第149話 ずれていく
「こんなことやってられるかよ!」
怒号が壁を殴り、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。その間を男が一人走って逃げていく。仕事仲間の一人であるその人は青ざめた顔に脂汗を浮かべて、険しい形相を浮かべていた。
「おい、逃げるな、おい!」
店長が男を追いかけようとして、足元に落ちていた段ボールに躓いてよろめいた。苛立ちを込めて彼が蹴った箱が俺の足元まで跳んでくる。中に入っていた壺が転がって、灰を撒き散らした。
あーあ、と誰かが嘆息する。苛立ちに顔を赤くした店長が周囲を見渡すと、皆はサッと顔を背けた。店長がこちらに近付いて、だんまりと突っ立つ俺の脛を蹴った。
「拾っとけ。一粒も残すなよ」
「…………っす」
言い残した店長が部屋を出ていくと、途端に固まっていた空気が動き出す。機嫌やべえな、などと言って笑う仕事仲間達の顔は、それでもどこかぎこちない。
灰をすくって壺に戻していく。手の平が真っ白になって、粉っぽくなった。そうして何度かすくい上げることを繰り返していれば、ふと目の前に影が差す。一人の仲間がしゃがんで俺の顔を覗いていた。
「そんなに丁寧にやらんでもいい」
「でも、一粒も残すなって」
「無理だって分かってるだろ、お前も。あとは俺がやるから」
「いいです、別に」
男は何も言わず、ただ少しだけ悲しそうな顔で灰を拾う俺を見つめた。彼の手が灰をすくい、同じ白色に染めていく。この灰は誰かの遺灰だった。
住所不特定、戸籍なし、年齢問わず、性別問わず。どんな人間であろうと簡単に採用され、そして高給な職場というものは大抵、グレーゾーンの仕事をしていることが多い。
この職場だって例外ではない。荷運びの仕事、という言葉自体は合っている。店長の指示に従って、荷物を指定された場所に届けるだけの仕事。だが運ぶものが、運ぶ場所が、おかしい。山奥の人気のない小屋に金庫を運ぶこともあれば、海の洞窟に中身の知らない箱を置いて帰ることもある。
中身を知らなくても、知っていても、それが違法なものや人道に反した行為をしているのだと薄々気が付いていた。皆も同じだ。ただ目の前の金という餌に涎を垂らして、自分達のしていることに目を瞑っているだけにすぎない。
「お前、昨日は何を運んだ?」
不意に彼が言った。俺は彼の顔も見ず黙々と作業を続けて答える。手の平からサラサラと遺骨が壺に落ちていった。
「第八区のクラブに、忘れ物のブランドバッグを運んでほしいと言われました。ブランドっつっても、パチモンでしたけれど」
「ただの忘れ物か?」
「中に大量の粉薬が」
風邪薬ですかね、なんて言って笑った俺の肩を彼が掴む。思わず見た彼の顔は真剣そのものだった。険しい眼光が俺の体を射貫く。
足元の壺にはほとんどの灰が入っていた。人間一人分全て。
この遺灰はこれからトイレの下水道に流される。故人を恨む遺族が、墓になぞ入れさせない、と依頼をしてきたものらしい。
「大丈夫か?」
「荷物の中身が?」
「お前がだ」
手を止めて彼を見た。そこらの仲間と談笑をしてよく笑っている彼の目が、今は笑っていない。
何と答えるべきか分からなかった。ぎこちなく笑みを強張らせて、頭をフル回転させる。すぐに返答するべきだ。じゃないと、心にまとった防御の盾が壊れてしまう。
助け船は店長の声だった。背後から俺の名前が呼ばれる。俺はパッと仲間に背を向けて店長のいる部屋へと向かった。残された彼がどんな顔をしているのか、どんな目で俺を見ているのかは、分からないままにした。
雑多に物が置かれた部屋に店長は座っていた。向かいのパイプ椅子に腰かけると、錆びた足が軋んだ音を立てる。
