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第148話 俺じゃない

 会場は、黒と白が目立っていた。

 縦縞の鯨幕。父母と参列者が着る、艶を消した黒い喪服。白い棺桶。

 首元までボタンを留めたブレザーが少し苦しかった。黒い学生服は喪服姿の大人達の中で、自分はまだ子供なのだと主張しているようで、なんとなく居心地が悪い。

 すすり泣きが聞こえる。この間までお元気だったのに、と誰かが小声で話している。

 隣に座る父が立ち、続いて俺も立ち上がった。真似をして焼香を済ませる。やり方など分からない。気持ちだけを込めた、不格好な焼香だ。線香の煙が薄ら白く漂っている。棺桶に眠る菊さんの顔は白く、よそよそしさを感じさせた。彼女の周りに敷き詰められた質素でありながらも清白な花々は、凛然とした彼女にふさわしい。


 焼香を終え振り向いたとき、会場にいる全ての人を見渡せた。悲哀と、消沈、悲嘆。悲しみに満ちた顔の中、俺は最前線に座る幼馴染の姿を見た。

 咲はまっすぐに足元を見ていた。引き結ばれた薄い唇と、虚ろな目が、床の埃を見つめている。

 彼の雪のように白い顔は、眠っている菊さんよりもずっと死人のようだった。

 冷たくて、脆くて、今にも消えてしまいそうな姿だった。





 白銀の世界を窓ガラスに挟み、微睡むようなぬくもりを享受している。

 雪が庭の小石を覆い、世界を白に染めている。無音で降る雪を乾燥した目で見つめていれば、目が痛んで少し涙が滲んだ。カリカリという筆を走らせる音が聞こえた。

 ――――菊さん。

 不明瞭だった意識が覚醒する。ハッとしたように飛び起きれば、勢いあまって膝をこたつにぶつけた。

 テーブルを挟んで向かいにいた咲が、丸くなった目で俺を見つめている。彼の握っていたシャーペンの芯がノートに引っかかり、折れた。


「なんだよ」

「…………いや」


 夢を見ていた。

 寝癖のついた髪を撫で下ろし、俺は首を振る。咲の家。勉強会。何度も訪れ、もはや自分の家よりもほっとするくらいに馴染んだこの家。ここには俺と咲の二人しかいない。これ以上人が増えることもない。

 寝ぼけているのか、と咲が俺に言う。彼の声から微かな不安を感じ取った。沈んでいた気持ちを慌てて掻き消し、笑顔を浮かべて言った。


「……咲ちゃん、咲ちゃん。なんか甘い物食べたい、甘いの」


 咲はそうか、とだけ言ってまた勉強にとりかかろうとする。


「コンビニ行ってこい」

「えー、やだやだ作ってー」


 咲の投げた消しゴムが額に当たり、俺はうわー、と仰向けに倒れた。面倒くさそうな顔をしながら咲は教科書を閉じ、こたつから立ち上がる。


「何がいいんだ」

「おぉ、マジで作ってくれるの? やった、言ってみるもんだ」

「あ? お前も手伝うんだよ」


 腕を引っ張られずるずると床を引きずられた。あー、と悲鳴を上げながらされるがままに引きずられていると、重い、と咲が手を離すものだから頬を床に打つ。床を転がり痛がる俺を見て、咲が笑った。

