧感を覚え、体を動かすことはできなかった。彼の手が、ぽんと俺の背中を叩く。
「それと。背中。そんな隠し方だと、すぐに気付かれる」
叩かれた背中の部分。店長から渡された銃は、そこに隠していた。
一気に膨れ上がった恐怖が弾け、俺は声にならぬ悲鳴を上げて逃げ出した。彼が追ってくる気配はない。それでも足を止めることはできない。
何故分かる。何故知っている。あの人は、何だ。何者なんだ。
心臓が早鐘を打つ。呼吸は乱れ、体中が苦しみに喘いだ。俺は夜の街を、狂ったように走り続けた。
ボタボタと流れる汗を何度も拭った。目的の、路地にあるコインロッカーに着く頃には全身汗びっしょりで、一雨降られたのではないかと思う有様だった。
吐き捨てられたガムや飲み残しの缶が散らばるロッカーは普段から利用は少ない。一応周囲を確認し、不審な人物がいないか確認してから、ロッカーの鍵を開けて荷物を取り出した。
大きめのボストンバッグは今朝、事前に俺が置いていったものだ。
それを抱えて近くの公園に向かう。公衆トイレに入って個室に隠れる。ジー、とバッグのチャックを下し、中身を確認した。中には色んな物を詰め込んでいた。数日分のレトルト食品と飲み物、着替え、銀行から下ろしたこれまでのバイト代、店長に頼まれた仕事中こっそり頼み込んで作ってもらった男女の偽身分証二枚、他にもいくつかの偽装書類。
「やっぱり」
店長から借りた銃に弾は入っていなかった。実弾入りの銃を、使い捨てにするつもりの人間にそんな簡単に渡してくるとは思っていなかったが。
店長が俺を使い捨てにするつもりだなんて。そんなこと最初から知っていた。
バッグの底に隠していた包みを取り出して、入っていた銃弾を慎重に装填する。ネットで調べながらの装填は少し時間がかかってしまったけれど、なんとか上手くいった。安全装置を何度も確認してまた銃を服の下に隠す。
店長もまさか、俺が銃弾をもっているとは予想していないだろう。あの人は俺のことをなめている。それが油断に繋がるのだとこの銃弾が示している。
仕事で運ぶ荷物の中には物騒な物もたくさんあった。ナイフとか、スタンガンとか。その中には当然のように銃と銃弾も大量に入っていて。俺はそこからこっそり数発の弾を拝借していた。
もしも今後色んな仕事を任されるようになったとき、銃を手にする機会もあるのではないかと思っていたからだ。まさかこんなことに使うだなんて思っていなかったけれど。
「大丈夫。きっと何とかなる」
準備を終えた俺はバッグを抱えて公園を出た。静かな夜なのに心は酷くざわついていて、堪らない恐怖と不安が押し寄せてくる。
潤んだ目を誤魔化すように空を見た。この街に毎晩のように浮かぶ、満天の星空が俺を見つめていた。キラキラと零れてきそうな星達はとても幻想的で、美しかった。大嫌いなこの街の中で、数少ない、大好きな景色。
覚悟を決めてバッグを握り締める。袖で瞼を擦って、俺は駆け出した。
今夜。俺は美輝を誘拐するつもりなんてなかった。美輝を連れて、この街を出ていくつもりだった。
川沿いの土手を美輝は歩いていた。夜の闇の中でも、明るい金色の彼女の髪はよく目立つ。背後から駆け寄った俺は大声で彼女の名を呼んだ。
「っ、美輝!」
振り返った美輝の顔が星に照らされる。冴園くん? と不思議そうに首を傾げて、彼女は下げていたバッグを肩にかけ直した。
空色のロングスカートがふわりと風に揺れた。長い髪を押さえて、彼女は優しく微笑む。
「偶然。どうしたの、そんなに慌てて」
「あ…………っ、いやぁ、歩いてたら偶然見かけたから、そのさ」
しどろもどろに視線を泳がせる俺は不審にしか見えなかっただろう。呼び止めたはいいものの、何を言うべきか分からない。ぎこちない笑顔で笑った。