「さっきは当たって悪かったな」
さきほどとは一変、猫撫で声で彼は言った。黙って頷く。店長が気まぐれなのはいつものことだった。それに、謝罪をするために俺を呼んだわけでもないだろう。
「俺はお前に期待してるんだ。若いからな。あいつらの中で、一番働いてくれる」
「ありがとうございます」
「だからちょっと頼みがあってよ。特別な仕事を任せたいんだ」
だろうと思ったよ、と心の中で呟いた。店長は人のよさそうな笑みを浮かべながら説明をする。
「口座から金を引き出してきてほしい。普通に引き出すだけだよ。ATMあんだろ、ほら、そこのパチンコ屋の裏手にあるとこの。週に一回行くだけでいいから」
「はあ」
「俺は忙しいんだよ。奥にこもってだらけてるわけじゃねえんだぞ? 電話対応とか、色々あるんだ。小便に行く暇もとれやしねえ。仕事終わりに引き落しにいったら、手数料かかるだろ? なぁ」
「そうですね」
「簡単なお使いみたいなもんだよ。ただお使いにしたって、少しは金が絡むから、信頼できる奴に頼むしかなくてなぁ」
上手く誤魔化しているつもりなのか、俺をなめているのか。彼が言うお使いは決して言葉通りの安全なものではないことを悟っていた。
店長はきっと、何かしらの犯罪に手を染めている。俺が引き出す金だって恐らく普通の金じゃない。違法な金に決まっている。引き出しているときに警察に見つかったらまずい金だ。
「…………任せてくださいよ」
だけど俺は、笑顔で胸を張った。
そうするしかなかった。
学生時代の三年間は終わってしまえば、あっという間だ。
雪が解け始め、桃色の花が咲き誇り、花びらを散らして、萌黄色の葉を付けていく。窓から入り込む風は緑の香りを含んで、目の前に座る美輝の髪をなびかせた。
「咲くん、長引いてるね」
「クラスの最長記録じゃん?」
職員室の横にあるホールは生徒の学習スペースとして開放されている場所だ。だが今は俺と美輝以外誰もいない。広いテーブルを二人でたっぷりと使っても、誰も文句を言わない。
テーブルに乗っているのは教科書ではなく、進路調査票と書かれた二枚の紙。俺と美輝の手元に一枚ずつ。時折視線をそれに落としては職員室を見て、俺と美輝はぼんやりと放課後の時間を過ごしていた。
「三年生になってから二者面談が増えたね」
「今更、って感じもするけど。先生も大変だよな。クラス全員分の進路を考えなきゃいけないなんて」
「ふふ、確かに。とっても疲れちゃうだろうな」
「知ってる? 斎藤、プロのニートって書いて怒られたって」
「宝くじ当てれば可能性はありそうかも」
職員室に咲が入ってから随分と時間がたっていた。既に面談が終わっている俺と美輝は手持無沙汰に教科書を開いてみたり、閉じてみたりを繰り返している。
「冴園くんは先生になんて言われた?」
「何にも。この調子でいけば、大体の大学は目指せるだろうって。あとは適当に内申点について話して終わり」
「凄いね。この間のテスト、四位だったもんね。どこにだって行けるよ」
どこにだって、ね。
「美輝はもう決めた?」
「私。私は、そうだなぁ。どうしようかなぁ」
美輝は靡く髪を耳にかけ、微笑んで外を見る。憂いを帯びた瞳にかかるまつ毛が妙に大人びて見えて、ドキリとした。
高校三年生という歳はなんとも曖昧な年齢だと思う。子供から、大人という世界に引っ張られていく一年だ。子供と大人の真ん中に立った俺達は、曖昧で不確かな、さなぎの内側みたいな形をしている。どろどろとした輪郭を持たない存在。
そんな子供の中で、ただ一人美輝だけが、既に蝶として羽化しているのだと俺は思っていた。既に彼女は大人だった。年齢だとか仕草とかだけではなくて、そのまとう雰囲気が、存在が。