 咲は甘い物があまり好きではない。けれど俺の我儘に付き合って作ってくれる咲は、やっぱりとても優しいのだ。


「何がいい?」

「ホットケーキ」


 ホットケーキは咲も好きな甘味の一つだ。ケーキやチョコみたいにくどい甘さじゃない。優しい味の温かくてふわふわしたそのおやつを、よく、菊さんに作ってもらっていた。

 この家の台所に立つと、昔もよくここで咲と料理をしたことを思い出す。レシピ本を見ながら一緒に頑張ったっけなぁ。卵焼きに、カレー、肉じゃが。

 冷蔵庫から卵を取り出す咲の背を見た。昔は、椅子を使わないと取れなかった材料も、今は視線より下にある。

 熱したフライパンに黄色い生地をとろりと流す。ふつふつと泡が立って、甘い香りが鼻をくすぐった。甘い匂いは心が嬉しくなる。子供の頃の優しい思い出と似ている。



 菊さんが亡くなってからしばらくの間、咲はちっとも笑わなかった。

 葬儀からまだそう日はたっていない。その間、俺はなんとか咲を元気続けようとした。遊びに連れ出してみたり、慰めてみたり、ワザとらしくはしゃいでみたり。

 その甲斐あってか、咲は徐々に笑顔を見せ、元通りの彼に戻った。

 少なくとも表面上は。

 彼の心の傷はまだ癒えていないはずだった。唯一の身内である、信頼し、甘え、尊敬していた家族の死。

 それがどれほどショックなのか俺には到底理解することなどできない。

 どれだけの月日がたてば彼の傷は癒えるのだろうか。




 俺は咲に何ができるだろう。


 夕暮れの教室で美輝にそう訊ねた。

 あれは、菊さんの葬儀が終わったばかりの日。咲が役所の手続きとやらで学校を休んだ日。帰らないの? と机に突っ伏したままだった俺の肩を揺する美輝に、俺は聞いた。

 帰ろうとしていた美輝が足を止めて、鞄を床に下ろした。前の席の椅子を反転させて、机越しに俺に向かい合う。


「どうすれば東雲くんを元気付けられるかってこと?」

「うん」


 教室から出ていくクラスメートの足音。じゃあね美輝、早く帰れよ冴園、という声をかけられてもなお俺達は席に座ったままだ。足音が消え、他に誰もいなくなった教室で俺はもう一度、どうすればいい? と答えを求めた。

 校庭から聞こえる野球部のかけ声が教室の静寂を揺らす。エネルギーに満ちた声に、その元気を少しだけでも分けてほしい、などと思った。


「――――最近よく病院に行くのだけど」


 美輝が言った。慌てて顔を上げ、どこか具合でも悪いのかと尋ねる。彼女はたおやかに身を椅子に預け、笑顔で首を振った。


「ううん。…………遠い親戚の人。病気で。それでね、病院にはたくさんの人がいるのよ。その中には勿論、夫や娘、友人に恋人、大切な人を亡くしてしまった人もいる。その人達は今の東雲くんと同じ顔をしている」

「その人達は……どうやって立ち直る?」

「どうもしない」


 美輝の流れる金髪が机上に小さな川を作る。サラサラとした金糸は夕日を浴び、黄金色に輝いた。長いまつ毛を伏せて彼女は言う。


「どうもしない。自分で立ち直る人もいれば、ずっと苦しむ人もいる。誰に慰められてもその気持ちはどうしようもない。皆悲しみに飲まれたまま」

「じゃあ一度そうなってしまったら終わりなのか?」

「ううん。たった一つだけ、悲しみを癒す方法があるの」

「それは?」

「時間だよ」


 彼女は振り向いて、黒板の横にかかっている時計を見やる。一から十二までの数字が書かれた文字盤の上を緩慢に巡る秒針。


「時間?」

「そう。時間が悲しみを癒してくれる」

「でも随分時間がかかるだろ」

「そうだね。人によってはきっと、数十年以上」


 俺は時計を睨み付けた。約一時間の授業でさえ時計の歩みはうんざりするほど遅いのだ。それが二十四回繰り返されてようやく一日になる。それが、何十回、何百回と繰り返されなければ、悲しみは癒されないと、美輝は言っている。


「長すぎる」

「だから冴園くんが必要なのよ」


 予想していなかった言葉に俺は首を傾げた。美輝はくすくすと笑って言った。


「長い年月、たった一人で悲しみを抱えるのは苦しいでしょう。だからあなたが傍にいてあげるの。この先ずぅっと、長い間、東雲くんの傍にいてあげて」


 美輝がそっと俺の手を包み込んだ。柔らかくなめらかな肌は、手を通して、俺の心を包み込む。

 心臓がドキリと跳ねた。少しだけ耳が熱くなって、鼓動が早くなる。だけど赤い顔はきっと夕日が隠してくれるだろうと思った。だから俺はまっすぐに美輝を見つめ、柔らかな言葉を聞いた。