彼女の手を引いて、遠くへ連れていこうと思っていた。だけど、なんて言えばいいのだろうか。君の命が危ないんだ、なんて言ったところで、きっと笑われるだけだろうに。
「これから、行くんだ? おばさんのとこ」
「うん。夜行バスで」
「そっか。……せっかく会ったんだし送っていくよ」
「それくらい別に大丈夫だよ」
「いいから、いいから、さ。夜の散歩でもしよう」
俺の言葉に美輝が笑った。ぎこちなさすぎただろうかなんて不安にドキリと眉根を寄せる。首を傾げる俺に、いや、と美輝は笑いながら答えた。
「さっきも同じ台詞を言ったなと思って。咲くんに」
「咲に?」
「ちょっと会って来たの。夜の散歩しようって」
そうなんだ、と吐いた声は我ながら硬かった。
「俺には会いに来てくれないんだ」
誤魔化すために続けた言葉は、ちっとも誤魔化しにならない棘のある言葉だった。
まずいと思ったけれど、上手く繕えない。ただ俺の嫌なところばかりが態度に現れてしまう。硬い声もぎこちない笑顔も、普段の俺ならば滅多に表に出すことがないのに。
美輝は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「バイトで忙しいかなと思って。無理に押しかけても悪いから」
本当に? と反射的に聞いてしまいたくなった自分に反吐が出る。美輝の言葉を聞いたところで、自分の内の不満が晴れることはないのだ。
美輝のバッグを無理矢理掴んで、彼女の隣を歩き出す。彼女は笑って、ありがとう、と俺に言った。
俺達はよく三人でいることが多かった。こうして二人で、彼女と隣り合って歩くことは、思えば特別なことなのかもしれない。
今夜の星は特別に明るい気がした。青白い星の明かりは俺達の姿を照らし、夜風は温かく肌を撫でていく。
気分が昂っているからだろうか。今夜の美輝を見ていると、いつも以上に心臓が高鳴った。星の光を浴びて光る白い肌。血色に色付いた唇が笑みを浮かべるたび、視線が吸い付いてしまう。長いまつ毛は瞬きのたび軽やかに上下して、透き通ったガラスのような瞳を覗かせる。
鼓動の音が伝わらないように、俺は饒舌に美輝に語りかけた。どうでもいい話ばかりなのに美輝は笑ってくれた。華奢な肩を揺らし、白い頬に仄かな赤みを差して、優しい顔をしてくれた。その優しい顔を見ると、妙に心が騒いだ。俺は彼女に問いかける。
「美輝はお母さんのこと恨んでいないの?」
失礼な質問だと自分でも感じていた。けれど美輝は気分を害した様子を見せず、微笑んだまま首を横に振る。
「恨んでいないよ。母親だもの」
「…………世話とか、大変だったろう」
「施設に入っていたから、全部職員さん達がやってくれた。私は何もしてないよ。たまにお見舞いに行くことしかできなかった」
「それでも辛くなかった?」
美輝が俺を見る。微笑みの中に、薄っすらとした寂しさを彼女は浮かべた。
「…………ちょっぴりね。本当はね、ちょっぴり、疲れちゃった日もあったよ」
「そんな日はどうするの?」
「何もしないよ。あ、でも、温かい飲み物を入れて好きなテレビを見て過ごすの。癒されて、明日からまた頑張ろうって気持ちになるの」
「いいねそれ。俺も疲れたときは、ゆっくり風呂に入ったり、漫画見て過ごすよ」
「分かる。お風呂かぁ……そのうち温泉にでも行きたいなぁ。きっととても癒されるよね」
「じゃあ行ってみる? 旅行」
「温泉旅行? 夏休みとか、冬休みとか? ふふ、素敵」
「今から。今夜にでも。俺と、どこか遠くに行かないか」
足を止めた俺を見て、美輝も立ち止まる。どうしたの、と尋ねる彼女の質問を無視して俺はまっすぐに彼女を見つめた。
「冴園くん?」
「俺と逃げよう」
美輝に本題を切り出すのが嫌だった。だからどうでもいい話に逃げて、肝心のことを伝えられずにいた。けれど気が付けばバス停はもうすぐだ。これ以上現実逃避をしている余裕はなかった。さきほどまでの躊躇いの反動か、急いた声が早口に漏れていく。
