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第15話 蜘蛛の少女(前編)

 ひっそりと静まる人気の少ない夜道を私達は歩いていた。住宅から明りは消え、代わりに星明りが地面を照らす。吐いた息が白く濁り、冷たい空気に溶ける。タイツを穿いているとはいえ寒い足を擦りあわせるように歩いた。

 今夜の仕事は第四区で行われた。今はその帰り道だ。


「報酬は後で振り込んでおく」

「はい」

「今までの分はもう何かに使ったか?」

「……いいえ」


 殺し屋の報酬は毎回仕事後に、指定された口座に振り込まれている。東雲さんの方から手配された口座だ。一見普通のもののようだが、管理している銀行が裏と繋がっているとか何とか……よく分からないけど、多分普通の口座じゃないのかも。

 最初に振り込まれた報酬を見たときには愕然とした。私は東雲さんのサポート役として仕事をしている、例えていうのならば東雲さんは正規社員で私はアルバイトといったところだろうか、報酬も彼よりは少ないはず。だというのにその金額は予想以上に高かった。一回でこれなのだからたった数回繰り返せば、きっと就職するのが馬鹿らしく思えるくらいに。

 だけどそんな大金に私はいまだ手を付けていなかった。貯金しようとかそういう考えじゃない。ただ、あまりに現実味のないお金を、ちょっとでも使うということが怖かった。

 生活だってお母さんから毎月貰うお金で十分すぎるほど。そんなにお金を貰ったところで使い道に困るだけだった。


「欲がないな。そろそろテストじゃないのか? 参考書でも買ったらどうだ」

「私のとこはまだもう少し先ですよ。まだ十一月の十八日じゃないですか、一週間もある。テストが近いのは中学校とかじゃないかな?」


 私が中学生の頃は来週辺りからテストだった気がする。中学校によって違いはあるだろうけどね。

 なんて考えていると、ふと通り過ぎた路地から物音が聞こえた気がして足を止めた。東雲さんも同じく足を止め、振り返って路地へと振り返る。私達は顔を見合わせた。


「何か聞こえました、よね?」

「ああ」


 示し合わせたように私達は路地を覗く。暗く、長い路地。左右に家はなく、ぽつんぽつんと等間隔に高い街灯が並んでいる。

 その一つ。青い街灯に照らされて、誰かが地面にしゃがんでいた。

 長い栗色の髪の女の子だった。


「……ど」

「待て」

「え?」


 どうしたんですか、と話しかけようとした。こんな所でしゃがんでいるなんて具合でも悪いのかと心配したからだ。けれどそれを東雲さんが制止する。不思議に思って彼の顔を見上げると、どこか張り詰めたような目があった。異様な雰囲気に声を出せない。

 東雲さんは何かを警戒している。でも何に? ここにいるのは、あの女の子だけじゃないのか。少女はこちらに背を向けていて、私達には気が付いていない。時折何事かを呟いているようだったが、小声のため内容までは聞き取れない。

 だがしかし、そのとき少女の足元に何かがあることに気が付いた。



「…………のよ。……ね? ……で、いつも……嫌に…………」


 少女の陰になってその正体は掴めない。彼女の呟きに合わせるようにもごもごと蠢いているそれが生き物だと、それが辛うじて分かるだけだった。

 よく見れば少女は呟いているだけではなかった。空中に浮かせた指で何かを擦るようにするすると空気を撫でている。不思議な動きだった。

 と、不意に彼女が右拳を大きく足元の物体に叩き付けた。途端、その何かが発した悲鳴が空気を震わせた。


「ギャウゥンッ!」


 犬だ。

 ぼさぼさの黒い毛並の子犬が、少女の足元でいたぶられている。


「…………!」


 必死にもがく四肢が空を掻く。何度も体を蹴られたのか、その動きはとても弱々しい。大きく開いたその口からは白泡が溢れ、喘ぐ。呼吸が落ち着き、犬が牙を剥き出し、吠えようとした。が、それは少女が再度腹を殴ることによって中断される。