 どうか、咲の傍にいてやってくださいね。と、そう菊さんも言っていた。

 今また同じ言葉を美輝から告げられている。


「できる?」


 と、美輝が俺に問いかけた。迷うことなく、間を置くことなく、しっかりと頷いた。


「当たり前だろ。何十年だって傍にいてやるよ」


 聞かれるまでもない。初めて咲と出会ったとき。あの泣き虫な少年を助けたときから、俺はあいつの親友であろうと決めている。

 ヒーローみたいだって、あいつは俺に憧れてくれている。たった一人の親友だってそう言ってくれる。それほどまでに俺を慕ってくれる咲のことを、どうして今更見捨てられようか。


「俺が守ってやるって、ずっと昔から決めてるんだ」


 咲は本当はとても泣き虫で、弱くて、だから誰かが守ってやらなくちゃ。菊さんがいなくなった今、あいつを守れるのはきっと俺だけだ。

 傍にいることが咲の救いになるというのならば、喜んで共にいよう。これまで通りお前の傍にいて、ずっと守ってやる。

 俺の目を見た美輝は、羨望と優しさのこもった眼差しを俺に向けて頷いた。


「二人は親友だものね」




 きつね色に焼かれたホットケーキはふわりと柔らかい。たっぷりのシロップとバターがしみ込んだ生地を笑顔で頬張っていれば、フォークで生地を突いていた咲がこちらを見た。


「よく食うな。何枚目だ?」

「三枚目!」


 呆れたように笑う咲は、俺と対称にあまり食が進んでいないようだった。まだ一枚目のホットケーキが半分ほど皿に残っている。さり気なく彼の顔を覗き見て、その顔色に不安を抱いた。

 乾燥した肌は不健康に白かった。やつれた顔は、隠しきれぬ疲労を滲ませ、何よりも目の下の深いクマが痛々しい。

 咲の悲しみは彼の体自身にも表れている。それを見るのが、辛かった。


「咲が作るお菓子美味いしさ、今度いっぱい作ってパーティーしようよ。クラスの奴らにも配ろうぜ。絶対盛り上がるって」

「パーティーって、いつやるんだよ。授業中か?」


 くだらないことを言って、くだらないと笑う。それだけの会話を何度も繰り返す。けれどふとした瞬間に、ほんの一瞬に、咲はその目に静かな陰を落とすのだ。そうしてどこか遠くを見て、小さくまつ毛を伏せるのだ。

 その表情を見るとき、俺は胸がズキリと痛む。どうしようもなく深い彼の悲しみを感じ取ってしまうから。俺が何かを言えば咲は笑うし、馬鹿みたいなことを言って二人ではしゃぐけれど、それでも今この間にも、咲の悲しみはちっとも癒えていないのだと気付いてしまうのだ。