「…………なあ、俺が本当に偶然ここを通りかかったって思ってるのか? 違うよ。俺は今日、君と逃げるためにここに来たんだ」
俺が冗談でも言ってると思っているのだろう。美輝は最初、曖昧な笑顔で笑っていた。だが俺の真剣な表情を見て何かを悟ったらしい。その表情に困惑が浮かんだ。
「何言ってるの?」
「聞いてくれ。大事な話なんだ。美輝は今、命を狙われている」
「何…………言ってるの? 映画の話?」
「君のお母さんを恨んでいた人間が、代わりに君に復讐しようとしているんだ。本当は今日、俺は美輝を誘拐しろって命令されてた。誰がするもんか。もしも美輝を連れていったら、美輝はきっと殺されるんだ」
「冗談?」
「冗談なんかじゃない!」
荒げた声に美輝はびくりと肩を竦めた。焦りのせいで上手く笑顔を繕えなかった。
彼女の笑顔を消すのは心苦しかった。だが悠長に話している時間はない。
「信じてくれ。このままこの街にいれば美輝は殺されてしまう。俺と一緒に逃げてくれ。金もある。身分証だって。何とか暮らしていけるよ。遠くへ行こう。ずっとずっと遠くに行こうよ、二人で」
美輝は戸惑いの表情を変えなかった。視線を泳がせ、何と言っていいのか迷っている様子で唇を震わせる。
「でも、咲くんがいる」
それは彼女にとって、混乱の中で辛うじて浮かんだ言葉だったのだろう。けれどその台詞は、俺の心を酷く搔き乱した。ただでさえじわりとした焦燥に震えていた心が、その言葉で、僅かな火種を燻ぶらせる。
「咲が狙われてるわけじゃない。狙われてるのは君一人なんだよ。だから……」
「それでも、咲くんがいないと」
「…………どうして」
「だって咲くんひとりぼっちになっちゃう」
噛んだ唇に血が滲む。心に燻ぶっていた火種は瞬く間に燃え上がり、炎を揺らしていた。焦りが、怒りが、俺の冷静さを消す。
「咲、咲って、そんなに咲のことが大事なのかよ。自分のことよりも」
「そりゃあ大事だよ。冴園くんだって大事でしょ? 咲くんのこと」
「なあ、美輝が咲を選んだ理由って、何?」
じとりと湿った夏の空気が肌に張り付く。風に吹かれた草が足元をそわそわとくすぐっていく。それら全てが不快で、苛立ちは増していく。
美輝は俺の質問に答えるのを一瞬躊躇ったようだった。けれど小さく首を振り、細い声で、ゆっくりと答える。
「咲くんは誤解されていたから」
「…………うん」
「咲くんは、皆から誤解されて、寂しそうだった。だけど話すうちに優しい人だって知っていったの。とっても優しくてちょっと不器用な人なんだって」
「……………………」
「優しいから、だからその分、ちょっと心が弱いところがあるから。守ってあげたいって思ったの」
「……………………」
「それだけだよ」
美輝の目が俺を見た。優しさを湛えた瞳は、きっと咲のことを思っている。
分かるよ。その気持ち。俺だって同じだった。優しい咲が皆に誤解されるのが嫌で、弱いあいつを守ってやりたくて。俺が守ってやらなきゃって。
だけど、
「優しいから、弱いから。…………だったら俺のことも守ってくれよ」
「え?」
荷物を地面に下ろして美輝に近付いた。衝動のままに彼女の手首を掴む。痛い、と彼女は悲鳴を上げた。俺は手を離さなかった。
「俺だってそうだ。皆から誤解されてる。誰とでも仲良く見えて、本当の友達なんていないんだ。弱い人間だよ、俺は」
優しいのなら俺だって優しいはずだろ。寂しいのは、俺だって同じはずだよ。
咲と俺の違いなんて何一つないのに。どうしてあいつばっかり愛されるんだ。
「いたっ、痛い。冴園くん離して。痛いよ……!」