「いたっ!」


 不意に少女が悲鳴を上げた。よく見れば、犬が必死の形相で彼女を睨んでいる。歯茎を剥き出しにした口端に僅かな血が付着していた。手負いの獣の反撃というものだろうか、瀕死状態の犬は、明確な敵意を彼女に向けていた。もう一度彼女に飛びかかろうと犬が身構えたとき、舌打ちと共に彼女が両の手を引いた。ただそれだけの行いにも関わらず、犬がビタンと地面に叩き付けられる。触れてもいないはずなのに。

 明らかに怒気を孕んだ少女が立ち上がる。怯え、逃げ出そうと必死に後ろ足を動かせど、どうしてか犬はその場から一歩も動けぬようで、ただ顎を地面にくっ付けた姿で惨めに少女を見上げていた。

 その鼻先を凄まじい勢いで彼女の靴が踏みつけた。

 何度も。

 何度も何度も。


「や…………やめ」


 震える声が喉から零れる。だけど、情けないほどに弱い声が興奮する彼女に聞こえるはずもなく、ただその行為を眺めていることしかできなかった。

 犬はもう唸りさえしない。恐ろしいまでに静かな黒い塊となったそれを見下ろし、彼女が乾いた笑い声を上げて両手を掲げ、ひゅんっと横に凪いだ。

 触れもしていない犬の首がぐるんっと二回捻じれる。ブチリ、ブチリという異様な音と共に、犬の体が一度大きく痙攣し、動かなくなった。首がごろりと地面に転がり、溢れ出す血が首と体を繋ぐ。


 少女は一度大きく息を吐く。それからもう用はないといわんばかりにゆっくりと振り返った。

 私達と目が合う。



「あ…………っ!」


 中学生くらいの幼さが残る容姿。気の強そうな大きな釣り目と、色白の小さな顔。可愛らしいその顔が、しまった、と言いたげに苦々しく歪められる。

 この間、動物の死骸を見つけた林でぶつかった、あの子だった。


「何してるの……?」


 固い言葉で囁くように尋ねた。同時に、思う。

 第三区を中心に発生している動物殺傷事件。野良もペットも、動物であれば犠牲になっていた、最近では第四区でも見られるようになったあの事件。共通点は体に糸が巻きつけられたような痕。

 半ば確信めいた思いが胸にこみ上げる。


「ち、違うのっ。これは、これには訳が……」

「訳?」

「その、だから、あのっ」


 彼女はおどおどと視線を泳がせながら必死に誤魔化しの言葉を考えているようだった。太ももを擦り合わせ、自分の陰に死骸を隠す。両手を背中に回し、もじもじと体を揺らし、脅えるように私達の顔を見つめていた。

 私が一歩近づくと、彼女はビクッと肩を跳ねて俯く。その唇が細く開き、独り言を呟く。


「……張り忘れてた」

「え?」


 意味が分からず首を傾げた。後ろにいる東雲さんに首を向けると、彼は腰に手を当てて少女を睨んでいる。

 当の彼女と言えば、小動物のように体を丸めて脅えきっている。それが可哀想に思えてしまい、私は表情を和らげながらゆっくりともう一歩彼女に歩み寄った。


「だ……大丈夫だよ、警察とかに言うわけじゃないから。ただ、一つだけ教えてくれない? どうしてこんなことをしていたの?」


 彼女は答えない。だんまりを決め込んだまま、じっと俯いている。

 古くなっていたのか、街灯が不意に点滅した。ふっふっと消えては付く青い光に照らされ、彼女の姿が現れては消える。


「もしかして最近の動物が死んでるあれ、犯人はあなた?」


 少女が顔を上げた。一瞬だけだったが、その瞳が揺れた。その反応が証拠だ。


「そうだとしたら、あたしをどうするの?」

「もうこんなことをしないように、説得したい」

「…………そう」


 少女がふっと皮肉な笑いを浮かべる。私は彼女を安心させるように微笑みながら、手を伸ばしてもう一歩近づいた。


「ねえ、お願い、話してちょうだい? どうしてこんな――」



「――――下がれ!」



 反射的に後ろへ飛び退った。鼻先を何か鋭利な物が掠る。目の前の空気を削り取るように、()()が襲いかかってきたのだ。

 東雲さんの元まで下がる。ひりつく鼻先に触れると、僅かに血が付いた。ハッと目の前の彼女を見つめる。彼女は両腕をだらりと前に突き出し、私に呆気に取られた視線を向けていた。眉根が寄せられ、「おっしい」と呟く。