 情けないなぁ、と膝に置いた拳を小さく震わせた。

 咲の心の傷が癒えるまで、ずっと傍にいてやろうと決めたのに。その傷を目の当たりにする瞬間はたまらなく辛くなる。目を逸らし、逃げてしまいたいとさえ思う。

 俺の存在は咲にとって必要なのだろうか。

 咲の悲しみを目の当たりにするたびに何度も考える。俺が何をしたって咲に届いていないんじゃないだろうか。俺がしていることは無意味なんじゃないだろうか。

 何度も、何度も考える。

 俺は咲の救いになれているのだろうか。


「…………じょうぶだから」

「はぇ? なんて?」

「……お前、人の話は聞けよ」


 ハッと我に返った。慌てて笑顔を取り繕う。沈んでいた気持ちが顔に表れていないといいのだがと思ってワザとおちゃらけた口調で言う。

 立ち上がった咲は戸棚を開け、マグカップを二つ取り出した。コーヒーの粉を入れポットから湯を注ぐ。カップからふわりと上がった白い湯気が咲の手を薄っすらと覆う。


「心配してくれなくても俺は大丈夫だ、って言ったんだ」


 笑顔が強張った。

 俺の前に置かれたマグカップ。黒い液体に俺の顔が揺れていた。それをぼんやりと眺めてから、その中身をごくりと一口飲み込む。香ばしく苦い液体が胃に落ちていった。


 咲は俺が何を思っているのか知っている。だからこうして、逆に俺を安心させる言葉をかけてくる。

 今の咲はちっとも大丈夫には見えなかった。しかしそれを指摘しても、彼は同じ顔で大丈夫、と繰り返すのだろう。自分に言い聞かせるように。


「俺より自分のことを考えろよ」

「自分のことって…………」

「お菓子配ったりするならお前がやった方が盛り上がるだろ。クラスメートだけじゃなくて、教師とかにもさ。あ、今までの恋人に配ってきたらどうだ? 詫びとして」

「やだよ、そんな菓子折り」


 自分のことを考えろよ、と言われて少しだけギクリとした。けれど続いた言葉が俺の悩みに関するものじゃないことに安堵する。

 咲にだけは。長年抱えていた悩みを知られたくなかった。守ると決めた相手にこんな弱みを打ち明けたくなかった。


「女の子ってお菓子喜ぶかな?」

「まあ、喜ぶんじゃないか?」

「そっかぁ…………ね、咲ちゃん。お菓子の作り方教えてよ。なんかいい感じのやつ」

「お、詫びを入れにいくのか」


 違うってば、と声を上げた俺を咲が笑った。

 咲のことを心配している。だが同時に、自分のことを考えろよ、という彼の言葉に思うところがあったのも事実だ。

 咲を元気付けることと同時進行で俺がちょっと思っていること。

 それは、美輝のこと。





「上手にできたじゃん」


 箱に詰めたクッキーを見て自画自賛をする。焼いてチョコペンで顔を描いただけのスマイルクッキーも、こうしてラッピングをすれば中々の出来に見えた。

 残りの、まだトレイに並んだクッキーを一つ取って口に放る。サクサクとした食感にほんのりとした甘さ。咲ほどではないにしろ、俺だって料理はできるのだと、誰にでもなく胸を張って自慢した。


 お菓子を作ってプレゼント。今までも女の子達にされたことが何度かある。クッキーにブラウニー、マカロンにケーキ。赤い顔をした女の子から渡される菓子はなんとも甘くて、笑顔になれる味がした。

 だけど自分からしたことはない。俺が菓子なんか作って、笑われないだろうか、なんて小さな不安が浮かぶ。あの子達がくれた菓子みたいに愛おしい味がするだろうか。


 箱はいくつか用意している。手当たり次第にばら撒いて、見ろよ俺が作ったんだぜ、と言ってやる分のやつ。その中に紛らせた、一番丁寧にリボンを結んだ特別な箱。美輝へと渡す分だ。

 そっと見下ろして、少し顔を赤くする。どうしようもなくドキドキと高鳴る胸を押さえて溜息を吐いた。


「酷いことをしたなぁ」


 今更、プレゼントをくれた女子達のことを思い出して胸が痛んだ。

 彼女達が俺に好意を寄せてくれているのは知っていた。顔を真っ赤にして渡してきた子も、冗談交じりに放り投げてきた子も、皆自分を好いてくれているのだと分かっていた。だからこそ俺は軽率に好意を受け、希薄な関係を続け、最後には別れることを繰り返した。

 愛してほしいと願っているのに、行動が伴っていなかった。

 不器用な人間だと言われたことは間違いではなかった。まだ子供だった。愛をねだるくせに自分からは何もしようとしない馬鹿な子供だった。これまで恋人になった子達が離れていったのは、決して彼女達の思いが弱かったわけじゃない。俺が、彼女達に答えようとしていなかったから。

 月日を重ねて段々と成長している。今になって、ようやく愛というものが何かを掴めそうになっている。初めて、焦がれていたものを手に入れることができそうだった。

 初めて、俺の方から、愛というものを伝えることができそうだった。



「好き、ってことだよな」


 歩くたび、いくつも箱を詰め込んだビニール袋がガサガサと鳴った。薄らと積もった雪をローファーで払いのける。冷たい空気が頬を冷やして、鼻の奥をツンとさせた。冬の匂い。雪の匂い。どんよりとした灰色の空から白い雪がパラついていた。


「超好き。うん、大好き」


 恋って麻薬みたいなものだよ。と、いつか付き合った子の言葉を不意に思い出した。放課後のカラオケ、頭をガンガンと揺さぶる喧しい音楽に負けないように、彼女はマイク越しに俺に言っていた。