「大人になるってどういうことだろう」
彼女を見ながら呟いた。美輝はまつ毛を伏せて、不思議そうな顔を俺に向けた。
進路希望票の端を摘まむ。こんなに薄っぺらい紙一枚に将来を書こうなどとどだい無理な話なのだ。
視線を下に下げれば自分が着ているシャツが視界に入った。さっぱりとした白い色のシャツは、もう半年もすれば二度と着ることはない。学生服という衣服は俺を子供という枠に取り込んでいる。あと少しもすれば、その枠からは放り出されてしまうのだけど。
子供から抜け出た俺がどんな大人になるのか想像がつかない。そもそも大人とは何なのか、俺にはちっとも分からない。
「教えてよ美輝。大人って、どういうもの?」
美輝は視線を下に下げ、神妙な顔をした。我ながら意地悪な質問だったと思う。けれど彼女はすぐに顔を上げ、彼女なりの答えを示した。
「大人っていうのは…………一人でも生きていける人なんだって、私は思う」
俺は首を傾げた。美輝は微笑を浮かべて、続きを言う。
「私達の周りにはたくさんの人がいるでしょう。友達とか、家族とか、先生とか。だけど大人になってしまえば、周りから人は消えていってしまう。だからそうなっても一人で生きていける人にならなきゃいけないの。それが、大人になるっていうこと」
そう思うよ、と美輝は言った。彼女の目が俺をまっすぐに見つめる。俺の返事を待っている。
答えを述べようとしたとき、職員室から咲が出てきた。美輝は立ち上がって、入れ替わりに職員室へと入っていく。咲は美輝が座っていた席に座り彼女が消えた職員室を見る。
「どれくらいかかるだろう」
「咲ちゃんほどではないさ。十分くらいで終わるんじゃないか?」
「でも美輝は話すことも多いだろう。家のこととか、母親のこととか…………」
途中で言葉を切った咲は、焦った顔を浮かべた。誤魔化すように机を指で叩き俺から視線を逸らす。しかしそんなもので誤魔化されるほど馬鹿ではない。頬が引き攣るのを必死で隠し、俺は彼に身を乗り出した。
「…………美輝の母親、病院にいるんだ」
「…………病気?」
「脳の病気だって」
脳、と俺は小さく繰り返す。人体の中で最重要と言ってもいいくらいに大事なもの。
真顔で彼を見つめれば、咲はしきりに職員室の方を気にしつつ、声を潜めて言った。
「美輝、入学が一年遅れただろ。入学直前に母親が倒れたらしくて、それで。今は遠方のおばさんに援助してもらって一人で生活してるんだって」
「お父さんは? 海外にでも行ってるのか」
「離婚だと。随分昔に、母親と上手くいかなくなって」
咲は気まずそうに言って乾いた唇を舐めた。伏せがちの目はさっきから一度も俺の目を見ていない。
「今は一人で暮らしているらしい」
「一人…………」
そうか、と言って椅子に深く腰かけた。さっぱりとした爽やかな風が窓から入り込んでくる。けれど俺達の間に佇むぎこちない空気は少しも消えなかった。
胸が痛みを訴えている。チクチクと棘を刺されているような痛みを、大きな溜息を吐いて誤魔化そうとした。
大人っていうのは、一人でも生きていける人なんだって、私は思う。
美輝の言葉は一体誰に向けられていたものなのか。
「咲ちゃん」
「ん?」
「…………いや、何でもない」
チクチクと胸が痛かった。透明な棘が刺さっているような、妙な違和感があった。
彼女の母親の病気のこと、彼女の入学が一年遅れた理由。美輝のことを今、俺は初めて知った。けれど咲は、俺より前に知っていた。
また、咲にだけ。
そう考えてしまう自分が酷く嫌になる。心配よりも何よりも、その感情を真っ先に浮かべてしまう自分に飽きれる。