 東雲さんが銃を抜き、彼女に向けて撃った。僅かに彼女が動く方が早かった。横に転がるように銃弾を避けた後、目の前の人間が銃を持っていることに、驚いているというよりはどこか納得した顔でこちらを見る。ニヤリとその目が細められた。

 続けざまに銃弾が放たれる。だが、彼女は片手を上へ突き上げ、軽く振る。ぐんっとその小さな体が宙へ浮かんだ。


「なっ……」


 飛んだ? 唖然と目を見開く私に見下すような笑みを向け、彼女は電柱の上で両手を広げてバランスを取りながら立っていた。

 東雲さんが怪訝そうに目を細める。取り乱した様子もなく、淡々と告げる。


「『クモ』か」

「会うのは初めてよね、オオカミさん?」


 ……蜘蛛?

 確か如月さんが言っていた。この明星市にいる殺し屋達の名前。その中に、クモという名前もあったはずだ。

 殺し屋? この子が? まだ中学生になったばかりのような、女の子が?

 私でさえ殺し屋の中では最年少なのではと思っていたが、まさかもっと小さな子供が殺し屋として働いていることもあるのだろうか。


「気付いていたのか?」

「ええ、情報屋から聞いた情報とあんたの格好を照らせばすぐ分かる。それに、血の臭いをぷんぷんさせてるんだもの、気付くに決まってんじゃない」


 言って『クモ』は電柱の上で足を揃える。白いポンチョの中に手を突っ込み、そこから四本の小型のナイフを取り出す。そしてそれを二本ずつ、私と東雲さんに投てきする。

 滑るように下がって避けた。目の前の地面にナイフが深く突き刺さる。顔を上げたとき、視界には、真っ直ぐに私に向かって飛び降りてくる彼女の姿があった。


「っ……ぐっ!」


 取り出したナイフを突き出す。ナイフとナイフがぶつかり合い、削れる、嫌な音。彼女の全体重がかかったナイフは重く、今にも私が握るナイフごと押し迫られてしまいそうだった。恐らく力だけならば私の方が上だろうが、今の彼女には高位置から飛び降りてきた分の力がかかっている。

 押しのけることができないと判断し、肘と膝を曲げ、腰を捻ってナイフを受け流す。彼女は拮抗するナイフを支点にくるっと空で体を回し、大きく足を振り上げた。顔面に襲いかかるであろう蹴りを予想し歯を食い縛る。

 だが彼女は別の方向へと意識を逸らした。直後、振り上げた足の勢いを利用して、倒立前転するように体を倒し、地面を転がる。弾丸が彼女と僅差で私の頭上を、空気を裂きながら飛んでいった。


「気を抜くな、ネコ!」

「わ、分かってます……!」


 東雲さんに叱咤され、ナイフを握り直した。胸にじんわりとした痛みが広がる。

 彼が私をネコと呼ぶということは、それが仕事モードのときだ。仕事、つまり殺し屋として、対象に明確な敵意を向けるとき。

 東雲さんはあの子を殺すつもりなのか? 私よりも年下の、まだ幼い子供を……。


「……………………」


 仕事には慣れてきた。殺人にも血にも死体にも慣れてきた。だからといって、それが好きというわけじゃない。

 できることなら殺さずに済ませたいと、いつも思っていた。



 東雲さんの放つ弾丸が彼女を襲う。一発が外れたが、残りの二発が華奢な腰と脇を掠った。


「っ!」


 苦痛に顔を歪めながら、彼女は右手を勢い良く横に引く。三発目、四発目と続いた弾丸が、彼女の目前で軌道を変え、そのまま飛んでいけば当たるはずだったろうその頭部から大きく逸れていった。まるで何かに弾かれたように。

 驚く私の目の前で、彼女がその場を蹴って軽く飛び上がった。直後、右手を見えない何かに掴まれるように、ぐんっとその場にまた浮く。そしてその場に膝を付いた。地面ではない、空中に。

 どうして、どうしてそんな所に浮いている?