 好きだなーって思うと、もう自分の頭がガラッと変わるの。分かる? なんかね、世界中がめっちゃ輝いて見えるし、色が濃くなる。鮮やかになるっての? 世界中の全てに感謝したくなっちゃうって、本当に。いつもその人のことを考えちゃう。ちょっとしたことで不安とか嬉しさでドキドキしちゃう。ね、分かる? 分かるよね。冴園も、あたしに同じ気持ち持ってるもんね。

 答えず微笑んで彼女にキスをすれば、彼女は不安そうな顔を破顔させて抱き着いてきたっけ。あのときはまだよく分かってなかったけど、今なら彼女の気持ちが分かる気がした。


 ふとしたときに彼女のことを考える。彼女と話すとき、彼女と手が触れるとき、少しだけ緊張するようになった。彼女のことが、前よりもっと綺麗に見えるようになった。ちょっとしたことでドキドキして堪らなくなった。

 これが恋だ。きっとこれが人を好きになるということだ。

 俺は彼女が好きなんだと思う。美輝のことが好きなんだと思う。

 好きだ。美輝のことが好きだ。大好きだ。友達としてではなく、もっと大切な人として。


  少し遅い時間帯の通学路に人は少なく。まばらな学生服が急いて道を行くのみ。俺も遅れないようにと地面を蹴っ飛ばして道を急いだ。ぐんっと周りの生徒を追い越して、飛ぶように駆ける。

 下駄箱で急いで靴を履く。階段を駆け足に上る。息を切らして教室に行けば、既に教室にはほとんどの生徒が登校していて、扉付近にいた数人が俺を見て、おはよー、と声をかけてくる。


「冴園今日遅いじゃん。あ、何か持ってる」

「ふっふー。これ、クッキー! 焼いてきちゃった」


 袋から取り出した箱を周辺にいたクラスメート達に配る。それに気が付いた何人かがなんだなんだと集まってきては、俺が配る箱へと手を伸ばしてきた。

 餌をばら撒くようにクッキーを配った。男子女子関係なく。窓際の席に咲が座っている。美輝はまだ来ていないらしい。彼の机に近寄り、おはよう、と挨拶と共に箱を一つ置いた。


「師匠、どうぞ出来をお確かめください」

「早速作ったのか」


 咲は箱のリボンを解き、クッキーを一つ摘まんだ。不器用なその顔が、俺にしか分からないくらい僅かに緩む。美味い、と小さくも確かにその唇が言った。


「これならお目当ての女子も喜ぶんじゃないか」


 おはよう、と教室の入り口から声が聞こえた。振り向いた俺は、自分の心臓がドキリと跳ねる音を聞いた。

 教室に入ってきた美輝は、入り口付近にいた友達と軽い話をしていた。白いコートとブレザーが彼女の手に脱がされ、机に置かれる。彼女の靴がワックスで磨かれた床を叩きこちらに近付いてきた。

 道中雪に降られたのかしっとりと毛先の濡れた金の髪が照明に照らされている。コツリコツリと彼女の靴が床を小突く音がやけに耳に残る。俺は何気ない風を装って、袋の中から特別な包装の箱を探して握り締めた。静かに息を吐き、暴れる鼓動を押さえようとする。

 おはよう、と彼女が俺達に言った。俺も返事をしようと息を吸う。


「おはよう美輝」


 手の震えが止まった。どんどん高まっていた自分の心に、ふっと黒い影が差すのを感じた。

 背後から聞こえた咲の声は、いつもよりずっと、穏やかで優しい声だった。

 美輝が言う。


「おはよう、咲くん」


 心を冷ますには一瞬もあれば十分なのだと、このとき俺は知った。

 声も出せずに目の前の美輝を見た。彼女はゆったりとした微笑みを浮かべ、こちらを見ている。俺じゃない。俺ではない。その後ろ、咲のいる方を見ている。

 咲くん?