「咲、咲、咲って、あいつばっかり。俺のことも助けてくれよ。俺のことも愛してくれよ。俺が平気に見えるのか。親と上手くいかなくて、幼馴染に離れていかれて、好きな人にも選ばれないで、ただへらへら笑ってるだけの男に見えるのかよ!」
「きゃ…………っ」
美輝を地面に押し倒した。俺はそのまま、彼女に覆いかぶさって唇を重ねた。
チクチクとした草が手に触れて少し痛かった。草の青いにおいが鼻を突いて、背中の汗が冷たく背筋を伝っていく。重ねた唇は泣きそうになるくらい熱く感じた。手繰り寄せた彼女の手に指を絡める。彼女の手の平は、俺の手よりもずっと小さかった。
「いやあっ!」
美輝の手が俺の頬を叩いた。熱い衝撃に、思わず顔を離す。美輝は必死で俺の胸を押しのけ、後退った。
「美輝…………」
「来ないでよ!」
美輝の鋭い声は俺の体を地面に縫い留めた。愕然とした目で彼女を見る。
体が震えていた。唇は戦慄き、小さな嗚咽を零していた。まっすぐに俺を睨む目に滲むのは、失望と、悲哀。
彼女は俺を拒絶した。
視界からどんどん色が抜けていくような気がした。体中から力が抜けていくような感覚に、これが絶望なのだろうかと、俺は心の端でそんなことを思った。
「嘘じゃないよ」
美輝。あなたは殺されてしまうんだ。自分に関係のない恨みで殺されてしまうんだ。このままこの街にいれば、必ず君は殺されてしまう。だから俺は君を助けようと思ったんだ。家族も親友のことも何もかもを捨てて君を助けようと思ったんだ。
「俺と一緒に、逃げてくれよ」
「…………無理だよ。できないよ」
「どうして」
「私はあなたを選ばない」
美輝の言葉は鋭かった。躊躇いもない。柔らかさを消した彼女の声は酷く恐ろしかった。
彼女が立ち上がろうとする。彼女が俺に向ける眼差しは、冷たかった。
「さよなら、冴園くん」
俺はまた美輝に飛びかかった。俺達の体はもつれ合うようにしてまた地面に倒れる。だけど今度は彼女に口付けをすることはない。伸ばした手は、細い首を締め上げる。
美輝が目を見開き、首にかかった手を振り解こうとした。けれど彼女の力なんて子供みたいに弱くて、俺の手は少しも動かない。
にわかに降ってきた雨粒が美輝の頬を濡らした。ポタポタと大粒の雨が、まるで彼女の流す涙のように、いくつもいくつも降っていた。
「美輝」
彼女の大きな瞳はガラスのように目の前の光景を映し出す。俺が泣いていることを、叫んでいることを、その瞳を通じて初めて知った。
彼女が俺の顔をまた叩いた。続けて腹を蹴られ、一瞬だけ力が緩む。美輝が逃げ出す。俺がまた彼女の腕を掴むと、彼女は何かを叫んだ。その言葉の内容が何であるかを聞こうとする気は起きなかった。ただ、俺を拒絶する言葉なのだろうということだけは分かっていた。
暴れるうちにバッグから荷物が転がって土手に落ちていく。その中からたった一つ、銃を手に取って美輝に向けた。
「美輝」
脅すつもりだった。だって、美輝が逃げてしまえば、彼女は死んでしまうのだから。無理矢理にでも連れていこうとした。彼女に生きていてほしかった。生きて、生きて…………俺のことを愛してほしかった。
美輝。俺は、あなたに救われたかった。
銃を見て。彼女は涙に濡れた目を瞬かせた。彼女は言った。
「咲くん」
俺の名前じゃなかった。
パン。
「……………………美輝?」
彼女は星空を見上げていた。その目は星の光を取り込んで、キラキラと輝いていた。
彼女の胸元から赤い血が滲む。それは一瞬で白いシャツを真っ赤に染めていく。
美輝は一度だけ瞬きをした。
それっきり、二度と瞬きはしなかった。
「美輝」
俺の手から銃が落ちていく。ゴトリと音を立てて、地面に落ちる。銃口から揺蕩う硝煙が、夜の暗闇に溶けていった。
「美輝」
いくら彼女の名前を呼んだって。美輝は、俺の名前を呼んでくれなかった。
佑くんって。ただの一度も。