「…………そ、空が飛べる魔法の粉を振りかけて……!」

「馬鹿かお前」


 素早く弾丸を装填した東雲さんが残念な子を見るような目でこっちを見ていた。ちょっと頬を赤らめながらも、じゃあ何で? と首を傾げた。


「よく見ろ」

「え?」


 顔を上げて彼女を見た。チカチカと点滅する街灯が、その姿を照らしている。……何かがキラリと反射した。

 それは彼女の足元にあった。街灯から街灯まで、細く、長く、キラリキラリと光るそれは――糸だ。

 彼女の両手首から伸びた極細の糸が、街灯の間に幾重にも張り巡らされ、足場となっている。浮いているように見えたのは糸があまりにも細く、目では認識しづらかったからだ。

 よく見れば、糸が張り巡らされているのはそこだけじゃない。電柱、ブロック塀、木、壁、私の頭上、私の横、私の背後、足元の地面。至る所に無数に駆け巡る糸は、彼女を中心に張っている。

 本物の、蜘蛛のように。


「いつの間に……」


 ナイフで近くにあった糸を切り付けてみた。だがナイフの刃が糸を切断することはなく、ぐっぐっと少し沈んだだけで刃を跳ね返してくる。さっき弾丸を弾いたのもこれか。強靭な糸。こんな、これじゃまるで、私達は蜘蛛の巣に捕まった食物じゃないか。

 糸の上に立つ彼女。怪我は浅いのか苦痛の表情は消え、不敵な笑みを浮かべていた。両手に握った糸を力強く握る。


「普段動物で遊んでるときは、糸を察知に張ってたんだけどね。今日に限って忘れちゃった」

「普段って……」


 察知の糸。要するに人の気配を感じ取れる糸のことだろう。普段ということは彼女が起こしてきた動物殺傷事件のこと。あれほど動物が殺されているのに犯人の目星さえ付いていないのがおかしく思っていたが、それを使っていたんだ。

 動物を殺していたぶりつつ、誰かに見られないように細心の注意を払う。恐らく遠くまで張られた糸に誰かが引っかかれば、すぐさまクモはその場から逃げ出していたのだろう。だから見つからなかった。今日までは。


 優勢だと思っているようにニヤリと笑う彼女。東雲さんは銃を向けながらも引き金を引こうとしない、大方撃ったところで弾かれると分かっているのだろう。当たったところで期待するような傷は付けられない、と。

 だから。



「もっ、もうやめようよ」


 私の言葉に彼女が怪訝そうな顔を向けた。


「どうして同業者同士で殺し合わなきゃいけないの! 依頼されたわけでもないでしょう? おかしいよ!」


 情報屋の如月さんや、同じ殺し屋の真理亜さん。二人は私達と殺し合おうとはしてこなかった。

 本来私達が殺すべきは依頼された人物。他の殺し屋に敵意を向けて殺すだなんて、理由が分からない。仲間同士助け合うのが当たり前なんじゃないのか。

 けれど彼女の表情は、私を憐れむような馬鹿にするようなものへと変わる。クスクスと可笑しそうに笑いだす様子に困惑していると、東雲さんが静かに言った。


「ネコ。お前は、殺し屋同士の仲がいいとでも思っていたのか?」

「えっ……ち、違うんですか?」


 そんなこと俺は一度も言ってないぞ、と東雲さんが髪を掻きながら呟いた。


「でも如月さんは!? 真理亜さんも、私に優しくしてくれて。そんな、殺しにくるなんてことありませんでしたよ!」

「自分から敵を作るなんて馬鹿なこと、あいつらはしない。害を与えてこない限りは上辺だけだろうと優しい態度でいてくれるだろう。……それでも、いつ殺意を向けてこられるか、分かったものじゃない」

「……………………」

「俺達はお互いを信用する方が少ない。そいつの仕事と報酬を得るために、他の殺し屋を殺す奴も多い。元の仲が険悪だったり、私怨だったり、金目的だったり、そんな理由で殺し合うのもいるがな」