 あなたは咲のことを、東雲くん、と呼んでいたじゃないか。


「急に雪が強くなってまいっちゃった。外見てよ。ほら、凄い雪」

「ああ、本当だ。酷くなってる」

「積もるかな?」

「どうだろうな。電車、止まらないといいけど」


 二人の会話は何気ない。傍からは単なる朝の風景の一つに過ぎなかった。けれど俺は。彼らの一番近くにいた俺は、些細な変化もハッキリと分かっていた。

 二人の声がゆったりと穏やかになっていることを。二人の互いを見る目が微かに愛おしさを孕んでいることを。

 最近ずっと咲は暗い表情をしていたのに、今は少しもそれがない。菊さんがいた頃の優しい顔だけがそこにあった。

 心臓が喘ぐ。確信の持てない不安が足元から全身に上り詰めていく。

 聞きたくない。けれど、聞かなければいけない。


「二人とも」


 笑顔で、声を弾ませて、いつもと変わらない調子で。いつもと変わらない俺で。


「もしかして付き合ってる?」


 弾かれたように彼らは互いを見た。戸惑いと動揺を浮かべて丸くなった目を何度か瞬きさせて、それからまた俺を見る。咲が、少し赤くなった顔で、声を上擦らせながら言った。


「…………ああ。実は、そうなんだ」


 そっかぁ、と言って俺は笑った。

 酷くなる雪は窓の外を真っ白に染め上げていた。灰色の空と白い雪は、世界の色をすっかりと消している。ガラス越しに伝わる外の空気は冷たくて、セーターを着た背中がひやりとした。

 心の奥がどんどん冷えて、冷たく重く、鉛のように体を沈ませる。足の感覚が希薄だ。ずぶずぶと体が床に沈み込んでいってしまうような気がした。

 おめでとう、と言った俺に二人は笑顔を浮かべた。何度だっておめでとうと言えた。自分でも思わず笑ってしまうほどに、俺の声は弾んでいた。


「おめでとう! 良かったなぁ、二人とも。本当に良かったな」


 なんで。

 あのとき、あなたは俺を海に連れていってくれたじゃん。泣いた俺を抱きしめてくれたじゃん。

 俺の話を聞いてくれたじゃん。受け止めてくれたじゃん。なのに、どうして。なんで。


「俺まで嬉しいよ! 大好きな咲ちゃんと、美輝が、ついにお付き合いかぁ。えー、結婚式絶対呼んでくれよな。絶対だぞ!」


 知っていた。俺と同じように、美輝だって皆に優しくできる人間だって知っていた。

 だけどそれでも、俺だけは特別なのだと思い込んでいた。俺が好きだから、あんなにも優しくしてくれたのだと思った。

 理解していた。彼女の心はあまりにも深く広いと、理解していたのに。そこに惚れてしまったから、だから、分からなくなってしまった。


「本当に嬉しいなぁ。おめでとう」


 なんで。

 なんで、どうして。俺じゃない。俺じゃないんだ。


「良かったなぁ、咲ちゃん、美輝」


 どうしてお前まで。どうしてあなたまで。

 なんで。

 なんで。


 お祝い、と言って咲にもう一つクッキーを渡した。美輝にもクッキーを渡せば彼女は、お菓子作ったの? 凄いね、と微笑んで受け取ってくれた。


「じゃ、俺はちょっと外すわ。購買行ってくる」

「もうすぐ先生来るぞ?」

「一時間目までには戻るってぇ。ホームルームの話長いじゃん。ちょっとくらいサボっても平気平気」


 呆れた顔をした咲は、ふと美輝を見て、同じ顔をして笑った。俺は二人に手を振ってにこやかな笑みを返した。

 二人の手に包まれた箱は同じ包装をしている。




 こんな時期に外でジュースを飲むもんじゃない。

 購買裏手の壁によりかかり、紙パックのジュースを飲みながら思った。吐いた溜息は白くなって空に昇っていく。唇についた水滴が空気に冷やされて、冷たかった。

 無意識に噛んだストローはくしゃくしゃに折れている。指先でそれをもてあそびながら、俺は持っていたクッキーの箱を取り出した。丁寧にリボンの結ばれた小さな箱だ。ニコニコと笑顔を浮かべたクッキーに、舞い降りた雪が一粒ほとりと落ちた。

 笑顔を口に放り込む。焼きたてのときは美味しいと思ったはずのそれは妙に淡泊で、薄い味がした。

 サクサクと笑顔を噛み砕く。校舎の方からチャイムが聞こえてきた。教師はもうやってきて、俺の空席を見て怒るだろうなと、ぼんやり考えた。


「嬉しい、よなぁ」


 自分に言い聞かせた。クッキーをもう一枚齧り、寒さに震える肩を擦る。味がしないのは寒いからだろう。まるで土を飲み込んでいるかのように胃が重いのは、こんな場所で食べているからだろう。