力を入れた指先で、紙がくしゃりと歪む感触がした。第一志望から第三志望までの文字が並んだ空欄は、何度も書いた黒鉛の形に凹んでしまっている。消しゴムをかけてすり切れた紙は妙に情けなく見えた。
俺の笑顔だけを見つめる咲は、手元の紙に少しも目を向けることはなかった。
汗のにおいが残る部屋に煙草の煙が回っていく。音のうるさい換気扇に紫煙が吸い込まれ、ガコンガコンと鳴いていた。
安っぽい赤色の絨毯は、これまでにこの部屋を訪れた大勢の客達の靴跡を残している。元は白かっただろう壁は煙を吸い込みすぎて、まだらな黄色のシミを作っている。
シーツがずり落ちたベッドに近付いた。寝そべっていた女は、虚ろな視線を俺へ向ける。汗と唾液で化粧のよれた顔が、にぱりと笑った。
「お疲れ様です」
渡したミネラルウォーターを受け取って女は乾いた喉を湿らせた。赤い舌が唇を舐め、一筋の水を顎に垂らす。
それから封筒を渡せば彼女は無造作にそれを受け取って、サイドテーブルに放り投げた。開いた口から数枚の諭吉が顔を覗かせる。彼女は封筒の存在をすっかり忘れた様子で俺に顔を向けた。
「ね、今いくつだっけ」
「十七です。もうすぐ十八」
「じゃあまだ子供か。大人、未解禁じゃん。なのにこんなことしてるんだ?」
「給料がいいから」
女は水を飲んだ。ボタボタと垂れる水を、上気した肌に心地良さそうに受けている。肌に浮かんだ汗が水に流され消えていく。
十八歳になる前に水商売の斡旋を任された。命令してきたのは当然、店長だ。
商品の配達から、金をATMから引き出す仕事を任されるようになった。後にそれが詐欺で得た金だと知った。店前のゴミ箱に放火をした少年達を懲らしめるように言われた。そいつらが病院に入院した後に、放火はあいつらの声が癪に障るからという理由で店長がでっち上げた嘘だと知った。今の仕事は、最初から水商売の斡旋の仕事だと言われたから、知っていた。
荷運びの仕事よりずっと給料がいい。それを言い訳に、俺は頼まれた仕事を全て引き受けている。
「ねーぇ」
「なんですか?」
「子供って楽しい?」
「大人って楽しいですか?」
きゃはぁ、と彼女は奇妙な声で笑った。ペットボトルを放り投げ、ベッドに仰向けになって俺を手招きする。近付いた俺の腕が引っ張られ、唇を濡れた舌で舐められた。
「フライングだけど、大人解禁しちゃおーよ」
水と唾液で湿った舌は冷たかった。くすぐったさに笑ってから、俺の方から彼女に覆いかぶさる。ヘアアイロンで巻いた彼女の髪からは胸焼けしそうなほど甘いにおいがした。絡ませた舌を離すと途端に彼女は笑った。
「なぁんだ、もう知ってたんじゃん。さっきの男より上手いよ」
「上手いですよ、俺は。色んな子達の折り紙付き」
「悪い子だな」
枕元に伸ばした手を彼女は止めた。付けなくちゃ、と言えば彼女は、付けなくていいよ、と微笑んだ。俺は苦笑して伸ばしていた手で彼女の頬を撫でる。
大人とか子供とか、そういう曖昧でハッキリとした境界線の狭間でくすぶっている。どちらにも戻れず進めない。
俺は目の前の快楽を享受して生きていくしかできない、情けない人間なのだと、最近になってやっと気が付きはじめていた。
いっそ全てを諦めるか、自分の意思をハッキリ伝えれば良かったのだろうかと、今でも思う。
咲と喧嘩でもすれば良かったのか。それとも、両親をもっと強く説得していれば? 吹っ切れてただ勉強に没頭していれば? 俺も美輝が好きだともっと早くに伝えていれば。
後悔は尽きない。十年がたった今でも、毎日のようにあのときのことを思い出して、苦しんでいる。俺が笑顔の下にどれだけの思いを隠していたかを知る人間はいない。咲も、和子ちゃんも。
言えば良かったんだ。