「そんなのっ」


 東雲さんに詰め寄ろうとしたとき、空気を切り裂くような音が頭上から聞こえた。咄嗟に左右に飛びのく私達の間の地面に、ドスリと刃が刺さる。


「お話は終わった?」


 からかうような彼女に上空を見上げれば、その両手が勢い良く私へ向かって振り下ろされるところだった。キラッと光る糸の束が襲いかかってくる。首を狙う糸をしゃがみ込むように避ける。が、続くように四方八方から糸がうねる。避けきれない。


「っ――!」

「ネコ!」


 東雲さんの声と共に、体が横へ突き飛ばされる。地面に強かに尻を打ち付けた。呻くような東雲さんの声に我に返ると、彼の銃を持つ右腕に糸がキツク絡みついているのが見えた。彼女がくんっと指を動かすと、銃口が私へと向けられる。引き金に指がかかる。


「避けろ!」


 東雲さんが吠えた瞬間、何発もの弾丸が銃口から飛び出した。転がるようにそれを避けるものの、弾丸が弾いたブロック塀の破片が頬にぶち当たり、それに怯んだ瞬間、左足のふくらはぎを弾丸が抉った。


「が、あっ!」


 焼けた鉄を押し付けたような熱さが弾ける。一拍置いて、全身を激痛が駆け巡った。

 涙が零れ落ちる。歯を食いしばって荒い鼻息を繰り返す。けれどそのとき聞こえた東雲さんの荒々しい唸り声に、咄嗟に顔を向けた。

 彼の右手からボタボタと流れるおびただしい量の血。ダランと銃を垂れ下げた右腕に糸はもう絡みついていない。無理矢理、力尽くで振りほどいたのだろうか。

 と、彼の背後に彼女が音も立てずに飛び降りる。咄嗟に彼の名を呼ぶも、彼が振り向いた瞬間、その顎を強烈に足が蹴り上げる。よろめく彼に意識を取られたとき、左足に違和感を感じた。見下ろしてみれば、血に濡れた足首に、いつの間にか糸が何重にも巻き付いている。

 慌てて糸を切り落とそうとナイフでそこを切り付ける。だがナイフが糸に通ることもなければ、肌を傷付けることもない。強靭な糸は防御にも使えるみたいだ。けれど今、そんなことは関係なかった。


「無駄よ!」

「きゃあっ!」


 視界が物凄い速さで回転した。回転しているのが景色ではなく自分だと気が付いたところでどうしようもなく、私は背中から激しく、ブロック塀に叩き付けられた。

 声も出ぬほどの衝撃と痛みに痙攣する。脆くなっていたのか、衝撃が強すぎたのか、塀はガラガラと呆気なく崩れ、私へと降り注ぐ。ろくに動かぬ体では、悶える暇も与えてくれないブロックの雨から体を丸めて頭を守るだけで精一杯だった。痛みというより、炎に炙られるような灼熱が湧き上がる。

 ようやく雨が止む。熱い吐息を咳き込むと、咳に混じって血が口端を滴り落ちた。


「クソッ!」


 東雲さんが吐き捨てるように言いながら銃を彼女へ発砲する。怪我のせいか、糸のせいか、弾丸は彼女に掠らず消えていく。

 彼女は地面も空も関係なく走る。両手を複雑怪奇に動かし無数の糸を操って、糸を防御や攻撃や足場として利用する。一本ならともかく、あれほどの糸を自由自在に操るのは極度の集中力と計算力が必要だろう。だがそれを実際に彼女は行なっている。

 あれは本物の蜘蛛だ。


「…………?」


 不意に手がぬるりと滑った。手を付いた場所を見下ろし、「うっ……」嫌な物に眉をしかめる。さっき彼女が殺した、首と胴体が分離した犬の死骸に直接手を触れていた。まだ生温かい体温が逆に嫌悪感を引き立て、すぐに手を離そうと……して、ふとまた死骸を見下ろす。濁った瞳と目が合った。

 毛が抜け、露出したピンク色の皮膚。そこにキツク縛った糸の跡がある。


「……………………これ」


 争う東雲さんと彼女をぼんやりと見つめ、それから死骸を見下ろし、ぐっと拳を握る。

 ごめんね、と。誰に言うでもなく呟いた。

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