 人見知りで不器用だった咲に大切な人ができた。それはとても嬉しいことだった。菊さんが亡くなり悄然としている咲を、きっと恋人という存在が癒していく。それはとても喜ばしいことだった。

 咲は優しいから。ようやくその優しさが報われるときが来たんだ。咲と美輝がいつから思いを寄せ合っていたのかは分からない。菊さんが亡くなって美輝も咲のことを気にかけていたから、もしかしたらそのときに、何かがあったのかもしれない。

 

 嬉しかった。

 咲に大切な人ができて。美輝が笑っていて。二人とも幸せそうだった。

 二人の友達である俺は、彼らの幸福を喜ぶべきだった。


「…………ふ」


 …………喜べるわけないだろう。


「ふぐっ…………っ、うぅ…………ぐ」


 目頭が熱くなって涙が零れる。ほろりと雪が一粒、熱い頬に当たって溶けた。

 空っぽになった箱を感情任せに握り潰し、地面に投げ捨てた。汚らしく地面に転がるそれを見て無性に悲しくなって、地面に拳を叩き付けた。


「なんでっ……なんでぇ……くそ、畜生…………!」


 冷えて感覚のなくなりかけていた拳が血を滲ませて地面を汚した。傷口に砂利が付き、じくりと痛みを訴える。

 人気のない時間と場所。だから誰もやってこない。誰も今の俺を見ていない。遠慮なく吐き出せるようにと自分でこの場所を選んだはずなのに、今ここに誰も来てくれないことが、どうしようもなく腹立たしくてつらかった。



 どうして咲を選ぶんだ。俺だって良かっただろう。俺だって優しいし、咲よりもずっと、あなたを幸せにしてやれた。なのにどうして。俺を慰めてくれたのは嘘だったのか。俺なんかどうでも良かったのか。あなたにとってその程度の存在なのか、俺は。

 それとも、あなたは優しいから、その優しさを咲に向けようとしているのか。俺だって、辛く苦しんでいるというのに。あいつなんかよりも俺のことを助けてくれよ、美輝、なぁ。


「ふざけんなよ…………なんで、いつも、いつも……! どうしてっ…………」


 なんで笑顔なんだよ咲。お前、悲しんでただろ。菊さんが死んで、どうしていいか分からなくて、悩んでいただろ。なのにどうして、そんなに優しい顔で笑っているんだ。美輝がお前の悲しみを癒してくれるっていうのかよ。

 俺が守ってやるって決めていたんだ。ずっとずっと昔からお前を引っ張ってやるって決めていたんだよ。俺だと駄目なのか。お前は幼馴染との絆よりも、数年足らずの愛を優先するのか。



 どちらかだけじゃない。俺は二人のことが大好きだった。咲のことも、美輝のことも。

 だからこそ、二人からいっぺんに裏切られたような気がして、苦しかった。


「どうして俺だけ……どうして…………」


 ぼたぼたと垂れる涙が地面に落ちていく。どれだけ喚こうとも涙を流そうとも、ただ時間が過ぎていくばかりで、他には何もなかった。

 皆より一歩前を進んでいたつもりだった。自分は先頭に立って、彼らを守り、導いていく存在なのだと思っていた。

 ボスみたいに皆をまとめて、リーダーみたいに皆に頼られて、ヒーローみたいに皆を守っていきたいと思っていた。

 だけど気が付けば一人また一人と皆は俺から離れていた。ずっと付いてきてくれていた咲と美輝も、ふと振り返ったときにはもういなかった。

 気が付けば一人ぼっちだ。俺には何にも、誰もいない。

 これから一体どうすればいいのだろう。


「俺は一体…………何を守りたかったのかなぁ」


 声を殺して泣き続けた。膝を抱えて、凍えるような寒さの中で、一人ぼっちで泣いていた。

 優しく頭を撫でてくれる人も、大丈夫だよと声をかけてくれる人も、抱きしめてくれる人も。

 誰も、来てくれなかった。

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