助けてって、たった一言。言えば良かったんだ。
「お前人を痛めつけたりできるか?」
「今まさにされてきたところですけど」
ガラガラと口内を洗った水を洗面台に吐き出せば、透明だった水は赤く染まっていた。殴られて切れた頬がいまだに痛んでいる。鏡越しに俺の背後に立つ店長を見ながら、もう一度水を口に含んだ。
照明の周りを蚊が飛んでいる。ぷぅんと癪に障る音が耳につき、傷口の痛みが少し増したように思える。
「大したもんだよ。お前喧嘩強いんだなぁ。大学生三人だぜ? たった一人で、よくやった」
「…………最初、二人だって言ってたじゃないですか。駄菓子屋の前にたむろしてる不良を追っ払ってくれ、でしたっけ? 何すかその依頼。警察呼べばいいのに」
「あいつらは注意するだけで終わりなんだ。物理的に追っ払ってくれって、そう頼まれたからな」
「一人でやるのは無茶だったと思うんですけど」
「悪かったよ。他の奴らにも頼んだんだが、断られてよ。でも結果的に上手くいったんだから問題はないじゃないか」
店長の笑い声を聞きながら、鼻の下で固まった鼻血をティッシュで拭う。さて、と店長は言った。
「本題だ。別の仕事も頼みたい」
「人を痛めつけるってやつですか?」
「女を誘拐してきてくれ」
は? と思わず振り返った。店長はまっすぐに俺を見つめ、微笑んでいた。
倉庫の狭い洗面所は薄暗かった。そろそろ寿命を迎える電球は青白い光を落とし、店長の顔を一瞬マネキンの無機質な色合いに見せる。出しっぱなしの水が俺の手を濡らすから、蛇口を締め、濡れた手を衣服で拭った。
「誘拐? は? なに、冗談?」
「別に縄で縛って連れてくるんでも、紙袋を被せてもいいが、抵抗されないのが一番楽だ。他の奴らはおっさんばっかだろ。お前の方が、警戒心は薄くなる。顔はいい方だろ? ナンパでもすれば楽勝だ」
「は? え? なに…………」
「女って言っても子供だよ。あ、お前いくつってたっけ? 同じ年頃の奴だ。大人より楽さ」
「い、痛めつけるって」
「痛めつけるために誘拐するんだよ」
店長が潰れた煙草のケースを取り出し、煙草を咥えた。狭い室内に瞬く間に広がっていく煙は俺の喉をいがっぽく焼く。
唾をごくりと飲み込むと、乾いた喉が痛んだ。ジィーッとどこからか聞こえる機械音を背景にして俺と店長は向かい合う。
「俺に女を誘拐しろって言ってるんですか」
「断るのか」
「…………い、や。でも、誘拐。誘拐……って」
「断れるのか」
ぞっとした。店長の眼差しが一瞬で冷たくなった。鋭い視線に射貫かれ、全身にズキリと痛みが疼いた気がした。
断れるのか? ああ、断れる。断った後に、俺がどうなってしまうのかは分からないけれど。
散々犯罪まがいのことに手を出してきた。……いいや、とっくに、罪を犯してしまっている。それが軽度のものばかりとはいえ、もしも警察に事情を聞かれれば俺はすぐに捕まってしまうだろう。だけど誘拐という犯罪はこれまでの依頼の中で最も重い。断るべきだったのだ。
「最初の一回は誰でも躊躇うもんだ。けどな、一回を乗り越えれば後はどうにだってなるんだ。俺はお前に期待してるんだよ。今後も色んな仕事を任せていきたい。だから、な? お前を見込んで言ってるんだ」
店長は馬鹿らしい言葉を吐きながら俺に一枚の写真を渡してきた。誘拐してほしい人物の写真らしい。それを見て、俺はゆっくりと息を吐いた。
「なんなら連れてくるだけでいい。後はやってやる。簡単だ。連れてくるだけでいいんだ、連れてくるだけで」
作り笑いを顔に張り付けて店長を見た。彼はニコニコと笑っている。
俺は必死に足を踏ん張って倒れそうになるのを堪えていた。
写真に写っていたのは、美輝だった。